きっかけはなく、ふと、目が覚めてしまった。ぱちぱちと何度か瞬きをしてカーテンが閉められた窓へと目を向ける。朝日らしきものも差し込んでいないので、おそらくまだ深夜の時間帯だろう。手を伸ばしてヘッドボードに置かれたスマートフォンで時間を確認することも出来るがそれはやめておく。大の男二人が寝転んでも余裕なベッドの上。ゆるりと首を動かして、こちらを向いて寝顔を晒しながら熟睡している年下の恋人を確認。起こしていないようで何よりだ。
いつもは意志の強そうな上がった眉も今はすっかり形をひそめて、柔らかく下がりきり、その寝顔は随分と幼く見える。
指で撫でたい衝動にも駆られたが、つい数時間までお互いに身体を動かしていたわけだし、人使のほうが負担が大きいので休ませておきたい。
寝顔を眺めながらそんなことをつらつらと考えていれば、初めて人使と身体を繋げた日から今までのことが思い出される。
人使が成人して数年。いろんな過程や葛藤やらがありはしたが、恋人と名のつく関係になり互いの家に行き来するようになった頃。
その日は初めて俺が人使の家に泊まることになり、互いに風呂に入ってあとは寝るだけ、という態勢になった。
寝室に二人で入り、ベッドの縁へ腰掛ける。普段は男一人を余裕で受け入れているであろうそのベッドは、今は男二人分の体重を受けて少しだけ不満気な音を立てる。冗談半分本気半分で、ベッドが狭くなるし俺が床で寝ようか?と問えば、そんなことはさせられないと青ざめてぶんぶんと首を振り、嫌でなければ一緒に寝て欲しいと今度は顔を赤くして言うものだから、その凄まじい顔色の変化に笑ってしまうところだった。
そんなやりとりをしながらも、人使は終始自分の家だというのに酷く緊張した面持ちでそわそわと自身の髪を何度も撫で付けていたのが印象的だった。ろくな恋愛経験が無い俺でも人使が何を待っているのか、ぐらいは分かった。
「……触れても、いいか?」
俺でいいのか、とか男と触れ合うことに拒否感はないのか、とかさまざまな懸念事項への了解を得たくて思わず溢れた曖昧な問いに、人使は俯きながらも確かにこくりと頷いた。明らかに緊張して固まっている身体を抱き寄せたところで、はたと気付く。
「あー…その、確認だけど、今夜いきなりどうこうとかではないが……。俺がお前を抱く、側ってことでいいの?」
腕の中でびくりと身体を震えたのが分かった。様子を伺いたくてそろりと少しだけ身体を離すと、人使は小さくはく…と息を呑んでから赤かった顔をさらに赤くし、なんなら瞳を潤ませていた。
「……て、てっきり、あの、俺…だ、抱いてもらえる…って、おも、ってて……」
後ろの準備もしていた、と今までに聞いたことがないほど言葉を詰まらせながらも必死で伝えてきた言葉に今度は俺が赤面する番だった。準備。ということは、そうか、こいつもいろいろ調べたのか、とかそんなことが頭の中でぐるぐるとする。正直な話、性的なことと今まで見てきた心操人使という人間がうまく結び付かない。そんな彼が自分と繋がるために密かに…と思うと言葉に出来ない興奮を覚えてしまった。
「だ、駄目、でしたか?」
固まってしまった俺に不安が募ったのか、人使はオロオロとし始めた。こんな姿を見るのもなかなか珍しい…などと頭を掠めるがこのままだと可哀そうだ。
「いや、違う、だめなんかじゃないよ……。なんていうか、なんだろうな…その、嬉しい…。お前も俺とシたいと思ってくれてたんだな」
「そ、れは、そう、です、よ。……はしたなく、て…ごめ、」
最後まで言わせないためにその唇を塞いだ。これは謝ることなんかでは無いからだ。
「言ったろ?俺は、嬉しい」
緊張で握りしめられた手を取って、その両の手を包み込む。
「なるべく優しくする。きつかったり嫌なことがあったらちゃんと教えてくれ」
「せん…、しょ、消太さんになら、何されてもいい…」
自覚があるのか無いのか。人使は世の大体の男が喜ぶような言葉を口にするもんだから頭を抱えたくなる。
包み込んでいた手を解き、俺はそうっとその肩を押してベッドへと縫い付けた。
それが初めての日のこと。
なんと人使はローションやゴムまでも準備を整えていた。優しくする、とは言ったが今日は触り合うだけでも…と思っていた俺はこの準備の良さに流石に驚いた。慣れてるのか?とも思ってしまいそうだったが、人使の様子を見る限りそんなこともなかったので密かに安心したのは胸に秘めておく。あれで慣れてるってんだったらとんでもない役者だ。
とにかく人使には隙が無かった。
繋がった日の翌朝。俺が朝にあまり強くないこともあるが、それでも情けないところは見せたくない思いもあって普段よりもだいぶ早めに目を覚ました。あとはまぁ、寝顔も見てみたかったという下心もあった。
ところが、腕に抱いて眠ったはずの存在は無く、ベッドはもぬけの空。代わりに寝室まで届いてきたのはコーヒーの良い香りと何かを調理する音。慌てて床に適当に放置されていた服を着てリビングへと向かう。そこには既にきちんと身なりを整えた人使がキッチンに立っていた。
「あ、ぇと、おはよう、ございます」
ほんのりと未だ事後の香りを抱えながらも、人使は爽やかな挨拶をこちらへと寄越してくる。頬がほんのりと染まっているのがまたただならぬものを感じてしまう。
「……ああ、おはよう。すまん、あー、身体、辛いなら無理しなくていいんだぞ」
「い、いえ!目が覚めちゃったし、やりたかったので。もうすぐ出来るので一緒に食べませんか?」
切って焼いただけですけど、と少し申し訳なそうに聞いてくる姿がなんといじらしい。
「うん、食べる。顔洗ったら準備手伝うよ」
「ありがとうございます!」
人使の浮き立つ声を聞きながら、俺は慌てて洗面所へと向かった。
二人で準備した初めての朝食は本当に簡易的なものではあったけれど。俺にとっては今まで食べてきたどんな食事にも代え難いものだった。
要するに、俺もまぁ、柄にもなく浮かれていたのだ。
小さな違和感は次第に大きくなってくる。
人使は俺の家ならまだしも、自分の家でも常に身なりから何から何まで全てがきちんとしていた。元々ストイックな性格ではあるとは思っていたがあまりにも潔癖すぎやしないか?と心配になるほどには細やかな配慮や準備がされていたし、翌朝出掛ける用事が無くとも寝間着や部屋着で過ごすことなく必ず真新しい服に着替えていた。
かたや俺はといえば、着替える必要が無いのならと着慣れた寝間着で一日過ごすことだってある。だらしないと言われればそうだが、休日くらい手を抜いたって良いと俺は思う。
人使が好きでやっているなら構わない。だけれど、一緒に生活する時間が増え、よく注意して見ていれば分かってくる。
(あ、こいつ何か隠してんな)
決定的だった出来事は、俺がまた人使の家に泊まり恋人同士の一通りのことを済ませて就寝した深夜のことだった。
その日の夜も、ふと、目が覚めてしまいなんとなしに寝返りをうつ。隣で眠る人使を起こしてしまわないか、と心配したところでそれは無用な心配だと気付かされる。横にいたはずの存在がいない。人使がいたはずのそこの温もりは失われていて、ベッドから抜け出してそこそこの時間が経っているとわかる。
枕元のスマートフォンで時間を確認すれば、寝ついてからそれほど経過していないような時間だ。朝食を作るにしたって早すぎる。トイレにでも行ったのか?とも思ったが、耳を澄ましていればガサゴソと小さな物音がすることに気が付いた。一旦聞こえてしまえば、やはり気になってしまうものだ。何かあったのかと身を起こしてベッドから抜け出る。寝室のドアは閉まり切っておらず、ほんの少しだけ隙間が出来ていてそれをそろりと開ければ洗面所に灯が灯っているのが見て取れた。
音の発生源はそこからだ。
様子を伺いたくてそこに向かえば、洗面所で俺に背を向ける形で人使は何かを探しているのか、それとも作業をしているのか。でかい体を屈めていた。
「何してんだ?」
「う、ワァっ!?」
仕事柄、足音や気配を消すことが当たり前になっていたので人使からしたら突然声を掛けられたことに酷く驚いたようだ。驚いた拍子に手にしていたものたちが床に落ちてしまい、まぁまぁの物音が出てしまう。防音設備がしっかりした物件ではあるらしいがそれでも階下の人に申し訳ない。そんなことが頭に一瞬よぎるが、俺は目の前の見慣れない人使の姿に釘付けになっていた。
「眼鏡……?」
そう。人使は一目でわかる程度には度の強そうな黒縁の眼鏡を掛けていた。
「いや、その、これは、」
狼狽する人使は俺に近寄ろうと屈んでいた身を起こして足を一歩前に踏み出し、
パキッ
何かを踏んだ。
「こんな深夜にすみませんでした……」
「いや、怪我が無くて良かったよ」
一通りの後片付けを済ませた俺たちはリビングへと移動していた。愛用になりつつある二人掛けのソファで眼鏡を掛けた人使は酷く項垂れている。買って間もなかったというハードタイプのコンタクトレンズはものの見事に割れてしまっていた。素足で踏んでしまった為、破片で足を怪我してはいないかと危惧したがそこは運良く回避できたようだった。その他に床に落ちたコンタクトの洗浄に使うという液剤が入ったボトルや(これは蓋の締めが緩かったのか中身が少々溢れてしまっていた)コンタクトケースなどを拾ったりしている間、人使は終始気まずそうにしていた。
まるで悪戯が見つかってしまった幼子のようでどうにも可哀想な気持ちを抱いてしまう。
まあ、これを機に俺が抱いている違和感を含めてちゃんと話をするべきだろう。
俺はなるべく意識してやわい声を出すことに努める。問い詰めるのではなく、知りたいからだ。
「あのさ。なんでわざわざ俺が寝てからやってたんだ?朝早かったのも眼鏡姿を見られたくなかったから?」
「……」
「ごめんな。責めてるわけじゃないんだ。ただ、それって結構面倒なことなんじゃないの?」
俺自身は今のところ眼鏡もコンタクトも必要としていない人間なのでそこら辺の感覚は分からない部分はあるが、考えるだけで煩わしさは感じてしまう。俺の言葉にますます肩を落とす人使に居た堪れなくなってしまう。
「……。今は言いたくないならそれでもいいよ。たださ、俺から見て、今のお前は気を張ってるような気がしてる。今後一緒に生活する時間が増えていくなら……、俺はお前に無理、させたくない。家でも気が抜けないのは、疲れるだろ」
俺は人使の指触りの良い髪を撫でながら言葉を捻り出す。人使が傷付かないように、だけれど俺の気持ちもわかって欲しい。指導者とその生徒だった頃とは全く違う関係性になると、途端に会話の難易度が上がると思った。俺だって、今更人使には嫌われたくない。
暫くの間、人使は黙りこくり、俺はとにかく頭を撫で続けた。ここはそろそろ抱き寄せるべきか、いや、しかし、と一人脳内会議を繰り広げていると、人使自ら俺の肩に寄りかかって来て、その拍子に人使の眼鏡がカチャリと音を立てた。予想していなかった甘える仕草に俺はただ驚く。だが動揺を悟られまいと、先ほどまで頭を撫でていた手で今度はその背中をそうっと撫でることにした。
「……ほんとは、」
「ん?」
「俺、本当は目が悪くて。学生の頃はそこまででも無かったから裸眼でも平気だったんですけど卒業してからちょっとガクッと視力落ちちゃって。あ、いや、別に敵に何かされたとかではないですよ?本当に。体質的なやつなのかもしれません。それで、今は普段はコンタクト使ってるんです。俺的にはそっちの方が便利だし眼鏡のフレームが無い分、視界が良いので。だけど付けっぱなしも良くないから家だと、こ、こういう適当に買った眼鏡を掛けているんです。外出する時は割ときっちりした服の方が好きですけど、家なら緩めの服のほうが好きだし、なんなら愛用してるスウェットの寝間着なんて首元が…、その、よれよれなんです。伸びきってます。けど、むしろその方が苦しくなくていい。ご飯作るのだって実家で少し手伝ってくらいだったから、あんまり上手に出来なくて。この間の卵焼きだって、すごく焦げてたでしょう…?洗濯だって溜め込むの好きじゃないけど疲れて面倒な日は翌日に持ち越しちゃうことだってあって……、」
人使は堰を切ったように俺が知らなかったことを話しだす。卵焼きに関しては別にそんな気にするほど焦げていたか?レベルである。俺が気にしないだけなのかもしれないが。
いや、今はそこは別に重要ではない。とにかく、人使は顔を見られたくないのか、俺の肩にぐりぐりと額を押し付けてくる。もしかしたらこういう風に甘えるのも好きなのかもしれないと思ったが。無意識にやっているようだから今は口にはしないでおこう。
「先生が、俺に対して抱いてるイメージみたいなのが崩れるの、怖かった」
最後はくぐもった声で、俺にそう告げた。
「当たり前ですけど、そういうの、先生に、学校で見せたこと、なかったし…、もし、だらしないところとか、イメージが変わるところ見せて、げ、幻滅とかされたくなかったんです」
そう言い切ったあと、人使は俺の肩に額を預けたまま沈黙した。顔は見えないが緊張しているのが伝わってくる。
なんと、言葉を返すべきか。
あまりにも真面目で、……健気過ぎて愛おしくなってしまった。背を撫でていた手を止めて、いつでも逃げられる程度の力加減でその身体を抱き寄せればひくりと反応はしたが拒否されることはなかった。
「俺は、たぶんお前とこういう関係になってから散々だらしないところ、見せてると思う。それを見て、お前は幻滅した?【雄英の相澤先生】や【ヒーローのイレイザー・ヘッド】じゃない俺を見て、お前はどう思った?」
「そ……、れは、嬉しかった…です。俺しか知らない…先生の、姿なのかなって…思って」
特別になれたと思った。
俺に抱き締められながら恐る恐るとした様子で小さく溢された本音に思わず口角が上がりそうになってしまう。
ああ、全く、本当にそう。
「俺もそうだよ」
ぽんぽんと在学中のあの頃よりもずっと逞しく、大きくなった背中を優しく叩いてやれば遠慮がちに俺の腰に手を回してくる。
「人使。お前はもっと肩の力抜いていいんだよ。家族の前で変に取り繕ったりするのは違うだろう?」
「……はい。………………ん?え?……か、ぞく⁉︎」
俺の言葉によほど驚いたのか、人使はがばりと顔を上げてこちらを見る。拍子に掛けていた眼鏡が俺の肩に軽く当たってしまい、若干ズレてしまったが直す余裕もないらしい。俺は手を伸ばしてそれをそっと直してやる。レンズ越しに見えるその瞳は微かに潤んでいてとても綺麗だと思った。
「俺はいずれはそうなりたいと思ってるよ。その覚悟で、お前と一緒にいるって決めたんだから」
俺の中でその覚悟が出来るまで、たくさんの時間がかかって、きっとその間、たくさん人使を悩ませたのだろう。わかっている。だからこそ、覚悟を決めた今はこの存在を一生大切にしたいと思っているし、そう決めた。
「俺はもっと、俺の知らない、ありのままの心操人使を知りたい。幻滅なんてしない。他の誰も知らないお前が見られるのは俺だけなのかと思うと……そうだな、興奮もするよ」
俺にも独占欲なんてものがあったのかといい歳をして気付かされる。この、年下の愛おしい存在に気付かされた。
「こ、興奮…とか、何、言ってるんですか」
下品です、と唇を尖らせてもごつく姿。これもまた初めて見る姿だ。その尖った唇が可愛くて思わず指先で摘んでやる。嫌がられるとも思ったが顔を見ればどこか満更でもなさそうだった。
「それで?家族になりたいっていう俺の気持ちへの答えは決まってる?」
唇を摘んでいた指を離し、俺は少しだけいじの悪い問いかけをする。人使は先ほどまでのいじらしさはどこへやら。名残として頬は染めながらもニッと歯を見せて笑う。こいつのこういう小生意気な顔も好きだ。
「そんなの決まってる」
これが返事だと言わんばかりに人使から俺の唇へと贈られるキス。まだ不慣れなそれは少しだけ目標がズレたけれど、そこは俺が軌道修正。
また、眼鏡がカチャリと音を立てた。
なるほど。眼鏡をかけた人間とのキスは、案外気を使う。知り得た新しい情報を頭に刻みつけつつ、今は少しだけ邪魔なそれを外してやって、テーブルへと避難して頂いた。急に外された人使は、よく見えない…、と不満気だ。
「もっと近付けば見えるんじゃないの?」
「それ、もそうですね……。もっと、近くで見たい」
などと、まぁ、言ってのける。本当に、心操人使という存在には敵わないと思ってしまう。だけれど、ここは歳上として少しだけ余裕ぶらせて欲しい。
じゃあ、もっとこっちにおいで。
俺も見ていたいから。
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