倦怠期(思い過ごし)について

風邪引いたやまだ、デリカシーがなかったまつだ

 目が覚めた瞬間から、いやもう絶対今日こそ怒るのだと決めていた。松田が病院に行かないせいで、山田に移って喉を痛めてしまったからだ。
 おかげで行きたいと思っていた取材もアポもキャンセルになり、松田はお詫びの甘い物すら買ってこないで昨夜は普通に高いびきで寝た。寝息の横で山田は「こいつ刺してやろうか」とボールペンをカチカチカチカチさせながら、せめてできる限りは仕事をまとめ上げたいと、パソコンに向かっていた。
 水を飲み、のど飴を舐め、いよいようがい薬でも試すかと思ったところで朝になり、松田の第一声が、
「なんやお前、えらい死にかけやないか」
 だった。
 あまりに腹が立って山田は声にならない叫びを上げ、松田に敵うわけがないのに食ってかかろうとして気絶した。おそらくそのときにはもう、熱がかなり上がっていたのだろう。確かに昨晩は寒くて眠りづらく、毛布の中で震えていた。
 さすがの松田も慌てて山田を抱え、(垂直に倒れたせいで頭にややこぶができているのに)ベッドに半ば放るように横たえた。すぐに意識は取り戻したものの、高熱の体は視点が定まらず、口からは声にもならない音が漏れ、まるで死んだばかりのしかばねのようだった。それでも「絶対許さない……絶対許さない……」と言いながらまたすぐに昏睡したらしいので、先ほど松田から、
『晩飯食えそうなの買ったから』
 と機嫌を取るようなメッセージが来ていた。現在は夕方、そろそろ松田が帰る時間である。
 どうしてこの家には痛み止めや解熱剤が常備されているのに、松田はそれさえ飲まなかったのか。マスクも「買い置きがあるよ」と伝えたのに、耳でも詰まっていたのだろうか──山田は先ほど眠っていたとき、一通りの錠剤と粉薬を松田の口に押し込む夢を見た。恨むあまり血走った目をしていたように思う。そのおかげが、いくらか体がすっきりしていた。
 汗をかいたスウェットを脱いで、痩せた体をひと撫でする。なんだか最近の疲れでますます体が薄っぺらくなった気がした。どれもこれも松田のせいにするのは、とも思ったが、いややっぱり彼が悪い、とまた奥歯を噛み締める。
 喉から出る声は頼りなく、かさかさと掠れていた。にぶい体でベランダに出てみる。近所の人がスーパーでの帰りで話し込んでいるのが見えたり、夕方の涼しい時間を利用して走っているランナーがいるのを、ぼんやりと眺めた。
 昨日干したシーツがまだ片付けられていなかった。くしゃりとまとまりのない畳まれ方だったが、そういうところを同居人もあまり気にしないので、山田はその適当さが気に入っていた。思えば、病院に行かない癖は前からあった。病院嫌いの松田は頑なで、最近やっと歯医者にだけは行く。それだけでも目覚ましい進歩だと感動したのはいつだったか。その割に料理はこだわるし、掃除機も隅々までかけないと気が済まないたちだ。
 価値観の違い、性格の不一致など、思い当たるフレーズを心が勝手に生み出しては消していく。山田は熱のせいもあるか、妙に落ち着かない気分になってきた。
(これって、倦怠期ってやつなのかな)
 そう考えると、腹の底が煮えるように熱くなる。その熱はじんわりとすぐに喉を焼き、目の奥へ浸透した。
 ごまかしたくて腹いせにベランダの柵を蹴ってみると、逆に親指の角をぶつけて痛めた。いよいよ滲む目尻の水滴を痛みのせいにして、山田は室内に入る。
 辛い。ひどい。信じられない。なんだあの人でなし。山田はなにもかもを松田のせいにする。
 体がまだぬるい熱を持っている。わずかな動作ですでに体力が尽きた。さっき起きたばかりなのに山田はまたベッドに戻り、意識を放り投げた。

「起きたか」
 どうして人は、目が覚めた人間に起きたかどうかを、見ればわかるのに確認してしまうのだろう。山田は目を開けて松田の顔を見て、憎たらしくそんなことを思った。寝起きで瞬発的にイラつけるのは、よほど腹に溜め込んでいたからだ。
 それでも、怒りをすぐに声に出せない歯痒さがある。まだ喉は完全に回復していない。それを弱気になっているからだと判断されるのは悔しいから、山田は精一杯怖い顔をした。怒っています、という意思表示は大事だ。いつもならそんな顔をしても、松田は意に介さないで澄まして無視さえするときもあるのに、今日はじゅうぶんな自覚があるのだろう──ばつが悪そうに、かろうじて山田から視線を逸らさず、
「飯食えるか」
 と聞いてきた。
 松田はまだ「謝る」という到達点に至っていないようだ。山田はいよいよそっぽを向く。けれど向いた先の壁を見つめながら、心にチラッと浮かぶ「倦怠期」という言葉が胸を刺す。その一文字は白い壁に浮かんで、ふわふわと漂っていた。
 許す、許さない。許す、許さない。
 山田の中で軸がブレ始める。けれどここで諦めてはならない。この不毛な戦いにも、勝敗があるのだ。勝ち負けにこだわって話を進めるなど、まるで子どものやることだ。しかしもう、なりふり構っていられなかった。山田はこのとき、正しく大人気おとなげなかった。
 全身がピリピリとした気配を放っているつもりだが、風邪のせいで弱々しいそれは、山田にとってかえって体力を消耗した。上体を起こそうとしたが、いまいち力が入らず苦戦する。松田は手を貸してくれなかったし、貸そうとしても山田は断っていた。
 頼ったら負け。
「飯、あっためてくるから」
 返事をしたら負け。
「なんか話せや」
 キレ返しても負け。
……悪かった、俺が考えなしやったわ」
 じゃあ謝られたら?
(僕の勝ちだ)
 すとんと胃に落ちたこの諍いの決着に、山田はふふんと鼻を鳴らす。
「だめ、謝って」
「謝ったやないか」
 これでええやろ。と言わんばかりの態度が気に食わない。山田は笑って「気持ちがこもってない、もう一回」と催促する。松田が謝る姿など滅多にない。面白くて、愉快で、情けないところが少しだけ胸を痛める。もう許してあげようか、と思うのに、呆れても呆れても、自分の側から離れないで、夕飯より先に口元に甘い物を運んでくれる松田に、なにを飽きることがあるだろうと思う。
 頭の中にかかっていた霧が晴れていく。山田はもう一度、鼻歌でも歌いそうな上機嫌で言った。
「僕の勝ちでしょ」