お芋さん太郎
2025-11-23 14:20:24
1391文字
Public ちいさなSS @ONEPIECE
 

遠き春よ




 くれはが薄く笑って聞いた。
「ハッピーかい?」
 返事は、ない。
 横殴りの吹雪のなかに、たったひとりで彼女は凛と立っていた。熊すら深く眠る気温なのに、コートも羽織らず、ヘソを出して、軽く酒瓶を傾ける。
 くれはと向かい合うのは、彼女の何十倍も何百倍も大きい怪物だ。腕のひと振りで大木だってなぎ倒せるだろうそいつは、真っ白な息を吐いて、重苦しくうなる。
 くれはは正しく医者なので、どんなに扱い慣れた道具でも戦闘にメスを使うことはない。医療器具は誰かを傷つけるためではなく、誰かを救うために使われるべきだ。
 しかし今回ばかりはワケが違う。彼女は鋭く研ぎ澄ませたメスを手に取り、その切っ先をまっすぐ怪物に向けた。
「さて『治療』を始めるよ。少し荒っぽいが、我慢しな」
 言い終わるよりも先に、くれはが高くジャンプした。つい今まで立っていた場所に、大きな手形の花が咲く。
 狙いは怪物の鼻先だ。どんな動物でも、そこだけは皮膚が薄いはず。毛むくじゃらの腕をつたって、ひと息に登りつめる。
 濁った双眼に酒瓶を投げつけ、メスで割る。その隙に顔面に迫り――
「ブオォォォオ!!」
「くッ!」
 くれはの攻撃は届かなかった。すんでのところで怪物が薙ぎ払ったのだ。彼女は地面に叩きつけられたが、雪が深くて助かった。なにせ服が汚れない。
 雪原に仰向けになったまま、怪物を見上げる。立って見上げたときよりも大きく感じるかといえば、誤差の範疇。それほどに怪物は大きい。
 怪物が再び腕を持ち上げ、獲物を狙う。しかしストロークの長いそれは、くれはにとって隙だらけだ。
 太い丸太のような指を避け、銀の軌道を飛ばす。
「グ、グァアア……!! ギャア! グ!」
 目、口、首筋に脇。動物の急所を確実に狙う。
「神経は生かしといてやるよ。感謝しな」
 メス一本一本は怪物にとってさほどの脅威ではない。だが確実にダメージは蓄積する。
 やがて怪物は白い大地に膝をついた。弱く震える指先を雪にうずめ、グルグルと喉を鳴らしてあらがう。
 肩からくずれ、頭と続いた。勝負ありだ。
「麻酔薬。数mgで海王類も落としちまうシロモノさね」
 自分の背よりも大きな顔面の真正面に立ち、くれはは怪物とじっくり目を合わせた。特別な治療用の、特別なメスを懐にしまう。
「あんたはまだ若いから、何にだってなれる。医者でも、怪物にだって、あんたが望めばね。それでも『心』だけは、無くしちゃいけないよ」
 怪物のまぶたは落ちかけていて、うつろな瞳が半分だけ見えた。その小さな暗がりに、光が宿るのがわかる。
「さあ遊びはお終いだ、あたしは疲れたんだ。帰るよ、チョッパー」
 チョッパーは最後に一度うなって、ゆっくりとまぶたを閉じる。続く寝息のリズムに合わせ、みるみるうちに彼の体が縮んだ。
 見慣れた姿になったバカな弟子を、くれはが呆れた顔で見下ろした。「食いでがなくなったね」なんてジョークを飛ばし、小脇に抱えて帰路につく。
 くれはがどんなに強くても、小さな子どものかわいい癇癪に付き合っていられるほどヒマではない。形態変化の研究もほどほどにと、今度からキツく注意する必要がある。
「いまのハッピー、忘れるんじゃないよ」
 どんな名医でも治せない、見えない傷はいつ癒えるのか。
 闘いの跡は、すぐに雪で消えるだろうに。