shioyama
2025-11-18 17:09:12
4804文字
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椅子に座るということ

Xからの告白 現行未通過×
HO2後日譚

悲願なんて得てして達成されないものだ。心のどこかでそう思っていたからだろうか。あまり悔しくないんだよ、悔しいぐらいに。

近嵐弁護士事務所の所長である雨ヶ谷律は裁判所からの帰路を足早に歩いていた。木枯らしが足元を駆けていく。今年の冬は冷え込みが厳しい。おろしたてのコートが早速役に立ってくれている。おもいきってお高めのコートを買った甲斐があった。偉い人間はそれなりの身だしなみを求められるものだ。まずは格好から"らしく"なろうという彼なりの気概が垣間見える。結果としては背筋が少し良くなったぐらいだろう。今度は髪型も変えてみようかな。まだまだ忙しくなるだろうから、その前に……いつ暇になれるんだろう。一生忙しいままなんじゃないかな。恋人は六法全書、なんて洒落にならない。

クリーニング知らずの襟を立て、首を縮めながら考える。Xを名乗る男の死亡が確認されてから随分と経った。いや、最近のことだったかもしれない。時間の流れが曖昧になるほど雨ヶ谷は仕事に追われていた。近嵐弁護士事務所の前所長、近嵐所長がいなくなったことで、多忙に多忙を重ねる日々が続いている。事務所はがらんどうのままだった。まだ近嵐は見つかっていない、二度と見つからないだろう。誰かに探してほしいわけでもないだろうから。近嵐が抱えていた案件を引き継ぎつつ、経営者としての仕事もこなす。幸いなことに他に従業員がいないため、総務やらの業務とは無縁であった。所長としての仕事にも慣れて落ち着いてきたタイミングで、新しい仕事が舞い込んでくる。ただ座ってお茶を飲んでいればいいだけの楽な椅子ではないことは承知していたが、上辺だけ分かったつもりでいたのだと日々気づかされている。

信号待ちの雨ヶ谷に北風が吹きつける。前髪が持ち上がり、反射的に目を閉じる。瞼の裏に先程会ったばかりの友人の顔が映った。ガラス越しに困ったように笑っている。くだらないことを言い合うにも薄い壁を隔てなければならなくなってしまったことに対して悲しいとは思う。それが彼への罰であり、雨ヶ谷自身の罪でもあった。

留置場で接見を繰り返し、白鳥遊馬の裁判の手続きが整った。必要書類の提出やら手続きを終えたその帰りだった。あとは証拠を集めながら方針を組み立て、どこまで量刑が通じるか熟考する。天秤上でのバランスゲーム。白鳥遊馬は全面的に罪を認めている。ほとんどを六法全書と裁判員にゆだねることになるだろう。無理やり理屈をこねたところで船を爆破しての複数名の殺害。罪はいわずもがな、どうしようもなく重い。判決は目に見えている。情状酌量の余地があるかどうかが肝になる。雨ヶ谷がやるべきことは、不当な罪をこれ以上被せられないようにうまく立ち回ることだ。

弁護士というものは依頼人を護る職務。主張を無理やり捻じ曲げて、少しでも少しでも罪が軽くなるよう足掻くのが弁護士の役割だろう。雨ヶ谷は違う。そういった点でみると彼は弁護士として未熟なのかもしれない。故に白鳥の弁護は自分にしかできないだろうと確信していた。同時に黒鉄くくいも。彼、彼女達は似ている。自分の尊厳を、愛している誰かを守るために法に背いた。生気を失いつつある瞳の奥に、覚悟がまだ燻っていた。きっと死ぬまで潰えることが出来ない、決死の炎だ。絶えぬように薪をくべてやるのは業務範囲外だろうが、友人としてならいくらでもしてやれる。

背を押すような音楽が流れた。雨ヶ谷が顔を上げると、信号が青になっている。腕時計の時刻を確認して、急かされるように横断歩道を渡る。

──遊馬はともかく、彼女を弁護する義理が僕にはあるのだろうか。先日会った彼女を思い出すと同時に、ふと嫌な思考がよぎる。腹の底は冷えていくばかりだ。だって、父親に冤罪を擦り付けた、敵の娘だぞ。黒鉄くくい、もとい路十羽くくい。別に彼女自身に恨みがあるわけでもないのだが、義理があるかないかと問われれば微妙なところだ。黒よりのグレー?だけど自ら名乗り出たのは、きっと雨々谷が骨の髄まで弁護士であるからだ。それ以上の理由は不要だった。それに彼女の婚約者はあれきり姿を見せていない。ろくな知り合いもいないらしいから、鷲頭と肩を並べて面倒を見るのが当然の流れともいえる。だからおかしくない、うんうん。くくい自身に恨みはないんだ。混同するのは弁護士としてよろしくないこと。恨む相手も、もういないことだし。

この世への未練を叫びながら消えていった人間もどき。総理大臣であった路十羽東三郎。哀れな死にざまだったが、雨ヶ谷はちっともすっきりしなかった。生乾きのまま、心の椅子の背もたれに掛けられている。あと一息だった。親の仇、冤罪の証明、真実の追求。真犯人を証言台に立たせるという悲願に指先まで触れていたのに。ああ、本当に無念なことだなあ。勇み足ながらも思考は巡る。

総理大臣にまでのし上がった路十羽東三郎の失踪は、世間を大きく混乱させた。裏金がバレただとか、反勢力に拉致されたのだとか。何があったのか全て知っている関係者以外は好き勝手吹聴している。面白半分にあげられる噂たちよりも酷い奴だったと知れば、みんなはどんな反応をするだろうか。証拠の一端を雨ヶ谷はまだ握っている。秘書の暴露。彼の父親、雨ヶ谷廉次は無実だという証明。決定的な証拠としての、漂白色の褪せたコンパクトディスク。路十羽が消えた今、それ以上でも以下でもない。中古レンタルショップで売り出されていそうなディスクが一枚転がっていた。手に入れた瞬間ネットにばらまくべきだったか?卑劣なやり方かもしれないけれど、別に僕は正義のヒーローになりたいわけじゃない。父の無念を晴らす、っていうのも勿論あるけれど。大義名分を振りかざして、過去の自分を救ってやりたかっただけなのだと気づいたのは最近のことだ。

殺人者の息子としての学校生活は散々なもので、記憶の中の自分はずっと俯いて泣いている。泣いたって誰も助けちゃくれないんだ。それを理解するまでに何年も要した。憔悴していく母、逃げ出していく上履き。思い出すだけで枯れた涙腺が潤っていく気分になる。だからだ、僕がこんなにひねくれたのは。言い訳めいた嘲笑を浮かべる。年寄りの死期ジョークなみに寒い。悪いな、幼い頃の僕。もうお前を助けてやることは、僕でさえ無理だ。だから別の人を助けることにするよ。

雨ヶ谷の足が止まる。目的地にたどり着いた。時間通りだ、急いだ甲斐があった。深呼吸を繰り返し、門をくぐる。入ってすぐの庭にはだれもいない。寒いから室内で過ごしているのだろう。歪んだ口角の形を整えて、人のよさそうな笑みに戻す。なんでもかんでも第一印象が大事だ。しみったれた顔をしていたらやっぱりお帰り下さいと断られてしまう可能性もある。ここまで頑張ってきたことが全部無駄になってしまうのは避けたい。

入口まで進み、受付へ声を掛けた後、施設内へ招かされる。廊下を歩いていると、とある一室が目に入る。談話室だろうか。子供たちが玩具で楽しそうに遊んでいる。自分の支援金が少しでもこの光景に力添えできていればいいな、とらしくもないことを考える。彼、彼女のための寄付ではないけれど、思いがけず誰かのためになっているのなら、それに越したことはない。突然止まったことに対して不思議そうに職員が尋ねてきたので、好印象な方へ転がりそうな返事をしておいた。目的の部屋まで通され、中へ入ると赤ん坊を抱いた職員と目が合う。会釈をしながら赤ん坊を覗き込む。腕の中ですやすやと眠っている。この世の汚さとは真逆、無垢がそこにはいる。願わくば健やかで純粋なまま育ってほしいと思うけれど、きっとそれは難しい。なぜならこの子は、路十羽……黒鉄くくいの子供だ。獄中で産まれた後、児童養護施設に預けられている、犯罪者の子ども。

弁護士は中立だ。被告を護る立場でありながらも、私的な感情で動くことは基本的に禁止されている。ひとたび偏った天秤は公平を成さない。職務基本規定に記載のある通り、事件関係者との交流には気を遣う必要がある。だからこれは、全て僕が個人でやっていることだ。彼女の知人として、やりたくてやっている。このあたりのライン引きは案外難しい。ちゃんとした理由、証拠が必要だった。常識という広いようで狭い枠組の中で、許容される抜け道。

そのために児童養護施設に面会者として届け出たし、私的な援助も繰り返している。あまりにあけすけにバカスカやったら怪しまれるため、ほどほどの距離感が大事だ。口八丁はお手の物。誠実に、真摯に。ゆっくりと歩み寄るように動いていると、不信感や疑念は日を重ねるごとに和らぎ、特別に非公開の場での面会なら、と声をかけてくれるまでの信頼を築けた。当然ながら職員立ち合いの元であるし、今回限りのものであることを承知している。今後は二度と会えないかもしれないし、それならそれでいいと思った。養子縁組は……ちょっとやりすぎかもしれないけれど、手段の一つでもある。くくいの事件が終わって時間を置いて、過剰関与の疑いがなくなれば……可能性はある。とにかく、引き続き援助はしていこうと思う。あしながおじさん、上等だ。彼から会いに来てくれるかもしれないし……それじゃあ僕がよそ様の子どもに会いたいみたいじゃないか。親の仇の娘の子どもなんて、もはやただの他人なのに?僕ってかなり変わり者かも。

職員たちと当たり障りのない会話をしながら赤ん坊を見つめる。不思議な目をしている。左右で色が違うのだ。じ、と観察をしていると声を掛けられる。この子を抱いてみないか、なんて。そんなに僕は信用に足る男に見える?でもまぁ、お言葉に甘えさせていただこうかな。

多数決だなんて明確な殺意の前では無力だと思い知らされた。法の脆さと、愚かさも身に染みて理解した。嫌になったからすべて投げ捨てて、自分のためだけに生きれたらどれほど身軽だろう。僕はまだ弁護士バッジをつけている。ひまわりを象ったそれには正義を貫く姿という意味が込められているらしい。

冷静は武器、感情は足枷。僕の信条だ。冷静であらねば、人を裁くことなど出来ない、やってはならない。感情に支配されると、流し込まれたコンクリートのようにいつしか固まりになる。そうして己を縛る枷となり、身動きを封じられるんだ ──でも、その足枷のお陰で僕は今ここにいる。この重りがなければ、僕だっていまどこにいたのか分からない。自分のために、といって行方をくらました彼は、ありえたかもしれない未来の自分だ。でも可愛い奥さんを置いていくことは、僕にはできそうもないけどね。

近嵐から預かった事務所、友人の白鳥遊馬、余命いくばくもない知人の婚約者、赤ん坊を共に援助してくれる刑事、姿を消した検事。僕を取り巻くあらゆるものすべてが、僕を弁護士たらしめる。弁護士は法に仕える番人だ。番人は門から離れてはならない、故に法から逸れることは許されない。だけど、中身はただの弱い男だ。彼女みたいに悪人から一般人を庇ったり、彼のように引き金を引くこともできない。僕にできることなんて、今までもこれからも弁護だけだ。それでも生きていくしかないのだろう。

だったら、失ったものを数えるのはもうやめだ。気が滅入るだけだし。どこかに行きたくなったってどうせ動けやしない。経営者にバカンスに行く余暇はないし、悔しがっている暇もないんだよな。

そう考えると、なんだ。足枷、足枷だなんて邪魔なものみたいに言っていたけれど……ああ、そうか。やっと気づけた。

「やぁ。思ったより、重いねえ」

これは、僕を繋ぎとめるための楔でもあるんだな。赤ん坊を抱き上げながら、一人の弁護士はぼそりと呟いた。