沙里
2025-11-19 23:41:19
1835文字
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浮遊感情

ル→2

 自警団の仕事を手伝うようになって、そろそろ一年も近いだろうか。
 いまでも気乗りしているわけじゃないが、悪い環境ではないと思う。残業さえなければだが。
 日も暮れてとっぷりとした夜が広がっている。残っている人間も少ないだろう。そのまま帰ってやろうか、と思わなくもない。
 明かりも減った自警団事務所に戻ってきて、いつもの場所の明かりが煌々と点っていることに、それはそれで呆れもする。もともと、今日は残業が確約されていて、そのことは朝に告げてある。先に解散してくれて構わないとも。
……ったく」
 思わず悪態も口から出ようものだが、どうせ無駄なので聞こえないところで言っておく。
「おい、まだいる……な」
 明かりの消し忘れの可能性もあったが、テーブルに突っ伏している背中が見えたので、どうやら消し忘れではなかったらしい。作業をしている姿には見えないな、と回り込む。
「すー……
 面白いくらいわかりやすく寝息を立てている。どうやら寝落ちたらしく、顔の下には報告書があり、手にはペンを握っていたらしい痕跡が残っている。肝心のペンはテーブルに転がっていた。よだれが出ていないだけマシと思うべきか?
「威厳のない隊長さまだな」
 一年間の臨時雇用のこちらは構わないが、今後部下が出来た時にどうするつもりなのだろうか。
(まぁ、このままだろうな)
 良くも悪くも、出会った頃から変わらない人間だ。いまさらしっかりしろと言ったところでだろう。
 それに、そういう隙のある人間のほうが好まれるのは、ままある。
 報告書の用紙を棚から取り出し、テーブルに転がっているペンを拝借する。適当に空欄を埋め、サインを入れておく。あとはテーブルに置いておけば終わりだ。面倒ではあるが簡単な作業なのに、いつもうんうんと唸っているし、今日は寝落ちている。真面目というか、要領が悪いというか……両方なので、性質が悪いのかもしれないな。
「おい、起きろ」
 放っておいてもいいが、あとでぶつぶつ言われるのも面倒なので、いちおう声をかけてみる。多少肩を揺すったところで起きる気配もない。ひとには生活態度がどうだと言ってくるわりに、ワーカホリックの気があるのはどうなんだ。説得力って言葉を知っているのか?
 ため息交じりに、ふと、やけに長い前髪に触れてみた。思ったよりも柔らかく、指を滑っていく。どこか重苦しいイメージはあるが、こうして触れてみるとそんなこともない。払うように指を動かすと、閉じた瞼が見え隠れした。
 特別造形が整っているわけでもなく、特徴があるわけでもない。平凡といえば、その通りだと思う。
……どうしてだろうな)
 理由もなく、どうしようもなく、指先が熱を帯びている気がする。
 ガラスで出来た装飾品に触れる時でも、もう少し遠慮がないかもしれない。
(壊れるとしたら、それは目に見えないものだろうさ)
 そんな不確かなものに執着するつもりなどないと、そう思っていた。そんなもの、どこにもないのだとも。
 そっと指先を動かす。さらさらとこぼれていくのは、触れた髪なのか、それとも別の、自分の中の何かだったのか。もっと知りたい欲求を抱いていることに、手が少し震える。のろりと動いた指先が無防備な耳に触れそうになった。
「ったくよ~俺様使いが荒いんだよ~!」
 廊下から聞こえる遠慮のない口調に、ぱっと手を離す。聞き馴染んだその声に心臓が跳ねたが、どこかでほっとしていた。
「戻ったぞー! ってルーじゃん」
 声の主はやはりヘキサで、器用に空中で胡坐をかいている。どういう状態なんだ。
「ああ。我らが隊長殿なら爆睡してるぞ」
「ハァ~!? なんだよそれ!」
 起きろと頭にケリを入れられても唸るだけで起きないあたり、かなり本格的に寝落ちているらしい。俺ももう少し何か試してみればよかったかもしれん。
「ヘキサが来たなら、俺はもう帰るぞ」
 些かの気まずさに口にすると、ヘキサが死ぬほど嫌そうな顔をしてきた。
「えー……こいつ起こしていってくれよ」
「しらねーよ。そのうち起きるだろ、子どもじゃあるまいし」
「そりゃそうだろうけどよ~」
「じゃあな」
 裏切り者だのなんだのという罵倒が聞こえたが、無視しておくことにする。
 外に出れば、そよぐ程度の風が僅かに温度の上がった頬を冷やしてくれた。
「ったく、冗談じゃない」
 その悪態が誰に向かってだったのかは、考えないことにした。