栄えある入居者第一号で入居した部屋の場所がマンション入り口の傍で管理人室の隣。上の階に行く用事が無い限り使わない階段とエレベーターを住人が使い上の階へ行く気配を何となく察することが出来る位置。
耳を澄まさずとも誰かが帰ってきたのを感じられる101号室が新しい新しい家であり帰る場所で良かったとカミキリは独り言ちた。
なにせ以前住んでいた神社に参拝に訪れる人間達の感覚に似ているのがいい。自分に用が無くとも誰かが行き来する、それだけでひとりぼっちではないと寂寞の心が薄まっていく。
仕事から帰宅後同室のスズと談笑を交えながら夕飯を食べ、各々入る時間を決めた風呂に入り、あとは就寝するまで二人でまったり過ごしたりするがカミキリの新たな日常になりつつあった。
しかし、それは極々普通の日限定で時たま訪れるイレギュラーな日はその限りではない。
いつ何時も自分磨きに余念のないスズは、一日分の疲れや諸々をリセットするべく毎夜長風呂していた。
これは正式に同室になる前伍段怪の邪気を清めてもらうため恐れ多くもカミキリが風呂に入った後に入りたいと深々と頭を下げ申し出たことであり、今なお継続中の約束事でもある。
ウィッグを外した地毛をタオルで優しくポンポン拭きつつ、スズが脱衣所から出ればやたらそわそわしているカミキリが長風呂前と寸分違わぬ姿でちゃぶ台の前に座っていた。閉め切ったカーテンと壁に掛けられた時計の針を交互に見ては、真っ暗な視線だけで呼び鈴の鳴らない玄関に目を向ける。
すっかり就寝支度を整えているカミキリの髪は結い紐が解かれ、絹のように白くなめらかな髪が肩に掛かり彼が首を捻る度、サラサラと肩の上を滑っていく様はなんとも麗しい。
推しとの生活は殊更誘惑がいっぱいで困るものの一向に構わないとは言え、一旦呆けていた頭を振い湯上りではない頬の火照りを手で扇ぎ熱を分散させた。
「今日はお先に失礼します」
「スズ、もう寝るノ?」
「明日の任務早いので」
「分かった、おやすミ」
「おやすみなさい」
神に嘘を吐くこと自体大変不敬であるが、この時ばかりは大いに許されるのをスズは知っていた。
上の空だったカミキリに声を掛け有難く部屋の一室を使わせていただいている完全なプライベート部屋へ早々に退散した。決して部屋の中を見られぬよう素早く扉を開け体を滑り込ませれば、自作の推しグッズがスズを出迎える。
スペースの大半をグッズに捧げているベッドにうつ伏せで寝ころんだのとほぼ同時にちゃぶ台が何かに引っ掛かった音が壁越しにスズの耳に入った。
「やっとか…遅っせぇんだよ」
器用に寝返りを打ち天井を見上げたスズの目が見えない二人の姿を捉えた後、鼻で短いため息を吐きやおら瞼の裏に目を隠した。
決して聞き間違えないサンダルがマンション敷地内に入った音と気配。勢いよく立ち上がったカミキリは玄関を潜ることなく、管理人室横を通り過ぎかけた東雲の前に音もなく立ちはだかった。
子供が夜更かしするには遅すぎて、夜遊びしていた大人にしては些かお早いお帰りの時間帯。かと言って夜遅いのには変わらない。
「帰り遅かったネ…、東雲さん…、何しテたの?」
この問答をするのも何回目か。疾うに片手では足りない数にカミキリの丸く大きな目がスッと眇められる。
「え? 何ってパチンコだよパチンコ」
家に帰る途中で毎度カミキリに問い詰められるのも慣れっこな東雲は相変わらずあっけらかんと答えた。
ダイエット成功した財布をこれ見よがしにカミキリの目の前で揺らして、素寒貧になったのを笑っていればカミキリもまたつられ「そっカ!」と、笑い返すのがお約束。
「……ホント?」
だった。
丁度壁を背にしていたのもあって東雲の両側を体よくカミキリの両手が逃げ道を塞ぐ形で置かれた。
背中に伝わる壁の冷たく硬い感触。目を数度瞬かせ徐々に目線を降下させれば吸い込まれそうなほど黒い目で見上げているカミキリとかち合った。
「嘘、吐いてなイ?」
「嘘なんか吐いてないっての」
嘘吐き呼ばわりされ、いい気分になる者は小数派だろう。
少しばかり口を尖らせ「なんでそんなこと訊くんだよ」と、東雲が言えば彼女の気分を害したのに気付いたのか目を泳がせたカミキリが口ごもりつつ「だって前もパチンコで負けてたかラ……」と、壁から離した両手を胸の前で指同士合わせ小声で答えた。
圧倒的正論を言われ痛む胸を押さえた東雲だったが、なけなしの意地をかき集め高速瞬きをしながら明後日の方向を眺め、まるでひとり言のように呟いた。
「えっと…えっとな、そこはアレだ。うまくやり取りしてやってたんだよ……」
言えない。断じて言えない。有希の分の家賃をこっそりパチンコにつぎ込んだなんて口が裂けても言えない。もしも、ツヅミにバレようものなら明日の命が無い…、などと大げさではあるが冷や汗たらたらな東雲を余所にパチンコに興じていたのが事実なのを理解したカミキリの表情がみるみるうちに明るくなっていく。
「良かった。デモ、帰り遅いと心配。もっと早く帰ってキて」
「わーったよ。じゃ、おやすみカミキリさん」
「うん…おやすみなサい……」
気が気でないのを宥めつつエレベーターに乗り込んだ東雲は見送ってくれているカミキリに軽く手を上げ挨拶を交わした。
カミキリの姿が下に消えていき程なくして4階に着くなり馴染みのサンダルをカラコロ鳴らし廊下突き当りの自宅に向かう最中脳裏を過るツヅミにバレたらヤバい現状をどうにか平常心で乗り越える算段をあーだこーだ呟きながら歩いて行ったのだった。
一階の廊下に戻り四階端の玄関扉が開閉する音を確認したカミキリは、無言でいつの間にか灯りの消えている101号室に戻りいそいそ敷いていた布団の中に潜り込んだ。
しばらく見慣れていた天井を眺めていたが一向に心が落ち着かず眠気も来ない。頭の下にあった枕を引っ張り出して抱き締めながら寝返りを打つ。
「東雲さん、嘘吐かなイ……」
開きかけた口を噤み零れかけた仄暗い神の性分を枕に押し付けた。
カミキリが顔を枕にぐりぐり押し付けるのに合わせ白絹の髪が揺れ動き、くぐもった声が聞き耳を立てようとも聞き取るのも叶わない静かな部屋に沈んでいった。ふかふかの枕に食い込む指の力が強くなっていき、ふっと力を抜くや無造作に畳みの上に放った。
戯れに伸ばされた東雲の手を掴み、引き寄せ、隠したい欲求は日に日に強まるばかり。
そして、パチンコに行っているのではなく自分ではない誰か――男と会っていようものならカミキリ自身どうなってしまうのか見当もつかない。恐らく一時の衝動でしたら最後、取り返しのつかない後悔の念に苛まれてしまうだろう。
だが、心の奥底で「東雲さんが誰かのモノになってしまうのナら嫌われても構わなイ」と泥濘の如く渦巻いている。力なく仰向けになったカミキリはやおら東雲がいる方向の天井を見上げ、緩やかに黒い感情と共に目を瞑り眠りに就いたのだった。
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