有栖川
2025-11-20 21:34:16
29615文字
Public
 

12月kiis復縁本サンプル

「いまさらそんなロマンスみたいな」
B6/108p/R-18
このサンプルは全年齢パートのみですが、本そのものはR-18になります。
7年前に別れてから41への未練を引き摺っていたkisが、監獄で再会してすったもんだした末に復縁する話。
後日pixivでR-18パートを追加して公開予定で、その中には♡喘ぎや濁点喘ぎも含まれます。
イチャイチャハッピーエンドです!他マスターのみなさんの出番はこのサンプルぶんでほぼ全部な感じです。

※サンプルでは読みやすいように改行多めですが、本では割と詰まり気味のレイアウトです
※326話前の情報で書いた話です。きっと未来はこういう隙間もあるはずと信じて……

01



  二十五歳の夏、世一と別れた。


 同棲をはじめて、——つまり付き合い始めてから、たぶん、一年ぐらいが経ったあたりのことだったと思う。記念日はどうするんですか、節目の日なんだからお祝いしなくちゃなんてネスに言われて、あれこれと頭を悩ませていた頃だ。カイザーは慣れない頭を一生懸命にああでもないこうでもないと悩ませて、毎日世一のことばかり考えていて、けれど後から思えば、どこか上の空で日々を過ごしていた。そう言われても仕方が無い調子だったし、……実際それが、別れの決定打になった。クソ物にはお似合いのエンディングだ。

 ところで〝たぶん一年〟なんて煮え切らない言い方になるのは、同居をはじめたのはそれよりずっと前、二十二歳の夏頃にまで遡るからである。

 そういった経緯だったから、正式に〝付き合ってる〟なんてことになった前とあとで変わったことも、実のところあまりなかった。同じチームでプレーし、練習に精を出し、夜は試合の検討とサッカー談義ばかりして、休日はカイザーの車で一緒に買い出しに行った。ベッドは(事故みたいな同居開始だったせいで)最初からひとつしかなかったし、二十三歳の春にはなんとなく身体を重ね合うようになっていた。お互い人恋しい年頃だった。そしていちばん〝ちょうどいい〟相手がいつだってそばにいてくれたのだから、関係が転がり落ちていくのはある意味必然だったのかもしれない。
 同居を始めた切っ掛けこそ最悪の貰い事故みたいなアクシデントだったものの、カイザーにとり、世一と付き合っている日々は悪くないものだった。
 それはヤツと別れて幾ら経っても輝きが褪せることのない宝石のようなものになって、今でも、カイザーの心臓の一番うらっかわに鎮座している。クソ忌々しい感傷、けれどカイザーの人生に今までもこれからもきっと現れないひかりを、人はきっと宝物とそう呼ぶのだと思う。
 ……今になって青い監獄ブルーロックで見かけたやけに距離の近い二人組のことをふと思い出した。あいつらも、そうだ確か、相手のことを宝物とそう呼んでいたのだっけ。

 とにかく、カイザーは世一と一緒に暮らす日々が好きだった。
 住むところがなくなっちゃって、と火災保険の手続きひとつ分かっていなさそうな顔で図々しく転がり込んできたクソ童顔双葉を追い出すことが出来なかったのは、世一との会話は思考次元レベルが近くて息がしやすかったからだ。チームメイトとしての潔世一は最悪を煮詰めて鋳型に流し込んだ悪魔のような男だったが、隣人としての世一はすくなくとも良く気の付いて生真面目な普通の人間だった。この〝普通〟があまりないカイザーの世界において、世一は稀有な存在だったのだ。
 不快じゃないだけで珍しいうえに、ときどき好ましい部分もある。ちゃんと掃除をするとか、意外に手料理がうまいだとか、向上心があるとか、あとサッカーとか、サッカーとか、サッカーとか。とにかくそういう感じだったから、まぁ騒がれるぐらいなら空き部屋に置いておくぐらい……と招いた男がどんどん距離を詰めてきて当たり前みたいに隣へ腰を降ろすようになっても、その遠慮の無さがかえって好ましくて悪くなかった。

 つまりこれまで敵か信奉者しか作ってこなかったカイザーにとり、それはある種、はじめての——気を許せる家族のようなものだったのだ。

「あのさカイザー、今日の……ほらココのシュートなんだけど。失敗の原因はフォームとモーションどっちかな、お前の意見聞いてもいい?」
「え? もぉ〜、お前って意外と甘えん坊? デカい子供みたい。はいはいわかったよ、カツ丼も親子丼も全部作ってやるから。煮物……はちょっと練習さして、まだ自信ない……
「あ〜クソッ、次こそはマジで負けねぇ〜! 覚えてろよクソカイザー! 次の試合は俺のもんだ、顔洗って震えて待ってろ!」
「ほらな? 今度は俺が勝つって言ったじゃん、アハハ! その屈辱に塗れて憎たらし〜みたいな顔見おろしてんの、気持ち良すぎるかも。かわいいぜカイザー、はじめてお前にそう思った! ……悔しかったら次は勝てよ、な?」
…………いやだからってここまでボッコボコにやり返してくることある? なに? なにあの意味不明なシュート? 曲がるとかいうレベルじゃないじゃん、どこで練習してたの? 内緒? はぁ、ムカつく……。まぁ、でも約束は約束だからな。ほら、今日はカイザーのリクエストで夕飯作ってやるよ。なんだっけ? ……練習しておいたから、今日は煮物でもいーよ」
「なぁ何読んでんの、こんな時間まで……。ん〜ふふ? ウザ絡みもしたくなるって、今日は俺勝ったんだもん〜。え〜、酔っ払ってねぇって。ないない。三杯しか飲んでないもんね。……シラフみたいなもんだってば。ふふ……カイザーさぁ、、きれーだよな。俺すき、意志が強くて、絶対に折れねぇって色で、……ぎらぎらして真夏の空みたいで」
「え、カイザーの目? そりゃ特に嫌いになる要素はないだろ。綺麗だし、まっすぐで力強くて絶対喰らってやるって気概が気持ちいいし。ハングリー精神ってやつ? てゆーかそもそもさ、一緒に住んでるぐらいには好ましい相手だしお前……。えっ何? 酒? 飲んでるわけないじゃんこれから試合だぜ? お前まだ寝惚けてんの?」
…………カイザー? なんだよ、そのツラ。あつくて、どろどろしてて、……溶けちゃいそう。なぁ……冗談じゃねぇの? 本当に、本気、なんだよな? …………だったらさ、その、お、俺も——
…………好きだよ」
「好きだよ。そう、その、そういう意味でさ。だから…………俺と付き合っ、てよ、……カイザー、ううん、ミヒャエル」

 ふたりきりのときだけ、名前を呼ばれるようになったのが二十四歳の夏。
 お付き合いとかいうやつは、売り言葉に買い言葉みたいな調子で、もつれ合うようにはじまった。あいつの「好きだ」という言葉に頷いて髪を梳き取った時、世一は、「よかった、俺ばっかり好きで、セフレなのかと思ってた」とか、そんなことを抜かしていた。日本式ではどれほどベッドで睦言を交わしたところで、告白とかいう儀式を経てなければ付き合うことにならないらしい。
 ドイツと違ってめんどくせぇな。ぼやいたら脚で蹴られた。そこは奥ゆかしいと言え、ワビサビだ、というのが世一の言だった。そのあとに俺はワサビはあまり好かないと言ったらバカみたいに笑ってすぐ機嫌が直った。
 お互いにこういう性格だし、カイザーもまともな恋人同士みたいなのをよく知らなかったから、愛を囁きあうよりも、喧嘩をしている時間の方が、よっぽど多かったのではないかと思う。喧嘩の原因はいつも些細なことだった。洗濯物の順番とか、食事の準備中に盛りついてくるなとか、見える場所に痕を残すなとか、あとは帰りが遅くなるなら連絡しろとか。朝苦しいからヘッドロック並のハグを仕掛けてくるなというのもあった気がする。
 とにかく言い争いはしょっちゅうで、でもそれでも、世一のことが鬱陶しくなることはちっともなかったし、寝起きのアホ面はいつ見ても愛らしかった。
 仲直りだってすぐ出来た。お互いに頭を下げて、代わりに身体を重ね合い、胸の中にぽっかりと空いた穴を互いの存在で埋めて塞いだ。目が醒めれば元通りだ。いつも。いつだって…………

 だからその日だってそうなると思っていた。

 いつものように耳元で適当に愛を囁いて、好きで堪らない肉付きのいい腹に指を沿わせ、一年でカイザー好みにつくり変わった世一の身体を抱きしめて眠りに就けば、朝、目が醒めた頃には、変わらない笑顔で「おはよ、昨日はごめんな」と額にキスをしてくれるはずだと、……そう信じていたのに。


「別れよっか」


 けれどその朝世一は、決してその言葉を譲らなかった。

「俺ちょっとさ、お前の恋人でいることに、自信なくなっちゃったんだ」

 世一が握り締めたスマートフォンには見覚えのない真新しいスキャンダル記事が表示されている。いつ撮られたかすら分からないような、記憶にない女と切り取られているミヒャエル・カイザーのぼやけた写真が、ディスプレイの海をたゆたっていた。スマートフォンを握り締める世一の手の甲には青筋が浮かんでいる。

「この女とは何も無い」

 カイザーにはそう言うのが精一杯だった。

「でもこの女優さんとは、もう撮られるの七回目だよ。それも俺と付き合いだしてから立て続けだぜ?」
「世一、俺は、」
「それにお前の人生を俺が縛ることも出来ない」
——世一!」

 無論取り付く島なんかあるはずもなくて、世一は淡々と言葉だけを並べ立てた。ヒステリックな女たちのように感情任せに暴れてこない分、冷徹で、好ましくて、だけどその分突き刺すようなきっぱりとした拒絶がそこにはあった。胃に穴があくような気持ちを体験したのはあとにも先にもこの一度きりだと、ハッキリそう断言できるぐらい、……その日カイザーは世一に突き放された。

「お前とのセックスは確かにすげー気持ちいいけど」
……、」
「そんなもので流されたりなんかもうしない。うんざりだ」

 それっきり、カイザーはひとつだって言い返せなくなって、世一は無言を肯定と受け取った。
 思えば自分というクソ物が、一丁前に人間みたいなツラをして、恋人を手に入れたと舞い上がっていたことからしてきっと間違いだったのだろう。人間以下の存在が人間様と対等に恋なんて美しいモノを紡いでいけるはずがなかったのだ。ミヒャエル・カイザーから見た潔世一は、自分にないものを完璧に持ち合わせている、幸福で純粋で美しい形をした人間そのものみたいな生き物だった。俺とは違う。俺とは、俺とは……そんな後ろ昏い思いが世一に突然振られた現実を正当化していく。
 そういえばスキャンダルの前に喧嘩していたのは何が原因だったか。
 それすら思い出せず、悪かったの一言も上手に言えないまま、ふたりは別れた。ミヒャエル・カイザー二十五歳の夏の終わり。

 ただ、ふたりの同居生活だけは、それからも少しだけ続いた。潔世一の名はすでに売れすぎというぐらいミュンヘン中に轟いており、セキュリティ諸々を考慮して今更新しく住む場所を手配しようと思うには億劫に過ぎた、というのが向こうの言い分だった。
 家の外では今までと——それこそ付き合う前から何も変わらないように振る舞い、家の中ではよそよそしい他人のように過ごす。世一は別れてからはじめて自分のベッドを買って客間に設置した。カイザーはひとりきりのベッドで数年ぶりに眠りに就くようになった。心臓の真ん中にぽっかりと空いた穴はもう二度と塞がることはない。
 どれだけ布団を被っても夜は寒く、月明かりは刺すように凍てついて、真夜中、ふとした瞬間に、わけもわからず涙をこぼし、目を醒ますことが増えた。
 そばに世一がいてくれるならその方がまだいいと思っていたカイザーだったが、日に日に、そばにいるのに他人行儀な世一の存在はカイザーの心を傷つけ、ささくれ立てていった。けれどそれに限界を感じ始めた二十六歳の春、世一はスペインに移籍することになり、関係も苛立ちも焦燥も、何もかもが自動的に消滅する。

 家はがらんどうで静かになった。
 元々何もない家だったし、ただ元に戻っただけのはずなのに、世一のものが何一つ無くなって、確かにそこにいたはずの場所が空っぽになってしまったことが、耐え難い程に苦しかった。今まで気にも留めなかったはずの空白がいやに目についてやるせない。こんなに場所は余ってるのに、この感傷の行き場だけがどこにも無いだなんてクソふざけている。

「ざまぁねぇなぁ、人間になったみてぇなツラして溺れた挙げ句この結末オチだ」

 鏡を見る。世一がよく理由もなく撫でていたいばらの刻まれた左腕に右の爪を立てて引っ掻きおろすと、人間みたいな赤色が零れ出て、皮膚を伝い、滴っていく。

「何が『お前の人生を縛ることはできない』だ。こちとらもうとっくにお前に縛り付けられてるんだっていうのに、クソ世一……

 答える声は無い。零れ落ちていく血の色に、慌てたように喉をひっくり返して飛んでくる双葉の姿もない。カイザーは鏡の中に映り込む蒼白な男を上から下まで眺めると、ひとしきり己を嘲り笑いたて、最後に血を拭った。気の迷いで舐めた血は錆びた鉄の味がしてクソゲロで、世一の唇を噛んで舐めた血の味とは何もかも違って最低で。


 ——だからもうこんな救われない感傷はこれっきりにしようと、そこでようやく、踏ん切りを付けた。


 そうして気持ちを新たに迎えた次のシーズンは、意外にも悪くないものになった。新しいユニフォームを身にまとってピッチに現れた世一は、自分たちが付き合っていたことも別れたこともまるでなかったみたいに昔と変わらない態度でカイザーに接してきて、そのことにそれなりに救われた。

 なるほど、全部元通りにしようってワケね。

 出逢ったばかり、新英雄大戦ネオ・エゴイストリーグの頃みたいに罵りあい、殺意と敵意を交わしあいながら、カイザーはそう結論付ける。それならそれでいい。胸のすく思いでせいせいするぐらいだ。カイザーはさっぱりと気分を切り替え、チャンピオンズリーグで三度目に対戦した試合のあと、世一をサシでの飲みに誘った。世一はほんの少しだけ考えたあと、すぐに頷いて、ふたりで個室のバーに行った。飲んでる間はサッカーの話とくだらない近況報告しかしなかったし、キスもあやまちもなにひとつ起こることはなく、もちろん、帰りゆく世一の袖を引くこともせず——タクシーを呼んでやって紳士的にホテルへ送り、そして別れた。

 それ以降は試合で顔を合わせるとふたりきりで飲みに行くのが恒例になった。
 ときどき、抑えきれないなにかのために世一をじっと眺めてしまっては慌てて目を逸らしたり、或いは世一の方が何か言いたげな顔をしてこちらを見てきている視線にもぞもぞした気分になったりもしたけれど、それをひっくるめても、世一とこうして当たり前に時間を過ごせることが嬉しかった。
 言葉を選ばないのであれば、友人に戻れたのかもしれないと、そう思った。互いに友人だと認め合っていた期間は決してなかったが、世一と別れてから懸命に読み直した人間心理学の本たちに書かれていた言葉をまとめれば、きっとそういう呼び名になるはずだと理解していた。それは……二度と世一と言葉を交わせなくなる最悪の未来よりはずっとずっと心地よい、最善の関係に他ならなかった。

 たとえ、世一の友人が、自分だけではないのだとしても。
 世一に新しい恋人ができているのかもしれないとしても。
 有象無象の中に埋没していくのだとしても、存在を消し去られるよりはずっとマシだ。我ながら女々しくて嫌になるが、それが二十七歳のカイザーが導き出した偽らざる本音だった。

 こんなことになってもまだ、カイザーは世一のことが好きだったのだ。
 だからこの関係がずっと続いていくのならそれはそれでと、曖昧な関係にズルズルと甘んじた。試合をすれば世一と逢える距離にいることにみっともなく安堵して、クソダサくも縋り付いた。だから——だから、そんな関係に遠からず終わりが訪れるのは、仕方のないことだったのかもしれない。
 世一と逢えなくなったのは三十歳の夏のことだった。

——日本をW杯優勝に導いたこの試合をもって、俺、潔世一は、現役を引退します」

 二〇三〇年W杯。決勝カードはドイツ対日本、アディショナルタイムまでもつれ込んだ末の日本の逆転勝ち。サッカー史にも残りうるほどの激戦を遂げた直後に発表された電撃的な宣言に、世界は狂乱し、ときに絶望し、ヤツの長年の腐れ縁たちであろう日本代表の連中ですら狐につままれたみたいな顔をして唖然としていた。世一はまだ二十九歳で、引退するには早すぎた。あのノエル・ノアだって三十八まではプレーしていたのである。せめて次のW杯でも、と食い下がったレポーターに、けれど世一は吹っ切れたような爽やかな顔でこう言い放った。「やりたいことができたので」。世一は多くを語らずピッチを降りていき、世の中は言いたい放題の憶測で溢れかえった。中でも一番の主流は、「イサギもそろそろ身を固めて家族のために時間を使いたいのだろう」というものだった。

 カイザーは失望した。

 そんな根も葉もない噂に動揺して、頭を抑えていることしか出来ない自分自身に、言葉にできないほど失望していた。頭の中に自分勝手な言葉たちがガンガンと響きわたる。あの時別れていなければ。あの時素直に別れを承諾せず、みっともなくとも、いっそ監禁してでも世一の意見を変えさせて、手元から離していなければ。世一が引退して寄り添う相手は自分だったはずだし、そうでなくとも、進退にかかわる大事な話だ、事前に聞いて、一緒に考える時間だって得られたはずだ。
 すべてはありもしないでもしか論だというのに馬鹿げた考えが滝のようにあふれ出して止まらない。現実を見ろミヒャエル。お前は世一の手を離したんだ。それも五年も前に、恋が何かということすら分かっちゃいない馬鹿なガキだったお前は、世一が本当に自分以外の誰かのものになる可能性なんて考えもせず浅はかにも手放してしまった、その報いがこれだろうが。

「ああ……俺はもうとっくに世一のことを愛してしまっていたのか…………

 零れる言葉を聞き届ける者はもちろんどこにもいない。カイザーは涙を流すことすら出来ずに喉を喘がせた。世一を引き留めることすら出来なかった。その資格が自分にはない。そうして、そうこうしているうちに、世一は煙のように忽然と表舞台から姿を消してしまった。
 あれほどの世界的フットボーラーがいったいどうしたら世界中から押し寄せるパパラッチの目を掻い潜ってそんなことが出来るというんだろう?
 わからないが、とにかく世一はそれをやってのけた。あれから誰も彼もが潔世一の行方を掴めずにいるという。W杯のあといつものように世一を飲みに誘えなかったカイザーはもちろん、青い監獄ブルーロックでの同期だった連中ですら、W杯の試合を最後に一度も姿を見かけていないという話だ。
 生きる意味を見失ったみたいな心地がした。
 しかしそれでも、カイザーはサッカーを辞めることはできなかった。カイザーにはこれしかなかったというのもあるし、サッカーさえ続けていれば、どこかで世一と人生が交差できるのではないかと一縷の望みを賭けている節もあった。W杯を終えた次のシーズン、カイザーは鬼気迫る勢いですべての試合に打ち込んだ。ドイツのスポーツ紙は「皇帝W杯での雪辱に燃えるか」とカイザーの躍進を好意的に取り上げ囃し立てたが、実情はそんな可愛らしいものではなかった。カイザーは祈る代わりにボールを蹴っていたのだから。

 だがどれだけ祈ろうと結果は変わらない。元より神なんぞ信じちゃいない身だ、奇跡なんぞに縋るつもりはハナからなかったが、しかしそれでも——世一の存在が遠のき、薄れていくことに、焦燥を覚えないと言ったら嘘になる。
 その年カイザーは世一の消えたチャンピオンズリーグで古巣バスタード・ミュンヘンを優勝に導き、バロンドールを獲得した。それでも世一は現れなかった。世間も、徐々に、潔世一という存在への興味を失っていく。
 カイザーはすべての目標を失い、燃え尽きた抜け殻のようになった。
 そして空っぽになった心はやがて己の競技人生にもここでピリオドを打ってしまおうかとうっすら考えはじめていて、


 ——折しもそんな時節になって、カイザーのもとにある打診が届いた。



◇ ◇ ◇



「で? なんでアンタがわざわざその連絡を俺に持って来るんだよ……ノア?」
「現在俺がバスタード・ミュンヘンの監督補佐だからだが」
「アンタじゃなくてもいいだろって話だ。当てつけかよ」
「当てつけじゃない。だがメッセンジャーは誰でも良かったのは確かで、俺が自分から立候補した。これで満足したか?」

 ワケがわからない。
 うららかな陽射しが差し込む午後のラウンジで、ミヒャエル・カイザーは思いっきり顔を顰めて目の前の男を眺め見た。相変わらずの鉄面皮で何を考えているのかはよく分からない。現役の頃のヤツにはその表情の読めなさから随分と駆け引きで翻弄されたものだが、まさか引退したノアのツラにも苛立ちを覚えなければいけない日が来るとは思っていなかった。

「とにかく、例の青い監獄ブルーロックからお前に招聘が来ている。覚えがあるだろ、十二年前の、あの……
新英雄大戦ネオ・エゴイストリーグ。悪夢そのものだ。未だに夢に見る」
「なら説明の手間は要らないな。今度はその指導者マスターストライカーポジションでお前に来てほしいらしい。今年度バロンドール獲得プレーヤー様だ、まぁ向こうとしても文句ナシの満場一致指名ってとこだろ」

 クラブハウス内のラウンジは人払いが済まされており、周辺にカイザーとノア以外の人影はない。これは機密情報なのだ。もしカイザーが行くとなればサッカー界に与える影響は大きい。そういえばあの企画、現役の超人気選手を何ヶ月も日本に拘束するとかいう異常企画だったんだよなと今更ながらかつての記憶に思いを馳せた。ノエル・ノアがシーズン真っ最中に二ヶ月拉致されて極東の島国に拘束されてるって、前代未聞過ぎて当時ちょっとだけ荒れた気がしなくもない。

「あのイカれ施設、まだ稼働してたのかよ」
「一期生がめざましい成果をあげたうえに配信番組でたいそう儲かったらしいからな。日本フットボール連合の会長は拝金主義の銭ゲバ狸だというのが絵心甚八の評だ。金のなる木をむざむざ棄てたりはしないだろ」
「それでめでたく十二周年。泣けてくるね、まったく」
「絵心も似たようなコト言ってたな」
「アンタあの眼鏡とどんだけ仲いいんだよ」
「腐れ縁だ。愚痴の捌け口が俺ということになってるらしい」
「あいあい、引退人生充実してるようで何より」
「お前結局その幼稚な性格最後まで治らなかったな……
「マジで余計なお世話だクソ老害マスター

 今度こそ当てつけるつもりで言い放ってみたものの、当のノアはじじむさく「懐かしいなその呼ばれ方も」と唸るだけだった。
 引退後のノエル・ノアは母国フランスに骨を埋めるかと思いきや自身が最後まで所属していたバスタードの監督補佐にまず就任した。数年前のことだ。そのまま正監督に就任するか、別のことをするかは今考えている最中らしい。そもそも監督補佐という形で残ったのも、「俺が育てた問題児どものお目付役兼後始末のためだ」とか抜かしていたが、カイザーにはコイツに育てられた記憶など無い。多分世一のことを言っているのだろう。ソイツももう別クラブに移籍した挙げ句消えてしまったわけだが。

「で、どーする? この話受けるのか、受けないのか」

 ちょうどカイザーの思考が横道に逸れたタイミングで、ノアが直裁にそう切り込んでくる。「いつまでも雑談に花を咲かせてるほどお前も俺も暇じゃないだろ」と真顔で言ってくるのがもはや嫌味だ。
 こっちは引退して貯金で余生を過ごすかどうかを真剣に検討し始めているというのに。
 何しろ世一のいないサッカーはつまらない。こんなものやっていてもしょうがないのだ。だが同時に、サッカーから降りた世界がもっとつまらなくてしょうもないことも薄々分かっていた。結局どこまで行っても己というクソ物にはボールしかない。

「受ける。どうせ暇を持て余してたんだ、こちらの実績を買っていただけたというならお礼にあの監獄を滅茶苦茶に掻き回してやるのが礼儀だろうよ」

 だからカイザーとしては至極当たり前に、何も驚くべきこともなく、そう返事をしたつもりだったのだが。

…………そう、か」

 何故か、ノアはその答えにらしくもなくあからさまに動揺して、いつもの無表情の中に困惑を滲ませると首を横へ振った。

「そうか……お前がそう簡単に誘いに乗るとは想定外だった」
「アンタがそんなに驚くほどのことか、ノア? アンタだって現役バリバリの一番脂がのってる時期にシーズンほっぽり出して行ったじゃねぇかよ」
「アレはお前を鍛えてついでに日本の有望な選手も俺の好敵手にするという個人的な目的ありきでの承諾だった」
「ハイハイ、少年MANGAの主人公みてぇな自己中極まりない動機でな」
「そして実際、青い監獄ブルーロックでの経験を経てお前は大きく成長し、潔世一と共に俺を脅かすほどの選手になった。俺の選択は間違ってなかったと今でもそう思う。おかげさまでこの肉体が届きうる最強の領域へ到達したところで現役人生を終えることができた——だが」

 ノアの顔が上がる。もたげられ、真っ直ぐに、その視線がカイザーを射抜く。

「カイザー。お前は今何の為にボールを追う?」

 何もかも見透かしたみてぇなツラをして、冷徹に。
 カイザーの真意を値踏みしてくる。年老いた教師みたいな口ぶりで。

「それこそアンタに言われるようなことじゃない」

 そしてカイザーがどれだけ振り払うように首を振っても、お節介極まりない教師気取りジジイの説教は止まなかった。

「ただひたすらに己の強さを求めるようなエゴがあるなら、むしろこんなことは言わん。お前今燃え尽きてるだろーが、カイザー」
……だったらなんだってんだよ」
「てめぇの感傷のためにガキの人生を巻き込むなよ。指導者としての招待を受けたからには少なくとも指導だけは誠実であれ。まぁ俺もさほど監督業が上手い方だとは思っちゃいないが、それでも職務放棄だけはしないように努めていたつもりだ」

 潔世一にだけは、期待していた分突き放すようなこともしてしまったが——となんでもないふうにこぼされた言葉に、反応する余力は無かった。
 いや、それすら出来なかったと言った方が正しいか。とにかくカイザーが燃え尽きていたのは事実だったし、やけっぱちで招聘を飲もうとしているのも半ばぐらいは事実だったし、そこで何をしたいという目的が特に無かったのもやはり事実だった。つまりノアの指摘は完璧に図星だったのだ。

「それでもここで何もせず指咥えてるよりマシだ」

 だからカイザーに言えたのはせいぜいそれぐらいのもので。

……そーか、まぁそうまで言うのなら、この話は承諾で青い監獄ブルーロックに折り返しておく」

 そんなカイザーの何を見て、何を感じたのか——ノアは「言いたいことは一通り言ったし後は知らん」とばかりまた元の無表情に戻るとそう頷き、話はそこでお開きになった。

 これが半年前、カイザー三十一歳の夏のことだ。



 それから実際に青い監獄ブルーロックへと赴いたのはカイザーが三十二歳になった冬のことだった。

(あの老害、結局何がしたくてわざわざメッセンジャー役なんぞ買ってでたのかね……

 無機質な人工物で覆われた通路をカツカツと歩きながら、半年前の——ノアの何か言いたげな最後のツラを思い起こし、けれど答えが見つからずに考えを止める。その代わり、記憶の中の景色と同じ味気ない壁と天井と床に溜息を吐き、今度は十二年前の記憶に想いを馳せる。
 十九歳になって間もない冬の終わり。人間になれたと思い込んで格下狩りにばかり勤しんでいたあの頃の自分は、思い出したくないぐらい恥ずかしくてバカで愚かな裸の王さま気取りのガキだった。
 あれじゃ今の自分がノアの立場でも性根を叩き直すだろうな。らしくもなく嫌いな男の肩を内心で持って、無意味な自嘲と自傷を浮かべながら、カイザーはバスタード下部組織ユースから連れてきた連中の先頭に立つ。

……しかし本当に変わってねぇな、この施設も」

 そうしてあの時から変わらずこのイカれ組織のバックアップを続けているという帝襟女史の案内を受け終わり、勝手知ったる廊下を歩き、首を振った。後ろでガキ共がざわざわと噂話に精を出しているのが聞こえる。

「なんかカイザー訳知り顔じゃね?」
「ホラ、あの人昔も企画でここ来てたから。俺らと同じユース選手側で」
「あ〜あの、子供の頃親が好きだったヤツ」
「俺なんてアレ見てバスタードに来たようなもんだし……
「お前ら誰に憧れてた?」
「イサギ」
「俺カイザー」
「俺はノア」

 まったく好き勝手で無責任なことである。
 つーか今「俺カイザー」とか抜かしたのどいつだ? あの配信を見た上でミヒャエル・カイザーに憧れてバスタード下部組織にまで入ってくるってかなり終わってるだろ。性格か趣味のどっちかが。
 カイザーはちらりと後ろを覗き見てソイツの顔を確かめた。MFのエーミールか……。MFってロクなのいねぇよな、糸師冴とか。そうしてハチャメチャに勝手な結論を脳内で付けている頃には、睨まれたと思い込んだガキ共もすっかり静かになっていた。一応、ヤツらにも今年度バロンドール様のミヒャエル・カイザーを敬う気持ちはあるらしい。

「着いたぞ、ここがお前らに与えられた部屋だ。お前らは向こう一日ここで待機。この棟一帯から許可無く外に出るのも禁止」
「はーい」
「ちなみに規則ルールを守れないヤツには俺が処罰を下すからそのつもりでいろ、以上」
「はいはーい」

 最低限の説明義務を果たし、チャラチャラと返事をするガキ共を横目にドイツ棟を後にする。あとは青い監獄ブルーロック総責任者に挨拶をして今日の予定は終わりだ。そこで他のマスター共とも顔を合わせることになるが、気の重い用事はまあそのぐらいか。
 何の気の迷いかマスター枠で来ているという話のイグレシアスあたりと顔を合わせるのはかなりかったるい。二度もこんな企画に参加しようとしているロキも頭がおかしいし、ロレンツォに指導者が務まるとはとても思えない。クリスの弟子だとかいうイングランドのヤツが辛うじてまともかというぐらいだ。そんなこんなで平均を取るとカイザーですらマシな側の指導者になってしまうのがなんとも気が重いが、まぁ、責任者の絵心甚八自体はどうでもいい相手なので、あとは軽く話を聞き流せばそれでいい。
 そう考え、カイザーはフライトで疲弊した身体を引き摺り青い監獄ブルーロックの中枢部にある指令ルームへと足を踏み入れ、


——は?」


 そして固まった。
 完全に——一ミリも想定していなかったモノがいきなり視界に映り込んできたので、これが現実か夢かを判断できなくなり、思考がフリーズしてしまったのだ。

「だぁー、ミヒャおせぇ、遅刻すんなよ。罰金オーケー?」
「払いませんよそんなの誰も。それに我々の中で一番遅いと言っても規定時刻よりは前ですから」
「ボクも同意見かな。ロキと意見合うなんて珍しいね♪」
「死にたくなる、ですか? 簡単に死なないでくださいよイグレシアス」

 ぎゃあぎゃあ喚き合っている他の指導者マスター共はどうでもいい。本当にどうでもいい。問題はその奥にいるヤツだ。黒髪で、眼鏡を掛けて、真っ黒いスーツを着ている。ソイツは壁中に掛けられた無数のモニタの前に立っていて、そして、それから……

「あ、これで全員揃った? じゃー改めて、挨拶しとこうかな。正直みんな勝手知ったる顔ぶれって感じだけど、最初ぐらいは一応礼儀正しくいかせてくれ」

 ソイツが、ぬけぬけとそんな口を利いて、気安い調子でこちらに歩いて来て手を振る。

「えー、お集まりの皆さん、青い監獄ブルーロックへようこそ。招待を受け集まってくれたことを光栄に思います」

 するとそのはずみで頭上にぴょこんと乗っているヤツ曰くのチャームポイントが——双葉が揺れて、カイザーの視線はどうしようもなくその稀代の自己中最低野郎エゴイストへと吸い寄せられていく。


青い監獄ブルーロック二代目総責任者の潔世一です。短い間だけどよろしく」


 その言葉にカイザーは全ての言葉を失った。
 恐らく十九歳の頃だったら、ここで耐えきれず全ギレし、怒りと憎しみのままあの男の胸ぐらに掴み掛かってはっ倒していただろう。それぐらいの衝撃だった。だが今のカイザーは大人だし、もう三十二歳なのだ。ティーンの頃と同じではさすがに己の心が死ぬ。ヘタに社会性を身に付けてしまったせいで、蒼白になって立ち尽くしていることしか出来ない。

(なんで……

 どこにも足取りを掴めなかったはずのかつての恋人を見ながら、まるで幽霊でも見つけた老人みたいに呆然として。

(なんで世一がここにいるんだよ…………!)

 叫びたい気持ちを懸命に抑え、ミヒャエル・カイザーは心の中でだけただ呻く。
 なるほどそりゃあ見つからないワケだ。青い監獄ブルーロックは外界から隔絶された空間。例のイカれた配信番組も今回の新英雄大戦ネオ・エゴイストリーグ企画までは休止期間だったというし、情報を隠匿するにはもってこいだ。そしてノアがカイザーの参加決定を聞いて動揺していた理由もついでに判明した。直接青い監獄ブルーロックからの連絡を受け取っていたノアは、カイザーを指名した現責任者が絵心ではなく世一だと気付いていたのだ。
 言うまでも無いがあの老害はカイザーと世一が付き合って別れたことを知っている。サイボーグにもいちおうその程度の情というか気遣いは備わっていたらしい。最終的にもう知らん面で送り出してる時点でないに等しいのだが。
 ともかくあの日カイザーの心に消えない傷を残して消えたはずの男はこうして再び姿を現した。

 ——だが、だからといってどうしたらいいっていうんだ?

 もう別れて七年近くが経つのに? こんなの気まずい以外に感想があるかよ。
 いったい世一はどういうつもりで元カレを職場に呼び寄せるなんてアホの極みとしか思えない行動に出たのだろう。気になって仕方なかったが、口を開く気にもなれなかった。世一はニコニコ笑って同年代の指導者マスターたちを——現役選手を見ている。


 その視線が、ほんの僅か、カイザーにだけ多く注がれていたような気がするのは、…………きっとクソほど気のせいだ。








02




『なー、お前の腹筋ってなんでこんな割れてんの? 同じもん食って同じメニューこなしてるのに不公平じゃね? ……って、何ニヤニヤしてんだよっ! ぷにぷにすんなっ、もぉ!』

 付き合っていた頃、世一は夜寝る前にくだらない話をするのが好きだった。
 話題は、良く言えば多岐にわたり、悪く言えばとりとめなく散漫だった。世一はいつも、どう考えたって今思いついたばかりとしか思えない話ばかり夢中になって振ってきた。皇帝衝撃波カイザーインパクトってどーやって出来たの? 今読んでる本なに? 今日見たドラマが結構面白くてさ。明日の夕飯何作るか決めてないからリクエストしてよ。ランニングコースの途中に出来たケーキ屋行きたいんだけどどう? 週末どっか行こーぜ、車出して。なぁなんか今日窓から見える月おっきくない? カイザーの心臓の音安心するから好き。お前の手あったかすぎ、でも冬場は助かってる。酒飲み過ぎちゃった、頭ガンガンする。後れ毛かわいいから好きかも、襟足切らないで。お前の綺麗な目が好き、だから見られてると気持ちいい、……ばかそういう意味じゃねーよ、ホントだから元気になってんじゃねーって明日試合だろ!

……お前は何故そう、夜毎にくだらねぇ話を振ってくる』

 あまりにどーでもいい話ばかりされるから、一度だけ、訊いてみたことがある。付き合い始めて三ヶ月が経ったぐらいの頃だった。身体だけの関係だった頃はこういうとりとめのない話もそうされなかったから、純粋に不思議だったのである。
 何が世一をそうさせるのか? もしかして、日本人は付き合ったらみんなこうなのだろうか?
 訊ねると世一はこてんと小首を傾げ、それからちょっとだけ申し訳なさそうに眉根を下げた。だが「そんな顔をさせたかったワケじゃないのに」と口にする前に、世一が、くちびるを開く。

……嫌だった? 嫌ならやめるけど』

 カイザーは静かに首を横へ振った。

『違う。嫌だったら三ヶ月も付き合ってない、三日目で止めさせてる。……ただ不思議なんだ、試合中のお前は合理的で、無駄なことは一切しない。だからこの行為にも何か意味があるのかと……
『え、あ、そゆコト。ん〜……意味ね、意味、まぁないっちゃないんだけど……

 世一の指先が、ゆるやかに伸ばされて、カイザーの髪を撫でる。世一はこの仕草が好きだった。カイザーのコンプレックスのひとつでもあるクッソ寝癖の付きやすいボサ髪を、何より愛しいものであるかのようによく撫で回していた。そうしてそういうときは決まってクッソだらしないゆるゆるの表情をして、目を細める。
空色の瞳が醜い欲ではない何かに染まる。
その意味を知りたいといつも思うのに、いつも、見つけることができない。

『サッカーの戦術は、必要な話。俺たちが生きていくためにどうしたって切り捨てられない武器みたいなもんだ。でもくだらない話はさ、なくたって構わない分、ソイツの飾らない部分に触れるような気がするから』

 世一が言った。子守唄を囁く御伽話の母親のように。

『お前の心を腑分けしてもらえてるみたいで好きなんだ。……分かるかなぁ? 何て言うか、綺麗で純粋な魂のかけら、それを少しでも俺の心臓の内側に隠してしまっちゃいたくて、……欲しがって、おねだりしてるみたいなさ……

 辿々しい言葉たちと共に、しなやかさと無骨さがアンバランスに両立するやさしい指が、後れ毛を伝って耳元を撫で、最後に頭頂部へと辿り着く。『俺説明ヘタだからさ、うまく伝えられてるか自信ないけど』そしてぽつぽつと、それこそ世一自身の心を腑分けするかのように言葉を探して丁寧に並べ、カイザーの疑問に誠心誠意答えようとしてくれる。海色の瞳の中にぽかんとベッドに寝転ぶ間抜け男の素顔を映し込みながら……

『お前の心を感じたいんだ』

 潔世一の瞳の中に映るミヒャエル・カイザーは、肩に思いっきり歯形を付けられ、ところどころに引っ掻き傷も作って、間抜けで、生涯世一以外には見せようとすら思わないような無防備な裸を晒していた。

『俺の心を』
『そう。でも俺たちは違う人間で、見たり触れたりするだけじゃ限界があるから。言葉にして教えてもらうの、もっと知っていくために、……もっと好きになるために』

 だけどそれが嫌ではなかったのだということを、今になって思い出す。世一に生まれたままの姿を晒すのは恥ずかしくなかった。きっと世一も同じだと感じていたからなのだと思う。恋人が、世界でたったひとり全てを許しても惜しくないひとが、同じ気持ちでいてくれたらいいなといつも祈っていた。祈っている自覚なんてあの頃はなかったけど、でも確かに、それは、祈りだった。
 言葉なき世界への願い。
 このピッチ上では世界一理不尽でクソエゴイストで我が侭で最悪で最低な男が、今日も、明日も明後日も、俺の前でだけは歯形と鬱血痕まみれの柔肌を惜しげもなく晒して笑っていますように、と。

 いつか終わる夢をまるで永遠かのように思い込んで描いていた。……今となっては呆れ返るほど愚かな過去の夢想。

『俺、お前のことなんでもさ、言葉にして教えてほしいんだ』

 あの日世一は照れくさそうにはにかんで、最後にそう囁いたんだったか。
 そのはずだが、確証はない。それに今更確かめる術ももちろんない。
 なにせ七年も前の話だ。
 世一はきっともう覚えていない。



◇ ◇ ◇



 青い監獄ブルーロック指導者マスターとしてやってきてゼロ日で出鼻を挫かれたカイザーは、それから十数日ほど徹底的に世一を避け続けた。
 もちろん、顔を合わせなくてはいけない瞬間はある。仕事で来た以上会議をすっぽかすわけにはいかないし(たまにイグレシアスとかが出てなかったが)、育成方針を報告共有しないわけにもいかない(これはロレンツォがちょくちょくフケていた)。とにかくカイザーは不真面目な連中とは違うので真面目に責務を果たし続けた。ノアに「少なくとも指導だけは誠実であれ」と釘を刺されていたのが効いたというわけではないが——受けて来てしまった以上立場には誠実でありたかったというのが偽りのない本心でもあった。
 自分も随分じじむさくなったものだ。カイザー自身そう思わないでもなかったが、まぁ、三十過ぎてティーンの面倒を見ていればいやでもこうなるって話だと思う。むしろあの状況でもティーンエイジャーたちを自分が強くなるための餌として見ていたノアが異常なのである。カイザーは意外と真っ当な感性の持ち主なのだった。すくなくとも元カレを職場に呼び込む異常者よりはずっと。

 ところで、そんな騙し討ちみたいなやり方でカイザーを呼び出した元恋人サマはと言うと、コッチの心労なんか知ったこっちゃないという様子でカイザーに接触を図ろうとし続けていた。それも再会したあの日、あの瞬間からずっと。おかげでカイザーには心の安まる瞬間がなくたまったものではない。
 あの日世一は集まった指導者マスターに一通りの説明を終え笑顔で他の連中を送り出すと、最後に、あまりの衝撃にワンテンポ動きが遅れて固まっていたカイザーの方へ手を振り、当たり前みたいなツラをして近寄ってこようとした。
 しかしその瞬間、カイザーは金縛りが解けた旅人のように脱兎の勢いで駆け出しドイツ棟指導者マスターストライカールームへと逃げ帰った。非常に癪だがこればかりは逃げ帰ったとしか表現しようがない。そして内側から鍵を掛けて——こんなこともあろうかと後付けの鍵を自前でもう一個用意しておいて良かった、青い監獄ブルーロックってマジでプライバシーないからな——籠城を決め込み、一晩を明かした。その夜は緊張で殆ど眠れなかった。

 マジで、どのツラ下げてカイザーを呼んだんだ、あの男は。

 そもそもカイザーだって、いったいどのツラ下げてアイツと顔を合わせればいいって言うんだ?
 そんなもの互いにこのツラとあのツラしかないわけだが、それが理解っているぶん、気が気ではなくて胃が重かった。「あのさカイザー、指導カリキュラムのことなんだけど」他の指導者マスターもいる場で皆と同じ話題を投げ掛けられているだけだと分かっているのに冷や汗が噴き出る。「なぁ隈ひでーけど大丈夫? カメラ入ってるし腑抜けたトコ全世界配信されるとお前が困ると思うけど」大混雑の食堂でたまたま顔を合わせてしまい、世間話を切り出されただけで頭痛と眩暈がひどくなる。「明日の実戦で皇帝衝撃波カイザーインパクト打てる? 大丈夫そ? 相手ロレンツォだからスターチェンジシステム絶対使うことになると思うけど」ばかりか目が合いそうになるとそれだけで心臓が軋む。必死に逸らすがやはりギュッと締め付けられるような気分になる。もしかしたら心臓の病気なのかもしれない。出国前に受けた健康診断の数値は健康そのもので、あと十年は現役続けられそうな程ですねと主治医から太鼓判を押されて気まずい気分になったぐらいだったが。

「ミヒャ、ヨイチとなーんかあったぁ?」

 そんなだったから、珍しくロレンツォが声を掛けてくる、なんてことになったのだろう。
 イタリア・ユーヴァースとの第二試合が終わったあと、脈絡なく、ヤツに絡まれた。しかも本当に珍しく真面目な声をしたドン・ロレンツォにだ。カイザーは首を振る。何かあったか、だと? あったとも。ありすぎるほどだ。だがロレンツォに話すようなことではない。

「何もねーよ、ほざいてろ。その不快なフル金歯見せてくるんじゃねぇ」
「だぁー、何かあった時の顔だぁ。図星OK?」

 だからキッパリと言い棄ててシッシと手を振って追い払おうとしたのだが、当然というか何と言うか、意に介すロレンツォではなく普通に居座られた上にグサッと刺してきやがるので最悪も最悪だった。

「あー、まぁしょーがないよなぁ、ヨイチ一年以上雲隠れしてたもんねぇ。百億超えプレーヤーがあっさり姿消してこんなトコに楽隠居なんて俺なら考えらんねぇー、ヨイチはイカれてるぜ」

 したり顔でロレンツォがぺらぺらと言う。相変わらず金の話ばかりしていて発言は不快だが、内容自体は、まぁ同意できなくもない。潔世一はイカれているしその引退劇はあまりに唐突に過ぎた。あれほど名を轟かせた名プレイヤーとしてはあっけなさ過ぎる、類を見ないものだ。その理由に自分が関わっていないのにも腹が立つが、類推すらできないほど遠い存在になってしまっていたことにも腹が立つ。アイツが何を考えているのかずっと分からない。
 かつてまだ何も知らないガキだった頃、ピッチの上ではあれほど理解りあえていたのに……

「未練たらたらの男は嫌われるぜ、ミーヒャ。真理OK?」

 などと思っていたら、勝手に何か頷き始めたロレンツォが突然そう切り込んでくる。

「うるせぇよ」
「そーんな気になるなら話ぐらいしてやれよ。なんで避けてんの? ミヒャまだヨイチのコト好きだろ?」
「いいからその汚ねぇ口を今すぐ閉じろ」

 おまけにとんでもない決めつけと共に言葉の暴力で殴り掛かってくるものだから、思わず自分がティーンだった頃のようにキレ返してしまった。若手選手相手にはそこそこ取り繕って大人らしく指導できているはずなのだが、腐れ縁相手だとそうもいかないのが悲しいところだ。

「だぁー、怒るな怒るなって。ったく、そんなコンディションでウチに勝っちゃうんだから可愛くねぇなぁー」

 ロレンツォの方もそれは分かっているのだろう。特に気にした様子もなく、ヤツは楽しげに肩を竦めて軽口を叩く。一瞬付き合って別れた元恋人に後ろ髪を引かれまくってギクシャクしている状態でも、サッカー選手としてのカイザーにブレはなかった。今日の試合結果は3対2でドイツの勝ちだ。
 スターチェンジシステムでやはり出てきた挙げ句アッサリ1点持っていきやがったロレンツォ本人は強敵だったが、そこはカイザーが風穴を開けて1ゴールねじ込み、ロレンツォごと引き摺って三分間の持ち時間を終わらせ退場した。そのあとは純粋に子供たち同士の地力勝負になり、そして数値主義のドイツが勝った。カイザーは聞かれたことに答えるぐらいの指導しかしていないので、バスタード・ミュンヘンのユース共がデキがいいのだ。それだけの話だろう。

「悔しければもう少しマトモに指導してこいよ。スナッフィーの理論継承してんだから守備ぐらい磨け」
「そいつは次の試合でお楽しみにぃ。それよか俺はもう一仕事あるんだぁ、悪友の顔も見られたことだし失礼しよっかな」
「誰が悪友だ、俺はてめぇの顔なんか見たくもねぇ」
「だぁー、悲しいコト言うなよぉ?」
いいから帰れファック・オフ

 再びしっしっ、と手を振り、「ヨイチの顔は? 見ねぇのかよ?」なんぞとしつこく訊いてきたロレンツォを今度こそ追い払う。するとヤツは金歯を剥き出しにして笑い、ひらひらと手を振り返してその場を去って行ってしまう。
 本当に何しに来たんだアイツは……
 カイザーはすっかり疲弊してしまった頭を振って私室に戻る道を歩きはじめた。そもそもこっちは世一と顔を合わせないですむように嫌と言うほど気を遣っているのだ。ロレンツォに絡まれて帰還に手間取ってしまったぶん、ヤツとの不意のエンカウント率は上がった。さながらホラーゲームのボスゾンビに対するみたいな反応である。とにかく勝手に部屋に居座られたりする前にさっさと戻って施錠しないと。

「はぁ……

 溜息と共に、ドイツ棟指導者マスターストライカールームへ。静まりかえった廊下の突き当たりまで進むと、十二年前はノアが使っていたという無機質な部屋が姿を現す。
 あの男はどんな気持ちでいなくなった絵心甚八腐れ縁と肩を並べ仕事をしていたのだろうか。
 聞いておけばよかったなという気持ちと聞いたところでどうするんだよという気持ちを弄んで指紋認証の扉を開き中へ入る。室内は、カイザーが朝出て行った時とまっ変わらず、ごちゃごちゃと乱雑に散らかって足の踏み場もないままだ。
 人が入った気配はない。……大丈夫か。
 その変わらない調子に安堵して、カイザーは自動ロックに続けて内鍵を掛けるべくポケットに手を入れた。指紋認証の自動ロックは所詮青い監獄ブルーロック側が設置したものなので世一の権限を使えば容易に突破されてしまう、やはりこれだけではおちおち眠れないのだ……そんなことを考えながらポケットの中をまさぐっていた手の動きが、しかし、そこで止まる。

——ん?」

 ポケットの中は空だった。

「は……!?」

 朝は確かにここに鍵を入れたはずなのに。昼もあった、スターチェンジシステムで試合に出た後も監督席に戻って確認した、あったはずだ、試合が終わるまでは。
 ではいったいどこで失くした? まさか——まさか!

「あんのクソ金歯……!」

 可能性に思い至り、カイザーは全身の血管がブチ切れるのではないかというぐらいの勢いで叫んだ。
 近くにあるユース選手たちの部屋にまで響いていそうな大声だったが、取り繕う余裕もなかった。クソ、やられた、やられた! 背中から嫌な汗が噴き出して滴り落ちていく。ロレンツォはカイザーと同じストリート出身だ。ヤツの手癖が悪いことなんて分かりきっていたのに。
 まさかこの青い監獄ブルーロックという環境で、それぞれに指導者マスターという立場になってまでこんな原始的な手でハメられるとは思っていなかった。
 それに……ロレンツォがあいつ・・・の頼みを聞くという可能性も失念していた。ロレンツォは意外に気のいいヤツでお気に入りには甘い。そしてロレンツォは、馬狼照英ほどじゃないにせよヤツ・・のイカれっぷりをまぁまぁ買っていたはず。

 だからつまりこの茶番劇の行きつく先は、

……もしもーし? 中いる? 鍵ないんだろ? 今日は入っちゃっていいよな?」

 ——このノック音の主に他ならない。

 本当になんてイカれたエゴイスト野郎だ。カイザーは幽鬼のようにゆっくりと振り返って、呆然と立ち尽くしたままドアの方を眺め見た。自動ロックがかかったはずの扉が、ピッ、と軽妙な電子音を立てて勝手に解錠される。そしてがちゃりと音を立てて扉が開くと、その向こうから、十日間一切の私情を挟まず逃げおおせてきたはずのアラサー双葉がぴょこんと頭を出して、なんだか照れくさそうな顔をしながらズケズケと部屋の中に押し入ってくるではないか。

「えへへ……カイザーの部屋来るの久しぶりだからちょっと緊張するかも。お邪魔しまーす……

 コイツ言ってることと態度が一ミリも一致してねぇところマジで昔から変わってねぇな……
 カイザーは遠い目をしたまま、無遠慮に近づいてくるエネミーのことを見つめ続けた。久しぶりにふたりきりで目を合わせた世一は、最後にサシ飲みをした日から何年も経っているにもかかわらず、大して老けた印象もなく変わらないあどけなさを保っている。

 だからなのか、或いは別の理由からか。
 やってることは終わってるのにその存在が可愛いなと思ってしまうのだから、もう、本当に己という生き物は……救いようがないよな、とどこか他人事のようにそう思う。

「はぁ……お邪魔しますじゃねぇよ、クソ不法侵入者が……。ロレンツォまで懐柔して使うとは見上げた根性だな」

 だってコイツ、はにかんだ表情が付き合っていた頃と何も変わらない。

「ん〜? それなら、ロレンツォはお前のコト心配して手伝ってくれただけだよ。ダチの元気のためだってさ」

 嫌味っぽく言い聞かせてみてもビタイチ響かない図太すぎる神経に支えられた横顔が、なのにこんなにも愛くるしくどうしようもなく狂おしい。世一が一歩こちらに近づく度、カイザーの中の何かがバグっていく。

「ほざけ、ヤツとオトモダチになった覚えなんぞ一度もねぇよ」

 一生懸命に嫌味を言ってやろうと思うのに、舌がもたついてうまく動かない。

「お前とだってもう……

 俎上に載せるべき言葉が見つからない。この男を拒絶しなければならないのに。そう思うのに、いつも、いつもそうだ、潔世一という人間を前にするといつもこうなのだ。自分というクソ物にはそれ以上何もできなくなってしまう。

……うん。でも俺たち、試合のあとに飲みに行く程度には、親しい友達ではあったはずだろ」

 世一の手がカイザーの顔に伸ばされる。
 いつか世一が好きだと言った後れ毛にふわりと伸びて、だから切るなよと言われて以来何度か切ってみたものの結局元の長さに戻してしまうブルーローズの髪の毛を、まるで宝物でも見つけたかのように優しく撫でてくる。

「あと……先に言っておくけど、今から逃げようとしても無駄だから。もう隔壁降ろしてこの部屋だけ隔離しちゃったんで、俺がもっかい操作して隔壁上げない限り、誰も近づけないし、脱出も不可能。俺にここまで接近許しちゃった時点で、お前はもう詰んでるわけ、……ミヒャエル・カイザー」

 天使のように愛らしく両目を細め、頬を薔薇色に染めながら。
 潔世一悪魔は憐れむ代わりに歌う。別れた恋人の部屋にぬけぬけと上がり込んできておきながら、恋に恋する少女のように。

……マジで、終わってるだろ、この施設。何の為につけてんだよその機能……

 だからもう、カイザーにはそれっきり告げるのが精一杯になってしまって。
 呆れ返ってぼやくと、世一も困ったように笑って、「絵心さんと帝襟さんが作った機能だから俺もわかんね〜」とかなんとかぼやいた。



◇ ◇ ◇



 別れた元恋人同士が人目のない個室に集まったからって、即座に感傷的な話が始まったり、インモラルな雰囲気になるというわけではない。そもそもサシ飲みの習慣が出来た時点で個室にふたりっきりになる瞬間はまあまああったわけで、それを幾度となく繰り返しても、互いの間に過ちが起きたりすることは別になかった。カイザーはいつだって紳士的にタクシーを呼んで世一を送ったし、世一は近況報告とサッカーの話しかしなかった。究極的にふたりはサッカーバカで、サッカーが大好きで、その話が好きな人と出来るのならそれなりに満足できてしまうのだ。すくなくともカイザーはそうだった。

……で、絵心さんが後継者探ししてるって知ってさ、いろいろ丁度良かったし、俺は指導者側に回ろうって決めたわけ。自分でもちょい早いかな〜とは思ったんだけど、それ以上にあの人は俺の夢の恩師だからさ。その夢を継ぎたかった、俺を世界一のストライカーにしてくれた人の願いを、途切れさせたくはなかったんだ」

 逃げ道を全部塞いでカイザーを追い詰めたはずの宿敵は、しかし別に湿っぽい話も色っぽい態度も出すことはなく、かつて試合後の飲みの席でそうしていたように互いの近況を知りたがって、まずは自分のことについてを話しはじめた。その流れであんなにモヤモヤしていた世一引退の裏側をアッサリと教えられて、カイザーは「はぁ」と気の抜けた相づちばかり打っている。
 丁度良かった。丁度良かったのか。カイザーは首を捻る。確かに世一はカイザーが獲る前年度にバロンドールを獲得していた。そして日本を二度のW杯優勝へ導き、ついでに一年ごとにリーグを変えまくっては移籍先チームをチャンピオンズリーグで優勝させまくり、ノアがやりきったと思った年頃よりもずっと若いうちにあらゆる栄誉を総なめし終えていた。

 そういえばコイツ、引退間際には第二の王冠配達士クラウン・メッセンジャーとまで呼ばれていたのだったか……

 どうでも良すぎて記憶の片隅に埋没していた記憶が朧気に蘇ってくる。スナッフィーだって馬狼に引っ張り戻されなければそれで引退していたというぐらいの難題を成し遂げて、おまけに引退試合は世界一を賭けた決勝の大舞台で、長らく因縁の宿敵ライバルと言われてきたカイザーを相手に延長逆転勝ち。確かに……この妙なところで思いきりの良すぎる男なら、そういう結論もあるのかもしれない。

 カイザーが知らないところで決められていたのはやっぱりムカつくけど。
 ……でも口を挟む権利なんてどこにもない。どこにも……今ここにだって。

……青い監獄ブルーロック総責任者の仕事も、かなり面白いよ。有望な若手を鍛えるのって超楽しい。絵心さんのモチベと俺のモチベは違うだろうけど、目指す場所は同じだ。やり甲斐あるし、何より……若い連中から俺たちなんかよりもっともっと強いバケモノじみたヤツが出てくるのかと思うとゾクゾクするんだ。俺結構向いてるかも、指導者」

 笑顔でまったく笑えないことを言う初代青い監獄ブルーロックの申し子の紅潮した頬を見ながら、しかしそれでも、カイザーは徐々に冷静になっていく自身を感じていた。世一の頬の赤みはサッカーによるもので自分に向けられたものではない。そう思えば、いくらでも気持ちは凪いで、無情になれる気がした。世一がいなくなってから何度もヤツを抱く夢想をしたが、いざ本物を前にするとそれを持ち続けていられなくなるのだから、己というクソ物は度し難い上にチキンだ。やっぱり色恋とか向いてなかったんだと思う。

「お前は? 指導者、やってみてどう? 俺が見てる感じ、結構楽しそうだなって思うけど」

 世一に訊ねられ、カイザーは静かに首を振った。

「わからねぇ。出来るだけのことはやってみようと思ってる。俺もそろそろセカンドキャリアを考え始める歳だからな……

 舌に載せた言葉は口から出任せもいいところだが、世一はそれに納得したように神妙に頷いている。

「わかるー。カイザーってもう三十二だっけ? まあ十年以内にはそういう日がくるよな。広告仕事とかむしろ嫌いな方だったし、完全に隠居したら暇で暇で死んじゃいそうだし、まぁソッチ方面になるか……。バスタードのコーチとか監督あたり考えてたりすんの?」
「いや……今んとこはノアがやってるから俺がそこに入ってもな。ただまぁ国際試合となればドイツ代表に何らかの形で声が掛かりそうだし、そーゆーのも、……ないとは言い切れないか」
「そっか。あの人ドイツにいすぎてたまに忘れそうになるけどフランス人だったっけ」
「実のところそうらしい。好物は日本のカップ麺だけどな」
「それね、絵心さんの影響なんだって。現役引退して食事制限しなくてよくなったからってバカ食いしてる絵心さんにそう教えてもらったとき、ノアはまだ現役最後の年でさぁ。なんて殺生なことするんだこのメガネって思ったわ、好物なのに全然食えないじゃんって」

 ノア、引退しても体型崩れないし、今もあんま食べてなさそうな感じするけど。呟いた世一に、カイザーは丁寧にひとさし指を振って訂正を入れる。一週間に一度は食ってる、しかもわざわざ日本から取り寄せたやつを、とひそひそ耳打ちしてやると、世一は「え〜!?」とか子供みたいに目を輝かせながら腹を抱えて爆笑した。無理からぬことだ。カイザーだって世一の側ならそうなる。

「何ソレ面白すぎんだろ、絵心さんに教えてもいーかなぁ!?」
「好きにしろ。今バスタード・ミュンヘンに所属してる選手なら大体知ってる話だ」
「くっそ、俺もいる間に見ておくんだった、週一カップ麺ノア! でも最後はW杯でもチャンピオンズリーグでもカイザーブッ潰して引退するって決めてたからな〜!」
「ほぉ? そいつは初耳だな世一ぃ?」
「うん、言ってなかったから。実は今まで誰にも言ったことない。お前と俺だけの内緒ね、ハズいから言いふらさないで」
…………約束しかねるな」

 くだらない話。他愛のない言葉たち。守られるかもわからない口約束。「そこは約束してくれよ」と苦笑する世一の顔にも深刻な色は浮かんでいない。すべては軽口で、冗談で、何の質量も持たない雑談にすぎない。「で、話ちょっと戻るんだけどさ、カイザーは引退後、指導者以外にやってみたいコトある?」世一がなんでもないふうを装ってそんな言葉を口に乗せてもそのことに変わりは無い。「ぶっちゃけて聞くんだけど、結婚考えてる相手とかいる?」変わりは無いはずだ。だって自分たちは七年も前に別れた。他人なのだ。友人ぐらいには戻れたかもしれないが、それ以上には決して踏み込むことは出来ない。もう二度と。

……そんなことを訊いてどうする?」

 指先を伸ばす。昔、付き合っていた頃、よく触れていた頬に。友達の距離感を逸脱した、世一がカイザーからに限って触れられるのを喜んでいた柔らかい皮膚を、冗談交じりだと言い聞かせるようにむにむにと引っ張って揉み込むと、世一が目を細める。

「いないなら、まだチャンスあるかなって」

 その言葉の意味を、すぐに理解することは出来なかった。

……は?」
「俺お前のコトまだ諦めてないんだよね」
「はぁ…………?」

 重ねるように言い含められても、それでもまだ、上手く呑み込むことが出来ず、カイザーは二度も三度も間抜けな声を漏らし、世一の頬をつまんだまま固まってしまった。

「は……? おま、何を言ってるんだ……世一?」

 訊ねる声に、思わず震えが混じる。いやもしかしたらこれは怯え混じりのものだったのかもしれない。だってそうだろう。おかしくないか? 七年前、カイザーを振ったのは世一だ。しかも大分頑なな態度で強烈に振られた。カイザーはあの時世一と別れたくなどなかったのに、世一が頑として譲らない態度だったのでそこまで言うならその方がいいかと納得した経緯があるのである。
 それなのに……「まだ諦めてない」とかコイツは何を言っているんだ?
 もしかして今目の前にいるこの男は、じつはカイザーが世一を振ってしまったパラレルワールドとかから来た並行同位体とかだったのか? だとすればこの世界のカイザーはパラレルワールドのクソ物を殺しかねないのだが……

「で? いるの? いないの? 今真面目に付き合ってるヒト」
……いないが。女も男もクソめんどくせぇし」
「ふ〜ん。……ふぅ〜〜〜〜ん…………?」

 世一はなんだか意味ありげに頷いているが、正直それを訊きたいのはコッチの方なのである。お前はどーなんだよ。俺と別れたあと誰かと付き合ったのか? 女か? 男か? もし男だとすれば誰かに股を開いたとでもいうのか?
 ……ダメだ、仮定の話だっていうのに考えただけで殺意がみなぎってきた。早くソイツ殺そう、世一に触れた男は片端から惨殺死体にしてやる、思考が極端から極端に流れて一足飛びにそんな結論へと至り始めた頃——不意に世一がぽっと頬を赤らめ、カイザーの裾をちょこんと引く。

……俺、カイザーと別れたあと、誰とも付き合えなかった。だってお前のコトがずっと好きだったから」

 世一が言った。
 付き合っていた頃、ごくごくたまにしてくれた、恋人の気を引こうとする愛らしい仕草に恥じらう乙女のような表情を付け加えて、上目遣いにこちらを見ていた。

——は、」
「お互い近すぎて見えなくなってたモノもあるのかなとか、俺と付き合い出した頃から同じ女優とのスキャンダルが出続けたせいでお前が俺を好きなのか自信なくなっちゃったとか、俺ばっかり好きすぎてパフォーマンスにシャレじゃなく支障来しそうだったとか、色々あって別れたけどさ、俺はずっとお前しか好きじゃなかった。……お前以外の誰も、ピンとこないしお前と比べちゃってばっかりだしで、恋も愛も感じられなかったんだ。——でも」

 世一の底なし沼か果ての無い宇宙みたいな瞳の中に、終わりのない深淵が映り込んでいる。カイザーはゾッとして生唾を飲み込む。この男のことが恐ろしい。一度完膚なきまでに振った元カレを職場に呼び寄せた挙げ句袋小路に追い込んで逃げ道を塞いでから告白紛いのことをしてくる異常者が。だが同時にこのイカれ男の狂気にどうしようもなく惹かれて歓喜している自分も感じている。
 世一の頬は桃色に染まっていて、ベッドの上でカイザーに喘がされていたあの日のようで、どうしようもなく可愛らしかった。
 抑えていたはずの欲望がせり上がってくる。よりによってぴっちりしたウェアを履いているせいでまぁまぁクソバレな気がして最悪すぎる。しかし幸いのこと——或いは自己陶酔に忙しくて奇跡的に気付かなかったのか——そんな些事にはまったく触れず、世一は身勝手な話を続けていく。

「でもお前といる間だけは違う。逢うたびすぐ、どうしようもなく、……何度でも好きになっちゃう。閉じ込めておくつもりだった感情があふれ出して止められなくなって、あぁやっぱり俺こんなになっても大好きなんだって苦しくなってさぁ、」
………………
……お前だけだ。お前だけが俺をこんなにしちゃうんだよ。——それでさ、カイザー」

 海色の両眼の中に映り込んでいる男が何を考えているのか、カイザー自身が一番よく分からない。

「俺もう気にしないよ、お前が俺と別れたあと誰と何をしてたかは聞かないし考えないことにする、その上で最後に俺を選んで俺の隣にいてくれるのならなんだっていい。だから俺と賭けをしてくれないか」

 これは困惑? 怒気? 或いは——狂喜なのか?
 分からない。
 分からないが、しかしただひとつ確かなのは、お前も俺も狂っているし、潔世一はやはり宇宙で最も傲慢なクソイカれエゴイスト野郎に間違いない——という、そのことだけだ。

「次のU20-W杯で——俺は日本代表の監督をすることに決まってる。お前もきっとドイツの監督をやると思う。そこで俺の指揮するチームがお前の指揮するチームに勝ったら、俺と付き合ってよ」

 カイザーは首を振った。
 溜息を吐く気力すらなかった。
 こんなに嘘みたいな話なのに、この男が冗談や気の迷いなどではなく正真正銘の正気でこれを宣っていると薄々感じ取れるぶん、なお性質が悪いなと、気が遠くなってくらくらするぐらいだった。

……イカれてるイカれてると思ってはいたが、いや、ここまでくると呆れ果てるな。どーゆーつもりだよ世一? まさか俺をここに呼んだコトすら、お前の独り善がりなセンチメンタルに付き合わせるためのお情けだとか言わねぇだろうなぁ?」
「それは違う。お前だって理解ってるだろ、前年度バロンドール獲得をもってミヒャエル・カイザーは名実共に現代最強のストライカーになった。そんなお前を最強のストライカーを作るプロジェクトである青い監獄ブルーロックに呼ばないなんて非合理的すぎてクソ有り得ねぇ、だから呼んだ」
…………
「そもそも今回の人選は俺じゃなくて絵心さんの置き土産だよ。……ただ、お前が招聘を承諾しない可能性は有り得ると思ってた」
……そーだな。誰もがあの老害ノエル・ノアのように骨の髄までフットボールジャンキーの主人公気取り野郎だとは限らない」
「そ、そこが俺にとってはまずひとつ賭けだったわけだ」

 舌打ち混じりに当てつけたジャブも、当たり前のように世一に跳ね返される。あぁダメだ、コイツの中で、コイツにしか理解らねぇロジックが成立している。パズルのピースが意味不明な組み上がり方をしているのがありありと伝わってきて眩暈がしてくる。

「ミヒャエル・カイザーは生活の全てを擲ってこのイカれた監獄にやって来るのか? ……この賭けに負けたら俺は生涯お前と顔を合わせなくてもいいと思ってたんだ」

 世一が嘯く。
 あの煮えたぎった強欲な色の瞳をして、カイザーをじっとりと睨め付け、本気のほどを否応なく伺わせてカイザーの命の喉元へとにじり寄って来る……

「でもお前は来た」

 心臓の裏側に、研ぎ澄まされたナイフを当てられたみたいな心地がした。

「だとしたらやることはひとつしかない。この恋心にケリをつける。元サヤに戻れないなら戻れないでキッパリ諦めちゃいたかったし、自分ひとりでその決心をできる自信はなかった。……まぁお前を無理矢理巻き込んだのは事実だよ、そこは自分本位でごめんな」
…………

 クソ世一がと罵る力さえ、持てる気がしなかった。
 全身からがくりと力が抜けていく。何も言えず、くちびるは硬く引き結ばれて、俯いて顔に影が掛かる。息が出来ない。マジで何一つ理解が追いつかない。コイツはなんだ? コイツは——コイツはマジでなんなんだ? 潔世一ってなんだよ?
 何がU20-W杯で日本が勝ったらだ。ふざけてんのかコイツ。

 ——俺は今すぐにでも復縁してお前を抱き潰したいんだよクソ世一!!

 よっぽどそう言ってやりたかったが、世一の異常行動に呆然とさせられすぎて、怒りで頭が煮えたぎり、言葉ひとつまともに出てくる気がしない。

……なんだよ、黙っちゃって。まさか勝つ自信なくてビビってんのか?」

 するとカイザーの無言に何を勘違いしたのか世一が煽ってきやがるので、そこでようやくハッとして意識を取り戻し、カイザーはピキり過ぎて青筋の浮かんだこめかみを見せつけながらゆっくりと面を上げる。

……は、自信がねぇのはお前の方だろうが、クソ世一が」

 そうしてやっとのことで舌の根からひり出した声は、発したカイザー自身ちょっとびっくりするぐらい低く唸って地を這う蛇のようで、誰がどう見ても完全にキレちらかしていた。
 後に世一が「あんなキレてるカイザー久しぶりに見た。俺が最高道化マイベストピエロって罵ったときぶりぐらいだった。三十二になってもあの瞬発力であの怒りが出てくるんだと思って正直興奮した」とコメントするぐらい、腹の奥底から煮えたぎってくる怒りに身を任せ、グツグツとマグマのような怒気を纏わせて、勢いよく飛び出した手で気付けば世一の胸ぐらを掴んでしまっていた。

「次のU20-W杯だと? ブツかるのが本戦なら半年はあるじゃねぇかよ、ダセぇ保険だな世一ぃ? 俺にはすぐにでもお前に勝つ準備がある。どうせ勝負するならこの監獄内でカタをつけようぜ、なぁ?」

 世一を掴みあげる左手の甲に、王冠を象るようにして血管が浮かび上がっている。もしコイツが潔世一で己がミヒャエル・カイザーでさえなければ、ここで勝負を受ける必要は無かったのかもしれない。だって世一はカイザーにまだ未練があると分かったのだし、カイザーだって当然世一のことがまだ好きだ。「なんだ俺たちずっと同じ気持ちだったんだ」と優しい顔をしてハグできればそこで終わりになったのだろう。しかしふたりの間に限っては、それだけは有り得ないのだ。
 なぁなぁなんて許されない。ミヒャエル・カイザーと潔世一は生粋のストライカーであり、一度叩き付けられた勝負から逃げることだけは己のプライドが許さない。世一は試合を持ち出した。ならばこちらもその土俵で叩きのめさなければ納得がいかない。

「監獄内のプログラムに、新英雄大戦ネオ・エゴイストリーグ終了後の特別壮行試合エキシビションマッチとしてミニゲームを設けろ。そこで俺のバスタード・ミュンヘンユースとお前の青い監獄ブルーロックイレブンをぶつければ、拝金主義のスポンサー共もたいそうお喜びになるだろうよ」
……なんだよお前、指導者になっても負けず嫌い変わってねぇじゃん。いいぜ、そんなに俺に負かされたいならすぐに転がしてやる。第五試合終了後の日程なら問題なくねじ込めるはずだ。U20-W杯直前に塩を送ってくれるなんて太っ腹だなカイザー?」

 ココでお前に勝ってはずみをつけさせてもらおうかな、と、愉しそうに唇の端を釣り上げて世一が笑う。

「首を洗って待ってることだな、……あとで後悔してもクソ聞かねえぞ俺は」

 出来るもんならやってみろよ、笑ってられるのも今のうちだぞ、と、嘲るように口端を歪めてカイザーも笑う。

「俺たちのすべてを懸けて——奪い合おうぜ、クソカイザー」

 かくしてここに決戦の火蓋は切って落とされた。
 互いの恋心の行方に決着をつけるため——ふたりきりの密室で、元恋人達は、己の命運を託す誓いを立てたのである。
 何も知らない若手選手たちの命運も勝手に賭けながら。