夜更け。
明かりを落とした寝室には、秒針と二人分の呼吸の音だけが響いている。
カズイの寝室のベッドの上。そこでシドウは自分の部屋とは少し違う天井を見つめていた。
カズイとシドウは、とあるマンションの一室に部屋を借りて生活を共にしている。
とはいえ、各自寝室兼自室は持てる間取りになっており、こうしてふたりで同じベッドに横になることはそこまで多くはない。ましてや今日のように肌も合わせずにただ一緒に寝る、というのは稀だ。
「
……今日は、一緒に寝て欲しいんだ
……いいかい?」
カズイがそう言ったのは、風呂から上がって寝支度も済ませた時だった。
いつもの頼りがいのある表情ではない、どこか寂しげで、迷子のような眼差しで、彼の年齢には不釣合いな子供っぽさが滲む。
酒の力を借りていない、素の状態のカズイからの精一杯の「甘え」であることをシドウは理解していた。同時に、そうしてもらえることがとても嬉しくて、二つ返事で了承した。
(
……最近は、少しずつこうして甘えてくれることが増えましたね、椋原さん)
隣で横になっている大きな背中に視線を移す。
彼は誰かに甘える事に極端に慣れていない。昔から「男として」「警察官として」頼れる一人の男であろうと生きてきたから、きっとどうすればいいのかわからないんだろう。
シドウは、そんなカズイが少しずつでも甘えることに慣れてくれたらと、あれこれ試してみた。本当に少しずつ、カズイが一人ではどうにもならないところは自分に預けて貰えるように。
今晩のこれもその成果なのだろうと、思わず笑みが漏れた。
その時、見つめていた背中が寝返りを打ち、向かい合う形になる。
視線がぶつかり、カズイはなんだかバツが悪そうに少し目を逸らした。
「
……起きてたんだ」
「ええ。椋原さんを見てました」
参ったなぁ、とカズイは照れ隠しのように無造作に頭を搔く。
それから改めてシドウと向き直り、口を開いた。
「
……なぁ、シドウくん」
「はい」
「ちょっとさ
……話、聞いてもらっていい?」
「
……もちろん。聞かせてください」
布団の中で、お互いの指先だけが触れ合う。
握るでもない、ただ本当に触れているだけ。
しかしその触れている指先から、カズイの不安や迷いのようなものが微かに伝わる気がした。
「
……俺はさ、ずっと自分が〝普通〟じゃない事が苦しかった。いや、今も苦しい。同性が好きで、男なのに、愛するよりも愛されたい
……〝普通〟とズレている事が、生き辛くて仕方ない」
そう吐露するカズイの指先がわずかに震える。
シドウはその手をやんわりと握った。
「
……普通って、なんなんでしょうね。世間一般の大多数と同じことが普通だというのならば、それはそんなに、そうではない人にそうであれと圧をかけるほど、誇らしいことなんでしょうか
……たまに、そんな事を考えます」
カズイは、シドウの柔らかい声を聞いてほんの少しだけ呼吸を整えた。
暗闇の中で薄らと見えるその顔が、シドウが自分に対して「否定」ではなく「受け止める姿勢」でいてくれるのを、手の温度と共に感じる。
「
……君はすごいな。そんな広い視野でものを見られて、考えられる」
「いいえ、すごくなんてないんです。俺は
……椋原さんの言う〝普通〟を生きてきました。貴方に出会えたことでこう考えられるようになったんです
……でも、本当に、そう思っていますよ」
「そっか
……」
握られた手は温かく、強すぎずも弱すぎない力加減で包まれている。
その温度でなにかが溶かされていくように、カズイは絞り出すように言葉を続けた。
「
……俺はさ、愛されたかったんだ」
「
……はい」
「愛される為には、女の立場にならなきゃいけないと思ってた。男同士なら、抱かれる側にならなきゃ愛されないって思ってた。だから
……必然的にその立場にいる妻のことも、羨ましかったんだ」
一度、呼吸の間が落ちる。
シドウは黙って聞いていた。急かさず、拒まず、ただ隣で待っている。
「シドウくんと初めて体の関係を持った時、君は俺に『抱かれる側がいい』って頼んだだろ? 本当はあの時も、ああ、まただって思った。また俺は愛される立場になれないって」
「
……すみません、俺のわがままで
……」
カズイと初めて関係を持つ際、シドウはカズイに「俺は
……妻以外を抱けません。恋愛感情という意味で、愛せません。だから俺を、抱かれる側にしてくれませんか?」と懇願した。その願いが一瞬、カズイの心に落胆の影を落としたのは確かだ。
「いや、いいんだ。謝る必要はないよ。君が奥さんをどれだけ大事に思っているのか、あの言葉とあの時の表情で痛感した。俺はそこで君の頼みを断ることだってできたのに、それをしなかったのは君がどれだけ真摯なのかがわかったからだ。無下にはできなかった」
「
……」
シドウの手に、わずかに力が籠る。きっと申し訳なく思っているからだろう。この子はこういう子なのだとカズイは知っていた。
「でもさ
……不思議なんだ。君を抱いていると何故か〝愛されている〟って感じる」
ぽつりと落とされたその言葉は、カズイ自身がまだ上手く整理しきれていない、胸の底に沈んでいた本音だった。
暗闇の中、シドウの瞳がかすかに揺れる。
「
……愛されている
……ですか?」
「うん。なんでだろうな。抱いてるのは俺の方なのにさ
……君が俺に預けてくれてる、って思うんだ。信頼とか
……うーん、なんて言えばいいのかわからないんだけど」
自嘲気味に笑いかけるその表情は、年齢にそぐわない脆さを帯びていた。
彼は本当に、自分が〝愛される側〟に立つ資格があると思ってこなかったのだろうと、シドウはそっと、その手を包み直した。
「
……俺は、椋原さんの全部を受け入れていますよ」
「
……シドウくん」
「同性が好きなことも、愛されたいと思うことも
……女性の立場にならなければ愛されないと思い込んでしまったことも。全部です。俺は、それを否定したいと思ったことは、一度もありません」
声は小さく、けれど確実に嘘は言っていないとわかる、真剣で、優しい声色。
「むしろ
……そんなふうに思い詰めて、自分の〝普通じゃない〟ところを責め続けてきた椋原さんが、きっと誰よりも無理をして、誰よりも傷ついてきたんだろうと
……そう思っていました」
カズイの喉がひくりと動く。
ほんの少しだけ、呼吸が掠れた。
「
……俺は、自分が〝抱かれる側でいたい〟と言ったことで、椋原さんにまた傷を増やしてしまったんじゃないかと思っていました。だけど
……椋原さんは、俺を拒まなかった。俺を、受け入れてくれた」
シドウは真っ直ぐにカズイを見据える。照明を落として、カーテンをすり抜ける外の明かりしか入っていないはずの部屋で、シドウの柔い表情がハッキリと見えた気がした。
「たぶん俺は
……椋原さんに救われたんです」
「俺に
……?」
「はい。俺の罪も、過去も
……全部知っても、貴方は傍にいてくれた。恋愛でも義務でもなく、ただ俺の隣にいてくれた。そんな人は
……もう、他に居ないんです」
シドウはひどく不器用な仕草で、カズイの手の甲を指先で撫でた。
「だから俺は
……守りたいと思いました。貴方が自分を責めて壊れてしまわないように。貴方が貴方らしくいられるように
……そのままでいいんですよって」
その言葉は、まるでカズイの心の奥の奥に触れたように響いた。
長く張りつめていた緊張が、そこでふっと解けるのが、お互いの手を通して伝わる。
「
……貴方が、貴方を許せない日があっても。普通じゃないと苦しむ日があっても
……俺は否定しようと思った事は一度もありませんでした。むしろ、そういう椋原さんも全部
……俺には、とても大切で」
言葉を探すように少し間を置き、そっと微笑む。
「
……そのままでいい、そのままでいてほしいって、思ってしまうんです」
まるで告白のような響き。
だが恋愛ではない、もっと深く静かな感情。
カズイは長い間、己の胸の中にあった大きくて重い、絶対に動かせないものが崩れていくような感覚になった。
……ずっと求めていた気がする。自分が周りの求める自分じゃなくても、そのままの弱くて女々しい自分を受け入れてもらえる事を。
きっとこれが、ずっと欲しかった
―――
「
……こんな俺で
……嫌じゃないか?」
カズイの声はほんの少し震え、恥ずかしさと不安と迷いが滲んでいた。
シドウはすぐに、小さく首を横に振る。
「嫌なわけがありません。むしろ
……ようやく隠れていた貴方を見せてくれた、と思いました」
そっと指先を絡める。
恋人でもない。けれど、この触れ方は家族よりもずっと繊細で、壊れ物を扱うような、大切な誰かに向けるものだった。
「
……椋原さん。〝愛される〟っていうのは
……抱かれるか抱かれないかの話じゃ、ありませんよ」
「
……」
「貴方のままの貴方を
……その弱さも、脆さも、望みも、過去も全部含めて
……そのまま隣にいていいんだと思わせてくれる人。それが、愛してくれる人なんだと
……俺は思っています」
暗闇の中で、カズイは小さく息を呑んだ。
シドウの言葉は優しいだけではない。
甘やかしでも慰めでもなく、ただ真っ直ぐに自分を肯定する〝事実〟のように響いた。
「はは
……ならそれは、今は君しかいないよ。シドウくん」
その日初めて、カズイから心からの笑みが零れる。
嬉しくて、あったかくて、今にも泣きそうに声は震えていたけれど。
「君は、俺が欲しかった愛を与えてくれてる。それが恋愛感情じゃなくても、だ」
「
……そう、かもしれません。妻や子供たちへの愛とは違う、そんな愛情を椋原さんにあげられているのだとすれば、それは、とても
……ふふ、嬉しいですね」
シドウの指が強くも弱くもない力で絡まり、温度が伝わる。
シドウは自分がカズイに抱く感情がなんなのか、探していたのかもしれない。恋愛感情ではない、しかし友情と言うにはあまりにも深く、濃い感情。
妻や子供に向けていた愛と限りなく近く、けれど決定的に違うそれを、「違う色の愛」とすれば、それは欠けていたピースのようにピッタリとシドウの心に嵌った気がした。
どちらからともなく身を寄せる。
指を絡ませ合い、額同士を擦り合わせるように。
「
……ありがとな、シドウくん」
低く震える声は、泣き笑いのようだった。
シドウは微笑む。
「ええ。こちらこそ
……隣にいてくれて、ありがとうございます」
部屋に落ちる静寂は穏やかで、苦しさのない夜の空気が流れていた。
そしてふたりは、指を絡めたまま、互いを抱きしめ合うように目を閉じる。
恋ではない。
けれど、確かな信頼と愛情がそこにあった。
その夜、二人は久方ぶりに深く深く眠った。
まるで
―――自分が〝そのままでいていい〝と〟ここにいていい〟と、ようやく許されたように。
END
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