まず心理描写の手法として、台詞、モノローグ、情景描写などがありますが、大前提として口に出して喋る台詞というのは、ひとりごとを除けば全て相手に聞かせるためのものだと思っています。そうなると、常に本心を話して聞かせているわけではないはずです。
たとえば背骨のリンクなんかは、思っていることとゼルダに言えることには乖離があるので、台詞でリンクの心理をすべて描写することはできません。
というのが理由の一つ。
そういう可不可とは別の個人的な考え方なんですが、人間という点があり、そこにもう一人以上の人間という点が加わり、その点と点を繋ぐときに物語が生まれる。その点はあくまでもどこまでいっても点で、交わったり一つになったりすることはない。それは価値観や立場や性別や年齢などの違いによるものではなく、人間が人間である以上そういうものだ、と思っています。(そういうものだ、と思っていることを説明するのは面倒なので説明はしません)
そしてその決して埋まらない間隙をどう捉えるべきか?というのは、多分私が小説を書くときにずっと共通しているテーマです。
捉え方の深度や態度によって重くなったり暗くなったりハッピーになったりするので表現の仕方は変わるのですが、「不思議」も「背骨」も「失われる~」も全部そう。
私たちはどうあがいても他者と分かり合って一つになることはできない。けれど生まれて初めて、それでも求めてやまない相手ができてしまったとき、その愛しさや悲しさや切なさや恐ろしさや憎しみに満ちた荒野をどう歩きますか、みたいな。
その歩き方が点と点を繋ぐ線で、その線は人間界においては無数の手法が確率されている。代表的なのは会話で、それ以外には表情、セックス 、空気、仕草とか……まあ色々ありますが、そういう方法を模索しながら歩くその道行きの果てに、自分が(できれば相手も)納得できる希望を見つけたいし、見つけなければならない。人間は生まれてきた以上、自分を(できれば相手も)幸せにしなければならないので。
でも、その確立された手法が、自分たちが繋いでいる線が、ベストかどうかっていうのは誰にも分からない。頼るべき唯一のものに不完全性が常に付きまとう。
話を戻します。
頼るべき唯一のものが全く頼りなく不完全である(というのは上記した通り個人の感想です)というもどかしさを、私は愛しています。
なので、台詞だけでは心理、描写したくないんです。
私は作者なのでキャラクターが何を感じて考えているかが分かりますが、それを台詞という不確かで不完全な一つの手法で全て表現するのは、もったいない。
思考や思想や欲望や葛藤やら、なんかそういう感じのものを抱えたキャラクターという固有の人間が生きていたら、どういうふうに目線を動かすのか、吹きつける風の冷たさをどう感じるのか、社会の成り立ちに対してどういう姿勢を持つか……というような、世界との接点の持ち方みたいなものでそれを示せたら、いいな……と思っています(示せていないので、デクレッシェンドで再生してください)
余談ですが、私が現パロを書きがちなのは、ハイラルよりは現代の方が摂理とかあり方とか文化とか習俗などを、解像度高く把握できているからです。
理解できてない世界のことを書くのは難しいし、想像して書くとしたら、それがキャラクターと世界の接点という舞台装置として機能するように読者に意味を説明しなきゃいけない……と思うとゾッとします(私がそういう書き方だというだけで、そうでない作品への批判は込めていません)。
ただ私の把握している現代と読者の現代にもまた埋めようのない隔たりが大小問わずあるはずなので、程度の差こそあれ、結局は自己満足ですよね。
今日の表題についてもそこに落ち着くと思います。でも趣味でやってるのでいいかァ……という感じです。以上!
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.