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エグシャリ
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名も知らぬ君が、私の世界を救った
エグシャリでセンチネルバース
数週間続いた任務の報告を終えたシャリアは、廊下を歩く足取りすらおぼつかない。感覚器官が敏感に反応し、周囲のすべてがノイズに変わる。人の声は刃のように刺さり、空調の音は戦場の砲撃にも似た轟音となって頭に響いた。
「
……
まだ、だめでしたね
……
」
ガイドとの同調訓練は失敗続きだった。どのガイドとも波長が合わず、触れるたびに頭のの奥が軋む。
タワーの医師は記録端末を閉じながら、「あなたほどの優秀なセンチネルは、しばしばガイドとの同調が難しいものです」と穏やかに告げた。慰めというより、規則の一文を読み上げるような声音だった。
どれだけ説明されても、限界に近い感覚器官には何の救いにもならない。痛みは消えず、世界はざらついたノイズのままで、むしろ悪化する一方だった。
シャリアは静かな廊下を歩き出す。自動扉が閉まる音がやけに大きく響いた。
タワー特有の無機質な空気は、そこを出た後も身体にまとわりつくようだった。
外気に触れると、わずかに冷たい風さえ神経を逆撫でする。
ガラスに映り込んだ自分の姿が目に入った。
ぼさぼさに乱れた髪、無精髭が顔を覆い、深く落ち窪んだ眼窩と青白い顔色が、疲労のすべてを物語っていた。
かつて上位センチネルとして畏敬されていた男の面影は、ほとんど残っていない。
(早く帰って休みたい
……
)
そう思うのに、足取りは重い。感覚器官の過負荷は限界に近く、街の喧噪はシャリアをより苦しめる。
信号機の電子音が刃物のように耳朶を裂き、通りすがりの会話がひび割れたスピーカーの雑音のように神経を刺した。
空調の排気口から吹き出す音は、ジェット機のような爆音を響かせる。
家まではそう遠くない。ここからだと歩いて十五分ほど。しかし、その十分の一を進むだけで息が上がる。
(
……
だめだ。今日は特に酷い)
タワーの医師の穏やかな声と、無機質な口調が頭のどこかで反芻される。
『あなたほどの優秀なセンチネルは──』
それが慰めだと理解しても、現実の苦痛は薄れない。上位センチネルであるという言葉だけが独り歩きし、身体はただ悲鳴を上げ続ける。
街灯を二、三本過ぎた頃だった。視界の端から色が抜けていく。遠近の感覚が狂い、地面がわずかに傾いたような気がした。
シャリアは眉間を押さえ、何か支えるものを探るように手を伸ばした。
「
……
ッ
……
」
視界が揺れた瞬間、咄嗟に壁に手をつく。頭痛が波のように押し寄せ、耐え切れずに膝をついたその時だった。
ふ、と誰かの気配が近づき、その瞬間だけ世界が静まった。
雑音が消え、空気が澄んだように呼吸が楽になる。
重かった身体から力が抜けて、シャリアは息をのんだ。
「大丈夫ですか!?」
低く、まだ若い声。それなのに、落ち着きのある響きだった。
シャリアはゆっくりと顔を上げた。視界の端に、誰かの影が近づいてくる。
その青年は、倒れ込んだシャリアと視線を合わせるようにしゃがみ込み、ためらいなく手を差し伸ばした。
指先が触れた直前、シャリアは気づいた。
この青年の気配には、痛みがない。
街の雑踏も、車のエンジン音も、風のざわめきさえ、すべてが膜一枚隔てたように遠のいていた。
(どうして
……
こんなにも静かに
……
?)
青年はシャリアの苦しげな様子を見て、背中にそっと触れた。
ほんの一瞬、しかし、彼に触れられたその瞬間、世界の輪郭が“整った”。
歪んでいた光が穏やかに収束し、暴れていた感覚が湖のように引いていく。
胸の奥に張りついていた痛みが、ふっと薄れた。
「大丈夫ですか
……
? 話せますか? 苦しければ救急車を呼びますから、安心してください」
青年がシャリアから手を放し、携帯をポケットから取り出そうとした。
「
……
ま
……
って
……
離れないで
……
」
自分でも驚くほど必死で、震えていた。
「え? あ、はい
……
すみません。痛みますか? どこか怪我でも」
シャリアは青年の服を弱い力で掴んだ。握るというより、すがるように。
「違う
……
あなたが触れると
……
静かになるんです
……
こんなこと、今まで一度も
……
」
呼吸が深く入る。苦痛の波が止まる。
“楽になる”とは、こんな感覚だったのかと、シャリアは初めて知った。
青年は戸惑いを隠さず、わずかに揺れる瞳でこちらを見返した。
「そんな
……
僕はただ
……
通りかかっただけで
……
」
「君じゃなきゃ
……
駄目なんです」
抑えきれない焦燥が、声ににじみ出ていた。
青年はその必死さを感じたのか、じりと後ずさるが、シャリアの掴んだ指はそれを離す気配を見せない。
「
……
逃げないで。お願いします
……
」
青年の表情が一瞬だけ痛む。それは、見捨てることができないと悟った人間の顔だった。
「
……
わかりました。離れませんから。とりあえず、落ち着くまでここにいます」
その声がまた、静けさをもたらす。シャリアは息を震わせながら目を閉じた。
(ようやく
……
生きているという心地がする
……
)
この瞬間、シャリアの運命は、抗いようのない引力に捕らえられた。
青年の手に触れているだけで、世界は緩やかに静まっていく。苦痛が薄れ、呼吸が戻り、意識の輪郭が戻ってくる。
(こんなことは、今まで一度もなかった)
シャリアは浅く息を吸い、青年の手を離すまいとするかのように力を込めた。きっと、簡単に振りほどけてしまうほどの力だろう。それでも、この繋がりだけは絶対に手放したくなかった。
青年はまだ状況を掴めずに戸惑っている。だが、シャリアを置いて逃げることはしない。
視線の高さを合わせたまま、揺らぐ瞳でシャリアを見つめている。
この“無自覚の救い”がどれほど希有なものか、シャリアには痛いほど理解できた。
逃したくない──“私のガイド”だ。
その思いが、かつてないほど鋭く胸を刺す。
喉奥で言葉が押し出される。
「
……
君の
……
名前を
……
教えてください」
青年が名を告げようとした口を開いた瞬間、胸がどくりと跳ねた。まるで、その名が運命の鍵になると本能が知っているかのように。
長く続いたざらつく日々に、初めて静かな光が差した。
名も知らぬ君が、私の世界を救った
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