誰かが自分より先に夜の王を斃してしまうことを、追跡者とて考えないわけではなかった。しかし、強大な夜の王ナメレスを斃すまでには、まだ猶予があるはずだった。何度か挑みはしたものの、夜渡りたちは返り討ちに遭い続けており、有用な遺物を求めて皆がリムベルドを彷徨う日々が続いていたからだ。
そんな中、鉄の目は隠していたのだ。夜を打ち払うのに相応しい刃を見つけたことを。誰にも気取られることなく、自分がいの一番にナメレスを斃すために。
追跡者たちが出撃したのと同時、一人きりで出撃した鉄の目は、たった一人でナメレスを斃したのだという。円卓の奥には誰のものとも知れぬ遺体が突如として現れ、何事かと皆がざわついているうち、鉄の目が帰還した。その手に夜の王のルーンを宿して。
夜の王ナメレスを斃したと鉄の目が告げ、たった一人でそれを為したのかと皆が困惑する中、とりあえず追跡者たちが戻るのを待とうと言う守護者を無視して、鉄の目は現れた遺体の前に立った。ルーンを捧げようとしていると思った皆は、追跡者たちはまだリムベルドにいる、彼らが戻ってからでなければ、と鉄の目を止めようとした。しかし、鉄の目は遺体の前にしゃがみ込み、愛用のダガーを手に取ると、遺体の喉笛を切り裂いたのだという。
何が起こったのか、誰も、何もわからなかった。夜はまだ、終わらない。そう呟いた鉄の目を全員で拘束し、これからどうするか話し合おうとしたところに、追跡者たちが帰還したという訳だ。
自分が先に夜の王を斃し、そして――自分が、新たな夜の王になる。そのつもりだった。そのためのものを、やっとのことで手に入れたのに。
「少し……二人で話をさせてくれ」
鉄の目がしでかしたことは、明確な裏切りだ。けれど、自分だって。
追跡者の頼みに、皆が頷いて席を外した。最近の彼らはわざと行動を共にしないようにしているように見えたが、それ以前は一緒に出撃することも多かった。彼らの間に何かあったのではないかと、口には出さずとも皆が心配していたのだ。その片割れである追跡者が言うのなら、こんなことをした理由を聞き出せるかも知れない。そんな淡い期待があった。
追跡者と鉄の目を残し、皆は円卓の奥、遺体があった場所へと下がった。これからどうするかを相談するらしい。
「……」
追跡者は自分を見つめる鉄の目の前に立ち、その姿を見下ろした。余程激しい戦いだったのだろう。いつもの装束はところどころ破れ、破れた箇所から覗く傷跡からは血が滲んでいる。大祝福の側にいても尚、傷が癒えきっていないのだ。一人きりで夜の王ナメレスと戦うなんて、無茶苦茶だ。それなのに、この男はそれを成し遂げた。夜の王を斃した後、それと成り代わるために同行した仲間たちをどう誤魔化そうかと考えていた追跡者は、明確に鉄の目に嫉妬していた。彼は、自分よりずっと強かったのだ。目的のために、一人で戦い抜く力と心を持っていた。それが、素直に羨ましい。
だが、それはそれ。鉄の目がどうして夜を終わらせない選択をしたのか、それを知りたかった。追跡者はそっと鉄の目の口枷を外し、彼に尋ねた。
「どうして、こんなことをした」
「……夜を終わらせたくなかった。それだけだ」
鉄の目はいつもと変わらぬ淡々とした調子で、俯いたままそう言った。だから、その理由を知りたいのだ。追跡者は先程より語気を強めて尋ねた。
「もう一度聞く。どうして、こんなことをした」
追跡者の問いに、鉄の目はニタリと笑うと、やっと追跡者の方を見た。ゾクリと背筋に寒気が走る。兜を被っているはずなのに、素顔を見られたような感覚になったからだ。追跡者はごくりと唾を飲み込み、鉄の目の言葉を待った。
「……お前と同じだ。夜を終わらせたくなかった」
「何を……!」
断じてお前と同じなんかじゃない。お前のような身勝手な人間と一緒にするな。俺は……! そう叫びたかった。しかし、次の言葉が紡げない。身勝手なのは追跡者も同じだった。妹のために、誰かが犠牲になってもいいと思った。自身が新たな夜の王となれば、この円卓は作り変えられ、その先は――わからない。この狂った夜が、どこか違う場所で続くかも知れない。一族を殺した夜が、妹を苦しめた夜が違う形で続くとしても、それでもいい。この夜を終わらせようと決意し、戦い続けてきた妹を悲しませても構わない。ただ一人の、名前さえ思い出せなくなってしまった妹が助かるのなら。
「俺は……」
口を噤んでしまった追跡者に、鉄の目が続けた。
「お前は、妹と共にここがなくなってしまうことが許せないんだろう?」
「!!」
何故、妹のことを。召使人形以外、誰も知らないことのはずなのに。
「夜が終わらなければ、ここも永遠だ。お前は何が不満なんだ?」
「ッ……!」
追跡者はいよいよ耐えられなくなり、きつく握った拳を鉄の目の頬に叩き込んだ。椅子がぐらつき、しかし倒れはしなかった。口の中が切れ、鼻血を垂らす鉄の目は、それでもニヤニヤと笑っている。
「こうすれば、お前が犠牲になることもない。妹とずっと一緒にいられる。これでいいじゃないか」
「……」
違う。違うはずだ。こんなこと、妹を悲しませるだけだ。仲間たちだって許さない。許されるはずがない。
「俺は……お前とは違う。お前とは違うやり方で、俺は……妹を救ってみせる」
これ以上話しても無駄だ。追跡者はそう断じて、鉄の目に背を向けて、遺物儀式を始めた。さっき手に入れた銀の雫。それを携え、夜の王の元へ向かうために。鉄の目に出来たのなら、自分だって。一人きりでも、成し遂げてみせる。
ぼろぼろの大剣と小さな盾。それを手に最後の出撃に向かおうとする追跡者の背中を、ただ一人、鉄の目だけが冷たく輝く瞳で、実に嬉しそうに見つめていた。
この男は、隠しているものを暴かれることを、この上なく嫌がる。それを知った鉄の目は、追跡者の隠し事を徹底的に暴いてやることにした。レディとの関係、ノクラテオで探しているもの、それを使って何をしようとしているのかを。
そして、自分の望みを叶えるために、一人きりで最後の夜の王――ナメレスの元へと向かった。聖律の刃――聖なる力を、夜を払う力を宿した遺物を弓に宿して。
何度弓を引き、何度切られたか覚えていない。何度目かに膝をついた夜の王に、鉄の目は猛禽の爪を突き立て、がらんどうの腹を切り裂いた。夜を煮詰めたような体液が噴き出し、ナメレスは崩折れ、二度と起き上がることはなかった。割れた地面は何事もなかったかのように落ち着いて、灰のような砂地が残るばかり。
鉄の目はナメレスの体から浮かび上がったルーンを手に、円卓へと戻ることにした。事は為した。しかし、まだ終わりではない。これは始まりに過ぎない。長い、これからもずっと続く夜の、ほんの一区切りに過ぎないのだと、鉄の目だけが決めていた。
円卓に戻り、夜渡りたちにあれやこれやと歓迎され、しかし鉄の目は何も語らぬまま、現れたという遺体の前へと向かった。これを捧げれば、夜は元の姿を取り戻す。つまらない、暗いだけの時間が。
そんなの、くだらない。退屈だ。あれを――追跡者を怒らせ、失望させてやる方が、もっと楽しくなるだろうに。
夜渡りたちは、鉄の目がルーンを捧げようとしているのだと勘違いした。追跡者たちが戻るまで待とうと言われ、ああ、これを追跡者の目の前でしてやったら、どんな顔をするだろう、と鉄の目は思った。表情は見えなくても気配でわかる。兜で隠している分、追跡者の気配はとんでもなく雄弁だった。少なくとも、鉄の目にとっては。
夜の王を倒し、この地を、円卓を作り出した者へルーンを捧げるまで、この夜は終わらない。だが、それを捧げるべきものが失われたらどうなるか。円卓は祝福によって維持され、夜の王たちの庭たるリムベルドは彼ら自身の力によって続いていく。ただ、それを終わらせることだけが出来ない。この円卓とリムベルドは、夜渡りたちが夜と戦い続けるだけの牢獄になってしまう。
鉄の目としてはそれで良かった。戦いこそが望むもの。だから〝終わらせる〟理はいらない。だから、自分の望みを叶えるために、そうした。ただそこにあるだけの、物言わぬ遺体を〝殺す〟ことは鉄の目にとって容易いことだった。その首に愛用のダガーを宛てがい、ほんの少し力を込めるだけ。
背後から、お願い、やめて、と、巫女の――追跡者の妹の悲痛な叫びが聞こえる。鉄の目はそれを無視して、ダガーの刃を遺体の枯れた首元に滑らせた。
血の海に沈む遺体を背に、夜渡りたちへ向き直ると、巫女はその場に崩れ落ち、他の皆はそれぞれの獲物と冷たい視線を鉄の目に向け、何故だ、どうしてこんなことを、と次々に責め立てた。
「夜はまだ、終わらない」
その事実は、彼らの望む返事ではない。彼らと戦っても良いし、それも悪くはない気がしたが、鉄の目がしたいこととは違っている。鉄の目は彼らに拘束され、大人しく椅子に縛り付けられることになった。
鉄の目が思うことはただ一つ。こうなってしまったことを知ったあいつは――追跡者は、一体どんな反応を示すだろう、と。
果たして、追跡者は期待通り、いや、それ以上の表情を鉄の目に見せてくれた。失望、絶望、怒り、悲しみ、悔しさ……。誰かを伴うかと思っていたが、追跡者もまた一人でナメレスの元へと向かった。夜の王は死に戻りを繰り返す。斃したナメレスも、じきにまたリムベルドに現れるだろう。あれが一人でナメレスを斃せるかはわからない。わからないが、その結果は問題ではない。返り討ちに合い、自分の目の前で悔し涙を流す姿を見るのも悪くないし、もし斃せたとしたならば――もっと、面白いものが見られるはずだ。
二人の様子を見に戻ってきたレディに、あいつは一人でナメレスと戦うと言って出て行ったぞ、そう告げた時の鉄の目は、追跡者を見送った時と同じくらい、喜びに輝いていた。
馬鹿なことをしている。追跡者にもそんなことはわかっていた。事情を知る隠者なら協力してくれただろうし、他にも手を貸してくれそうな夜渡りたちには心当たりがある。一人での出撃、それもナメレスを相手になど、意地を張ってやることではない。三人で挑んでも勝てなかったのに、一人でなど、どう考えても無茶だ。けれど、やはりこれは、一人きりでやり遂げるべきことだ。
追跡者は夜渡りの仲間たちが嫌いでは無かった。皆、理由は違えど、同じ目的のために戦っている。一族の皆を失ってからずっと一人きりで戦ってきた追跡者にとって、背中を預け、支えあえる仲間たちがいることは、素直に嬉しいことだった。
無頼漢はいつだって頼りになった。豪快でおおらかな性格は、戦いでもそうでない時でも、追跡者を支えてくれた。ピタパンを焼く時、その匂いにつられて一番にやって来るのは彼だった。こいつは酒のつまみにも良いんだ、なんて言って、お前さんもどうだと誘ってくる。顔を見せたくないからといつも断っているが、彼と酒を酌み交わせたらどんなに楽しいだろうと追跡者は思う。
付き合えない申し訳なさに、故郷で父がピタパンと一緒に食べていた肉のソースを一緒に作って渡した時、彼はとても喜んでくれた。それの下がどうなっていようが俺は気にしねえが、お前さんはそうじゃねえんだろう。もしそれを外しても良いと思える時が来たなら、一緒に一杯やるとしようぜ。その優しい言葉に、追跡者の心は揺れた。彼は誰かに言いふらすような人間ではない。それはよくわかっている。けれど、最後まで踏ん切りがつかず、追跡者は無頼漢にも顔を晒すことは無かった。彼と一杯やっていれば、もっと晴れやかな気持ちでいられたかも知れない。
執行者は、言葉は発さずとも、気のいい相手だということを追跡者は知っている。人と話すことは得意な質では無かったから、会話がないのは気にならない。絵を描く執行者の近くに腰を下ろし、空と海と、執行者の絵を見つめるのんびりした時間が、追跡者は好きだった。風の流れる音と波のさざめき、そして絵筆を走らせる音を聞いているうち、無防備なことに、とろとろと眠ってしまう時もあった。そういう時は決まって毛布が一枚かけられて、すでに執行者の姿はないのだった。面倒をかけている、本当は疎んじられているかも知れない、そう思わなくもなかったが、何も言われないうちは良いだろうと、執行者に甘える日々は続いていた。
そうしているうち、執行者は追跡者に一枚の絵を渡してくれた。それには壁にもたれかかって居眠りをする追跡者の姿が描かれていた。余程居眠りをする人間だと思われていたのだと気恥ずかしくはなったものの、自分の側にいて良いと言われたような気がして、ありがとう、大事にする、と追跡者はそれを受け取った。その時の執行者の口元は、僅かに緩んだように追跡者には見えた。彼に何も渡せるものがないことが、追跡者には心苦しかった。
復讐者は――当たりは厳しいことも多いが、自分だけでなく仲間も強くあって欲しいと願う、心強い仲間だ。彼女は不甲斐ないところを見せれば、すぐに背中を押してくれる。いや、背中を押す、というのはかなり柔らかい表現であり、尻を叩くといった方が近いだろう。敵に不意を突かれ膝をつくような場面になると、彼女はファミリーだったり自分自身だったりの力で間一髪助けてくれるのだが、その後が怖いのだ。どうした、今日のお前は腑抜けている、集中しろ、と厳しい叱咤を飛ばされる。しかしそれは、相手の本来の強さを認めているからこそのもの。そう叱咤激励される時、彼女の華奢で小柄な体躯が、まるでセバスチャンのように大きく見える。彼女のファミリーたちは、追跡者の目には薄ぼんやりとしか見えないけれど。
彼女の体は人形だから、追跡者の作る料理を口にすることは出来ない。けれど、食べ物を作る行為には興味があるらしく、時折ピタパンの生地をこねる追跡者の元を訪れることがあった。それは何だ、何故そんなことをする、そんなぶっきらぼうな質問に、追跡者は一つ一つ答えていった。これは塩で、砂糖で、小麦粉だ、理屈は知らんが叩きつけると美味くなる……そんな、ためになるのかどうなのかよくわからない回答に、彼女はそういうものかと頷いて、それが香ばしく焼き上がるまで、ずっと側にいるのだった。彼女曰く、戦い以外のことをしているのに、それをしている時のお前は腑抜けた様子じゃなく、真剣そのものなのが面白い、のだそうだ。それもお前にとっては戦いと同じくらい大事なことなのだなと、焼き上がったピタパンを掲げながら彼女は言った。
彼女の言う通り、失った同胞たちもその記憶も、自分にとっては大切なものだ。追跡者は彼女に事情を話したことはなかったが、彼女はそれを理解し尊重してくれた。彼女もまた、多くのものを失ったはずだ。自分が為すべきことを為したあと、彼女がそれらを悼み、穏やかに愛して生きていってくれたらいいと思う。彼女には余計なお世話だと言われるかも知れないが。
隠者と守護者――彼らは特に自分に親切にしてくれた。戦いの中で何度も記憶を失ったらしい自分を、隠者と守護者は快く出迎えてくれ、何度目かもわからない自己紹介をして、頼りにしていると手を差し伸べてくれた。
リムベルドでの彼らには、強力な魔術と大盾で何度も助けられた。小さな盾一つでは防ぎきれない攻撃も、守護者はその立派な大盾で何度も追跡者を庇ってくれた。片翼に呪いが残っていても、その背中はどこまでも頼もしい。守護者が盾を構えて相手の気を引いている隙に、隠者の魔術と自分の大剣で畳み掛ければ、大抵の敵は倒すことが出来た。
追跡者には魔術の素養も本を読む習慣も無かったから、彼らの静かな読書に参加するということは無かった。だが、愛用の大剣の手入れをしている時、彼らは時折近くにやって来ては本を読んでいくことがあった。音が邪魔になるだろうと言っても、多少の物音があった方が集中出来ることもあるのだと彼らは言う。どちらかというと集中していれば多少の物音は気にならなくなる、と言う方が正しい気がしたが、穏やかな彼らと過ごす時間は追跡者も嫌いでは無かった。区切りの良いページまで読んだところで、守護者が武具の扱いについて話しかけてきたり、隠者がその話に乗ってきたり、脱線して昔語りを始めたり、そんな時間も悪くなかった。同胞たちと焚き火を囲んで、こんな風にとりとめのない話をしていた夜を思い出す。守護者も同じく、同じ小隊の仲間たちと、こうして雑談に興じる夜があったのだと話してくれたことがあった。
そんな些細な日々のこと以外でも、彼らはいつも追跡者のことを気にかけてくれていた。それは少しずつ追跡者が弱りつつあることを察してのことだったかも知れないけれど、それについて何も言わずにいてくれたことが追跡者にはありがたかった。世話になった礼も兼ねて料理を振る舞うと、彼らは喜んで食べてくれた。後日お返しとして供された隠者の特製スープと守護者の故郷の豆料理は、不思議と追跡者の作るピタパンによくあって、匂いにつられてやってきた仲間たちと共に、ちょっとした宴会にもなった。その中に、レディも、鉄の目もいたはずだ。それなのに。うまくやっていた、そのはずだったのに。
レディのことを、追跡者はあえて考えないようにしていた。それは未練に他ならず、上手くいかなかったことを考えてしまっては、前に進めなくなってしまうからだ。
そして、鉄の目のことは――。
追跡者には、鉄の目のことがわからなくなっていた。秘密を共有する者同士、悪い関係では無かったはずだ。それが崩れてしまったのは、鉄の目が、追跡者の兜に手をかけようとしてからだ。それさえ無ければ……自分はもっと、傷ついてしまっていたかも知れない。ずるずると体を重ねて、互いの気持ちは曖昧なまま、鉄の目が一人でナメレスを斃したと聞かされたとしたら、きっと、どうして言ってくれなかったのだと詰め寄っていたに違いない。そうならなかったことが果たして良かったのか悪かったのか、追跡者にはわからない。けれど、自分とどんな関係であろうと、おそらく鉄の目は同じことをしたのだということはわかる。夜を終わらせない、手前勝手な――自分と同じ――望みを持つ者として。
この扉の先に、ナメレスがいる。何度か意識を失い、それでも追跡者はたどり着いた。あいつは、鉄の目は、どんな気持ちでこの石造りの扉を押し開けたのだろう。自分とは違い、心躍らせながら、最後の夜に臨んだのだろうか。そうかも知れない。どうしてだか、鉄の目の顔を思い出そうとすると、あの得体の知れない笑顔ばかりが浮かんでくる。あれが、あいつの本質だったから? それとも――あの目がずっと、自分の素顔を見つめている気がするから?
そんなこと、もう、どうだって良いはずだ。引き返せない。そのつもりもない。追跡者は石造りの扉を力の限り押した。一人きりで開けるには重すぎる扉。けれど、この戦いも、この先に続く道も、一人きりで歩まねばならない。
ぎぎ……と、扉が不穏な音を響かせる。彼の、追跡者としての最後の戦いがこの扉の先に待っている。勝利したとしても、二度と戻れない戦いが。
つづく
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