あおい
2025-11-23 01:26:20
17985文字
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リインカーネーションの≒

現パロでVの記憶がない学生ユーリと、記憶がある物理教師レイヴンの話。

『ユーリ』
 また、この夢だ。
 ひどく懐かしい、安心する声で、誰かがオレの名前を呼ぶ。
 何度ここに訪れても靄がかった顔はひどく不鮮明で、それでもその表情は笑っている気がした。
『    』
 浮かんだ名前を呼び返してみても頭は文字の羅列を認識せず、そいつの纏う紫の羽織だけが、やけに色鮮やかで目に焼き付く。
 きっと、オレにとってどうでもよくない、大事な記憶のはずなのに。
 一陣の風にぶわりと舞い上がる桜吹雪は、街全体を包みこんでると錯覚を起こす聳え立つ木は、忘れ難い情景だというのにどこに在るのかさえわからない。
『俺がいなくなったら青年は、ぜんぶ忘れてちょうだいね』
 諦めたみたいな、穏やかに言うなよ。忘れたくねぇんだ。あんたの顔も声も温かさも、一緒にいた思い出も全部。
 あんたはそんなこと言わない。言わないはずなんだ。だってあんたの命は──、



 ──────
 ピピピピピ……ッ、ピピピピ……ッ、
 昨夜から電源コードに繋げたままのスマホから、流れるけたたましいアラーム音にのそりと上体を起き上がらせ、ベッドサイドへと手を伸ばす。
 小さい頃から度々見ていたあの夢。
 高校に進学してから更に頻度は増えてるってのに、未だに詳しい内容も、相手の顔も声も、目が覚めると同時にキレイさっぱり記憶から消えてしまう。
 沈黙したスマホをそのまま元の位置へと戻し、天井を見上げて夢現に思い出そうと試みるものの、予期せぬ寒気に体が震えて思考を停止した。Tシャツが、汗でじっとり濡れた肌にへばりついて気持ちわるい。ついでに顔も火照ってる気がして、上手く思考が巡らないのは風邪による頭痛の影響だろうか。迂闊にも学校行事がある日に体調を崩してしまい、横たわるオレの上で寝そべる重しに身動きがとれなかった。
……ラピード、重ぇ」
「わふっ」
……心配してくれてありがとよ。ちょっとだるいだけだ大丈夫、今日に限って休むわけにもいかねぇしな」
 ざらりとした舌で頬を舐めてくる相棒に、額を擦り付けながら青い毛並みを撫でてやる。
 寝苦しくしてんのか普段クールな相棒は、オレがあの夢を見た日に決まって寝床へとやって来ては、ざわつく心に寄り添って、人より幾分高い体温をくれる。そうして落ち着いた頃合いを見計らって、はやく起きろとばかりに離れていくのだ。
「さてと、起きますか」
 汗で湿った衣類をカゴに脱ぎ捨て、シャワーを軽く浴びてから、ほんのり土の汚れが染み付いてしまった体操服とジャージに袖を通す。学校指定のワイシャツとズボンは紺色のカバンにくしゃくしゃに詰め込んで。
 自分用に焼き色がついた四枚切りの食パンを齧りつつ、ラピードの皿に好物の肉片をごろごろと転がし、咀嚼もそこそこに牛乳を喉へと流し込んだ。
「じゃあ行ってくんなラピード」
「んわぅっ」
「わかってるよ、そう言うなって」
 頭痛とだるさくらい、向こうに着いて薬でも飲みゃどうにかなんだろ。
 こういう時一緒になって口うるさく説教を述べる幼馴染みのフレンは、生徒会長の役割を果たすべく、今日の登校は別々だったのが幸いだ。
 体調が優れないのを軽く考え、呆れた声色で送り出すラピードの頭をひと撫でして、玄関のドアをバタンと閉めた。



 ──────
 校門に近付くにつれ喧騒は増していき、横目に過ぎる見知った顔に朝の挨拶を交わして、校舎の二階にある教室に向かうでもなく、離れた別棟にある一室へと青年は足を運ぶ。慣れ親しんだ振る舞いで色褪せた白い引き戸をぞんざいに扱い、部屋の中にいるであろう教師を呼んだ。
「おっさんいるか〜?」
 教師は開いた扉に顔を向け、持ち上げたカップからは湯気が立つインスタントコーヒーの香りが広がっている。
「だ〜か〜ら〜、俺のことはおっさんじゃなくて先生……ってまぁいいわ。なぁにローウェルくん朝っぱらから。今日はずっと楽しみにしてた体育祭でしょ? こんなとこで油打ってていいの?」
「副担任のくせに準備もしねぇで自分の城で油売ってる奴がよく言うぜ」
「人聞きが悪いわねぇ、準備なら昨日あらかた終わってるんですぅ」
 部屋の主を気にも止めず、ズカズカと部屋に踏み入る光景もほぼ日課となっていたが、イベント事に重なる今日は例外だろうと油断していた。よれた白衣を羽織り、煤けた灰色の髪を後頭部で一つに結ぶ、枯れた容貌の男……物理教師であるレイヴンは呆れた表情を浮かべて、一回り以上歳の離れた学生の軽口に付き合う。歳の差を感じさせない会話の応酬は、長年一緒に過ごした友人のようであった。
「へぇ? まぁそういうことにしといてやるよ。それよりおっさん、風邪薬か頭痛薬持ってねぇか?」
「風邪薬ぃ? えっ、具合悪いならおとなしく保健室行ったほうがいいんじゃないの? 一人で行くのが怖いなら先生が連れてったげようか?」
「保健室なんて行ったら休まされんだろ。熱もねぇし……、それとも心配してくれてんのか? センセーは」
「口の減らない子ねぇ。俺だって体調が悪い子の心配くらいするわよ、大人なんだから」
 ユーリの額を人差し指で軽く弾くと、大袈裟に額を両手で押さえ、体罰だと宣って加害者を見下ろす。その年相応の感情豊かな表情に、やわらかな笑い声を吐き出したレイヴンは、湖畔色の瞳を細めた。
「あんま無理すんじゃないわよ。青春は一度きりって言ってもたかが学校行事なんだから」
 そう言って棚に常備していた風邪薬を青年に向かって放り投げ、小箱を掴まえたユーリは口元に弧を描く。
「薬、あんがとなおっさん」
「はいはい、多めにあげるからちゃあんと昼も飲みなさいな」
 ぱぁっと夜空を照らす星の瞬きを思わせる笑顔を投げ、嵐が去っていくのを見送るレイヴンは、やる気なさ気にひらひらと手のひらを振った。
……何事もなきゃ良いんだけど」

 ──昔から、自分だけが無茶をして押し通すきらいがあるから。

 一人虚空に溢した彼は、ぬるくなった珈琲を飲み干して、校庭へと向かうのだった。



 ──────
 無事渡した薬が効いたのか、参加した全ての競技で彗星のごとく快進撃を続ける彼を眺めては、杞憂だったと安堵していた。
 そもそも、今世も同様ユーリとフレンが幼馴染みで同じチームというだけで反則技じゃないだろうか。……いや、それでも二人揃って前世の記憶がない分、ある一部の奴達より不利ではあるか。
 見知った顔ばかりが溢れるこの摩訶不思議な学園では、前世の記憶を持つ人間が数多くいるようで。それこそ現在騎馬戦の下でユーリを支える赤い長髪を揺らす三枚目の彼と、ツンツンと硬そうな鳶色の髪が乱れた、真っ直ぐな心持ちの彼らのように。それでもこの世に生を受ける前から続く関係性が与えられなくとも、唯一無二であり続ける姿は、たかだか先生と生徒の関係でしかない自分と青年の身の上を重ねてしまうと、やはり羨ましくもあるのだ。

 かつての俺は、一度は戦場で死に損なった命をユーリの言葉で、ギルド『凛々の明星』に預けるカタチで救われた。
 己の意思で手を汚し、正義を貫き通すユーリの信念に、信頼と共に向けられた彼のあどけなさに、無自覚に注がれる幸福に、年甲斐もなく恋をして、何の因果か晴れてそういう仲にもなった。星喰みを鎮めた後始末によって世界自体が決して穏やかとは言い難い状況では合ったものの、二人で寄り添い合った一生はとても幸せで、後悔などなかった。だから、こうしてまた会えただけでも儲けもんだ。
 たとえ、あの日々の恋心が残っていたとしても。
 此度の彼は命を脅かされる機会が少ない世界で、至って普通の青春を送り、素敵なオンナノコと真っ当な恋をして、かわいい子を授かり、その一生を終えるだろう。
 会えなかった数十年、未練がましくただひたすら青年を想う間に、諦める覚悟は……できている。

 一際大きく沸き上がる歓声に、思考の海へと沈んでいた顔を校庭へと戻す。接戦を制し、最後の種目が青年達の勝利を掲げて終わりを告げた瞬間、朝からずっと張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、学友達と喜びを分かち合う前に、青年はふらりとよろけて地面へと倒れ込んだ。

「っ……ユーリっ!!」

 慌ててテントから駆け寄り、青年の上体を抱き起こすフレンの側で白衣が汚れるのも構わずしゃがみ込む。上気した頬に触れ、手早く体温確認を済ませると、意識が混濁している彼の腕を肩に引っ掛け体を支えた。
「レイヴン先生……!」
「そんな顔しなさんなって優等生、ただの風邪でしょ? 後は大人に任せて、ちょいと無茶したやんちゃくれの代わりに表彰されてきてやんな」
「いえ、僕も付き添います。一緒に運ばせてください」
 生徒会長である彼が付き添ったところですぐ呼び出されることは明白だろうに。太陽の光に反射する金糸が眩しく輝き、透き通った海色の瞳がキラキラと凪いで、これ以上言っても意思は揺らがないと、言葉以上にわからせる。
……ったく、そうやって融通の利かないところ、変わんないわね。わかった、じゃあ一緒に支えてくれる? 優等生くん」
「はいっ、任せてください!」
 人魔戦争の英雄という肩書きを持たない俺が、もう聴けるはずもなかった憧憬に似た声色。
……頼もしいな」
 明るい返事をよこす姿に部下だった頃の『フレン』が重なる。
 いつまでも色褪せない追憶に目を細め、形容し難い鈍痛を、笑顔に隠して飲み込んだ。

 青年を保健室のベッドまで送り届けて間もなく、案の定副会長のナタリアから呼び出しを受けたフレンは、生徒会長として表彰式のあれやこれやに、一旦傍を離れた。
「いいですかアッシュ、ちゃんと手当てを受けてくださいね」
……ああ」
 いつでも万人に爽やかさを振り撒く人柄のフレンと対照に、彼女が置いていった無愛想を体現する青年は、一度もこちらを向かず眉間に皺を寄せていた。いいとこの坊ちゃんであるらしい彼が、ナタリアの嬢ちゃん以外と和やかに話をしている場面は数少ない。彼の無邪気な双子の弟くんは、ベッドですやすや寝ている青年に加えて、ロイドやゼロス達とも大層仲良くしている姿を見かけるっていうのに。兄弟で比べられるのも地雷っぽいけれども。
 先ほどの騎馬戦で擦り切れたであろう薄く血に染まる彼の腕を見て、毎年わざわざ怪我人を出すようなお遊び、いっそなくしてしまえばいいのに。そんなこと末端の一教師が正論を持ち出して考えたところで、簡単に変えられる筈もないが。
 備え付けの薬棚から必要な物を取り出している隙に、構わず視界の端に、たなびく深い真紅の長髪が映る。おいおい、言われた側から帰ろうとするんじゃねぇっての。
「ちょ、ちょい待ちおたく、怪我してんでしょ!? すぐ終わらせっからちゃんと手当されなさいな」
「かすり傷だ、必要ない」
「必要ないこたぁねーでしょうよ」
「お前の手当ては受けん……っ!」
 慌ててドアの外側に越えようとする服の裾を掴んで引き留めると、振り返った侮蔑の眼が俺を見据え怒声を浴びる。
 相変わらず不器用なこって。
 急な大声に耳が痛むがナタリアの嬢ちゃんに任された手前、みすみす怪我人を放っておくわけにもいかない。
「ここにゃ具合悪い奴もいんだから、保健室では静かにしろってお坊ちゃんは習わなかった? それに、おたくが良くてもナタリアちゃんはどう思うかねぇ?」
…………」 
「最後まで付き添わなかった自分を後悔するか、その上多忙な彼女の時間を些事に費やさせる? 意地張んのは構わんけど、手当てもせず帰ったらどうなるかわかんでしょ。やめときな」
 彼女の名前を出すや否や、ふんっと大きく不本意を示すと掴んだ手を振り払い、来訪者用の簡素な丸椅子にドカリと座った。
 これだから大切なものがある若人は容易いわ。要求を通すには相手の弱みを握るに限る。
 こちらとて長年権力を笠に着た貴族が蔓延る騎士団で、一癖も二癖もある荒くれ者たちが集うギルドで、思春期の子供達が育む学舎で、伊達に仲裁役を担ってきてはいない。ツンケンした青少年の一人くらい、軽くあしらえないと先生なんて職業やってらんないのよ。
 気が変わらないうちに消毒液の蓋を開け、対面の椅子に腰をかけるとアッシュはわざとらしく顔を逸らす。
「いずれ人の上に立つ人間が、吝かでないにしても手当する相手に不遜な態度はダメでない?」
 まぁここを卒業したら二度と関わることもないおじさんには関係ないだろうけれど。お上の下、そこそこの役職で生きてきた経験からの、大きなお世話だ。
 手当ての最中、あれこれとりとめもないお喋りで間を繋ごうと画策するも、ひたすらに相槌さえ打つことなく仏頂面を貫き通すクソガキに、わざと痛くしてやろうかと頭をよぎるが、大人気ないのでやめておいた。

 ……寝ている青年の調子はどうだろうか。
 話しかけるのを放棄した無言の空間はとても静かだった。それほど離れていやしないのに、ベッドの中で眠る彼の寝息も、寝返りの音も聞こえてこない。チラリと横目で目をやると、穏やかな表情を変えず、布団の中に収まっている姿に胸を撫で下ろす。
 以前の関係性のままだったなら、無茶をさせて気にかけるぐらいなら、朝の時点で遠慮なくお互いの主張を言い合いあって、無理やりベッドへと担ぎ込んで、気絶させてでも寝かせたかもしれない。
 ……いや、それでもユーリなら隙を突いて脱走すっかな。
 叶わないことを過去と照らし合わせて縋り付いて、苦言を呈すことさえ実行に移せなかった情けない自分に自嘲の笑みを浮かべる。
「辛気臭い顔を晒すな、反吐が出る」
「えぇえええ……?」
 包帯の巻き終わりをテープで留めると、ようやく開いた口が何を言うかと思えば突然投げつけられた悪態に、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
 ……察するに、おそらくこいつは以前の俺に出会った時の記憶がある。
 根拠はないが、アッシュに対しておどけて絡んだ確執がなければ、一応学園に在籍する生徒である以上、さすがの彼も目上の一教師相手にここまで不遜な態度は取らないように思う。
 ったく、以前生きづらそうに辛気臭い顔をしていたのはあちらさんだっていうのに。 
 鋭利すぎる台詞の裏に隠された、不慣れな彼の慰めが刺さる。捻くれ者の俺じゃなきゃ、言葉通りに受け取って勘違いされてるところだ。
 とどのつまり『何もせず嘆くってんなら顔に出すな。だったらお調子者としてへらへら笑ってたアホ面の方が幾分かマシだ』ってとこ?
「そうは言ってもねぇ……、」
 小さくなった包帯を丸め、机に広げたガーゼや消毒液を救急箱に片付ける手元へと視線を落とす。
 女々しいのは重々承知している。死と隣り合わせだった頃に比べるとずいぶん下手になったもんだが、本来手放すと決めたなら一番に態度を嘘で塗り固めなければならない。ずるずると引きずり続けるくらいなら、当たって砕けるのも一つの手だ。
 結局どちらも中途半端に選べずに、臆病な俺はただただ手をこまねいているだけ。 
……手当ては、礼を言う」
「ふっ、はい、どういたしまして」
 ぶっきらぼうにそう吐き捨てて席を立つ彼に、ふはっと笑いを溢すと俺を一瞥して足早に去っていく。
……強い子ねぇ」
 それを告げたということはきっと、婚約者である彼女は記憶を引き継いでいない気がする。
 それでも彼の共にあろうとする姿がいや眩しくて、小さくなってく後ろ姿に目を閉じた。

「アッシュ……?」
「よ〜お、ユーリぃ、元気してるぅ〜?」
「静かに入れよゼロス、まだ具合悪くて寝てたらどうすんだよ」
「え〜っ、ロイドくんに静かにしてとか言われちゃったぁ? 俺さま超ショック〜!」
 間延びした軽快な声をあげて入室してきたゼロスは、後ろに続く嗜める一言によって、わざとらしく項垂れる。
「もぉ〜なんなのぉ、さっきから入れ替わり立ち替わりぃ〜! おっさん若人の相手するの疲れちゃったわよ〜」
 寡黙なアッシュと打って変わって瞬く間に賑やかになった室内に、気を緩めたレイヴンは保健教諭用の回転椅子の背もたれへと体を預け、とろけたチーズのように突っ伏す。
「ユーリのお見舞いならフレン以外じゃ俺達が最初だろ? アッシュもいたみたいだけどさ」
「正直おたくが一番疲れるのよねぇ……
「なんでだよっ!?」
「まぁ……ハニーは、ねぇ?」
 色恋ごと等にはてんで鈍いクセに、会話の節々で溢した感情の機微に対してだけ察しの良さを発揮するロイドは、己の見たくないところをいい加減に流してくれない。
 要するに相性が悪すぎる。
 愚直な若者って生き物は、どうしてこんなにも無遠慮に境界線を飛び越えて、人のやわらかな所を引きずり出すのか。かつて同類だったゼロスさえ陥落してしまうのだ、彼の手にかかると。こっちが必死に蓋をしてやり過ごしてるってのに、真っ直ぐ本心に踏み入って、丸裸に暴かれる。
「ま、ローウェルくんのお見舞いならそっちのベッドだから、どうぞごゆっくり〜。俺様は疲れたからちょいとサボって横にでもなろうかね」
「そりゃもちろんユーリの見舞いもあるけど、俺さまの次に男前なハニーがケガしちゃったから診てくんない?」
 ユーリが寝ている隣を遮るカーテンを横に開き、白衣がシワになるのも構わずベッドへ潜り込もうとすると、ロイドの肩に手を置き、自分の方へと引き寄せるゼロスに呼び止められた。
「こんなのちょっとしたかすり傷だろ? 大袈裟だなぁゼロスは」
「かすり傷だって放置して、万が一アトなんざ残っちゃ大変だろ。俺さまが治せるなら治してやりたいけど、もう回復術なんて使えやしないし〜」
 確かにロイドの頬には五線譜を書いた擦り傷が、うっすらと赤く色づいている。怪我をした本人が大袈裟だというのも分からいでもないくらい軽い傷跡ではあったが、ロイド周りの過保護な面々が脳裏に浮かぶ。
 めんどうに思いつつも立場上生徒に対応させるわけにいかず、気だるげにベッドから起き上がり、用意しなおした道具を手元に置く。ピンセットで摘んだ脱脂綿が傷に触れ、しゅわりと泡立った薬液が雑菌を押し流す痛みに、ロイドは小さく声をあげ一瞬だけ片目を瞑る。一通り処置を済ませた後、男前が上がったわねなんて軽口を叩いて大きめの絆創膏をぺたりと貼った。
「はい終わり。やれやれ、まったくおたくらは相変わらずお熱いのねぇ〜」
「そりゃあ、どっかのおっさんと違って俺さまは自分以外の誰かにハニーのこと預けたくないワケ。まぁコレットちゃんならいいけどぉ」
 “熱い”の意味に首を傾げたロイドをよそに、金属の骨組みがギシリと音を立てて、直前まで俺が寝ようとしていたベッドへゼロスは腰かける。
 断じて彼らは在りし日の俺とユーリのような関係ではないが、八方美人で飄々としているゼロスが人目も憚らず、素直に独占と牽制を表明する姿勢は、恋愛やら性欲やらで関係性を線引きしてラベリングするより、“信頼”という名で複雑に絡み合う友愛独自の重さがあった。
「お二人さんいちゃいちゃすんならどこか他所でやってくんない?」
「似たもの同士のよしみとして、俺さまこれでもおっさんのこと心配してんのよ?」
……全然似てないでしょうよ。それに、覚えてなくても青年はちゃあんと日々青春を謳歌してんだから、思い出すだけ野暮ってもんよ」
 自他ともに俺達の性質は似ていたと認めてはいるが、大切なものを離したくないと意思表示ができるほど強くなったゼロスと、はなから関係を放棄している俺が似ていると形容するのはいただけない。
「でも、ユーリは思い出したいかもしれないだろ。思い出さないままでいいって、レイヴンが決めるのは不公平だと思う」
……いやあ、さっすがロイドくんは言う事が違うわねぇ、おっさん惚れちゃいそう〜」
「だからそうやって……っ!」
「まぁまぁロイドくん、こういう手前は俺らがなに言ったところで聞かねぇんだから」
 悪かったわねぇ、わからず屋で。
 だってそうだろ。過ぎし日に縛られた俺の我が儘で、青年の未来を狭める権利などあるのだろうか。

 たとえ、それを選ぶのが青年だったとしても。 



 ──────
『ユーリっ!!』
 体があつい、眩暈がする。朦朧とした意識の外、遠くの方で叫びにも似た声に名前を呼ばれた気がした。
 おっさんの声……
 でもどこか懐かしい、聞き馴染みがあるようで、夢の続きの様な。夢現の答えがはっきりしないまま体力の限界に達し、オレはかろうじて繋ぎ止めていた意識を手放した。
 
 ゆっくり瞼を開けると、寝起きでぼんやりかすれて見える白いカーテンに、鼻につく消毒液の匂い。
 薄らと覚醒し始めた意識の中、おっさんと聴き馴染みのある二人分の声が、薄い布越しで途切れ途切れではあるものの聞こえてくる。話す態度もお互い名前を呼ぶ声も、先生と生徒以上に親しみ深い間柄のそれで。冗談でもおっさんの口から「惚れる」だなんて飛び出すことに、嫉妬で沸き立つ血が全身を這う。
 どうして、そいつらは許されて、オレはダメなんだ。
 ゼロスとロイドだけじゃない。以前、おっさんとジュディが話してるとこに偶然遭遇した時だって、悪さしねぇか警戒して物陰で様子を窺ってたのがアホらしくなる位、穏やかな表情で談笑していた。あんな風に、長年連れ添って気心の知れた相手みたく振る舞うとこを、オレは知らない。
 時折遠くを見やり、哀愁の漂う微笑みを浮かべるその姿に、ざわざわと心音が乱れる。オレに対しては明確な態度で、大人と子供の境界線を越えまいとしてくるくせに。
 頭まで布団を被りモヤモヤとした感情に苛まれたまま、今すぐにでも飛び出してやりたい衝動を必死に抑えた。
「んで、ハニーはユーリが起きるまで待ってんの?」
「ん〜、どうするかなぁ……
「ていうかぁユーリの奴もう、」
……今何時だ?」
 ボサボサになった髪をかきあげ、大口開いた欠伸を隠しもせずに、シャッっとカーテンを開いて姿を現す。せっかく起きるまで待ってくれてるとこ、いつまでも待たせるわけにいかないしな。別に、これ以上仲良くしてんのが聞きたくないとかそういうんじゃない。
「おっ、ローウェル君目ぇ覚めた〜? ほんとは生徒会長くんも付き添ってくれてたんだけど、役職上呼び出されちゃって。ま、ローウェルくんは目立つの好きじゃないから表彰式も終わったいいタイミングじゃない? 打ち上げ、食いっぱぐれなくて良かったわね」
 浅黒い手が額と手首に触れ、視線は合わず真剣に手元を見つめる。熱と脈拍を測られているだけなのはわかっちゃいるけど、目と鼻の先へと近付いてくる顔に心臓が跳ねた。
 実際目立つことは好きじゃねぇけど……、なんだか、オレを通して他の誰かを見ているようで癪に障った。
……名前、さっきみたいに呼ばねぇの?」
「さっきって?」
「いや……、なんでもない」
 確信はないけど、気絶する前に駆けつけた声はおっさんだったような気がして、カマをかけようと試みても不思議そうに首を傾げて見せるだけで、それらしい態度は見受けられずに自分の勘違いだったかと決まりが悪い。
「変な子ねぇ。まだ熱い気がすっけど、しばらく休んで元気そうだし、心配してくれたワンコがあとで迎えに来てくれるそうだから、安心して打ち上げ参加してきなさいな」
……? なぁオレ、ラピードのことおっさんに「ユーリっ! あんた熱出たぐらいで一体いつまで寝こけてんのっ!! さっさと起きて準備くらい手伝いなさいよっ!!」
「ちょ、待てよリタ、まだ話が……!」
「問答無用っ!!」
 フレンと一緒に居たなら話の出所はそこかと納得しかけるも、些細な違和感を拭いたくて投げかけた言葉を遮り、リタが扉を軋ませて勢いよく飛び込んできた。
 目を丸くしてるうちにガシッと首根っこを掴まれ、もと来た道を引きずられていく。部屋の外で待ち構えていたエステルと、不敵に笑うジュディにオレを引き渡したリタは後ろを振り返り、部屋の中に残されたおっさんに向かって怒鳴り声をあげる。
「そっちのあんたもっ! いつまでもうだうだしてんじゃないわよこのヘタレ!!」

『アンタ以外は、ここから卒業しても続く関係性をもう一度築いたってのに、もう学生生活も折り返し地点を過ぎているのに、このままだとアンタだけが、アンタだけを、卒業と同時に過去へと置き去りにしてしまう。そんなの、イヤよ。間違ってる』
 鮮やかな翡翠が、涙を飲む眼差しが一直線に俺を射抜く。
 こんな奴、放っておけばいいのに。誰も彼もおせっかいで、どんなときでも不器用でまっすぐで、情に厚い人間ほど、ひどく優しくて可哀そうだと同情してしまう。
 もう、リタっちがよく知る俺じゃないってのに。
 リタっちの心の声を知らなくても、俺を心配してくれるのはわかるから。
「打ち上げ、遅れちゃうわよ少年少女達」
 気付かないふりをしてその背を押し、謝意を含んだ笑顔で送り出した。



 ──────
 校庭の真ん中に積み上げられた木材が、ぱちぱちと燃える破裂音を横切り、打ち上げに賑わう若人達の声を背にして薄闇を歩く。一歩一歩サンダルで足を踏み出す度、ざりざりと砂利の音が夜に溶け、遠くにいても鼻腔をくすぐる肉の香りは、食欲をそそった。レイヴンは日がな一日碌に食事をしていなかったのを思い出すが、それを置いてでも、体調と崩した相棒を甲斐甲斐しく迎えに来る彼に会いたかった。
 まだ人気がない校門の前でほのかな電灯に照らされた青い背中は、耳に届いた雑音に振り返る。見上げた凛々しい顔立ちにきらりと光る眼は、レイヴンを見つけてその腰を上げた。
…… 久しぶり、わんこ。肉の一皿でも持ってくりゃ良かったわね」
 懐かしさが漏れ出た言葉にわふっと返事をしたラピードは、燻んだ色のズボンにふわふわの尻尾を絡め、ゆっくりとした動作で周囲をくるくると回る。再会に喜び、頭を撫でようとしゃがみこむと足の間で停止した。犬にしては大きな体に上体を預けても嫌がることはなく、覆い被さる抱擁を甘んじて受け入れる。
「相変わらずやさし〜のね。……会えて良かった」
 口のかたい彼の前では、どうにも寄りかかって甘えがちなってしまう。ツヤツヤの毛並みに顔を埋めたまま、内緒話がラピードにしか聞こえないようにか細く呟いた。
「また、最初に俺を見つけてくれてあんがとね」
 何年か前に一度、偶然一人で街中を闊歩するラピードと視界が交わった時、どれほど孤独が救われただろうか。
 そして今や限られた生活圏の中で、最も邂逅するのが難しかったから。

「珍しいね、ラピードが初対面の人に懐くなんて」
 やわらかな毛並みの感触とあたたかな熱を堪能していると、突如として頭上から降ってきた声にはっと顔をあげ、へらりと軽薄な笑顔を取り繕う。
「急に話しかけられると驚いちゃうじゃない生徒会長くん。こう見えておっさん動物に好かれる方なんよ?」
「僕と、ユーリのことは名前で呼ばないんですね」
「かぁわいい女の子ならともかく、センセ野郎を名前で呼ぶ趣味ないの〜」
「ラピードは知ってたのかい?」
「わんっ!」
 陰日向がない性格ながら侮れないその爽やかな笑顔に、どうしてか投げかけられた核心をつく質問に、レイヴンは内心息が止まりそうになる。海色の視線は白衣から伸びる腕の中へと流れてラピードと見つめ合い、肯定と取れる鳴き声にフレンは長い睫毛を伏せた。
……何故、僕は忘れてしまっていたんだろう」
 らしくない絶え入るような声からはあるはずのない後悔と、『あんなに憧れていたのに』という自責の念が感じ取れた。
 フレンの沈痛な面持ちに、俺からすり抜けて彼の足に鼻を擦り寄せ慰めるラピードと、何がきっかけになって思い出したのかは分からないけれど、目線一つ分上にある彼の頭を腕の中に抱きしめる。
「別に、あの頃と違った人生だっていいじゃない」
「レイヴンさん、すみません」
「なんでフレンちゃんが謝んのよ〜、また会えたってだけでお釣りが来るんだから」
 肩口で震えた声を押し殺しているのは、真面目さ故に、自分が泣く立場ではないと慮ってのことだろう。
 ちょいと融通が利かないけれどやさしい子。空っぽだった愚かな英雄さえ、欺き続けた姿は紛れもない『騎士』であり、民衆の平穏が守られていたことは事実であると。認め、許し、贖罪の機会を与えて、真の騎士になろうと『シュヴァーン』を掬い上げてくれたのは紛れもなく彼だった。

……なにやってんだ、こんなとこで」
 声がした校舎側に目をやると、宵闇の夜空に溶け始めた愛しい青年。背後で立ち昇る炎の明るさで綺麗な顔には影が落ち、隠れた表情は見えないがその声音には明瞭たる怒気が含まれていた。
「生徒会長様が、隠れて教師と抱き合ってていいのかよ」
「誤解だよユーリ。レイヴンさんとは古い知り合いでね、昔話に花を咲かせていたら感極まってしまったんだ。けれども立場上、確かに外での抱擁はあまり褒められたことではなかったね」
……そんな話、今まで聞いたことねぇけど」
「そっ、そうそう! あんなに小さかったフレンちゃんがねぇ、ちょっと見ないうちにすっかり立派になっちゃって……、おっさん感動で涙が……
 喧嘩に発展しそうな張り詰めた空気を、親戚のおじさんよろしくわしゃわしゃとフレンの尖った髪型を乱してみても、納得のいかない黒曜石がじとりとレイヴンに睨みを利かせる。
「ホントかウソかわかんねぇけど、誤魔化そうとしてんのはわかっから、とりあえず一発殴らせろ」
「なんでぇ!? ローウェルくんたら野蛮すぎない!!? 助けてわんこぉ〜!」
 拳を握り込んで制服の袖を腕捲りする青年から隠れるべく、鎮座するラピードを壁にサッとはみ出た体を縮こませ、大の大人がわざとらしく泣き真似を披露する。
「隠れるの、僕の後ろじゃないんですね」
「出てこいよ、ラピード嫌がってんだろ」
 他人が相棒に触れる不快感に見せかけて、嫉妬を顕わにした鋭い目つきを避け続けるレイヴンは、寛大なラピードをぎゅっと抱きしめ、必死に抗う。それすら嫉妬の対象になるとも知らずに。
「わんこはおたくと違って優しいからそんなこと言いませ〜ん! もし本当に誤魔化してたとするなら、それはローウェルくんが知らなくていいことだからでしょ」
……知りたいって思ってなにが悪い。フレンにも、あいつらにも、ラピードにだって、あんたは気を許してるのにオレだけは除け者で、そのくせオレに、どっかの誰かを重ねてんだろ……っ!」

 頭を、思いきり鈍器で殴られた心地がする。
 下手に断ち切れなかった縁に、ひた隠すのを失敗した想いで、一番かけがえのない存在を傷つけていたことに今更ながら気付く。
 アッシュの言う通りだった。今俺はどんな顔をしている? おそらく、辛気臭い顔を晒しているのだろう。 
……不思議だね、今のユーリなら僕は思い出せそうだ」
 二人のやりとりを眺めていたフレンが柔らかに笑う。
「なに、言って……
「いつから君はそんなにも、誰かの都合を気にするようになったんだろうね」
 笑顔の裏でフレンは語りかける。僕の知る君は、気にしないはずだろう? と。
……確かに、そうだな」
 細かいことはどうでいいかと吹っ切れた顔をして、ラピードに縋りつくレイヴンに一歩一歩近付くと、浅黒い右腕を引っ掴んで立ち上がらせた。

「──おっさん、オレは、あんたの事が、」

 真剣な眼差しに、喉が締まる。
 紛い物でない心臓がばくばくと音を立て、掴まれた手を振り払って、一目散に逃げ出した。

「おいっ、おっさん!!」

 ──呪いだ。そうとしか考えられない。
 俺が好きでいたから、多感な年頃の彼は引き摺られた。
 だってユーリと新たに出会ってから、会話という会話といえば他愛ない言葉達で。
 もちろん、本来の彼はこんな枯れたおっさんが好みのタイプというわけでもない。手作りのクレープを食べさせたこともないし、酒場で杯を飲み交わしたこともない。
 ……ましてや、共犯者でもないのだ。
 だからきっと、彼は俺の知らない誰かと結婚して、幸せな家庭を築くのだろうと思っていた。
 なのに、諦めきれず再びユーリと出会ったこの歳まで結婚もしないで、いつか、もう一度会えるんじゃないかって夢を見て、……心の片隅では共に歩める可能性もあるんじゃないかって、淡い期待に縋って生きていたくせに。
 それなのに、好意を向けられた途端怖くなって、逃げている自分は。
 結局のところどうしたいのか決めかねるぐちゃぐちゃになった思考を、夜風が冷静さを引き戻してくれると願って、宛てもなく走った。

 逃げたレイヴンの後をすぐさま追いかけようとしたユーリの手を、フレンは力強く掴んで引き留める。
……焚き付けといて足止めするとか、結局どっちの味方なんだよ」
「どちらかというとユーリかな」
「じゃあ早くその手をはなしやがれ」
「一拍おかないと、君はうっかり乱暴してしまいそうだからね。僕の憧れの人だから、傷付けるのは不本意なんだ」
「はぁ……、わかったわかった」
 絶対しなかったかと問われれば否定も出来なかったユーリは、深く息を吸って吐いて気持ちを落ち着けると、しっかりと拘束されていた手首は容易く解放された。
「きっとレイヴンさんなら今のユーリも受け入れてくれると思うよ」
……そのなんでもわかってますって風に煽ってくんなよ、柄じゃねぇだろ」
 人を指で指してはいけないと習わなかったのか、穏やかに微笑む親友に悪態をつき、レイヴンが消えた方角に走り去っていく背は、あっという間に小さくなっていく。
 その姿を見届けた後、フレンは足元にいるもう一人の相棒と視線が合った。
「わふん」
「意地悪だったかな? でも、僕がユーリよりあの人を知ってるのは今日が最初で最後だからね」
 少し位、甘えたって許されるだろう? イタズラが成功した後のような、幼さを残す彼の零呟きは、炎を空へ伸ばす一陣の涼風に紛れて消えていった。



 ──────
 彷徨い、もつれそうになる足を動かして、辿り着いた校舎から離れた真新しい別棟。選択授業や実技授業、通常科目以外で道具を使用する授業の全ては棟で行われ、特別科目に準ずる己の城もここの一階に位置している。その建物の陰に隠れた三階まで続く裏階段は、貯水槽の点検以外にほとんど人が出入りせず、サボるにはうってつけの秘密の場所にいると、ひどく心が落ち着いた。
 いつでもじめじめ薄暗く、隙間を通り過ぎる秋風が冷たくて、立派な建物の脇。それは『ユーリ』と出会った場所を思い出すから。
 偶然、入学式に遅刻した青年がサボり場所を求めて、初めて出会ったのもここだった。だからもう、俺の中ではずっと特別な場所に成っている。
 ソッと記憶に刻んだ胡蝶の夢をなぞる。
……思えば、風情のクソもない牢屋だったってのに。

「そんなとこ座り込んでっと風邪引くぞおっさん」
 顔を上げると微かに汗ばんだ端正な顔がこちらを見下ろし、直前に整えた不自然な息遣いで、手を差し出す青年がいた。後頭部でくるりと頭頂部へと束ねられた夜空色の髪が数本、重力に従い耳の横を流れ落ちている。
 おそるおそる伸ばされた手を取り立ち上がると、気まずい沈黙が流れる中、朝に別れを告げた物理準備室へと連れられた。静けさに包まれる空席へ部屋の主を戻し、無言で俯き続ける表情を覗き込もうとしゃがんだ黒曜石が、不安の揺らぐ湖畔に映り、じっとこちらを見つめている。
 その瞳を、次は逃げずにまっすぐ見据えた。
……あのね青年、聞いてくれる?」
「あぁ、聞かせてくれよ。あんたの事」
「俺にはね、ずーっと忘れられない大切な人がいるの」
 初めてあの頃の呼び方を発した声が緊張に掠れる。
 告白寸前だった人間の口から聞くには、ひどく残酷な物語。正直になんざ言わなきゃいいのに、それでも、隠したままにしたくはなかったから。
 青年の整った眉根がぴくりと歪む。彼がおもしろく思わない時にする仕草だった。
 俺の為に、そんな顔しないでよ。
「嫌味なくらい男前なのに甘いモノに目がなくて、目ぇ離すとすぐ自分一人で背負い込んでっからほっとけなくて、気さくで面倒見が良いから誰からも頼られるけど、たまにちょいと意地悪で……
 膝に置いた両手に自分のそれを重ねた青年は、無言で俺を注視しつつ、想いを連ねてぽろぽろと零れ落ちていく言葉にそっと耳を傾ける。
 ずっと前から、それこそ物心がついた時から、現世も変わらず『ユーリ』が好きだった。
 奇跡的に再開してから顔を見せに来るのが日課になった彼に、諦めると宣いつつ面影を探し続けて、不変を見つけては胸を撫で下ろす。でも、それでも、彼は帝都の下町生まれでも、自分が選んだ曲げない信念にその手を血で汚すこともなく、陰ながら世界を救った聖騎士様でもない。
 俺に生きろと水を与えた『ユーリ』と、全く同一の存在ではなくて。
 魂は同一だとしても、心は違うであろうユーリが俺に好意を向けてくれるというなら、これは俺が無意識にかけた呪いでも、神様がくれた気まぐれな運命でもない。
 俺は、ユーリは、お互いに惚れ直したのだ。それが一からではないにしても。

 もう、胸に『ユーリ』がつけた傷跡はないけれど。
 何度輪廻を繰り返しても、好きになるのは青年のことだって、わからせて。

「瓜二つの想い人の姿を青年に重ねて見てた。最低でしょ? でも……、それでも、俺は、ユーリと生きたい」
 絞り出した声はまるで自分ではないみたいに、とてもか細く折れそうだったけれど、視線だけは絶対に彼から逸らすまいと意識を集中させる。
……やっぱり、夢にいたのはあんただったのか」
「へっ? 夢???」
「おっさんの好きな奴っての、オレのことなんだろ?」
「な、っんで……っ、」
「見てんのがオレの後ろじゃなかったから」
 突然夢の話を始めた青年に素っ頓狂な声をあげたのも束の間、続く発言に目を見開く。
 理由は分からないが、自分の背後の存在に気付いて貰えたことに、じんわりと目頭が熱くなる。

……そう、俺は、ユーリが、好き」

 心臓魔導器と長らく付き合ってきた癖で、紛い物があった側の胸を白衣ごとぎゅっと掴み、平静を失い速くなった鼓動を落ち着かせる。霧散した単語を拾い集めても、鈍る思考に惑わされて、自分がなにを口走っているかさえよくわからない状態だった。
……忘れてて、悪りぃ」
 病み上がりだった青年は沈痛な面持ちでこめかみを押さえ、頭の痛みに蹲って耐えているようだった。大丈夫? と声をかけても、青ざめた顔からは謝罪以降の返事がない。気休めにでもなればと青年の頭を抱え込み、胸の中に閉じ込める。思春期の野郎相手にすることじゃないけど、俺を好きだって言ってくれるなら嫌がりはしないだろう。
「フレンちゃんもだったけど、ユーリだって、なぁんも悪くねぇんだから。俺はまぁ……、覚えてない青年に昔の男を重ねてたってのは謝んなきゃね」
 おどけたように笑って、信じてもらえなくてもいいから、いつしか嘘みたいなホントのことを話そうか。
 あの戦い好きだった青年が音楽なんて似合わないわねとか、今はこんなヒョロヒョロだけど青年をひと捻りにできる位強かった俺の事とか、伝えたいことならたくさんある。
 きっと馬鹿げた話だって信じてくれるだろうから。

「こん、どは……、」
「ん?」
「今度は、おっさんから告白してくれんだな」
「え……っ、ゆぅり……? 記憶、が……?」
「頭いてぇの、邪魔、だな……っ」
 力の入らない震えた手が、ゆっくりと閉じ込めていた頭部を解放する。
 確かに『ユーリ』の時は青年から告白されたけど、まさか、そんなことって。
 立て続けに起こる、予想外の出来事による処理落ちで、硬直した俺の眼前一面に綺麗な顔が広がる。
「急に取り戻したからって疑ってんのか?」
「そりゃあ、いや、疑ってるっていうか……、まだ、信じられなくて、」
「どうすりゃ信じる? 目覚めのキスでもしてみるか?」
「ばか、病人が何言ってんの。釘だけ刺しとくけど、おたくまだ未成年だかんね」
……後一年か、なげぇな」
「卒業するまでだから一年とちょい、よ」
 残念そうに耳へと触れて顔を近付けてくる前に、頭を軽く小突いて幾星霜ぶりの邂逅も意に介さず笑い合う。
 青年の傍を離れるとすぐこれだ。環境が違っても、魂に刻まれた諦め癖がずっと顔を出していた。バクティオン神殿が崩壊する時に一度思い知っていたはずなのに。
 いつだって自分は複雑に考えすぎていることも、何気ない行動がきっかけで一生涯を共にする繋がりを得ることもあるのだと。
 玉砕覚悟の告白は、単なる気まぐれなんかじゃなかったけど。
……もう、一人にしないでよユーリ。置いてかれちゃうとおっさんポンコツになるみたいだから」
「ああ、わかってる。ごめんな、待たせちまって」
「っはは、四年はやく迎えにきてくれたから許したげる。世話かけちゃった皆にも礼言わなきゃね」
 遠くに聞こえる賑やかな声がなくなるまで、会えなかった時間を埋めるように、二人は寄り添い抱きしめ合った。



 ──────
「記憶を取り戻すトリガーが『前世と同じ状況での違和感』だなんて、気付いてたならフレンちゃんも教えてくれたらよかったのに…… っ!」
 後日、なおも自らが告白をした羞恥に机で打ちひしがれるレイヴンを、後ろに立つ青年の腕がすっぽり収める。先日みたく情緒溢れる理由などなく、ただただ昨夜親友と熱い抱擁を交わしていたことへの嫉妬である。
「オレは呪いでも良かったよ、またおっさんと会えるなら」
……忘れてた割に、そういう与太話は覚えてんのね」

 いつぞやハルルの木の下で、言葉を交わした取るに足らないお喋り。
 あの時彼はどんな顔だっけ。ずれた歩幅を二人三脚、合わせて進んだありふれた日常に溶けて、事細かに思い出せやしないけど。……最後に笑い合ったことだけは絶対だから。
 魂を混ぜ合わせて、状況は変わっても、何が変わるでもないと、これからも二人は──。



******
「およ、ユーリどしたの?」
「おっさん、まぁた一人抜け出して何してんだ」
「なぁに青年、心配して探してくれたんだ、ありがとね。昼間言ってた精霊ってどういうもんか気になっちまって」
 数えきれない花弁の雨を舞い散らし、人の背を何倍も超える大樹の木を見上げる背中はやけに儚げで、頭上の束ねた髪が風に揺れる姿は哀愁さえ漂っている。
「この木に精霊が生まれて、ずっと宿ってるってんなら、それはもう逃げられないのとおんなしじゃない? 呪い、みてぇだなって」
「それは、オレから逃げてぇってことで良いのか?」
「そうねぇ……、俺がいなくなったら青年はぜんぶ忘れてちょうだいね。銘木が、枯れた木に囚われ続けないように」
 穏やかに微笑んで、他人事みたく『死』の話題を聞かせるレイヴンに、その手の話を厭うユーリは顔を顰める。当の本人は、前向きな意味で残している遺言だとしても。
「絶対逃がさねぇよ。呪いだっていい、また会えるなら。お互い、囚われるのはお手のものだろ?」
 事実、騎士団とギルドの往復の時間短縮に、何度も牢屋に囚われる手段を使っていたレイヴンは、反論できずに口を噤む。
「きっと、すぐ逃げ出すわよ俺は」
「なら、もっかい鍵でも置いてってくれよ。勝手に使って追いかけるから」
「あらやだ。しつこい男は嫌われるわよ?」
「あんたは、しつこい男好きだろ?」
……まったく、悪趣味なおっさんがいたもんね」
 お互い生まれ変わりなんて信じちゃいないが、どこまでだって往生際悪く、しがみついてやる。 
 愛し合う二人が囚われたのは呪いではなく祝福と……

 ──いや、執念が手繰り寄せた幸せと呼ぶのだろう。