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碧
2025-11-27 20:41:46
16878文字
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ちっちゃくなっちゃった天宇のおはなし
暑かった夏もようやく翳りを見せ始めた。けれどまだまだ存在感のあるしっぽを残している、そんな頃のこと。
「天宇ー、そろそろ起きろよ。朝ごはんできたぞ。おーい」
今日の朝食担当は潤發だ。昨日から仕込んでおいたフレンチトーストがいい具合に焼けてきたので、階下のキッチンから大きな声で呼びかけた。
けれど、返事はない。
潤發は典型的な朝型で、他方天宇は完璧なまでの夜型だ。けれど天宇は朝食の時間になると必ずベッドから這い出してくる。自分が朝食担当の時はきちんと起床予定時間の30分前には起き出して、キッチンでがさごそと準備をしている。こと時間に関しては天宇は実に真面目だ。作家先生は概してルーズな人が多いらしいが、天宇はまず仕事の約束の時間に遅れたことはない。それはもちろん、潤發と出かける時もそうだ。
しかし、今日の作家先生は昨晩筆が進んで夜更かししたからなのか、随分起きてくるのが遅い。
少しでも寝かせてやりたいから、一旦火を止めてしばらくは待っていた。けれど次第に痺れを切らしてきたので部屋にカチコミに行くことにした。
「おーい、天宇。朝だぞ。フレンチトースト、冷めちゃうぞ。
……
天宇?」
部屋をノックしても反応はまるでない。
はっと息を呑む。──まさか、熱でも出して寝込んでるとか?
「天宇!?」
ドアをばん、と開ける。
目に入ったのは掛け布団が乱れたままの空っぽのベッドだった。瞬時に嫌な汗が背中を伝う。
──どこに行った、天宇哥哥。
〝阿翔〟の記憶の中で、何度も亡き者になった天宇を見てきた。香港で薬を飲んだり、台湾で悪い連中に巻き込まれたり、──アレルギーなのに無得着に何かを食べてしまったり。
「天宇、どこ?天宇??」
ベランダにいるのだろうかと足を一杯踏み出したとき、小さく膨らんだ布団がもぞ、と動いた。
──グアバ?
……
は、さっきダイニングでドッグフード食べてたから違うな。
じゃあこれは一体?
さらにもぞもぞ、と布団が動く。そして何かがひょい、と顔を出した。
こぼれ落ちそうな、二重の大きな眸。整った顔立ち。それは間違いなく天宇、その人だった。だがその年恰好といえば
……
その大きな眸がじわ、潤む。
わ、と焦る間もなくふっくらした頬にぽろりと涙の雫が零れ落ちた。
「わー!待て、泣くな!!」
あわあわと潤發は叫んでベッドに駆け寄った。
天宇──いや、仮に今はミニ天宇としよう──は布団をぎゅ、と握りしめ、怯えた様子で身体を強ばらせつつこちらを見上げた。
「
……
おじさん、だれ
……
?」
「まずおじさんはやめよっか」
ばか、最初に言うべきはそんなんじゃないだろ。
そうは思いつつ、気づけばぽろりと口に出ていた。
一方で忙しく頭を働かせる。えっと、とにかくこの子は天宇で間違いないだろう。なんといってもミニといえども天宇にそっくりだし、本人のベッドにいる。さらには昨日天宇が着ていたパジャマを着ている。仮装大会か、みたくぶかぶかだけど。
問題はどうしてこうなったかということだけど、そこはもう考えるのはよそう、と潤發は思考を放棄した。だって自分と天宇は時空を超えた文通をしていたのだし、潤發といえば違う時空だか時間軸だかの〝自分〟の記憶がある。この世は何だって起こりうる文字通りのワンダーランドだ。であれば、あれこれ考えて時間を無駄にするより、取り敢えず今目の前で起こっている出来事を理解し、粛々と対処すべきだ。
というわけで状況を整理する。──今、自分の目の前には小さな天宇がいる。どうやら彼は自分の置かれた状況が分かっておらずひどく怯えているらしい。というわけで、まずやらねばならないことは彼を安心させること、これに尽きる。
「よ、おはよう。俺は潤發」
とびきりの笑顔でまずは〝ごあいさつ〟する。人懐っこさにはいささかの自信がある。伊達に孤児院で育ってきてはいない。
「
……
おかあさん、どこ?おとうさんは
……
?」
震える声で天宇は尋ねた。
「あー、おとうさんとおかあさん、しばらく用事で留守にするんだって。俺、二人の知り合いなんだ。代わりに俺が君と一緒にいるよ」
ほんの僅か表情が緩んだ。しかし、こちらに向ける疑り深げな眼差しは変わらない。
—
そうだよな、だってあの天宇だし。〝阿翔〟の記憶に残る、台北の狭い部屋で追い詰められた猫のように怯えていたパン一の姿が蘇る。
「だから今日はいっぱい遊ぼう!まずは海に行こうぜ」
うみ、の単語でまたわずかに顔がほころぶ。よし、もう一息。
「でさ、朝ごはんができてるんだけど」
おもむろに潤發は寝室のドアを全開した。ミルクと卵、そしてバターの魅惑的な香りがふんわりと漂ってくる。
「本日のメニューはなんとフレンチトーストでございます!どう、食べない?」
むく、と天宇は起き上がった。
「食べたいです」
やっぱこれは効くよな、と潤發はにんまりと笑った。フレンチトーストの匂いに抗える子供はそう多くないし、何よりも天宇はすました顔をして大の食いしん坊だ。
とりあえずパジャマの袖と腕を限界までまくり上げ、なんとか動けるようにしてからダイニングにエスコートし、椅子に座らせた。
「えーっと、何飲む?」
「よろしければ、ミルクをいただけますでしょうか」
生真面目な顔で天宇は答えた。
丁寧。実に丁寧だ。同時にまだ警戒されているな、と思う。
「あー、あのさ、そういう堅苦しいのやめてくれない?俺と君のおとうさんやおかあさんは親友だし、親戚のおにいさんくらいに思って気軽に話してよ」
ついに親友ということにしてしまったが、まあ嘘も方便だ。
天宇はしばらく潤發をじっと見つめていたが、重々しく口を開いた。
「
……
わかった。じゃ、そうする。
……
潤發哥哥」
潤發はフォークをそっとテーブルに置くと、天を仰いで目を閉じた。
「
……
?どうしたの?」
「あのさ、天宇。今の、もう一度言ってくんない?」
「〝わかった。じゃ、そうする〟?」
「あー、そっちじゃなくて、最後のやつ」
「
……
潤發哥哥?」
きええ、と小さく奇声を上げ、潤發は身悶えた。
「あの、本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃない
……
いや、大丈夫!大丈夫だから!!心配しないで!!」
潤發哥哥。
天宇から、潤發哥哥って呼ばれた。今。
この記憶だけでこの先、何か辛いことが起こっても当分生きていける。
はわ、はわわなどと意味不明な言葉を漏らしては身体を小刻みに揺らすどうみても挙動不審な〝哥哥〟を不思議そうに見つめながら、天宇はフレンチトーストをもぐもぐと頬張った。
「
……
え、これ、着るの?」
「なんか文句あるのか?いかしてるだろ?」
朝食を食べ終わった二人は潤發の部屋へと移動した。お次は天宇のとりあえずの服探しだ。いろんな所を転々としてきたからそう物持ちがいい方ではないけれど、衣装ケースの奥の奥から小さい頃にお気に入りだったヒーローのキャラクターがプリントされたTシャツ、そして短パンと水着を見つけ出した。このTシャツは小さくなって着られなくなってもどうしても捨てられなかった思い出の品だ。
「
……
ださい」
確かに天宇はこういうものを着るタイプではなさそうだ。しかし取り急ぎ、背に腹は代えられない。
「わがまま言わない!これしかないんだから」
「
……
おかあさんは僕の服、持ってきてなかったの?」
ぎくりとした。
「あの、ほら、すっごい急な用事でばたばたしてたんだよ!人生そういうこともあるの!着なきゃお出かけできないよ!!はい、早く着た着た!」
適当なことを捲し立てつつ天宇を急き立てた。小さい子をまるめこむ手腕も孤児院時代に培ったものだ。人生、何が役に立つかわからない。
いつもの天宇との外出ならばふらっとバイクで出かけるところだけど、ちっちゃな天宇だと振り落としてしまうのが怖いので今日は車を使うことにした。ついでにボードも持っていくことにする。天宇くんには華麗に波に乗る潤發哥哥の雄姿をぜひ見てもらいたい。
「いい風だね」
外を眺めながら天宇は呟いた。
「だろ?今の時間だとクーラーかけなくっても、窓全開で十分涼しいんだ」
片手でハンドルを握りつつ、いつもの癖で窓から左手を伸ばした。かすかに潮の香りをはらんだ風が通り過ぎる感覚が心地よい。
ふと視線を感じた。助手席に目を向けると、天宇がじっとこちらを見つめていた。
「
……
ねえ、僕も手を出していい?」
「ん?いいぞ。けど気をつけてな。自転車とかバイクとか通るかもだから」
「うん」
嬉しそうに頷くと、天宇も窓の外へと腕を伸ばした。陽の光に透けるみたいな白い肌が眩しい。
そうだ、どこかで日焼け止めを買わなきゃと思う。大人天宇もすぐ赤くなるタイプだから、ミニ天宇も間違いなく肌が弱いだろう。日に焼けてひりひりしたら可哀想だ。
程なくして、いつもサーフィンをしているビーチに着いた。
「うみ!うみだ!!」
窓の外に光る海を目の当たりにした天宇は頬を紅潮させて叫んだ。
「そう、海だぞ!
……
あー、でもちょっと待て」
服をぽんと脱ぎ捨て、今にも飛び出していこうとする少年の首根っこをぐいと摑まえる。
「まずは日焼け止め塗って、次に準備体操。海をなめたらだめだぞ」
「
……
うん。分かった」
不承不承といった風に頷く天宇がどうにも可愛くて、息子を持つ世のお父さんというものはこういう気持ちなのかな、なんてことをふと思った。
というわけで、さっきドラッグストアで買ってきた日焼け止めを生っ白いシティーボーイに存分に塗りたくってやった。くすぐったそうに目を細めるのもまた可愛らしい。
「はい、いっちょあがり!
……
ところで天宇は泳げる?」
「スイミングスクールに行ってるから大丈夫」
「おー、それはすごい!じゃ、行こうか」
簡単な体操を済ませ、手を繋いで波打ち際まで歩いていく。足首をひたひたと上がってくる波が冷たいといって、天宇はきゃあきゃあと笑い声を上げた。さっきまでの取り澄ました、どこか大人びた少年とはまるで別人みたいな子供らしいはしゃぎっぷりにこちらの頬もつい緩む。
「すごい、海ってよく浮くんだね」
「そりゃ塩水だもんな」
「う、口に入った
……
すごくしょっぱい」
「そりゃ塩水だもんな!」
「だよね!」
天宇が笑う。掛け値なしの満面の、屈託ない笑顔だ。これじゃほんとのほんと、ガチの天使様だなと目を細めつつ、ふと大人の天宇が恋しくなった。
──君は今、一体どこにいるんだろう。
--------------------------
スイミングスクールに通っているというだけあって、天宇の泳ぐフォームは実に綺麗だった。クロールなんかはお手本にしたいくらいきっちりしている。
けれどプールと違って、たえず寄せては返す波にさらされるというシチュエーションにはどうやら苦戦しているらしく、時折海水の洗礼を受け見るからにしょっぱい顔をしていた。
「よーし、じゃあいよいよ哥哥が波に乗るところを見てもらおうかな」
浜辺に上がって二人でジュースで一服した後、いよいよ潤發は切り出した。
「うん、見たい!
……
ねえ、本当にあんなことできるの?」
沖にぱらぱらと浮かぶサーファーを指さし、天宇は尋ねる。いかにも半信半疑といった感じだ。
「あれよりもっとうまくできるぞ。まあ見てなって」
愛用のボードを抱え、にやりと潤發は笑った。
頑張って!と声援を送ってくれる天宇に手を振って海へと向かう。いつになく心臓はどきどきと脈打っていて、あの花火の日に初めて天宇にサーフィンを見せた時くらいは緊張してるな、と少しおかしくなった。そりゃ男子たるもの、本命にはかっこいいところを見せたいものだから仕方がない。
今日の波のコンディションもあの日に負けず劣らず上々だし、おまけにボードは長年の相棒ときているからきっと前よりもよいライディングができる。
──よし。
パドリングで沖に出た潤發は理想にほぼ近い波のピークを見定め、きっかりブレイクの直前におもむろにテイクオフした。
結果として、この日のライディングは自分のライド史上でも相当の上位に食い込む、満足のいくものだった。とにかく波がよかったのでいくつもマニューバーを試すことができたし、そのほとんどをクリアすることができたのはツイていたと思う。やっぱり〝天使様〟が見守ってくれているからかもしれない。
浜に上がると、いつもの仲間が数人走り寄ってくる。
「潤發ー! 見てたぞ!すっげえ乗れてたじゃん」
「まあ、波がよかったからな」
軽く謙遜しつつも、潤發の眼差しはビーチにぽつんと座る天宇ひとりに注がれていた。
──さあ、天使様。いかがでしたか?俺の波乗りは。
おーい、と手を振ると、天宇は弾かれたようにぱっと立ち上がり、こちらに向かって駆け寄ってきた。
そのままこちらにぴょん、と全力で飛びついてきたので、不意打ちを食らった潤發はよろけながら目を白黒させた。
「潤發哥哥、すごいよ!!波ってあんなに長く乗れるものなんだね」
「え、ま、まあね
……
」
下からこちらを見上げる眸は絵に描いたみたいにきらきらと輝いているし、ふっくらとした頬は興奮で真っ赤に染まっている。天宇がこんなに感情を爆発させる子だなんて知らなかった。まさに狙い通りですごく嬉しいけれど、無垢の賞賛があまりにも真っ直ぐに刺さり過ぎて思わず目を逸らせてしまう。
そんな潤發に気づいた様子もなく、
「本当にすごい。哥哥、海の王様みたいだったよ」
うっとりと天宇は呟いた。
うみの、おうさま。
どき、と心臓が波打つ。
まさかそれって。
「ねえ、波乗りってどうするの?教えてよ!」
なおもきらきらした目で天宇は強請ってきた。でも、ちょっと待って。頭が真っ白になって何も考えられない。
──もしかしたら、俺のことだったのか?海の王って。
天宇と自分、潤發──そしてもちろん阿翔もまた、時を、また記憶をもかるがると超越し、巡り巡って互いに影響を与え、そして与えられる。そのめくるめくようで不思議な、けれどどこかで必然となる輪廻にも似たありさまを思えばくらくらと眩暈をおぼえそうになる。こんな自分たちの関係はいったい何と呼べばいいんだろう。大人の、そして本職の天宇ならばきっと相応しい名前を与えてくれるのだろうけど、残念ながら文才に乏しい潤發には何も思いつかない。ありきたりに奇跡だなんて言ってしまってもいいような気はするけれど、そんな大仰な名で呼ぶほどでもない、もっと親しみがあって暖かくて当たり前に、そしてたとえ離れていたとしてもずっと変わらずにそこに在るような関係だ。
──ああ、やっぱりうまく言い表すのは難しい。
「ねえ、哥哥ってば」
ぐいぐい、と腕を引っ張られ、ようやく我に返った。
「お、オッケー。じゃ一緒にボードに乗ってパドリングしようか」
「やった!
……
で、パドリングってなに?」
「波がブレイクするポイントまで漕いでいくこと」
「へー、やりたいやりたい!」
「よーし、じゃあやってみようか」
「うん!」
ちいさな手がぎゅ、と潤發の手を握る。そこからは体温だけではない、なにかひどく慣れ親しんだ、あたたかいものが伝わってくる。たとえ小さくなったとしても、天宇はやっぱりずっとここに変わらずに〝居る〟、と思った。
------------------------
「はー、腹減った
……
」
「僕も
……
」
昼下がり、二人の姿は海辺に程近いカフェにあった。ここは潤發が贔屓にしているハワイアンカフェで、波に乗ったあとに仲間と一緒にちょくちょくランチなんかを食べている。
カラン、とドアベルを鳴らすと馴染みのマスターがひょいと顔を覗かせた。
「ああ、潤發、いらっしゃい。
……
で、その可愛いお客さんは?」
ぎゅ、と足が締め付けられる感触がする。
ん?と下を見おろした潤發はそのままかちんと固まった。
目に飛び込んできたのは、天宇がコアラよろしく潤發の右足に抱きついておずおずとマスターを覗き見ている姿だった。なにこの可愛い生き物。マスター、写真撮って。
「
……
はい、天宇。ちゃんとご挨拶して」
逆上するくらいの可愛さに奇声を上げて周囲を走り回りたい衝動を抑えて保護者っぽく促すと、小さな声でこんにちは、と返って来た。もうこれはずるい。爆発的に可愛い。
「はい、こんにちは。いやあ、可愛いね。潤發の子?」
「んなわけないだろ」
咄嗟につっこみつつ、うっかり俺生んだかも、と錯覚しそうになる。
とまれ、ひとまずは落ち着いて、いや落ち着いたふりをして着席し、メニューを天宇に見せた。
「さあ、何食べる?」
「
……
なにがあるの」
「えーっと、ロコモコとスパムエッグとガーリックシュリンプ
……
はだめ!絶対だめ!!」
思わず大声が出た。危ない危ない。
「シュリンプ、ってことは海老だよね?なんでだめなの?」
天宇は首を傾げた。さすが小さくても物知りだ。
……
いや、問題はそこではなくて。
──だめという認識がないということは、この年頃の天宇はまだアレルギーを発症していなかったんだろうか。
一瞬、じゃあ今のうちに墾丁の美味しい魚介類をいっぱい食べさせたいと思ったけど、いやいやだめだと首を振った。これがトリガーになって何かがあれば命にかかわる。
「だめなものはだめ!大人の食べ物なの!」
そう言った瞬間、あ、今のはミスったなと思う。潤發とて昔は子供だったわけで、大人のものなんだから我慢しなさい、と言われたものたちがどれだけ魅力的に見えたかなんてことはよーく覚えている。
現に天宇は不服そうにむすっとこちらを見ている。こんなに賢い子だと余計に子供扱いは癪に障るだろう。
だから戦略を変えた。
「それよりさ、もっととっておきがあるんだ。ロコモコっていうんだけど、目玉焼きとハンバーグ、好きだろ?それがごはんの上にどーんと乗ってるの。最高じゃん?」
わざと秘密みたいにひそひそ囁くと、きらりと大きな眸が輝いた。
「
……
それにする」
よかった、と胸を撫で下ろす。いかな天宇先生とてまだ子供だし、目玉焼きとハンバーグが嫌いな子供はいない。
「おいひい!」
ロコモコを一口食べた天宇はほっぺたを膨らませて叫んだ。
「そうか、よかったな!」
潤發はにこにこ頷いたが、次の瞬間天宇が真赤になったのを見てきょとんとした。
「どした?なんか辛いものでも入ってたか?」
天宇は何も答えず、そのまま黙りこくってもぐもぐと口を動かしごくんと飲み込むと、ようやく蚊の鳴くような小さな声で
「
……
ごめんなさい。口の中に物が入ってるのにしゃべっちゃった」
と絞り出すように謝った。
「いいよそんなの!!」
思ったよりでかい声が出た。
「あ、そりゃ確かに食べてるものが飛び出したりしたらだめだぞ。けどそうでなかったらいいよ」
「でも、いつもおかあさんが食べている時に話すのはお行儀が悪いって
……
」
「おかあさんの言ってることはもちろん正しい」
潤發は頷いた。そこはフェアでなくてはならない。食事マナーは確かに大事だ。だけど。
「けど正しいばっかりじゃ息が詰まるし、気をつけてさえいれば大丈夫だ。俺の前だったら食べて喋ってもいいぞ」
「うん!」
勢いよく天宇は頷いた。
「あのね、本当に美味しいね。これ」
「だろ?」
「僕の家じゃほとんどお肉は食べないんだ。お野菜とか、お豆腐とかばっかり。お母さんがその方が身体にいいからって」
「なるほどなあ」
なんとなく分かる気がした。これはあくまで想像だけど、天宇の家ではオーガニックとかヴィーガンとか
……
よくわかんないけどなんかそういう身体によさげで意識が高そうなものを食べているような印象がある。
けれど、
「でもな、天宇。男子はやっぱり肉だぜ。肉、好きだろ?」
「うん!」
速攻元気な返事が返ってくる。
「よーし、じゃいっぱい食っとけ!お母さんもいいって言ってたから大丈夫!」
何度目かの嘘も方便だし、のちの天宇のむきむきボディを見るにきっとどこかの時点でお母さんも食育方針を変えて肉をだすようになったと思うのでまあいいだろう。魚介アレルギーなのに肉を封じられたら栄養不足になってしまう。
「お、懐かしいの着てるじゃん」
いつの間にかオーナーがすぐそこにいて、天宇のTシャツを興味津々といった体で眺めていた。彼と潤發は同世代なので、当然このヒーローキャラクターが一世を風靡した頃を知っている。いわば〝世代〟だ。
「このTシャツ、俺も持ってた!かっこいいよな」
「でしょ?」
ドヤ顔で天宇は胸を張った。
……
あれ、さっきはさんざんださいって文句言ってなかったっけ。あとさっきの人見知りムーブ、どこいったんだ?
戸惑ったようなこちらの視線に気づいたらしい天宇は、振り向きざまにや、と笑った。なかなか悪い笑顔だ。最初の取り澄ました都会の少年からどんどん年相応のやんちゃ坊主になっていっているようで少し嬉しい。まるで昔の自分を見てるみたいだ。
この年頃の潤發といえばやんちゃを絵に描いたようで、日が暮れて〝我が家〟に帰る時にはいつも身体のどこかに生傷をこさえているような悪ガキだった。そんなちび潤發の憧れの存在といえば、今天宇が着ているTシャツにプリントされた特撮アニメのヒーローだった。そしてもう一人
……
ぶはっ、と声が出た。
「何?どしたの?」
ほっぺにご飯つぶをつけた天宇が不思議そうにこちらを見る。
「い、いや、別に。ヒーローがヒーロー着てるな、と思って」
「どういうこと?」
「
……
ううん、気にしないで」
どういうことも何もそのまんまなんだよな、とおかしくなる。天宇もまた、あの頃の潤發にとっては間違いなくヒーローだった。しかも手紙をくれるタイプのヒーローだ。これまで彼ら二人のヒーローにはどれだけ救われたか知れない。そして改めて、そのうちの一人とまさに一緒に暮らしているという嘘みたいな事実をしみじみと噛み締めてしまう。
—
とは言っても我が憧れだったヒーローは今、見るも可愛らしい姿でロコモコを頬張っているのだが。
ふとこのまま天宇がこのまま戻らなければどうしよう、なんて思う。それは
—
まあ困るけど、でももしそういうことになってしまっても大丈夫、男手ひとつで立派に育ててみせる。根拠はもちろんないけれど、そういう自信はある。
先ほどの泳ぎっぷりを見るに、嫋やかな見かけによらずなかなか運動神経もいいから、みっちりサーフィンを教えるのもいいかもしれない。願わくば小さな頃の自分みたく、俺のことをヒーローみたいに思って慕ってくれたりなんかしたら飛び上がるほど嬉しい。けど、努力家の天宇のことだからそのうち俺を抜いて本当の海の王になっちゃったりするかもしれない。海の男になった天宇も絶対かっこいいと思う。
こういうのなんか覚えがあるんだけど、何だったかな。確か日本の話で、すごくえらい人が小さな女の子を引き取って自分好みの女の子に育てるなんていう話があるらしい。それを聞いた時にはえ、気持ち悪、と思ったけど、今こうやってちっちゃな天宇を見てるとあながち気持ちも分からなくはないな、なんて
……
「潤發哥哥?さっきからどうしたの?」
こてん、と天宇が首を傾げる。
「な、なんでもない!なんでもない!!気にしないで!!」
あわあわと潤發は叫んだ。こんな気持ち悪いことを考えているだなんてばれたら一大事だ。
夜は餃子にした。昔子供の頃、孤児院の方の〝我が家〟で餃子パーティーをした時にそれはそれは楽しかったことを思い出したからだ。もっとも今回は二人きりではあるけれど、それでも天宇もまた十分楽しんでくれたようだった。それは食べることだけではない。彼は意外と器用で、包み方を教えたらすぐにマスターして、潤發が1個包むうちに2~3個ささっと包めるくらいまでに上達した。しかも襞の作り方が上手い。
「
……
もしかして、大人の天宇よりも器用なんじゃない?」
「何か言った?」
「ううん、何も」
大人の天宇は結構な破壊神だ。掃除機は三台壊したし、二人で住み始めてから買った丈夫なはずのドラム式洗濯機も壊される寸前までいった。家電製品とはいつも相性が悪いし、なぜそうなるのかは分からないと天宇は言う。本人に分からないものは潤發にも分からない。
料理の方ももちろん壊滅的だった。だった、と過去形なのは、独り暮らしが長く一通りのものは作れる潤發が一生懸命指導したからだ。
掃除はまあ、極論を言えばしなくても生きていける。洗濯も然りだ。けれど食べることはすなわち生きることだ。そういう単純だが強固な信念が潤發にはある。だから、いかにも生活力のない天宇には最小限のものは作れるようになってほしかった。今の時代、何でも買い食いできるしとりわけ香港などといえば家にキッチンがなくっても普通に生活できるのだろうが、それでもやはり彼には生きる術としての料理は身に付けておいてもらいたいと強く思っている。もしかしたらその願望は、死に場所を探していた頃の天宇を〝知っている〟〝阿翔〟の記憶によって齎されているのかもしれない。
とまれ、こういった地道な、時として涙ぐましい努力により、今では天宇は潤發と交代で朝食を作るところまで成長した。まだまだトーストを消し炭にしたり、目玉焼きの黄身をぐずぐずにしたりはするけれど、調子のいい時には立派なイングリッシュブレックファストまで準備ができる。破壊神であった黎明期を知る師匠としては感涙を禁じ得ない。
でも今、目の前で餃子を器用に包んでいるちいさな天宇の方がよっぽど器用だ。どうしてこんなことをそつなくこなす少年があの泣く子も黙る破壊神になったのだろう、と訝しく思う。
「天宇は料理が好きなの?」
尋ねてみると、「うん!」という元気な返事が返ってくる。けれど、その後すぐに表情が曇った。
「どした?」
「
……
けどね、お母さんはさせてくれないんだ」
しょんぼりした顔で天宇は続けた。
「包丁なんて持ったら危ないでしょうっていって持たせてくれないし、火の傍にも近寄らせてくれない。あなたはこんなことじゃなくてお勉強と習い事をやってればいい、って言われて
……
」
「こんなことってなんだよ」
つい語調がきつくなる。だけど怯んだ天宇の顔を見て慌てて笑顔を作った。いけないいけない。
「ごめんごめん、天宇に怒ったわけじゃないんだ。でもさ、料理も食べることもすっごく大事なことだぞ?お母さんがだめっていうなら、
……
まあちょっと難しいかもだけど、でも機会があったら是非やってほしいな。人は食べたもので作られるんだから、食べるものを作るってことは本当にすごいことなんだぞ」
「
……
うん。わかった」
潤發の権幕に押されたような形ではあったけど、天宇は素直にこくんと頷いた。
もちろん天賦の才っていうのもあったのだろうけど、こんな風にいろいろな経験をすっ飛ばしてお勉強に集中した結果、今の文豪・顧天宇先生
—
ただし生活力皆無
—
が生まれたんだろうなと思う。
そしてちょっとおこがましいかもしれないけれど、彼がそうやって切り捨ててきたことを今、こうやって自分がやり直させようとしているのかもしれない。無意識ではあったけれど、それは結局まさに天宇の生を願う潤發の祈りそのものだし、同時に阿翔の祈りでもある。
「明日もまた何か作ろうな!」
「うん!」
にこっと天宇が笑う。今日一緒に食べた餃子は天宇の骨となり、肉となる。そうやってしっかり食べて大きくなって、あの繊細で壊れやすそうでいて意外とがっしりした天宇先生になる。
なんてことはない当たり前の話だけど、その事がなんだかちょっとした奇跡みたいに思える。
「よし、もっと作れ。たくさん食って大きくなれよー、天宇」
まあ大きくなるのは知ってるけどな、とこれはこっそり口の中で呟いた。
風呂でも、潤發は天宇のお行儀のよさに驚かされた。どうやら世の中の小さい男の子というものはバスタブに潜って窒息寸前まで息を止めたり、目を開けたままシャンプーチャレンジして大騒ぎしたりしないものらしい。シャンプーしても背中を流してやってもあまりにもおとなしく洗われるので驚きを通り越してなんだか不安になる。
「あ、そっか。しまった
……
」
風呂上がり、パジャマを着ようと、そして着せようといつものチェストのひきだしを開け、そこに二つ仲良く並んだ大人用の色違いのパジャマを見て潤發は頭を抱えた。さすがに小さい頃のパジャマまでは取ってはいない。
「ごめん天宇、今晩はこれで我慢して。明日買いにいくからさ」
今朝がたみたく、思いっきり袖や裾を折り曲げて着せてやる。動きにくいだろうから小脇にひょいと抱えると、きゃはは、と子供らしい笑い声が漏れた。
どこに寝かせようかと一瞬迷ったけれど、きっとシティボーイな天宇は一人で寝るのに慣れているだろうし気も楽だろう、と大人天宇の部屋に運ぶことにした。
「じゃ、おやすみ」
「
……
おやすみ」
ただでも広い天宇のベッドに寝かせると、なんだか大海の中の小魚一匹といった風情だ。
「電気はどうする?」
「ちっちゃいのつけといて」
「了解」
潤發はシーリングライトを最弱にすると、「また明日な!」と手を振って部屋を出ていった。
さて、明日はどうするかな。
自分のベッドに潜り込んだ潤發は、暗い天井を見つめひとり物思いに耽った。
とりあえず、服は何着かいるだろう。こまごまとした身の回りのものも必要だ。もし長くこのままだったら地元の小学校への編入も考えなければいけない。
──それで、このまま戻らなかったら?
さっきから心に明滅してる可能性について改めて考えてみる。
そうなったならば、俺は──
こんこん、と微かな音が響いた。
がば、と潤發は起き上がってベッドから飛び降りた。グアバはノックなんてしないから、この音の主は一人だ。
「天宇?」
ぎい、とドアが開く。入ってきたのは案の定、ぶかぶかのパジャマをずるずると引き摺る天宇だった。頬に涙の痕を見てとりやばい、と焦る。
「どした?怖い夢でも見たか?」
飛びついてぎゅっと抱きしめてやると、ひくりと背中が震えた。
「
……
ううん、違う。すごく恥ずかしいんだけど、」
ひとりでいるのがさびしくて、と震える声で言われたらもうだめだった。あーもう、ほんと俺の馬鹿。完全に選択を間違えた。
「ごめんごめん!全然恥ずかしくないから!あんなところに一人で寝かせた哥哥が悪かった!一緒に寝ような!」
「うん
……
」
ぎゅうぎゅうと抱きつかれる、その体温と重さがなんとも愛しかった。
結局、天宇は潤發にひしとしがみついたまま寝てしまった。一人寝がよっぽど堪えたのだろう。あらためてごめんなあ、と反省しつつさらさらの髪に顔を埋めた。同じシャンプーを使っているはずなのにどこか甘い匂いがふわりと香る。
もうこのままでもありかな、じゃなくて、このままでいい。そう思った。
このちっちゃな天宇は全面的に潤發を頼ってくれる。一方、大きい天宇はときどき何かを探るような目で潤發を見ることがある。
—
いや、何かだなんて知らないふりをするのはやめよう。俺はそれが何なのか、いや誰なのかをよく知っている。
俺は、すなわち阿翔だ。阿翔が何を考えてどう行動していたのか手に取るように理解している。なぜなら夢という形で阿翔と俺はいつも一体だったからだ。けれどこのことをいくら天宇に説明しても、一応理解はしているようだけど納得していないことは容易に見てとれる。それも無理はないと思うし、こちらもまた理解はしているけれど、時々どうしてももどかしく、息が詰まりそうになることがある。
でもこのちっちゃな天宇は
—
きゅ、と小さな背中を抱きしめる。
この子は俺、潤發しか知らない。
さっきの日本の昔話のなんとかゲンジ──そう、確かそんな名前だった気がする──を思い出す。彼は小さい女の子を引き取って、自分好みの、自分だけを見てくれる女性に育てた。
正直現代のモラル的にはアウトだと思うけれど、なんとかゲンジの気持ちはよく分かる。きっと彼もまた、本当に得たいものが得られず寂しかったのだと思う。自分だけを見て、自分だけを慕ってくれる存在。そして──愛してくれる存在。
〝再会〟して一緒に暮らし始めた頃は、自分が天宇に向けている感情を敢えて言葉にしようとは思わなかったし、天宇が僕たちは家族だ、と繰り返すたびに純粋に喜びを感じていた。
けれど共に暮らして二年以上が過ぎた今、彼と自分が考える〝家族〟の隔たりにどうしようもない虚しさを感じることが多い。
潤發は──天宇を愛している。それは恋愛対象としてであるし、そして性的対象としてでもある。
一方、天宇は潤發にそんな邪な感情はほんの僅かも抱いてはおらず、自分を親きょうだいのような〝家族〟だと思ってくれているらしい。その陽だまりのような温かな愛情は日々ひしひしと感じるし、それで満足できない自分にすこし自己嫌悪を抱いてもいる。
だけど、潤發は知っている。天宇が〝阿翔〟に対しては
—
いや、対してのみは肉欲を抱いていることを。
その根拠は遠い夏の日、夏夏と三人で戯れたビーチでの事故みたいな偶然のキスだ。唇が触れた時、彼の眸は大きく見開かれた。そして──その奥には情欲の炎が見えた。天使哥哥もそんな目をするんだな、と思った。
けれどその後、彼の目に同じ炎を見ることはない。天宇が潤發に向けるまなざしは穏やかで慈愛に満ちたものばかりで、そのことはしみじみと嬉しく思いつつ、同時に〝潤發〟であってはどうしても得られないものの存在を日々思い知らされる。
ずっと、天宇が自分に求める〝阿翔〟とは何なのか、そしてそれを自分が与えるにはどうしたらよいのかと考えてきた。しかしその正体が肉欲であることに気づいた時、感じたのは絶望だった。恐らく彼の欲求は自分、潤發では満たすことはできない。根拠は二年の歳月だ。二年経っても求められないということは、やはり潤發ではその欲は満たされないということなのだろう。それを満たす役割を担っているのは阿翔だけだ。けれど彼は消え去り、二度と戻っては来ない。ゆえに未来永劫満たされることはない、という事実が余計に天宇の欲望を掻き立てているのだろう。得られないと分かっているものに対する執着や欲求の強さは、潤發とて身に沁みて実感している。
でも、今腕の中に閉じ込めている天宇なら。阿翔のことを何も知らない、まっさらな天宇ならば。
「ずっと、ここにいてもいいからな」
すこし尖った形のよい耳に囁く。
幼い寝顔がふに、と綻んだ気がした。
--------------
ジャングルの中をあてもなく歩いていた。
とにかく暑く、額に汗が滲む。おかしいな、そろそろ11月で涼しくなるはずなのにと思った次の瞬間いや、ここは熱帯のジャングルだったと首を振る。なぜこんなところにいるのかさっぱり分からないが、現にいるのだから仕方がない。
突然、目の前にぶっとい蛇が現れた。大きさは昔テレビで見た大ニシキヘビとかアナコンダくらいだ。身体の色は白一色で、見ようによったら神様のお遣いぽくてありがたくもある。
けれど、そいつは真っ直ぐに潤發に向かってきた。やべ、と思った時には全身ぐるぐるに巻きつかれ、ちろちろと耳元にほそい舌を這わされそうになっていた。
──わー、やめて。マジやめて。
かろうじて顔を背けようとしたけれど、蛇は容赦なくこちらに鎌首を擡げてくる。その目は黒目がちで爬虫類の眸らしくなく、なんだか妙に人間っぽい。
くわ、と真っ赤な口が開く。
やべ、丸呑みされると目を閉じたその時、
「──はなさない」
低い声が響いた。
ぱちりと目が覚めた。全身はくまなく汗でびっしょりだ。なんか久しぶりに嫌な夢見ちゃったな、と溜息をひとつついてもう一度寝ようと目を閉じた時、恐ろしいことに気づいた。
ようやっと悪夢から覚めたはずなのに、まだ何かに巻きつかれているのだ。
「ひ」
小さく声が漏れる。
夜明けの薄暗がりに目が慣れ、徐々に巻きついている〝もの〟の全容が明らかになった瞬間、再び息を呑んだ。
それは、立派に大人になった、いや大人に戻った天宇だった。
しかも彼は先ほど
—
つまり蛇だった時と同じ黒目がちの目で至近距離からじっと潤發を見つめているときた。いや、実際蛇だったわけではないけど。
「おはよ」
「
……
お、はよ」
声が掠れた。
つまり天宇は元の大人の姿に戻ったらしい。わお、おめでとう。よかったね。
……
いや、問題はそこではない。なんで元に戻ったのにいまだに天宇はちび天宇同様潤發に抱きついているのだろう。何なんだ、このシチュエーションは一体。そもそも先に目が覚めているならば、一緒のベッドに寝ていることとか抱きついていることとかを不思議と思わないんだろうか。──いや、思えよ。
「なに、してんの
……
」
「潤發哥哥に抱きついてる」
何事でもないかのように、歌うように天宇は答えた。
るんふぁ、がが、だって。しかも大人の天宇が。だめ、死ぬ。
でも、そう呼ぶってことはもしかして。
「
……
寝惚けてんの?」
「起きてる。久々にすっごくよく眠れたから、最高の目覚めだよ」
きゅ、と腰を更に抱き寄せられ、息が止まりそうになる。
「昨日のこと
……
」
「ああ、覚えてるよ。潤發哥哥」
「その呼び方、なし
……
」
「なんで?昨日はずっと呼ばせてくれてたじゃない」
「そう呼ばれたら何でも許しちゃいそうな気がする」
ふは、と天宇は笑った。
「じゃ、これからもずっとこう呼ぼうかな」
「やめてってば」
「ふふ、考えとく。
……
あのさ、さっきから君の顔見ながら、あの時のかっこよかった海の哥哥は潤發だったんだって思ってた」
「
……
どういうこと?」
「曖昧な記憶なんだけど、昔、親切なお兄さんに会って海で泳ぎを教えてもらったり、サーフィンするところを見せてもらったりしたことがあるんだ。美味しいもの一緒に食べたり、一緒に作ったり。けれどその時の話をしても父も母もそんなことはあったはずない、の一点張りで、ずっと夢だったのかなと思ってた。けど、ほんとだったんだね」
「そっか
……
」
ということはやっぱり〝海の王〟は潤發自身であったらしい。長い間目標としていた対象が自分だっただなんて、なんだか不思議で面映ゆい。
こうやって天宇との間で多少時が遡ったり、下ったりすることにもうさほどの驚きはない。ないけれど、こんな風に不思議な事象が起こってすぐにちゃんと二人で話し合えることは珍しいな、と思う。
けれど
—
そのことは、今こうやって天宇が離れずにぴったりとくっついてくれている〝理由〟にはならない。
そこにどうしようもなく期待してしまう。なあ天宇、これはいったいどういうこと?
「今日はすっごくよく眠れた」
天宇は繰り返した。
「僕の不眠症、知ってるでしょ?」
「ああ」
頷いた。ここに越してきてだいぶ改善されたらしいけれど、やはり寝る時に飲む薬は欠かせないらしい。正直睡眠薬と天宇には嫌な記憶がこびりついているからやめてほしいのだけど、本人が眠れないというならば仕方がない。
「こんな風に眠れて起きれるの、すごく貴重なんだ。だから
……
」
声が一段小さくなる。
「
……
これからもこんな風に一緒に寝てもらってもいい?」
こちらからすこし目線を外して天宇は尋ねた。
そっか、となった。
やっぱり君はこうやってくっついて眠ることにそういう綺麗な理由をつけるんだな、と思う。きっと阿翔には言わないであろう、理路整然とした理由を。
でも、そうと分かってはいても、惚れている相手のこんな嬉しい要求を誰が拒めるだろうか。
「うん、いいよ」
「
……
ありがと」
こちらを抱きしめる腕の力がふわりと抜けるのを感じる。どうやらかなり緊張していたらしい。
「でも、俺は」
大きな身体をぐっと抱きしめ返した。
「こうやって一緒に寝たいから、こうしたい」
そうすることで伝わらないかな、と思った。恋慕。執着。愛欲。家族という言葉で片付けるにはもう少し強くて厄介な情熱。伝われ、という気持ちと知ってくれるなという気持ちが錯綜する。
前に天宇が寄稿した女性雑誌に、今までペットのように思って親しんできた男子が急に性欲を見せ始めると女性はあたかもぬいぐるみにペニスが生えたような衝撃を受け嫌悪感をおぼえるものだ、なんていう記事が載っていたことを思い出す。潤發が天宇に向ける本当の感情を知ったならば〝天使様〟もまた同じような衝撃と嫌悪感に満ちた目でこちらを見るのだろうか。お前にそんなむくつけき、生臭い欲があったのか、と。
天宇はすこし目を見開いたあと、にっこりと嬉しそうに笑った。
「うん。僕もこうしたい」
それで、何も伝わらなかったことが分かった。感じた安堵と落胆は、多分同率だ。どちらが大きいとも言えない。
「じゃ、こうしてよう」
「うん」
薄いカーテンから透ける陽の光が床に淡い文様をつくる。確かに朝は来たけれど、起きるにはまだ少し早い。
「もう少し寝る?」
「そうだね」
「今日の朝ごはん担当は天宇だからね」
「わかってるって」
胸の中で天宇がくすくすと笑う。その笑い声ごと抱きしめ直して潤發は目を閉じた。
おそらく天宇に作ってもらうのは昼ごはんになる。
そして、この先不眠症になるのは多分自分の方だな、と思った。
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