来羅
2025-11-22 23:04:42
1860文字
Public トワウォ
 

シガーキス(風信)

ワンドロライ第19回。




 初めて見たのはブラウン管の中だった。
 火をちょうだい、と目を眇めた女がライターを探る男の手を止めて顔を近づける。女は、男の唇に挟まれたその煙草の先に自らのそれを押し当てて火を移すと、薄く笑った。
 男の下心を見透かした駆け引きだ。
 シガーキスという名のその数秒間のやり取りは、本当のキスシーンよりベッドシーンよりエロティックに幼い信一の目には映った。
 信一の知る煙草の火のつけ方なんて、ひとつしかない。
 養父の節くれ立った指に挟まれた煙草が薄い唇に挟まれる。カチンと軽い音を立てて蓋を開けたジッポのガスの匂い。血管の浮いた大きな手。フリントホイールが回転する音。赤い、炎。物憂げに半分落とされた瞼は色めいていて、一口、肺の奥まで吸い込んで吐き出した紫煙はどこか甘い。
 思春期を過ぎて当たり前のように煙草に手を出した信一もまた、同じように煙草を燻らした。火をくれと言われれば、迷うことなくライターを差し出すだろう。あのドラマのように火を貸すなど、そのへんの有象無象には御免被るというものだ。
 煙草二本分だけの距離。
 今となっては、その近さで彼の人を見ることもない。
 無邪気に抱きついていた頃ならいざ知らず、いい年してその側に寄るには真っ当な理由がいる。
「あ、」
 だからだろうか。
 手を洗いながらそんな詮無いことをふと思い出していたら、ライターがないことに気づいた。配管の点検で汚れた服を着替えたときに入れ忘れたのだろう。
「大佬」
 火、貸して。
 当たり前のように隣に並ぶ養父へと声をかけた。
 当たり前のようにジッポーを探る手を期待した。
 しかしながら、夕飯の準備をしている龍捲風の手は肉の油に塗れている。これでは無理だと瞬時に判断した信一の口が「ごめん」と言いかけた、その瞬間。
 当たり前のような顔をしていた。
 当たり前のように、「ん」と薄い唇に咥えた煙草を揺らして龍捲風が顔を近づけた。
 長い睫毛。眇められた瞳はサングラス越しにもはっきりと見える。びくりと肩が揺れた。息を呑んだ。
「ん」
 早くしろとばかりに龍捲風が煙草を揺らす。
 動揺しているのは信一ばかりだ。目を細めた龍捲風は少しだけ体を寄せて、さらに顔を近づけてくる。
「あ、あの、大佬、」
 片眉だけ上げた龍捲風が首を傾げた。
 龍捲風の信一に対するパーソナルスペースは狭い。それが嬉しくて、ちょっと辛い。きっと龍捲風にはわからないだろう。
 腹を括って煙草を咥える。恐る恐る顔を近づけて、煙草の先端をくっつけた。吸うんだったか、吐くんだったか。いや、吐いてどうする。吸うのだ。わかっている。けれども緊張してうまく吸い込めない。
 なかなか点かない火に、焦れたように龍捲風がもごもごと信一の名を呼んだ。その唇に釘付けになる。薄い唇。煙草を咥える唇。信一を呼ぶ唇。
 ジジッと音がした気がした。
 燃える先端が、息を吸い込むたびに赤く広がる。
…………あ、ありがとう」
 その赤さに負けず劣らず、きっと信一の頬も赤い。
 それ以上は直視できなくて、そそくさと視線を外した信一を龍捲風が低く笑った。
 人の気も知らないで。
 早鐘を打つ心臓が痛くて、煙草を吸う振りで深呼吸した。
 人の気も知らないで。
 また不明瞭な声で信一を呼ぶ。今度のそれは、きっと煙草を取ってくれ、だ。灰が落ちそうになっていた。
「料理しながら吸うと危ないよ」
「お前に小言を言われるとは……
 大仰に肩を竦める龍捲風は楽しげに口角を上げる。
 さりげなく、また視線を外した。
 煙草二本分しかなかった距離は、もう遠い。
 信一の心臓が持つ距離は体ひとつ分だ。少しだけ離れて息を吐く。これ以上はドキドキしすぎて心臓が壊れてしまう。
「信一」
 それなのに、龍捲風はやっと離れた距離を詰めるように指先だけで呼んだ。火を点けたばかりの煙草を油塗れの手で抜き取り、シンクに放る。
「なにす」
「そろそろ俺は限界だ」
「る、んだ、よ……、は?」
「いつになったら、お前は逃げるのを止めるんだろうな?」
「な、」
「往生際が悪い」
「な、に、言って……ッ」
 煙草二本分、じゃない。一本半分。
「シガーキス程度で満足か?」
 ひゅっと喉が鳴った。
 一本分になった至近距離で、龍捲風の涼やかな瞳が、薄い唇が、固まる信一を笑う。
 煙草、半本分。
 そして。
 それから。
 あっという間に、距離は、ゼロ。
「信一、いい加減、諦めろ」