杏夏
2025-11-24 21:36:24
4751文字
Public
 

「私に魔法をかけて」


「私に魔法をかけて」

魏無羨は魔女と言われている。
曰く、魔物の潜む黒い森の奥深くに住んでいて、恐ろしい魔法の研究をし、世界を呪い、そして時折人里に降りてきては、気に入った人間に魅了の魔法をかけて浚っていくのだそうだ。
どこのお伽噺だよ、と魏無羨本人は常々呆れている。
合っているのは森に住んでいることと、研究をしていることくらいだ。その研究だって、ただ有用な植物を研究しているだけで、魔法なんて荒唐無稽なものではない。
魏無羨の両親は世界を旅して、植物を研究していた。その最中にうっかり両親揃って命を落とし、森に一人残された幼い魏無羨は、その場でなんとか工夫して生き延びるしかなくなった。たまたま運良く大人になるまで生き延びた魏無羨は、両親の研究成果を引き継ぎ、そのまま森に居を構えている。
その結果、何故かちっともまったくもって意味がわからないが、いつの間にか森に住む魔女として恐れられてしまっていたのだ。
住んでいるのが、元々うち捨てられていた壊れかけの小屋を適当に直したあばら家だからだろうか。獣用の罠を家の周りに敷き詰めているからだろうか。それとも、遠出がやっとできるくらいに成長したときに森を出て町に入ったときの格好が、あまりにもみすぼらしかったからだろうか。
四歳くらいの頃から森で獣同然に過ごしていたとはいえ、今ではきちんと人間社会の常識も弁えている。両親の残した手記は濡れないように大事にして、それで字も学んだから、本だって読める。町で酒を買っていたって、誰もその相手が「森の魔女」とは気付いていないのだから、いい加減に人を勝手に恐れるのはやめてもらいたいものだ。
魏無羨は心底そう思っている。魔法も魔女も、そんなものは存在しないのだ。
だと言うのに。
「私に魔法をかけてほしい」
ある日、自分の愛する住処であるあばら家の前で薪を割っていると、一人の男が突然現れた。
長身の魏無羨よりも背が高く、そして今まで見たこともないほど美しい男だった。針葉樹ばかりのせいで冬でも陽がなかなか差さない暗い森が、地上に現れた月光に照らされたかと思うほどの眩い美貌だった。
「私に魔法をかけてほしい」
魏無羨が唖然としていると、男は聞こえなかったと思ったのか、もう一度同じ抑揚で繰り返した。
これだけ顔が美しいと声も良いのか、静かな低音は響きがよくて神々しいほどだ。
……いや、あんたの方が神様とか精霊みたいだけど?」
何度か目を擦った魏無羨がそう言うと、男は不可解そうにほんの少し目を細めた。



男の名前は藍忘機と言うらしい。
自分は魔女ではないし、魔法も使えない、しがない植物学者だと魏無羨はすぐに言ったが、藍忘機はなかなか信じてくれなかった。
家の中は散らかっているので、魏無羨が過去に適当に切り倒した切り株にそれぞれ座り、魏無羨は藍忘機に身の上話と己にまつわる誤解と偏見とその他諸々について語り倒した。魏無羨は話し相手に飢えていたのだ。町に出たときに人と話しはするが、魔女の話題がどこからか聞こえると萎えてしまうので、満足に話すこともできずに欲求不満だった。藍忘機は頷くくらいしかしないが、変な茶々も入れないので、魏無羨はそれはもう語った。いつの間にか立ち上がって切り株に片足をかけて熱弁を振るっていたが、藍忘機は微動だにせず話を聞き続けている。
「というわけで、俺は魔女でも魔法使いでもないんだ。何の魔法をかけてほしいか知らないけど、俺にそんな力はないよ」
……それでも、かけてほしい」
「藍忘機~~……
「藍湛と呼んで」
藍忘機は字だけでなく、名も口に出した。魏無羨を魔女だと思い込んでいるというのに、躊躇せずに教えてくれたことが嬉しくて、魏無羨の機嫌が少し上向く。魔女に名を知られたら呪われるというのは、有名な迷信だ。
「じゃあ俺のことも魏嬰でいいよ。なあ、藍湛はどんな魔法が必要なんだ? 魔法じゃなくたって、できることはあるんだから、そっちなら力になれるかも」
……
「藍湛~~……
さっきからこの調子なのだ。魔法をかけてほしいの一点張りで、どんな効果が必要なのかはだんまりだ。私に、と最初に言っていたのだから、藍忘機に必要なのだろうとしかわからない。



藍忘機は次の日も来た。
そういえば森の中には魏無羨の住処に容易に辿り着けないように、迷いやすくなるよう細工をしている。よほど注意深く歩かなければ入り口に戻るようになっているのだが、藍忘機は疲れた様子もなく、当たり前のように現れた。
魔法をかけてほしい、というのには閉口するが、話し相手ができるのは楽しい。魏無羨はため込むだけため込んだ研究成果を藍忘機に披露した。折を見て成果をまとめた手記を図書館にでも紛れ込ませようと思っているが、誰かに話しておくのも悪くない。魔法ではないが、その中には藍忘機に役立つものもあるかもしれない。たった一日で、魏無羨は藍忘機のことを気に入っていた。
次の日現れた藍忘機は大きなカゴを手にしていた。その中には沢山の料理が詰め込まれている。
「藍兄ちゃん! どうしたんだ、これ?」
「私が作った。食べてほしい」
「藍湛が!?」
布で何重にも包まれた料理はまだあたたかく、少々薄味で物足りなさはあるものの、充分に美味しかった。控えめにいって、今までの人生で一番美味しかった。
「うま! これ、美味いよ藍湛! お前、顔もいいのに料理の腕も天才なのか!」
……
「ただ、ちょっと味が薄いかな~? 香辛料を使ったらもっと美味しいと思うんだけど、俺が作ったの持っていくか? あと、肉が沢山あったらいいな~」
研究がてら作っている畑から唐辛子やら花椒やらを押しつけると、藍忘機は丁重な仕草で懐にしまった。それに魏無羨は嬉しくなった。別に魏無羨のために作った料理ではなく、余ったからついでに持ってきたとかそういったものだろうから、その通りにしてほしいと思って言ったわけでも、香辛料を持たせたわけでもない。けれど、魔女が作ったものとばれると突き返されるのはまだいい方で、その場でうち捨てられることもあった身としては、受け取ってくれるだけで嬉しいのだ。



藍忘機は雨の日も雪の日も、毎日のようにやって来た。香辛料をたっぷり使って焼いた肉や、魏無羨がねだった酒を手にして。
雨の日に外で話すのもなんだからと、魏無羨が初めて家の中に招くと、いつも無口な藍忘機が見てわかるほどに絶句していた。少しばかり散らかっているし、町の家ほど色々あるわけではないが、そんな反応はないだろうと魏無羨は拗ねた。
それに、ほんの少し怖くなった。魏無羨は魔女ではないばかりか、人間社会の常識もあまり無い、ただの元浮浪児なのだ。幻滅してもう来ないかもしれない。魏無羨は一人で眠る夜が久しぶりに怖くなって、その日はなかなか眠れなかった。
次の日、藍忘機はふかふかとした毛布を持ってやって来た。もうすぐ冬になるのに寒そうな寝具に驚いて心配した、と毛布を手渡されて、魏無羨は飛び上がるほど喜んだ。その日は狭苦しい寝床に無理矢理藍忘機を引っ張り込んで、真新しい毛布を二人で分けて眠った。その夜には久しぶりに両親と歩む幸せな夢を見て、朝が来て目が覚めた寝床はぬくぬくとあたたかくて、魏無羨は目の前の藍忘機に抱きついてにこにこと二度寝を決め込んだ。
その日から藍忘機は時折、家に泊まっていくようになった。
冬は寒くて指先がかじかむし、足先は壊死しかけるし嫌いだった。じとっと湿り気があって、変な虫が湧くと肉を囓られるし、食べ物も少なくてひもじかった。大人になった今はマシになったとはいえ、子供の頃に死にかけた記憶は焼き付いている。
けれど藍忘機がよく来てくれるのなら、冬も悪くないなと思った。
「寒いから」と言うと藍忘機は抱きついて眠っても怒らない。藍忘機が家の中を整理して、少し広くなった寝床で、魏無羨は最初の狭かった寝床と同じようにぴったりとくっついて眠るのだった。



いつの間にか、藍忘機は「魔法をかけて」と言わなくなった。
冬が終わり、寒くなくなって、そして薄着をしていても汗ばむ陽気になってきても抱きつく魏無羨に、藍忘機は何も言わなかった。
そしてふと、魏無羨は疑問に思う。藍忘機の当初の目的を放っておいていいのかと。
気付いた魏無羨は悩んだ。藍忘機が魔法をかけてと言わなくなったのと同じように、自分も研究成果を口に出すことが少なくなっていたことに気付いたのだ。
目的を果たした藍忘機はもう来なくなるかもしれない。それを無意識下で恐れたのだ。
けれど、このままで居るのは不誠実だ。魏無羨は数日悩みに悩んで、結局藍忘機に魔法のことを聞くことにした。
以前はだんまりだった藍忘機は、随分整えられた小屋の中で、ほつれを直していた魏無羨の服を脇にどかしながら静かに口を開いた。
「君は忘れているようだが、私は前に君に助けられている」
「え!?」
「子供の頃、森に迷い込んだ私が獣に襲われかけたとき、君は獣の死角から大きな音を出して追い払ってくれた」
「そんなこと、あったような、なかったような……?」
森で迷った人を助けたことはあった。けれどその相手をよく見たことはないし、自分も相手に姿を見せないようにしていたから、あまり覚えていない。
「そのとき、急いで去って行く君が少しだけ見えて、君のことが好きになった」
「好き? 好きって言った、今!?」
「うん」
「俺のこと好きなの!?」
「うん、好き。愛している」
寒さに縮こまった身体を優しく溶かす春の日差しのような仄かな笑みを浮かべた藍忘機に、魏無羨の頬がかっと熱くなった。心臓がばくばくと音を立てて、頭の中が喜色で埋まる。
自分が藍忘機に抱いている心がなんなのか、魏無羨にもようやくわかった。
…………っ、うん、俺も!」
魏無羨は聞いたことにまだ答えてもらっていないことを忘れ、勢いよく抱きついた。そして勢い余って、唇を力一杯押しつけた。
その後、魏無羨の勢いなど児戯に等しい勢いで、藍忘機に押し倒され、魏無羨は経験の無い夜を迎えることになる。静かで寂しいあばら家が、これだけ騒がしく熱気に包まれる日が来るとは、森も想像していなかったに違いない。



「それで、藍湛は好きになった俺に何の魔法をかけてほしかったんだ?」
藍忘機の身体の上に寝そべりながら、魏無羨はかすれた声で、先程の続きを問う。
……森に住む君が魔女と言われていることを知って、それで、魔女は気に入った人間を魅了して連れて行くと聞いたから」
そこまで言って、藍忘機は口を閉ざしてしまう。魏無羨は目をぱちくりとさせた。
「連れて行ってほしかったのか?」
「うん。魔法をかけてもらったら、そばに置いてくれると思った」
「はー……、藍兄ちゃん、藍湛、藍湛くん、お前ってやつは……
魏無羨は藍忘機の胸に突っ伏した。どきどきと音高く鳴る心臓の鼓動は、藍忘機のもので、魏無羨は愛しくなる。こんなに好きでいてくれたなんて、今まで何一つ気付かなかった。
そばにいたいと言えばいいのに、「魔法をかけて」だなんて、口下手にもほどがある。そんな藍忘機が大好きだ。
「魔法にかけられたのは、俺のほうだよ……
「?」
「一生冷めない、とびっきりの恋の魔法だよ!!」
魏無羨はもう一度、藍忘機にキスをした。自分が本当に魔女だったら、このキスに命も魔力も全部込めて、一生冷めない恋の魔法をかけ返してやるのに。そうはできないから、魏無羨はこの心が少しでも伝わるように、とびきりの笑顔を浮かべてキスをするのだ。