お芋さん太郎
2025-11-23 14:07:12
5918文字
Public ちいさなSS @ONEPIECE
 

ひきだしの海




 少年の部屋は、ひどくこざっぱりしていた。
 ベッドがひとつに、絵本や児童書が並ぶ本棚、勉強用のデスク、クローゼット。ただそれだけだ。
 白い壁紙の部屋に、家具はマリンブルーで統一してある。高くて青い天井と合わせると、まるで真夏の海のような部屋だ。
 ゆっくりくつろげる十分な広さなのに、少年はいつも隅にいた。行くあてのない迷子みたいな顔をして、じっとしていた。
 少年は、世界のことをなにも知らなかった。知らないままに、たくさんの恐ろしいものを見すぎてしまった。だから自分を保護した大人の男が与えたこの部屋は、少年にとって居心地の悪い場所であった。
 母は病気で死に、父は兄が撃ち殺した。その時の怒りに満ちた兄の顔は鬼のように険しく、思い出すだけで小さな瞳が涙で濡れる。
 それでも彼は兄で、いつも守ってくれたから。必死に彼の後を追おうとしたが、転んで、ドブにはまって、オマケに頭に鳥のフンなんかが落ちてきたりしたから、彼には置いていかれてしまった。
 少年を拾ってくれた男は、レッドラインを思うほどに背が高かった。でもしっかりと自分に目線を合わせ、微笑みかけてくれた。両親以外の大人がそんなことしてくれたのは初めてで、つい助けを求めてしまったのだ。
 男に連れられて新しい部屋に来たものの、そこに本当に心を許せる家族はいない。世界にたったひとり取り残された気分になって、やっぱりその部屋は好きになれなかった。

 ある日、少年は自分のデスクの引き出しを開けた。右側下の、一番大きくて深い引き出しだ。何かを入れようとしたのか、それとも出そうとしたのか。今となっちゃ覚えていないが、何の気なしに開けたのだ。
 そして少年は血潮のように赤い眼をまんまるに見開いた。
 海が、入っていた。
 少年はあまりの驚きに、ヒッっと小さく息をのんで引き出しを閉めた。勢いが強すぎてその音にすらビビり、椅子から転げ落ちたほどだ。
 少年はすぐに起き上がり、いそいそと椅子に座り直した。頬を熟れたトマトのようにしてキョロキョロ辺りに目をやり、深呼吸をひとつだけ。ゆっくりと時間をかけて再び引き出しを開けると、やはりそこには底知れない青が詰まっていた。
 引き出しの海は波しぶきをあげ、海面はザブザブと揺らめく。水面が光を浴びてキラキラ輝くさまは、きっと昼間の海だ。
 うっそりと波の揺らぎを見つめながら、まるで本物の海だと少年は思った。
 そしてなにより気になるのは、切り取られた四角い海のその中心。船がひとつ浮かんでいた。まぶしいほどに黄色くて、まるっこいフォルムの船だ。少年の手のひらほどのサイズで、おもちゃのようにも見えた。
 ピンと立った黄色い背びれに帆を揺らし、船はたしかに前へ進んでいる。その船が常に引き出しの中央にあるように、海も動いているようだった。本物の海を天から見下ろし、船を観察している気分になる。
 その光景があんまり不思議なものだから、本物かどうか確かめたくて少年はそっと手を伸ばす。
 あと数センチで船に指が触れるというところで、控えめなノックが響いた。緊張で浅くなっていた呼吸を思い出したように取り戻し、少年は引き出しを閉めた。
 ノックは拾ってくれた男がしたものだった。引き出しのことは、なんとなく大人には言ってはいけないような気がした。だからそれを隠すように男に応じる。
 少年は後ろ髪をひかれる思いで、引き出しを一瞥した。

 それからというもの、少年は時間があるとき、いつも引き出しの中をながめた。引き出しの海は開けるたびに違う装いになり、それが少年の心を躍らせる。
 ある日はサンゴ彩る夏島の海。水は澄み、花の咲いたように散りばむ色彩の中を悠々と航行する黄色は、それを味わうかのように、ゆったりとした足どりだ。少年は、小魚の群れが船をチョンチョンとつつくのを、微笑ましげにながめた。
 またある日は闇の中だった。いつものように青い海が広がっていると思っていたからその黒さに一瞬驚き、しかしその真ん中にチラチラ動く光を見つけて、そこが深海だと理解した。
 サーチライトにうつる岩肌は、その険しさを主張する。見たことのない形の船だとは思っていたが、潜水艦だったのだ。
 たまに船は嵐の中にいた。帆をたたみ、これでもかというほど高い波にもてあそばれる。雨も、風も、怪物のように黄色に襲いかかった。
 何日も何日も辛抱して我慢して、やっと凪いだときは少年もガッツポーズを決めてやった。振り上げた手をぶつけて悶絶するなどした。
 やけに白いと思ったら、渡り鳥に集られていたりもする。増えたり減ったりする鳥たちは、おのおの自由に飛びたち、かと思うとまた違う個体が降りてくる。甲板に設置した洗濯ひもに白いツナギがはためく日は、鳥の白とツナギの白が黄色を埋め尽くし、一面の青によく映えた。
 船も、海も、引き出しを開くたびに目まぐるしく表情を変えていく。少年はいままで、こんな世界を知らなかった。見るものすべてが新しく、驚きに満ちていた。
 少年は幸せだったときのことを、ろくに覚えていない。頭に浮かぶ記憶は、ゴミ溜めの腐った臭いと、知らない大人の怖い顔。家族の手のぬくもり。怒声。冷たい涙。銃声。温い赤。
 ひび割れた心の奥まで喰い込んだ苦い感情は、いつも目の前に思い起こされる。
 しかし、この引き出しの海とたった一隻の奇妙な船を見ているだけで、すべてを忘れられたのだ。そのときばかりが少年の平穏であり、幸せの灯だった。
 船に人影は見えないが、いつも命を感じさせてくれた。人肌のようなぬくもりと、どんな海をも超えていく底知れないパワーがあった。ガラス玉のひび割れが、よりいっそう美しいもので満たされ、修復されていくような心地だった。

 そうやって幾年が過ぎ、少年は青年となった。

 紫煙をまとう青年は、指先の火をもみ消して、懐かしい部屋に踏み入った。長い間、立ち入ることのなかった部屋だ。近くなった天井と鼻につく少し埃っぽいにおいが、青年に時の流れを感じさせる。
 青年は古びてしまったデスクを見下ろす。精一杯しゃがんでも、少年だったころの目線にはとうてい近づけなくなった。青年は窮屈そうに背を丸めて、初めて引き出しを開けたあのときのように、ゆっくりと海を引き出した。
 するとそこには、ハッとするような赤が詰まっていた。
 一日の終わり。夕焼けの海である。
 そしてその中心に、あのころと変わらず、黄色い船がそこにあった。夕日を全身に浴びたパンプキン色の船が、どこかの島に寄り添うように海に浮かんでいた。
 青年は無意識にホッと息をついた。いつもと変わらぬ様子に、ひどく安心したのだ。しゃがんだ腰をそのまま下ろし、お行儀悪く尻を床につける。
 青年はついぞ、引き出しの海や黄色い船のことを他言しなかった。恩人である育ての親にも、尊敬する先輩方にも、可愛い後輩たちにも、いっさい明かすことはなかったし、その謎を解き明かすこともしなかった。
 ただそこに存在してくれるだけでよかったのだ。世界がその身に牙をむき、運命に翻弄されたとしても、変わらないものがあるだけで強くなれる。
 青年が少年だったころから幾度となく開けた引き出しの中には、常に表情を変える大海原と、自由に駆ける船があった。青年は、たしかにそれに救われたのだ。
 青年は肺いっぱいに透明な空気を満たし、すべて吐き出す。かすかに潮の香りがするような気がした。
 部屋の外から聞こえる、養父の声に耳を傾ける。
 引き出しを優しくそっと閉め、青年は部屋を後にした。
 そしてそれ以来、青年が部屋に立ち入ることはなかった。
 引き出しの海のその後は、誰も知らない。

 少年は不気味な白に侵食された肌を隠すように、帽子をかぶり直した。
 隣を歩く能天気で馬鹿なコラソンは話を聞かないし、時おり体はひどく痛む。おまけに行く先々の医者の暴言が、千本のメスになって小さなハートに突き刺さる。まるで拷問だ。
 自分は地獄の門のすぐそばに立ってるというのに、コラソンがそれをくぐることを許さない。それなのに彼と繋いだ手が、涙が出るほど温かいのを感じる。だから少年は、コラソンをとても残酷な男だと思った。
 少年の幸せはいつも白とともにあったが、絶望もまた白とともにあった。故郷の滅亡で腹の底から真黒いものが溢れ出し、すべてを埋め尽くし、心までをも押し潰した。
 そして今の少年にとって、黒は白よりよほど安心できる場所だ。黒の中で光る大切なものは、あとどれだけ白いモミジで掴んでいられるだろう。
 少年が繋いだ手をキュッと握ると、大きくてぶ厚い手がそれを優しく包んだ。

 彼の生きざまは、まさにピエロだ。
 決して届かぬ光に手を伸ばし続ける、まさに狂人。反吐が出るほどに愚直で、みじめったらしく海を駆けずり回るさまは、いっそ憐れである。
 海賊も政府も世界すら敵に回したコラさんは、いったい何を背に闘うのか。何のために闘うのか。何を求めて闘うのか。少年にはちっともわからないが、きっとそれは何より大切なものなのだろうと思った。
「オペオペの実でお前の病気が治ったらどこへ行きたい。どこにだって連れてってやる!」
「まずは逃げるのが優先だろ。あんたがドジって敵に見つからないなら、どこだっていい」
「ガキがよォ、夢の無ェこというんじゃねェよ」
「コラさんが頼り無ェんだ。大人のくせに」
「言うじゃねェか」
 小舟に乗り込み、海を行く。パンパンに膨らんだ帆を、コラさんが器用に操作した。
 まぶしいほどくだらない彼の妄想に、少年はフンと小さく鼻を鳴らす。
「夢なんて見てられるかよ」
「いまに見てろよ、病気治してお前の人生をバラ色にしてやる!」
「ハハ。アンタに任せたら、バラ色どころか人生が大炎上しそうだ」
 コラさんの大げさなため息が波間に消える。
「そう言うなって。まァ聞けクソガキ。オペオペの実を食ったら世界中から追われることになる。一か所には長く留まれないだろう」
「へえ、それでどうバラ色にしてくれるって?」
 少年は意地悪な顔をしてコラさんに尋ねた。答える彼は歌うように言葉を紡ぐ。
「それは気の持ちようってやつさ! おれはお前が元気でいてくれりゃあそれでいいし、追われてたって一緒に旅ができたら楽しいだろう」
「それでバラ色なのは、おれのじゃなくて、あんたの人生じゃねェか」
「ア、ほんとだ、ドジった! お前は賢いな、ロー」
「あんたはバカだな、コラさん」
 舟のリズムに合わせるように体は痛むが、一人だったころよりも、ずいぶんとマシだった。しかし波を越えるごとに、たしかに病の『終わり』は近づいている。
「舟ももっと丈夫なやつにしよう! こんな小舟じゃなくてな。おれは黄色がいい。自由の色だ!」
「あ? 追われるって自覚あんのか? 黄色なんて目立ってしょうがねェだろ。却下だ」
「えー⁉」
 冷たくなった風が、ピンと頬をはじく。
 大きなコラさんと身を寄せ合って外套の隙間を塞いだ。
「だがよォ、ロー……たとえばもしお前が道に迷っても、黄色だったらすぐに見つけられるだろ。おれは知ってるんだ。どんな海にいても、天気がどんなだったとしても、黄色い船はよく目立つ。だからきっとお前はおれの所に帰ってこられる」
 二人の目が合う。コラさんの赤い瞳に、どこかの黄色が浮かんだ。
 同時に、少年の瞳が瞬いた。月の花がひらくように、輝いた。
 少年の白い故郷が焼かれたとき、帰る場所の存在なんてすっかり諦めていた。数年間身を置いていたファミリーだって、行くべきところへ行くまでの仮置き場だった。
 まさか。まさかここが。黒くてフワフワの外套の中が。この男の腕の中が。ハートに優しく包まれたこの場所が、帰る場所だなんて。それが許されるだなんて、考えつきもしなかった。
 少年は身をよじって目からこぼれた一粒の海を隠す。
 船の色なんて、なんでもよかった。
「ああそうか。たしかにコラさんはドジって迷子になりそうだしな。いいぜ、黄色でも」
「このヤロ! おれが迷子になんてなるか!」
「へへへ……
 この暖かい場所へ帰って来られるなら、何色でも。
 小舟がひときわ大きく揺れた。眼前を覆う大きな黒い雲に日が陰り、青の絨毯はとたんに色褪せる。

 嵐だ。
===
 絶望の白に、温かい赤が飛び散る。
 大好きな恩人の死にざまは、まさにピエロだった。
===
 それから幾年が過ぎ、白い少年は青年になった。
 赤光に包まれた青年は、とある島から自身が船長を務める船を眺めた。空はハッとするような夕焼けである。
 放浪が好きな青年は、島に着いてはすぐに船を離れる。興味と好奇心にまかせてフラフラと彷徨い、海のよく見える道を辿って船へ戻るこの瞬間が、いっとう好きだった。
 どこかの誰かが言ったように、黄色い船はよく目立つ。青年の友人がくれた船は、偶然にも目を見張るほどの見事な黄色で、まるっこい形をしている潜水艦だ。
 しかし見た目のかわいらしさから想像できないが、世界でもトップクラスに硬い金属でできており、その性能は新世界のどんな顔した海だって乗り切れるほど。生半可な敵では見つけられないし、沈められない。そのあつい信頼は十数年の実績に基づく正当な評価である。
 クルーはみんな賑やかで気のいいやつらだ。青年を慕ってついて来た者もいれば、自分の野望のために乗船した者もいる。種族も出身もてんでバラバラだが、みんながみんなそれぞれの分野で腕が立つ。どこぞの>嘘つきと違って、頼りになるクルーたちだ。
 夕日を浴びてパンプキン色に染まった船は、いつも通りに変わらず停泊しており、それが妙に心を落ち着かせる。
 風は凪。ただ日が沈むのを待ちながら、青年は静かに目をつむる。
 恩人から受け取った、やわらかい嘘で包まれたハートは、たしかに青年が受け継いだ。そして青年からクルーたちへ。海賊らしからぬ愛に溢れた自由の黄色い潜水艦は、どんな荒波さえ越えて果てない海を突き進む。
 かつて心を失った少年はもういない。白い故郷の代わりに、黒い外套の代わりに、帰る場所を見つけたからだ。
 青年は小さく「やっぱり――」とつぶやき、懐かしそうに頬を緩める。やはり彼は滑稽なピエロだった。
「迷子になったのはアンタだよ、コラさん」
 瞳の奥の一粒の海は、紫の空にとけて、きえた。