77nairo
2025-11-22 23:00:00
1300文字
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エプロン


 寮生活を始める前、松本は一度も台所に立ったことがなかった。これはもちろん比喩であって、台所に立ち入って冷蔵庫を漁ったり食べ終わった食器を流しに運んだりはしたが、台所で料理をしたことはない、という意味だ。松本の実家では祖母と母、二人の主婦が互いに領地を争っており、男が立ち入る隙はなかった。
 それなのに記念すべき初料理がこんなに人生どん底の気分の時だなんて。
 山王バスケ部の寮の食堂では五人ほどのパートさんが働いていて、曜日によって交代しながら年間三百四十日くらい朝昼晩の食事を作ってくれている。残りの二十五日くらいは、大会の遠征や盆正月の帰省のために食堂が閉まる。その間はパートさんたちもつかの間の休暇だ。とくにインターハイは学校の夏休みに重なるから、子持ちのパートさんたちは旅行に出かけることが多いらしい。
 つまり、広島からたった三日でとんぼ返りしてきた部員たちに、食事を作って待ってくれている人はいなかったのである。
 この緊急事態を受けて、監督とマネージャーは近隣の商店に頭を下げて回っている。寮の電話に入った情報によると、とりあえず今夜の夕飯として肉屋のコロッケとメンチを確保できたらしい。今、店を貸切状態にして大量のコロッケを揚げてもらっているから、その他はレギュラー陣でなんとかしろ、とのお達しだ。
「とりあえず米を研ぐピョン」
「深津、ずいぶん楽しそうでねが」
 河田が呆れ顔で言うのを無視して、深津はパートさんのエプロンを身に着けて食堂の奥へずんずんと進んでいった。楽しそうといっても、深津の顔の変化といえば口角がほんの少し持ち上がった程度のことで、たぶんバスケ部員以外には普段との違いがわからないだろう。その背中に、つい恨みがましい視線を送ってしまう。
「松本はずいぶん暗い顔だね」
 なんの気配もなく隣に立った一之倉にエプロンを押し付けられて、松本は反射的にそれを受け取った。上目遣いでこちらの顔を覗き込む一之倉の口角も、ほんの少し持ち上がっている。
 それに無性に腹が立って、松本は床を睨んだ。たった三日間しか留守にしなかった食堂の床にはホコリ一つ落ちていない。去年も一昨年も、インターハイのあとは留守中に積もったホコリを払って大掃除をしたのに。
……逆に、お前らはなんで楽しそうなんだよ」
「ああ、ちゃんと楽しそうに見えてる?」
 その声の低さに、松本は顔を上げた。さっきと変わらず、一之倉の口角は上がっている。
「帰りのバスでさ、俺、深津の隣の席だったけど、あいつ、ずっと唇噛んでたよ」
 松本は首を巡らせた。厨房に立つ深津は、河田にあれこれ言われながら一升枡で米を計っていた。その口角は、不自然なくらいに同じ角度を保っている。
「松本は素直すぎるんだよ。もうちょっとずる賢くならないと」
 もう一度一之倉の口元に目をやった。唇の端は、固まったみたいに持ち上がったままだ。
「さ、オレたちは味噌汁係ね」
「ああ」
 一之倉に背中を押されて、松本も厨房に足を踏み入れた。
 松本も無理やり口角を上げる。それはぶすくれた表情をするよりもずっと苦しい作業だった。