ゆっくりと近づいてくる、部屋にささめく雨音よりも密やかな足音に瞑っていた目を開ける。ぐずついた天気の気配に起き上がる気分になれず、目が覚めた後も寝台の中でだらだらと惰眠を貪っていたのだが、残念ながらそろそろ起きなければならないらしい。控えめに鳴らされたノックの音に返事をすると、カチャリと開いた扉の隙間から遠慮がちに同居人の顔が覗いた。
「お休みの所失礼します。……もしかして、まだ寝ていました?」
「いや、起きていた。……何か用が?」
「ええ、まあ。その、実は今から洗濯に行くところなのですが、思っていたよりも量が少なくて。この量で回すのも勿体ないですし、何か洗い物があるなら一緒に洗ってこようかと思いまして。」
もし貴方が嫌じゃ無ければ、ですが。そう付け加えて手に持った袋を持ち上げてみせる。まだまだ余裕のありそうなその大きな袋を眺めながら、依然気怠い眠気の残る重く鈍い頭を巡らす。
洗濯物ならある。昨晩、いや、もう今日だったか。だいぶ夜もふけてから帰艦したせいで、荷解きをする気力も無くそのまま床の上に放置してある鞄の中に。あとは、部屋の隅に置いてある任務の前に空にし損ねた洗濯籠の中に。それから。
シーツを撫でる。皺だらけの、まだ温もったシーツを。このところ出ずっぱりでほとんど使っていないとはいえ、最後に洗ったのはいつだったろうか。思い出そうとして、やめた。
「……私も行く。少し待っていてほしい。」
宿舎の最下層にある洗濯室は、朝でも昼でもない中途半端な時間の所為か人影は無く、がらんとしていた。打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた部屋の左手にはドラム型の洗濯機が、右手には乾燥機が並び、そのうちのいくつかがエンジンの駆動音にも似た低い音を響かせながら回っていた。湿り気を帯びた洗剤の匂いと乾燥機独特の乾いたガスのような匂いが混ざり合い、むわりとした熱気となって身体に纏わり付いてくる。
「何番が空いている?」
「ええと、少々お待ちください。」
部屋の入り口の壁に取り付けられた機械にシャレムが社員証をかざすと、ぱっと画面が付いて短い電子音が鳴った。白く長い指がタッチパネルを軽やかに叩いていく。
「ルシアン、五番です。」
「わかった。」
上下二段に積まれた洗濯機の内、すぐ近くの上段に並ぶ一機に赤いランプが灯った。分厚い透明な丸窓のついた扉を開けて、中を覗き込む。
「……忘れ物でもありましたか?」
宿舎の済む大勢が使う設備だから仕方が無いのだが、時々、前に使用した者が取り忘れた洗濯物が残っていることがある。そういった忘れ物については洗濯室の隅にあるカートに入れる決まりになっているのだが、これがハンカチや靴下の片割れならばまだ良い。下着のようなプライベートの色が強い物になってくると、手に取るときに少々気まずい思いをする羽目になる。
「……いや、大丈夫だ。」
幸いなことに、今回はステンレスドラムの中は完全に空だった。手にした袋の口を開けて、各々早速洗濯物を放り込んでいく。
結局、洗濯物の量は半々くらいになってしまった。シーツがある分、もしかしたらこちらの方が多いのかも知れない。流石に便乗して大きな物を洗うのは気が引けたので、洗濯室までの道すがら料金はこちらが持つと何度か申し出たのが、その度に、言いだしたのはこちらですからと、この古い友人は微笑を浮かべてやんわりと首を横に振るばかりで、ついぞ縦には振ってくれなかった。仕方が無い、後でどうにかして埋め合わせが出来ればいいのだが。
タオル、部屋着、靴下。今更特に気を払う必要の無い洗濯物を纏めて放り込んでいると、不意に待ったの声が掛かった。ずるり、と入れたばかりのシャツが二人分の洗濯物の中から引きずり出される。
「ルシアン、シャツはクリーニングに出しませんか?」
「……干すときに気をつければ問題はないと思うが。」
「それは……そうかもしれませんが。」
一応の肯定を口にしながらも、その手は一向にシャツを離そうとしない。少々面倒くさいことになりそうな予感に溜息を一つ吐いてから、君の身につけているシャツほど繊細ではないし、洗濯室にはアイロンもあるから多少しわになったとしても自分でどうにか出来る、そもそも今までそうしてきた、そう事実を並べ立てたが、ぎゅっと布地を握る白い指が緩む様子は無かった。
「私、この後そのままクリーニング屋さんに行きますから。ついでに一緒に出してきます。」
「いや……。」
「ご安心ください。ちゃんと責任を持って、忘れずに引き取ってきますから。」
ね、と困ったように寄せられた眉根の下から、瑪瑙のように幾重にも色が重なる特徴的な瞳がじいっとこちらを見上げてくる。
「……………………わかった。」
その懇願するような視線に耐えきれず、諦めて溜息交じりに了承する。恐らく、何か彼なりのこだわりがあるのだろう。まだ袋の中に残っていたシャツも渋々差し出すと、にこやかな笑みと共に手早く回収されていった。
入れるべきものを入れ、出すべきものを取り出し、いざ洗剤という段階で、袋の中を探っていたその手が、はた、止まった。
「どうした?」
「すみません……どうやら洗剤を忘れてきてしまったみたいです。」
「別に問題はないだろう。あそこにあるのを借りればいい。」
壁際にあるラックに歩み寄る。棚の中に収められた箱には誰かが寄付したのか、それとも定期的に会社が補充しているのか、はたまたその両方なのか、液体洗剤のみならず粉洗剤の箱まで複数種類が詰め込まれており、そのラインナップは実に充実している。……故に迷ってしまうのだが。
「では……どれにします?」
「……紫はお勧めしない。」
いつ見ても一番端に追いやられている、毒々しい紫色をしたボトル。どこぞの誰かが買ったはいいが、持て余して寄付という名目で置いていったものなのだろう。貼り付けられたラベルまでもが派手なその哀れなボトルを、何故かしなやかな指が掴んだ。
止める間もなかった。蓋を開けた途端に匂い立つ、安物の香水を幾つも混ぜ合わせたかような異様なほど甘ったるく胸の悪くなる香りに、いつも柔和な笑みを浮かべている秀麗な顔が顰められる。
「う…………。」
「……私は、お勧めしない、と言ったはずだが。」
「すみません……でも、どんな匂いなのか少し気になりまして。」
これ、一体何の香りのつもりなんですかね、としげしげとラベルを眺める眼差しは、驚きを浮かべつつもどこか楽しんでいるようでもあった。
「……まさか、それにするのか?」
「いえ、流石にちょっとこれは……仕事に支障が出そうな気がします。」
結局冒険はせず、購買部でいつも見かける洗剤が選ばれた。慣れ親しんだ涼やかな花の香りを嗅ぎながら丸扉を閉めると、激しい水音ともに早速注水が始まった。ゴウンゴウンと低い音を立ててドラムが無事回り始めたのを覗き込んで確認していると、ふと泡だらけの窓の映り込む、こちらを窺うように見つめる瞳と目が合った。
「……何だ?」
「あ、すみません……ですが、貴方がこうして一緒に洗濯に来てくださるとは思っていなかったものですから、何だか不思議で。一体どういう風の吹き回しなのか、と。」
「…………。」
「いえ、今のは不躾でしたね。どうぞ、忘れてください。」
「……………………。」
「…………ルシアン?」
「……昔、良く晴れた日に、皆で中庭に集まって洗濯をしていただろう。」
脳裏に揺れる、真っ白なシーツ。中庭に現れた、風が吹く度に大きくうねるその海原の上を、葉擦れの音を響かせながら新緑色の魚影が縦横無尽に泳ぎ回る。
いくつも並ぶ大きな盥を取り囲む子供達。派手な水音が上がる度に弾ける甲高い笑い声と、すかさずそれを咎める誰かの生真面目な声。
暖まった土と草の匂い。きらきらと煌めく水飛沫。ふわりと風に乗って飛んでいく、金色の縁取りの中に複雑な虹を揺らめかせるシャボン玉。
遠くから眺めるその降り注ぐ陽光に白く滲む光景は、瞬きをすれば消えてしまう幻か白昼夢のように美しく、儚く、そして眩しくて。
「……あれが少し、羨ましかった。」
逃げるように目を逸らした先、白い石畳に映った自分の影の形を、その吸い込まれそうなほど暗く深い色を、やけにはっきりと覚えている。俯いたうなじに感じた、太陽の熱とひりひりとした痛みも。
「……貴方がそんな風に思っていたとは知りませんでした。」
「誰にも言ったことが無いからな。」
むすりと返すと、柔らかな線を描く頬に苦笑が浮かんだ。しかし、その笑みもすぐに引っ込んでしまう。
「貴方の憧れを壊してしまうようで申し訳ありませんが……実際はそれほどいいものではありませんでしたよ。結局のところは、押し付け合いでしたから。」
子供の頃はまだそれでも平和だったのですが、と付け足す声音は低く掠れ、深い紫の瞳がどこか暗いところを覗き込み始める。
「……夏はともかく、冬は本当に大変でした。水は冷たいし、手はあかぎれだらけになりますし。」
身震いと共に擦り合わされた手には、しかし任務か訓練で負ったのであろう治りかけの擦り傷はあれど、今はあかぎれもひびも見当たらない。手入れの行き届いた指の先は、ふわりと柔らかな桜色をしていた。
「……ロドスに洗濯機と乾燥機があって良かったな。」
「ええ、本当に。おかげさまで毎日が洗濯日和です。」
では行きましょうか、と荷物をまとめて出口へと向かおうとするその手から、二人分のシャツの入った袋を取り上げる。
「ルシアン?」
「クリーニング屋に行くのだろう?」
「そうですが……。」
洗い終わるまで大体三、四十分程度か。その間に艦内のクリーニング屋まで行って帰ってくる時間は十分にある。
「私も行く。」
「いえ、そんな。お疲れなんですから、先に部屋に戻ってどうぞ休んでいてください。乾燥機もかけておきますから。」
「君には洗濯代を出して貰った。クリーニング代は私が払う。」
「ですから、結構ですって。洗濯は自分の分のついでですし、クリーニングだって私が勝手にしていることですから。」
「ならばこちらも勝手にして構わないだろう?」
このまま押し問答をしていても埒があかない。踵を返してさっさと歩き出すと、ちょっと待ってください、と慌てた声が後を追ってくる。いつになく騒々しく鳴る足音にそう簡単には追いつかれないよう歩調を上げながら、微かに雨音が囁く廊下を急ぐ。
「ルシアン!」
名を呼ぶ声が近づいてくる。きっともうすぐ隣に並ぶのだろう。
――あぁ、今日はとびきりの洗濯日和だ。
Fin.
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