あいつが『タナカ』でこっちが『タニ』。五十音順の出席番号のおかげで、あいつとはいつも席が近い。タナカ──田中は一言でいうと変なやつで、何を考えてるのかわからない。でも、猫背気味だけど背が高くて、さらにコミュニケーションスキルがなかなかあるようで、案外学年でも人気がある方。男女問わず。帰宅部のくせに運動神経はバカほど良くて、サッカー部だの野球部だのに入部を誘われてる。坊主頭はやだナァ、と野球部は断ったという、学年中の噂。特例で坊主頭じゃなくてもいいから、と顧問が言ったとか、言わないとか?
午前中の授業では、田中はだいたい寝てる。前の席で寝てるもんだからすぐわかる。でも、たまに起きてる。今日はいつも通り寝てる日だ。
染めてるわけではないらしい(確かに地毛もそう)白…のような灰色…のような髪のせいで、最初は先輩によく絡まれてた。…が、ある日を境にパタリとそういう呼び出しはなくなった。特に絡んでた先輩(たちが悪いんで有名だった)が転校したってことしか、こっちは知らないわけだけど…。
シャーペンの尻を顎でノックしながら、谷は目の前、机に突っ伏す田中を見た。アホ毛…、寝癖…、どっちだかわからないしどっちでもいい、とにかく頭のてっぺんで髪の毛がぴょんと立って揺れている。
谷は田中とほとんどしゃべったことがない。だから田中のことをよく知らないが、ある出来事をきっかけにどんなヤツなのか気になり始めた。そうして観察を始めたのが、…思い起こせば葉桜の頃だ。季節は半袖の頃を迎えて見送った後、再び長袖の到来を迎えようとしていた。
「……………」
カチカチカチ…
谷は無意識に何度もシャーペンの尻を叩いていた。隣の席のクラスメイトがチラリと見てきたのは、それがやや異常だったからだろうと思われる。
「──なに?」
不意に田中が起き上がり、振り向いた。そして、特に不思議そうでもなく、と言って不愉快そうでもない、ただ凪いだ顔で谷を見ていた。片側だけ目を隠すように長くした前髪がふわりと揺れ、ほんの一瞬、かたく閉ざされたままの瞼がのぞいた、気がした。
谷は固まった。
確かに、谷は田中が気になっている。…より正確にいうと、気に食わないという方向で気になっている。
とはいえ、何か文句が言いたくて見ていたわけではない。何、と聞かれても、こっちも「何」しか返せない──それが谷の正直な気持ちだった。だが、あんまり無言でいるわけにもいかない。
「……田中」
「はい」
落ち着き払った声に動揺する。自習時間とはいえ、あんまり長くこうしていれば怒られる。現に副担任の視線がこちらに向いている。
「…絵は描かないのか」
結局一番気になっていることを聞いてしまう。いや、そんなつもりではなく、何でもない、そうごまかすつもりだったのに、…田中の目を見たら、なぜか口が勝手に動いていた。小声に抑えられたのだけは奇跡、よくやった。
田中はぽかんとした顔をした後、あっさり答えた。
「描かないネェ」
それだけ? と尋ねる目に黙って頷くと、田中は何事もなかったかのようにまた前を向いた。その時唐突に、細身のわりに案外骨や筋肉はしっかりしているのだということが知れた。それはまるで、同世代ではなくもう少し年上の男のような…。
谷はモヤモヤする気持ちを飲み込み、シャーペンをぐっと握った。
谷がそれを見たのは偶然だった。
西日射す放課後の美術室、ひょろ長い後ろ姿、その前に1枚のカンバス。
第一印象は、色、だった。
なんとも言葉にしづらい、色の奔流。その中でもとりわけ目を引いたのはピンク色。フラミンゴのような…、ネオンのような、粘膜のような、強烈な色。
正直描かれているのが何かはさっぱりわからなかった。抽象画というのが一番近そうな。しかし、谷の目には、それは今にも動き出しそうな強烈な「ざわつき」を感じさせた。あの衝撃をどう言葉にすればいいか、谷には数カ月経つ今もわからない。
谷は美術部の幽霊部員だ。この高校では何らかの部に所属する必要があるため(原則。家庭の事情などで免除されることもあり、田中はこれに当てはまる)、楽そうなものを選んだ。ただそれだけで、美術に特別思い入れがあったわけではない。…幼少期絵画教室に通わされていたおかげで人より多少上手いという自負はあるが、文化祭の看板を頼まれるくらいがせいぜいで、とてもではないがそれで食っていこうなんて大層なことは考えていない。
──そんな谷の、複雑な自尊心と敗北感を大いに刺したのだ、その絵は。
しかもあろうことか、田中は、なんと……
谷は目の前にあの白い頭があるような気持ちで半目になり、当時のことを思い浮かべる。
あろうことか、田中はその絵の真ん中に拳を突き立てたのである。
「信じらんねぇ………っ!」
思い出して思わず頭をかきむしった谷を、中学からの腐れ縁である遠藤がポテトチップスをつまみながら見る。
「カンバスってパンチ一発でキレイに穴あくもん?」
「いやそれなんだけどそんなきれいには…ちげえ、そこじゃねえだろ!」
「やー?そこじゃね…」
遠藤はあまり真面目に取り合わず、首をかしげた。
「田中、ティンパニー穴あけんのには興味ないかな?」
「穴ァ?」
「知らん?ティンパニーに頭突っ込むやつ」
「知らん…なにそれ…何で頭突っ込むわけ」
「知らん」
「知らんのかい」
「いや色々あるっちゃあるけどでもやっぱわからんわーでしょ。パンチでカンバス穴あけるんだったら頭突っ込むのも余裕じゃ?」
谷は理解できないという顔で遠藤を見た。遠藤は中学から引き続き吹奏楽部である。吹奏楽部にティンパニーあったっけ、と谷は頭の隙間で考えたが、どうでもいいな、とすぐ忘れた。
「……もったいない」
谷はぽつりと呟き、おもむろにポテトチップスに手を伸ばした。パリポリと何枚か食べる。
「穴あけるくらいなら」
「もらいたかったとか」
「……それはない」
遠藤は違うのかという顔をする。谷は頷く。
「それはないけど」
──何の価値もないように、…そんなはずはないのに。谷自身自分がどう思っているのかはっきりしない。
「ないけど……」
谷は思い返す。
あまりの光景に持っていた荷物を落とした。その音に、田中はゆうらりと振り向いた。まるで幽霊のような動きに小さな悲鳴を上げていた気がする。しかし、幽霊…ではなく、田中と目が合った時。谷は、思わず口走っていた。
「なんで破いた…」
田中は小首を傾げた後、肩をすくめ、いらないから、と言った。
谷は…、それを聞いた時なぜかものすごく腹が立ち、なんでだよ!と怒鳴っていた。その剣幕に田中は驚いたようで、え、と困ったような声をこぼした。
「そんなの、俺には描けない!」
「……えぇ…」
田中ははっきりと困惑した、面倒だなぁという顔をしていた。
「ずるいだろ!」
「…えぇ〜………?」
ますます田中は困ったようだったが、谷は言いたいだけいうと美術室の前から駆け出してしまったので、田中がその後どうしたは知らない。
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