彼が死んだと聞かされた日から、あたしは毎日泣いて過ごした。悲しくて寂しくて涙が止まらなかった。泣いても泣いてもあたしの身体からは涙が溢れてきて、もう、どうしようもない。
彼のマグカップを意味もなく洗ってみては泣き、彼が世話していた観葉植物を枯らしてしまっては泣いた。何をしていても(何もしていなくても)涙が止まらないので、いつしかあたしは部屋の外に出なくなった。誰とも話さなくなった。
彼と過ごした部屋の中で、カーテンを閉め切って。
このカーテンだって、そう。彼と話し合って決めた柄だった。薄水色のカーテンは全然外の光を遮ってはくれなくて、部屋の中はプールの底みたいにブルーで、薄暗かった。
彼と過ごした部屋。玄関があって、キッチンがあって、洗面台と狭いバスタブがあって。それから、ふたりのための食卓とベッド。薄暗く輪郭のぼやけた部屋の中であたしは今日も立ち尽くしている。
子どもみたいに泣いている。
もう一度彼に会いたい。
不思議と死にたいとは思わなかった。頭のどこかで、もしかしたら彼が帰ってくるんじゃないかと、まだ期待していたから。そんなの叶わないって知っているのに。
どんなに遠い所に行ってしまっても、何日も帰ってこなくても、メッセの返信が来なくなっても、あたしはこの部屋で彼の帰りを待っているつもりだった。いつまでも。お利口な犬みたいに。
いつもみたいに、ひと言ただいまと言ってハグしてくれれば、それで良かった。そうしてくれたら、あたしも、あたしの中にいる可哀想な子犬もきっと満足する。寂しかったことも無かったことにできる。それなのに。
彼は帰ってこないのだ。
こうやってずっと、あたしは同じところを歩き回っているみたい。あたしは部屋の中にいたままで、どこにもさまよい出てはいないのに。彼のいない部屋は、あたしにとって自分の居場所じゃなくなってしまったのかも。そう思っては、涙が流れ出してぐずぐずになってしまう。
泣くのって、すごく疲れてしまう。
あたしはベッドに横たわった。こうして目を閉じていれば、部屋の中を見なくてよくなる。あたしがいるのに空っぽな部屋を。あたしは丸めた毛布にしがみついて、眠りがやってくるのをじっと待った。閉じたまぶたの間から涙が伝って、耳まで届いた。それでもあたしは身動きひとつしなかった。
夢を見た。彼が出てくる夢。
あたしと彼は、知らないレストランでご飯を食べようとしている所だった。レストランはお客さんでいっぱいでうるさいし、メニュー表はつるつるして全然めくれなかった。なぜか彼は空いている正面の席じゃなくて、あたしの隣に座っていた。あたしは彼に、たくさんお客さんがいるね、と言った。彼に聞こえるように、大きな声で。彼も何か言って答えてくれたけど、隣のお客さん達がどっと笑い出した声にかき消されて、よく聞き取れなかった。
そのあと何度聞き返しても、彼の言葉が聞こえなくて、本当は大事なことを言ってくれている気がするのに、あたしには伝わらなくて。どうして、どうして、と思っているうちに目が覚めた。
もう、夢の中でさえ彼の声が思い出せないことに、あたしは震えていた。彼の死を知ってから初めて恐ろしさで泣いた。涙と一緒にあたしの中の彼も流れて出て行ってしまう気もしたけど、止められなかった。
怖くて心細くて、身体が、心が凍える。
部屋の中は相変わらずブルーで、薄暗い。
その後のあたしは、ぼうっとしたまま一日を終えてしまうことが増えた。目が覚めてベッドに腰かけたまま時間が過ぎていって、気がつくと部屋の中が真っ暗になっていて夜になったのだと、やっと分かる。
彼の全部を忘れてしまうのが怖い。まばたきも忘れてあたしはあたしのつま先をじっと見ている。これ以上新しい記憶を増やさなければ、頭の中に彼のためのスペースを取っておける。そう思っていた。ペディキュアのはがれた爪が少し可哀想だった。
何にも満足にできないあたしには、彼が必要だった。彼がいるから不器用なりにご飯も作ったし、苦手な掃除もしてた。何もかも無理になってうずくまってた時も、彼が抱きしめてくれたから乗り越えてこれた。頼りきりで情けなくて、でも、それでもいいと彼は言ってくれた。あぁ、本当に彼に会いたい。あたしはここで、この部屋でずっと帰りを待っているのに……
会いたい、会いたい。帰ってきて……
かたん、と小さな音がした。
あたしはゆっくりと頭を上げた。そして、音がしたほう……キッチンを何となく、見た。
窓の外は暗いから、コンロがある空間まで暗闇に沈んでいる。でも。
でも、そこには人影があった。背の高い男の人の影が。その横顔は、確かに彼のもので、
「ヴォルタ!」
あたしは腰かけてたベッドから跳ね上がった。名前を叫んでた。そんなはずは無いのに。ううん、でも、彼は確かにここに、この部屋にいる。
ヴォルタはあたしに気付くと、片眉を上げた。驚いた時の、いつものおどけた仕草。それから、こっちに向き直って両腕を広げてくれる。
「ヴォルタ!」
あたしは彼に駆け寄って、思い切り抱きついた。ぎゅうぎゅう抱きしめた。彼の吸う煙草のにおい。ただいまって呟く彼の声。嬉しい、嬉しい嬉しい!あたしの背中にも彼の腕が回る。あたしは彼の手の平が大きくて、あたたかいのを感じた。
それが、あたし/あなたにとって最後の記憶になった。
同時刻、遥か彼方の惑星でコーラルリリースのトリガーが引かれた。
時間も空間も死も生も、すべてが意味と価値を失う寸前。これまでの世界が新たな世界に変わり果てる前の、わずかな狭間で起きた奇跡だった。
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