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あさかわ
2025-11-23 23:35:12
5421文字
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それは浮気ですか?
いい夫婦の日の小ネタです
ねずみ男の間違いは、やけくそだったことだ。
ビジネスに失敗して、手元に残ったのは最高額の日本銀行券一枚だけ。土曜日の夕方に道行く人はみな楽しそうだ。前を歩くカップルが洒落た佇まいの創作和食の飲み屋に入っていくのを見て、薄汚い服装で突撃して周りの人間を嫌な気分にしてやろうと思いついた。そんな飲み屋に自分のほかに知り合いがいるとは想像しなかった。
「あれ、兄さん?」
カウンター席に水木がいた。チノパンに薄手のセーターを着て、手元にはお洒落なお通しがある。
「センセイじゃないか。珍しいなこんなところで」
「そっちこそ。こういう店はあんまこないだろ」
水木は見た目こそ若いが中身は大正生まれの親父である。焼き鳥屋やおでんなどを好み、昔ながらの小料理店がいきつけのはずだ。ダウンライトの下、お通しがのった皿のそばに目玉の姿もある。
「何じゃ、ねずみ男もこのような店にくるのか」
「そっくりそのまま返すぜ、親父さん。二人とも何だってこんな店に」
ねずみ男の疑問に水木が答えた。
「ああ、今日は浮気だから」
「はっ?」
浮気。ねずみ男は店内を見渡す。ムーディーなBGMに控えめな照明、小難しい文言のメニューに、日本酒ハイボールやら何やら目新しい酒。きっとこの店を鬼太郎は好まないし、子供の見た目では入店を咎められるだろう。そうだ、水木の横には鬼太郎の姿がない。
「
……
兄さん、本気かよ?」
「たまには新しいことに挑戦しないとな」
「そうじゃ。何事も試してみないと分からないものじゃ」
水木も目玉もなんてことのない顔をしていた。浮気程度で目くじらをたてるなよ、と嫌味な夫のようにへらへら笑っている。
「き
……
鬼太郎は?」
「こういうのに興味がないから置いてきた」
水木がさらりと言った。
「でも、こんなところで浮気してるなんて知ったら」
「別にあいつは文句を言わんだろ」
「んなことっ!
……
いや、あるな」
鬼太郎が水木と連れ合いになった経緯をゲゲゲの森に住む妖怪たちは皆知っている。鬼太郎が水木の元に何度も通って拝み倒してようやく一緒になったのだ。水木の浮気をしれば鬼太郎は動揺する。しかし自分から離縁は決して言い出せず、よそ見が終われば戻ってきてくれると目をつぶるに違いない。骨の髄まで惚れた水木に恨み言の一つ言わず、物わかりのよい亭主の振りをするだろう。
ねずみ男はたまりかねて目玉に食ってかかった。空腹とやるせなさが混じって胃がむかむかする。
「親父さんは奥さん一筋のはずだよな! それが何で兄さんの浮気を見過ごしてんだ」
「それはそれ。これはこれじゃ」
「ぎゃ! ケダモノ!!」
背筋に悪寒が走る。ねずみ男の悲鳴に目玉が拳を握った。
「そこまで言わんでもよかろう! それに妻は儂より新しいことを楽しむのがうまかったんじゃぞ。この店であれば
……
」
目玉はカウンターの奥の酒瓶の列を、ねずみ男はカウンター席に並ぶ大学生を眺めた。不幸な事故だ。視線の錯誤が事態の混迷を指数関数的に増やしていく。
「このくらいは、パカパカと」
目玉は右手の指を五本立てた。
「そんなに!?」
五股くらい平気でこなせるというのか。幽霊族の夫婦と言えば、おしどり夫婦で有名だが現実はかくも恐ろしいのか。
「妻は気になったら試してみる軽やかな心を持っておる」
「それは軽薄っていうんだよぉ!」
ねずみ男は頭を抱えてしゃがみ込んだ。数分で浴びるべきではない情報の波に押し流されて正気を失いそうだ。
「あそこに並んでいる酒など全種類頼んで飲み比べするじゃろうな」
「へえ、奥さん酒豪だな!」
「東京ドーム三個分のワクじゃ! 儂はいつも先に酔いつぶれておったが、隣でニコニコパカパカと盃を空にしておったぞ」
衝撃の事実に打ちのめされていたねずみ男には、酒の種類で盛り上がる二人の会話は入っていない。
「信じらンねぇ
……
不潔だ、不潔っ!」
「不潔を体現した男が何を言っておる。まったく無礼なやつじゃな」
「礼どころか倫理道徳がすっぽ抜けた奴らに言われたくねえ! しかし、洒落た店で待ち合わせとは気合が入ってるな」
「初めてだからな、多少気を遣う」
水木はお洒落居酒屋の前を三往復して人々の服装を確認してからきた。男性向け雑誌も購入して目玉と二人で勉強に励んだ。
「儂も男性向け雑誌を読んで勉強してきたぞ」
目玉は腕を組んで咳ばらいをした。
「知っておるか? 色々な楽しみ方があるんじゃぞ
……
ペアレンツ
……
ではなく、何と言ったかの。横文字のアレじゃアレ」
目玉と水木は舶来のカタカナに弱かった。しかし、諦めが悪い男だ。タンクトップをランニングシャツと言い失笑され、パスタをスパゲッティーと発言して冷めた目を向けられた二人は令和の横文字に挑み続けていた。
ブラジャーを乳バンドと言ってしまった日には、ねこ娘にひっくり返った蝉の亡骸と同じ目を向けられたのだ。目玉と水木の心は千々に乱れ、悲劇を繰り返さないと誓った。横文字に負けない力が欲しかった。負けん気は大いにある。実績は微塵もない。
水木は何かを思い出しぱっと顔を輝かせた。
「思い出した! マッチングだ!」
ペアリングである。
「それじゃ! 昨今は気軽に色々なマッチングを楽しむらしいでないか」
大正生まれの間違いに目玉は気が付かず、ねずみ男は誤解を加速させた。
「マジかよ、スマホにマチアプ入れてンの!?」
まちあぷ、なるものを水木も目玉も知らない。多分、まち飲みとかお酒と食事の組み合わせを教えてくれる便利な代物だろう。そんなことも知らぬのかと言われたくないために虚勢を張った。
「今時はなぁ
……
まちあぷ? くらいなあ! 入れてナンボのもんだからな」
「そうじゃ。スマッシュに
……
ま、まちあぷ? を入れるのは大人の嗜みじゃな」
ねずみ男は茫然と立ち尽くした。水木は顔に傷があろうとも目鼻立ちの整った男だ。ポンと写真を載せれば簡単にマッチングするだろう。とんとん拍子に話が進み、飲みに行きましょうとなる。そうに違いない。鬼太郎は今頃どうしているのだろうか。森の住処にぽつんと座って伴侶の帰りを待っているのではないだろうか。
「平成に道徳を置いてきちまったのかよ
……
」
鬼太郎と水木はうまくやっていると思っていたのだ。鬼太郎がどうにか水木を口説き落とし、連れ合いとなって四半世紀以上。元号が変わろうが人の世界で何が起ころうが、幾久しく暮らすのだろうと思っていた。
「浮気をするのは自由だが
……
せめて一言鬼太郎に言ってやれよ」
ねずみ男は義理も人情もない。もちろん正義感なんてものある訳がない。それでも、物を申さずにいられなかった。
「あいつは一途だ。これと決めたらそこからブレない、芯の強い男だろ」
だから何度断られても養父を口説き落とせたのだ。
「兄さんに何があったのか知らねえが、仮にも夫なら余所見がしたくなったと言ってやるのが筋ってもんだろ」
「
……
そうだろうか」
「そうに決まってらぁ! 鬼太郎を一人で留守番させて心が痛まねえのかよ! 親父さんも舅として父としてシャキッとしやがれ!」
「
……
そうかのう?」
「っくそ!」
暖簾に腕押し。糠に釘。二人は浮気に対して罪悪感がない。罪の意識を持たない者をどうやって改心させるかなどねずみ男は知りようがなかった。
「で、浮気相手はいつ来るんだよ」
「さっき注文したからもうすぐ来るぞ」
「注文
……
まさかギャラ飲みか!?」
マッチングの次はギャラ飲みか。だとしたら、水木のスマホの中は大分爛れている。ねずみ男が説教の応援を呼ぶべきか本気で考え始めたその時、間延びした声と共に店員のジョッキをつき出した。
「お待たせしましたぁ、日本酒ハイボールです」
ドンとおかれたジョッキに水木と目玉が目を輝かせる。
「おっ、来たな。ほら、センセイ。今日の浮気相手」
「はっ?」
水木がジョッキを指さし、目玉は汗かく容器の周りをうろうろとしている。水木は持参したショットグラスに目玉の酒を取り分けてやった。
「日本酒というと冷やと燗に限ると思い込んでおった。しかし、炭酸で割るのもうまいと聞いて試しにきたんじゃ」
「鬼太郎は新しい飲み方は好きじゃないからなあ」
頷き合う二人に挟まれて、ねずみ男の髭がぺたりと垂れる。
「浮気って何? 日本酒ハイボール飲みに来ただけ?」
「飲み屋で飲む以外何があるってんだよ」
「だって、さっきマッチングがどうこうって」
言い募ろうとするねずみ男の脇から店員が食器を差し出す。
「お待たせしましたぁ、から揚げと厚揚げのポン酢ジュレです」
香ばしい香りに目玉が相好を崩す。
「マッチング料理がきたのう! ハイボールに唐揚げ。酒の種類に合わせて食事を考えるのが流行りなんじゃろ」
ねずみ男の中で縺れた糸がきれいに解けた。浮気というのは鬼太郎への不貞ではなく、日本酒の飲み方で、マッチングはペアリングの間違い。この二人は今時の横文字をうろ覚えで使っているだけだ。
「ペアリング」
「えっ?」
目玉がレモンを持って首を傾げた。
「料理と酒を合わせるのはペアリングだよ! 何がマッチングだ! 兄さん、マチアプなんて入れてねえだろ。というか、マチアプが何かも知らねえな? マチアプってのは他人と逢引するのに使うんだよ」
「あ、逢引? まち飲みアプリの略じゃないのか
……
?」
もうどうでもいい。投げやりになったねずみ男は目玉からレモンを奪い取り、から揚げにまんべんなく振りかけた。
「いい年の大人がつまんない見栄張るからぁ! マジの浮気だと思ってどんだけ焦ったか! この調子じゃ他にも今時の横文字を適当に覚えてんだろな
……
ハァ~めんどくせぇ~
……
」
目玉と水木は顔を見合わせた。、文字への完全敗北を悟ったようで、無言でジョッキを見つめている。ねずみ男は勝手にから揚げを食べ始めた。慰謝料代わりに食わないとやっていられない。
二人はアルコールを一滴も接種しないまま耳まで赤くなっている。
「水木ぃ!」
「目玉ぁ!」
目玉が持参したショットグラスを掲げた。水木も同様にジョッキを掴んだ。崖で落ちそうになった相方の手を取り引き上げるような気迫がある。こんなCM平成に見たなと思いながらねずみ男は厚揚げに手を伸ばす。
令和にあふれ出るカタカナに挑み続けるため、ファイトを一発入れる二人組のように、ぐっとジョッキをあおる。赤面を恥から酔いのせい上書きする年寄りを冷めた目で見ていた。
「水木さん、おかえりなさい」
足音に気がついたのだろう。鬼太郎がすだれを上げて水木を迎える。水木はエコバッグを鬼太郎に見せた。
「ん、今帰った。これ、おみやげ」
「ありがとうございます。あの、父さんは」
「あいつは外に泊まるってさ。奥さんのとこ」
道で摘んだ野花を妻の中に供えるそうだ。墓前でべしょべしょに甘えるのだろう。ねずみ男にうろ覚えの令和知識をけちょんけちょんにのされ、水木と目玉はよろよろと飲み屋を出た。水木が披露した「あすけんの女」は厚生省の役人ではなかったし、目玉が胸を張った有名人「今久留・ジョン」はインクルージョンという英単語であった。世の中に分からないことが多すぎる。
「今日な
……
目玉と日本酒ハイボールを飲みに行ったんだ。炭酸で割るのも悪くないけどな」
「はあ、日本酒ハイボール
……
」
鬼太郎は平坦な声で言った。やはり興味はないらしい。水木は靴を脱いでエコバッグから中身を取り出した。コンビニで買った日本酒と炭酸水、イカの燻製。ちぐはぐでなぜか馴染む組み合わせ。
ねずみ男の言ったことにも一理あるのだ。興味がないにしても誘ってもいいだろう。ハイボールに興味はなくても、水木と二人で酒を飲むことは嫌がらないのだから。
「旦那様に付き合って貰わんと味気ない。一杯どうだ?」
鬼太郎は目を瞬かせ、口元に小さな笑みを浮かべた。
「もちろん、お付き合いします。ちょっと待ってください。貰い物のキビナゴがまだ残ってましたから出しましょう」
誘われてうれしいとつむじから飛び出た髪がふわふわと揺れる。平素と変わらないようにしている声が少しだけ上擦るのもかわいらしい。
鬼太郎の住処は小洒落た店にはほど遠い。年季の入ったちゃぶ台に板張りの床、暖房器具は火鉢だ。目新しい酒に合わせるつまみは昔ながらの乾き物。
「こっちの方が性に合ってるな」
「キビナゴ好きでしたっけ。芋焼酎は子泣きじじいが飲み尽くしてしまって
…
」
「いや、お前のことが好きだなって思ってさ」
鬼太郎はキビナゴが載った皿を置いてはにかんだ。
「
……
僕も、水木さんのことが好きですよ」
伏し目がちに紡ぐ言葉に陽だまりの熱がある。水木はちょっとばかり老化が遅いだけの普通の人間なので優しくされればうれしいし、気にかけて貰えば悪い気はしない。鬼太郎の誠実な態度と言葉を長年浴びれば氷のような意志もぬかるんで連れ合いにだってなってしまう。
水木は鬼太郎のつむじに口付けた。ぴゃっと跳ねる肩がまた愛おしく、驚いて見上げる眼がうれしくてからりと笑った。ズタボロになった令和横文字チャレンジ精神の回復はすべて鬼太郎に任せることにした。
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