にるなる

少しずつ消える。

 朝、成海が目を覚ました頃には既に両親はいない。既に、というのは時に間違いでもある。出張や、単純にそのほうが効率がいいという理由で彼らが帰宅していないことは珍しいことではなかったし、成海ももう自分の世話は自分でできる年である。問題はなかった。
 目を擦りながら現代っ子らしくすぐに携帯端末へ手を伸ばし、トークアプリを開く──と、丁度よく姫瑠からのメッセージが届いた。起きる時間が同じ頃なのか、成海が端末を手にしたときに姫瑠から連絡が来ることはよくあった。
 朝の挨拶と軽い「起きた?」という内容に無意識に笑みを浮かべながら、成海は寝ぼけ眼もぱっちりとさせて返信を打つ。今日も学校に行けば姫瑠に会えるのだと思うと、静かな家にしんと冷えていた胸も暖かくなるような心地がした。
 ふんふんと無意識に鼻歌を唄いながらベッドから起き上がったところで、またトークアプリに通知があった。姫瑠かと思って確認すれば、席が隣なのでそれなりに話すクラスメイトからであった。課題を忘れていたので写させてほしいという内容に、成海はふー、と天井を仰ぐ。自分だって忘れていた。
 クラスメイトに返信するより早く姫瑠に通知爆撃をかまし、慌てて身支度をした成海は朝食もそこそこに家を飛び出す。隣に住む気さくなおばちゃんが「今日も頑張ってねえ」と声をかけてくれるのになんとか手を振ったが、それよりも足を動かさなければならない。
 少しでも自分で課題を進めておかなければと焦りながら教室へ到着した成海であるが、意外にも教室には既に姫瑠がいた。
「え、はや……
「ふふ、赤信号に一度も捕まらなかったんだよお。おはよう、成海」
「ラッキーじゃん。おはよ……っあのさ、あのさ!」
「課題でしょお?」
「ありがとう、マジ感謝。昼飯なんか奢るから」
「んふふ、頑張ってね」
 頭を撫でられるこそばゆさに口元をむにゃむにゃと動かし、成海は姫瑠のご機嫌そうな顔を見る。成海が姫瑠と一緒にいるとき、彼は大抵笑みを浮かべている。自分といて楽しいと思ってくれているのかな、と成海は時折面映ゆくなるのだが、そういえば夏に風邪を引いたときは機嫌が悪そうだったと思い出す。体調不良を告げた瞬間に「は?」と低いトーンで言われたときには悪くもないはずなので思わず謝ってしまったほどだ。姫瑠はすぐに「成海は悪くないよお」と甘やかな声で言って見舞いにも来てくれたのだが、つまりはそれだけ成海にとって笑顔の姫瑠というのは当たり前なのだ。当たり前だと認識するのが、擽ったい。
「成海? 時間なくなっちゃうよお」
「っん、やべ」
 頬から喉を撫でられて一瞬変な声が出てしまった。随分と気温が下がってきたのに冷え性とは無縁なのだろう、常と変わらぬ体温の姫瑠の手はとても心地良い。
 頬が熱っぽくなったのを見て姫瑠がくすくすと笑っているが、成海は努めて課題を写す作業に向き合った。癖のない姫瑠の字はとても読みやすい。
 姫瑠はノートに向かって俯く成海の頭を飽きずに撫でている。嬉しくて話しかけたくなってしまうからいまは困るのだけど、口に出して止められてしまったら寂しい。成海はシャーペンを動かす手を速くしようとするが、折悪く背後からかかる声。顔を上げれば見慣れたクラスメイトが姫瑠とは逆隣の椅子に座り、どうして今朝返信をくれなかったのかとぶうぶう文句を垂れていた。
 すっかり忘れていた、と成海は謝ろうとしたのだが、それよりも早く姫瑠に「成海」と滑らかな声で呼ばれて意識がそちらを向く。
「先生、来ちゃうよ」
「うわ、急ぐいそぐ」
 クラスメイトがなにかを続けていたような気がするが、もう耳には入らなかった。だって、成海だって課題を写さなければいけないのだ。
 それに、クラスメイトの存在も気にせず成海の頭や頬を撫でる姫瑠の手に、意識がどうしても向かってしまうから。
「成海、今日も一緒に帰ろうねえ」
 気が早いとおかしく思うこともなく、成海は元気に頷いた。
「あ、今日も親いないっぽいんだけど姫瑠ん家泊まってもいい?」
「いいよお。明日休みだもんね。ずっと、いなよ」
「マジ? 日曜までいていいの?」
「うん、もちろん」
 一緒に帰ろうね、と姫瑠が繰り返す。
 成海はやはり元気に頷いた。


 休み明け、というか姫瑠の家に泊まった翌日は体が気怠いし、声を沢山上げてしまったからか喉も怪しい気がする。
 こんな時、親がいたら心配されたり怪しまれてしまうのではないかと思うが、母親がおらず父親も随分と長く出張に行っている成海にとっては想像の範疇でしかない。
 喉を軽く摩りながら現代っ子らしく携帯端末に手を伸ばしたところでトークアプリに通知が入る。姫瑠であった。
 朝の挨拶と「起きれた?」という内容。昨日のことを思い出すとむずむずと恥ずかしさが蘇ってきて、成海は「遅刻したら姫瑠の所為」と返信した。すぐに「ごめんね」とほんとうに悪いと思っているか分からない返信があったけれど、成海だって本気で、というかそもそも怒ってなどいないのだ。姫瑠が毎日、連絡をくれるから成海の朝は寂しくない。
 ふんふんと無意識に鼻歌を唄っていれば、再び姫瑠からの通知が入る。
「『課題忘れないでね』」
「やべ、泊まったときの荷物に入れっぱだ」
 まるで見ているかのような内容に驚くより、成海には感謝が先立つ。
 慌てて荷物をひっくり返していれば、朝はばたばたと騒がしいものになる。身支度をして朝食もそこそこに家を飛び出し、長く空き家となっている家の前を通り過ぎて学校へ向かえば、教室には既に姫瑠の姿があった。
 窓際の角席の隣で機嫌良さそうに朝陽を浴びている姫瑠が、教室へ慌ただしく入ってきた成海に手を振る。クラスメイトはまだ姫瑠の他には登校していなかった。壁にかけられた時計を振り返れば時間は思っていたよりも早い。
 急ぎすぎたかな、と思いつつ角席に座り、姫瑠に「朝はさんきゅな!」と言えば、彼は一瞬きょとんとしてからまた微笑を浮かべた。赤い目が弓形になるのを見るのが成海は大好きだ。
「ふふ、やっぱり忘れそうになったの?」
「んー……まあ、そう」
「怒られずに済んでよかったねえ」
 姫瑠にくしゃくしゃと頭を撫でられて、成海は照れくささから視線をうろうろさせる。昨日のことがあるからいつもより気恥ずかしかった。
 熱っぽくなった頬を姫瑠の手がなぞる。自身の頬はいつもより熱くなっているのに姫瑠の手がひんやりと感じないのは、姫瑠も同じくらいどきどきしてくれているからだろうか。そうだったらいいな、と思う成海だが、姫瑠の手が喉をつつ、と擽るように撫でると思わず変な声が上がってしまった。変な声だ。昨日、ずっと止まらなかった声。
「っにる、教室だから……
「でも、誰もいないよ? 嫌?」
「嫌じゃない、けど……
 でも、教室なのに。でも、朝なのに。でも、窓際で誰かに見えてしまうかもしれないのに。
 姫瑠の腕が伸びてくる。成海の頭を抱えて、耳元にちゅっと唇が触れる。それだけで成海はもう「でも」という言葉が出てこなくなってしまう。
 姫瑠だけ。姫瑠しかない。姫瑠だけが。
「成海、今日もうちに来たら?」
……うん、そうする」
「でも」明日も平日なのに、とはもう成海は思わない。
 姫瑠と一緒にいたくてこくこくと頷く。
「ふふ、ふ……ずっと一緒にいようねえ」
 姫瑠の背中に腕を伸ばし、ぎゅうと抱きつきながら成海はまたこくこくと頷く。
 静かな朝だ。他の教室でも登校している生徒は少ないのかもしれない。学校の敷地が広いからか、車の音だって聞こえない。
 まるで姫瑠と自分しかいないようだと成海は思ったが、姫瑠の肩口に埋めた顔を上げてまで外を見ようとは思わなかった。
「にる……大好き」
 ぽつりと呟けば胸に蜜がとろとろと満ちるような幸福感が溢れる。
 ぐりぐりと押し付ける成海の頭を撫でる姫瑠の手。また、耳元へ触れる唇。
「ぼくも大好き。ずーっと一緒だよ。ぼくだけで──」
 続きはどきどきしすぎた鼓動で聞こえなかったし、なんて? と聞き返そうとした唇は姫瑠の唇に喰まれてしまった。
 白っぽさも滲む朝の教室には相応しくない水音に頭がおかしくなりそうで、おかしくなってしまって、成海はただ目の前にいる姫瑠にしがみつく。
 自分と同じ温度の姫瑠の体。耳を塞ぐように頭を撫でる手。呼吸の合間にくすくすと笑う上機嫌な声。成海だけを見つめてくれる赤い目。
「すき、すき……姫瑠」
「うん、ぼくもだーいすきだよ♡」
 幸福に溺れる。
 もう、頭のなかは姫瑠でいっぱいであった。