この世に生まれて、ドンキホーテ・ドフラミンゴが持っていたのは、遠い昔の古い記憶だけだった。それはおそらく生を受けた時からドフラミンゴにあったものだった。過去の記憶をそうと認識したのは五歳ぐらいの頃で、その時にはもう成熟した大人の精神が小さな子どもの身体の中には息づいていた。
ドフラミンゴが記憶を正しく認識して受け入れた時に真っ先に思ったのは、両親が同じでない幸いと、今この瞬間には弟がいないという僥倖だった。後者に関してはドフラミンゴにとってはかなり重要なことであり、心の底から生まれていなくて良かったという思いだった。それはドフラミンゴの親が子どもを顧みない類の人間だったからである。何も知らない無垢で無力な子どもが自分の下にいたなら、ドフラミンゴはもっと様々な手段を選んで生きなければならなかったのだ。自分のことだけを考えて生きる方が、責任もなくてよかった。それが幼いドフラミンゴの抱いた確かな思いだった。
ドフラミンゴの母である女は、とにかく男を見る目がなかった。そのくせ依存が激しく放り出されると自棄になり、酒に逃げたりドフラミンゴに手を上げたりすることもあった。男がいる間は落ち着いているものの、それもまた一時的なものであり、ドフラミンゴはその都度放置され、ほとんど捨て置かれているも同然だった。それでも女がドフラミンゴを捨てなかったのは愛情なのか、依存なのか、判然とはしない。男がいなければ寂しいとドフラミンゴを抱きしめて眠り、男がいればドフラミンゴをいないものとして扱った。
周囲がドフラミンゴたちのことを気にかけて行政に掛け合おうとすると、その気配に気付いて女は居場所を変えるのだ。夜逃げ同然で引っ越しをしたのも一度や二度ではなく、ドフラミンゴは幾度となく転校する羽目になっていた。といっても学校に通えていたこともほとんどなく、女の相手をするか部屋に閉じ込められるか外に放り出されるか、というのが日常だった。普通の何もわからない子どもなら自分を責めたり泣き喚いたりしただろうが、ドフラミンゴには過去の記憶があり精神面も大人に寄っていたので自分の境遇を何の感情もなく受け入れていた。むしろ過去のほうが生き方としては過酷で、飢えにも慣れていたため、本当に思うことは何もなかったのだ。
幾度となく女の男が変わり、住むところが変わったドフラミンゴにも、つかの間の安寧の地が与えられることになる。ひとつの平凡なアパートは手頃なのだろう1LDKで、大人二人と子ども一人が住むにしてはすこし手狭な部屋だった。女は男に依存していたのだが、男はドフラミンゴに執着していた。そのことに気付いていたのは、おそらくドフラミンゴだけだった。視線も手付きも話し方も、ドフラミンゴをそういう対象として見ているものだった。
区切られている一部屋は、女と男が寝る時と、男がドフラミンゴを弄る時に閉じられる。ドアひとつ隔てた先で性行為が行われていることは明白で、それをドフラミンゴはただじっと聞いて眠るしかなかった。おそらくそれも、その行為が気持ち良く、悪くないものなのだというある種の洗脳だとドフラミンゴは捉えていた。男がドフラミンゴの身体を触ることも、無知な子どもにこれは善いことなのだと覚え込ませて植え付けるものだろう、という気持ちだった。ただ男にすれば残念なことに、ドフラミンゴは無知で無垢な子どもではなく、男に憐憫の思いしか抱いていなかった。
ドフラミンゴが部屋から締め出される時は、リビングの硬いフローリングで横になっているのが常だった。寒くなっても暖かいものは与えられず、冷え冷えとした場所でぼんやりと宙を眺めて眠りに就くことがドフラミンゴにとっては当たり前の出来事だった。そうしてその中で、重たいカーテンのすき間から見えた月に、ドフラミンゴはつい吸い寄せられた。
ガラス戸の向こう側の、夜の静けさの中に、ぽつんとまんまるい月が浮かんでいる。色味が濃く見える月は、女の髪に似ていると男がたまに買ってくる黄色いチグリジアを思わせた。けれどもドフラミンゴの記憶は、そのやさしくてあたたかみのある月の色がひとりの青年と結び付く。青年にやさしさやあたたかみがあったかどうかはさておき、月の色はドフラミンゴの中で息づく青年の眸によく似ていた。
そろりと重たい腕を上げ、ドフラミンゴは掴めるはずのない遥か彼方の月へと手を伸ばす。届かないのは月も青年も同じことだと思ってドフラミンゴは薄く笑みを浮かべた。この胸に飛来する感情をわかりやすくいうならば感傷なのだろう。憎らしくも懐かしい記憶を引き摺り出した月を見つめながらその輪郭をなぞり、手を下ろす。胸に湧いた意味のない想いなど、ドフラミンゴには必要のないものだ。どこか言い聞かせるようにそんなことを考え、ドフラミンゴはその感情を背骨の奥にまで仕舞い込んで沈めてしまうことにした。
その後も日々は変わらずに過ぎていき、ドフラミンゴは常に飢えていて適切な気温を保たれていなかった。その上で男の下卑た相手をさせられ、女の視界の端にさえ映らないようになっていた。そろそろ春に近づく気候になってきたとはいえ、夜は冷える。そんな中でドフラミンゴは部屋の外へ放り出されていた。女の癇癪が原因だったような気がするが、もはやそれも些末なものである。半袖に半ズボンに裸足という格好はさすがに寒さが沁みるものの、過去のことを思えばこれもまた取るに足らない程度だった。
このままここで夜を明かすのか、と寒さでぼんやりしてきたドフラミンゴの意識が、不意に隣へと引き寄せられた。それには本当に意味などはなく、見えない糸を引かれたような感覚だった。そうして視線を上げた先に見つけたものに、ドフラミンゴは瞠目する。ドフラミンゴの目には、最近ちらちらと脳裏を邪魔する青年の姿が映っていた。かち合う視線の先で、青年の目が大きく見開かれ、動きが止まる。まさに鍵を開けようとしていたのだろう手も、そのまま固まっていた。月のを溶かし込んだ淡黄色の眸が、揺らいでいる。その目を見つめ返して、これを求めていたのだろうなとドフラミンゴは理解した。青年の変わらぬ姿を見つけて、そうして満足してしまった。
「ドフラ、ミンゴ……」
震える唇が動揺したままで途切れ途切れに名前をこぼした。それを聞いてなるほどこの青年にも記憶があるのだとドフラミンゴは判断する。そうでなければその名前が簡単に口から出てくるはずがない。ドフラミンゴを凝視して時間を止めてしまった青年――ロー――に、ドフラミンゴはつい笑みをこぼしていた。目の前で呆然と立ち尽くすローの記憶にまだドフラミンゴがいるのだということにも、そこに縛られて未だに囚われていることにも、笑う以外できなかった。
「ドフィ!部屋で待っててって言ったのに!」
ローの唇がわなないて何かを告げようとしたものの、それは女のヒステリックな声にかき消されてしまった。放置していったはずだというのにドフラミンゴに非があることを口にして、女はドフラミンゴの肩にやさしく触れて部屋へと引き戻した。ローにおかしな印象を与えぬためだろうそれにも抗う気力もなく、ドフラミンゴは黙って従った。
「あの人と何か話したの?」
「なにも」
「そう……」
眦を吊り上げてドフラミンゴを問い詰める女に首を振ってみせれば、安堵の息がこぼされる。話す以上のことがお互いにあったとしても、それはドフラミンゴとローにしか分かり得ぬことだったし、口にする気には全くならなかった。ドフラミンゴの反応に満足したのだろう女が先に部屋へと上がるのを見送り、ドフラミンゴはドアを振り返る。閉じられたドアの向こうを窺い知ることはできないものの、ローがすんなり部屋に入れたとは思えず、ドフラミンゴはまた笑ってしまった。
ドフラミンゴを覚えているということは、すなわちありとあらゆる記憶があの身体には沁みついているということだ。忘れてしまえばいいはずの過去の残像がいつまでもローには巣食っているのだろう。それを手放せず、捨てられず、忘れられずにいるローが、憐れで愚かでどうしようもない。そろり、と無機質で冷たいドアを撫で付け、すぐ傍にいたローのことを考え、ばかなやつだ、と笑うようにこぼした。
ローとの再会があったあとも、ドフラミンゴの生活は変わることがなかった。それも当然のものだとドフラミンゴは受け止めていたし、ローがこれ以上関わってくるとは到底思えなかった。もし万一関わろうとしたとしても、それは監視以外ではありえないと考えていた。ドフラミンゴの様子を窺いながら下手なことをしでかさないか、おかしな行動を起こさないか、と目を光らせるローは容易に想像がつくものだった。ただそれも可能性としては低いドフラミンゴは思っていたのだ。
相変わらず質の低い環境下にいたドフラミンゴは同じ服を着続けていて、入浴も食事も捨て置かれていた。男がドフラミンゴに触る時だけは清潔にさせられていたものの、それもそう多い頻度というわけではなかった。
この日は女のいない隙を見計らった男に身体を濡れタオルで拭かれ、そのまま身体を弄られていた。いやにぬくい男の汗すら浮く手が気持ち悪く、ドフラミンゴは息を詰めていた。男は一通りドフラミンゴの身体を撫で回すと一旦は満足するので、それが過ぎるのをドフラミンゴはぼんやりと待っていたのだった。その時、玄関が騒がしくなり、不意にドアが開いた。女の制止する声に続き、複数の聞き慣れない声が続いた。
「待って!勝手に入らないで!」
「ひとまずお話を聞かせてもらいますので」
「ちょっと!」
ずかずかと人の気配が近付いて来たかと思えば、隔離されているも同然の部屋のドアが乱暴に開かれた。ベッドに背を預けたままでドフラミンゴはそちらに視線をやり、見知らぬ介入者が行政や警察といった類のものだとうっすら理解する。
「あなた何してるの!!」
「いや、これは、僕はドフィをきれいにしようと思って……」
「信じられない!」
ドフラミンゴと男の様子を見た女が声を上げ、男はしどろもどろに言い訳を口にしたのだが、説得力には欠けていた。ぱちり、と瞬きをして事態を呑み込もうとしているドフラミンゴを置いて、男と女は警察の者に連れられ、ドフラミンゴの側には行政に関わる者が痛ましい顔をして膝をついていた。
「もう大丈夫だからね」
そういったのはまだ年若い黒髪の女で、どことなく昔に見た記憶があるような気がした。やわらかく声をかけながら、ドフラミンゴにブランケットをかぶせる手つきには気遣いが込められていた。大丈夫、と言われたところでドフラミンゴにはあまり関係がないとしか思えなかった。女はそういった手から逃げるのが上手かったし、男は口が回る方だった。適当にあしらってどうせ戻ってくる、とドフラミンゴは思っていた。
「貴方のお母さんはしばらくはここには戻って来られないの。私たちと一緒にきてくれないかな」
「え?」
「まだここに居たいというなら、それでも、いいんだけど」
「…………」
しばらく、というのはどれぐらいなのだろう。一ヶ月ほどの期間が空いたりするのであれば、これは逃げきれる機会であるようにみえた。いつまでもあの女の下にいるつもりはなかったものの、ひとまずの手段もままならなかったので、今ならどうにか出来る気がした。
「ドフラミンゴ」
「トラファルガーさん、今回は通報ありがとうございました。おかげでこの子を保護できます」
しずかにドフラミンゴを呼んだのは、隣に住んでいるだけで関わり合いのないローだった。黒髪の女の言葉を受けてこの流れがローによってもたらされたものだという事実にドフラミンゴは驚愕するしかない。ローは黒髪の女に頷いてみせたものの、視線はドフラミンゴに固定したままだった。意志の強い、揺るぎのない眸がまっすぐにドフラミンゴだけを映している。その眸に内包された感情がわかるはずもなくローの動向を窺っていれば、ローが落ち着いた様子で口を開いた。
「それなんだが、こいつの面倒はおれがみる」
「え?」
「は?」
ほとんど同じ声を出したドフラミンゴと黒髪の女を気にするでもなく、ローがこれは決定事項なのだと告げていく。医者である、という免罪符のような勝手な言い分はドフラミンゴにとっては遠慮したいものだったのだが、黒髪の女にとっては納得がいくものだったらしい。
「こいつも混乱してるだろうし、今は無理にどこかに連れて行くべきじゃない。慣れない環境は余計にストレスになる。かといってずかずかと入っていくのも違うからな。隣で見るぐらいがちょうど良いだろう」
「…………わかりました。では、トラファルガーさんにお任せします」
「ちょっと、待って、」
「大丈夫よ、ドフラミンゴくん。トラファルガーさんは良いお医者さんなの。貴方を傷付けたりしないわ」
そういう問題じゃない、という言葉は声にならなかった。どこをどう丸め込めばこんなにもあっさりとローの預かりになるのかがドフラミンゴは理解できない。医者というものに信頼を置きすぎなのではないのか、と思えども、大人たちが納得して決めた以上、子どもであるドフラミンゴには否を言えるものではなかった。ドフラミンゴは呆然とロー以外の者を見送り、ブランケットをぎゅっと握りしめた。
「…………どういうつもりだ。俺は誰かの世話になるつもりは、」
「ドフラミンゴ」
ひどくやわらかく、けれども悲痛さを含んだ声で名前を呼ばれたかと思えば、ブランケットごとローに抱きしめられてドフラミンゴはぎしりと動きを止める。ドフラミンゴの言葉に聞く耳を持たずに抱きしめてくるローに対してどうすればいいか全くわからなかった。ローのあまりあたたかいとは言えない体温が、じわりとブランケット越しに伝わってドフラミンゴの熱と混ざり合う。ローのぬくもりを、気持ち悪いとは思わなかった。
「記憶があるんだろう。だったら俺に構うこともないはずだ」
「ドフラミンゴ」
「……ロー」
突き放す言い方をしたつもりはなく、事実を告げただけなのだが、どうやらローには嫌なふうに響いたらしい。ドフラミンゴの言葉に答えることもせず、名前をくり返していっそうキツく抱きしめられ、ドフラミンゴはどうして話ができないのだ、と呆れをにじませてローを呼んだ。瞬間、ローの顔が上がってドフラミンゴをまっすぐに見つめた。月を模した眸はゆらゆらと見慣れぬ感情に揺れていて、絶望の淵から這い出てきたかのようだった。苦しげに寄せられた眉がローの中にある痛みを見せている気さえして、ドフラミンゴは結局口を閉じてしまう。
「……ようやく、見つけた」
「…………」
噛み締めるように呟かれて再びローの頭は下がり、ドフラミンゴの肩口に額が寄せられる。今度はそぅっと力の加減をして抱きしめられ、ドフラミンゴは逃げようと思えばそれもできたのだ。けれどもどういうわけか、そのほうがドフラミンゴは動けなかった。壊れないように、とひどく大切なものを閉じ込めるみたいなローの腕から、抜け出すことができない。ローにかける言葉を見つけられず、声を出すことも憚られ、幼い手をその背に、頭に伸ばそうとして、思いとどまってしまった。
見つけたからと言って、関わりを持たなくてもいいだろうに、とドフラミンゴは本気で思っていた。ローはこれ以上ドフラミンゴと関わって不幸になろうとしなくても、いいはずなのだ。それなのに、ローがまるで自分よりもちいさな子どものようにいるから、ドフラミンゴは身動ぎすらできずローのぬくもりを感じるしかなかった。
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