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いまさら
2025-11-18 11:26:09
4796文字
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きっぽ
『つう』の続き。こちらの話は原作軸ですが、「つう」の小学生時代の時系列は映画軸になってます、すみません。小宮の孤立、トガシの嘔吐癖について触れてますので、ご注意ください。
少し緊張していた。
シーズン最後の試合が終わり、トガシは小宮にオフ期はどうするのか聞いたのだ。遠方で合宿の予定があると言われたので、じゃあその前に一度食事でもどうか、と声をかけた。断られるかもしれない、と半ば諦めての誘いだったが、意外にも小宮は了承してくれたのだった。
「小宮くん、ごめんね。俺の希望を聞いてもらって」
じゅうじゅうと音を立てる鉄板皿を前にして、トガシが謝る。
「僕、食べたいものとかないし。誘ってくれてありがとう」
小宮がぎこちなく礼を言うと、トガシは表情を崩した。目の前を漂う白い湯気とソースの甘い香りが、ふたりに空腹を思い出させる。
「今のチームに広島出身の子がいてさ、この店がおすすめだって言うからずっと来たかったんだ」
教えてもらったのはこぢんまりとした庶民的な店だった。程よく混んでいて、程よくうるさい。案内されたテーブル席からは店員が鉄板でお好み焼きを焼いている姿が程よく見えた。鉄板で焼いた料理が皿に移され、卓の上に運ばれてくる。自分たちで焼かなくてもいいのが気楽だ。
「じゃあ、今期もお疲れさまでした」
「お疲れさま」
ウーロン茶のグラスを掲げ、控えめに乾杯をした。料理に箸をつける前にトガシが手を合わせていただきます、と言うと、小宮もそれにならって手を合わせる。トガシはそれが嬉しくて、そして少し照れくさかった。
麺の入ったお好み焼きを割りほぐし、箸で摘まむ。熱そう、と思いながら口に運ぶと案の定、熱い。鉄板で焼けた硬い麺ととろりとしたソースが口内に触れて、たったそれだけのことが心底嬉しくて顔がほころぶのが分かる。
「うまい」
「うん、おいしい」
トガシが思わずこぼした呟きに小宮も同調した。シーズン中は必要以上に炭水化物をとらないようにしていた。小麦がふんだんに使われた幸せな食べ物とは縁遠かったのだ。
「小宮くん、頬っぺた、きっぽになっちゃったね」
「なに?」
「きっぽ。広島では傷跡のことをそう呼ぶんだって」
トガシはチームメイトから教えてもらった言葉を披露する。以前、髭剃りに失敗して切ったと言っていた箇所には小さな傷跡が細く走っている。
「ああ、これ。うん、たぶん日に焼けたせいで跡になった」
小宮は髭の生えた頬を触りながら答えた。今の小宮もしっくりくるが、前に髭を剃ってきたのもさっぱりしていて良かったな、とトガシは思い返す。
スランプのときはどうするべきかを聞かれて、いつもと違うことをしてみては、と毒にも薬にもならないことを言うと、小宮は髭を剃ってきたのだった。トガシの助言を実行したのかは分からないが、もしそうならば、そうした小宮の素直さが彼の走りに繋がっているのかもしれない。
トガシは少し前までの自分の頑固さを恥じた。そして、今こうして小宮と食事をしているのを不思議に感じていた。以前の自分なら同業者と個人的に出かけるなんてなかった。
「前に小宮くんが教えてくれたのは、つう、だっけ。かさぶた。大分では傷跡のことなんて呼ぶの?」
「それは普通に、傷跡」
「ええ、そうなんだ? 面白いな」
小宮はふと自身の左手に視線を落とす。その拳の関節部分にも白く浮く傷跡があった。
「それもきっぽ、だね」
「うん」
頷いて、小宮はウーロン茶を呷る。トガシもお好み焼きを食べ進めた。店内の騒めきのおかげで、会話がなくても気まずくはない。料理はどれも美味しい。
ふと、小宮が手を止める。迷うように視線を泳がせた後、トガシの方を見た。
「トガシくんって、シューズを隠されたり、走れないように嫌がらせをされたりしたこと、ある?」
「え、」
息が止まる気がした。小宮はまだ話すのを躊躇っているのか手元の動きが落ち着かない。
「ちょっと嫌な話をしてもいいかな」
どんな話をされるのか予想がついていたとはいえ、小宮の口から直接語られる内容にトガシは絶句した。試合前にシューズを裂かれるなど、心臓が凍るような出来事だ。小宮の左手の傷はその陰湿な仕打ちに対する怒りをぶつけた際にできたそうだ。
「
……
あの、」
トガシはおずおずと口を開く。が、なかなか相応しい言葉が出てこなかった。
「別に、何か言ってくれなくてもいい。僕が話したいと思っただけだから。急にごめん」
小宮の目には怒りでも悲しみでもない、どちらかというと穏やかな色が浮かんでいた。それを見て、トガシはようやく言葉を見つける。
「いや
……
こう言うと変かもしれないけど、話してくれて、ありがとう
……
?」
「なんで疑問形なの」
「あ、いや、感謝していいのかも分からなくて。でも、本心だよ。あー、俺、小宮くんのこと何も知らないんだな
……
まあ、それはそうか」
「それはお互い様だね。今の、初めて誰かに話した」
小宮は脱力して椅子の背もたれに寄りかかった。トガシは何となく小宮の心情が分かるような気がした。過去の話だ。苦しかったときの話。苦しかった、と認めることができるようになった今の話でもある。それを小宮が自分に見せたことの意味を考える。
「そっか
……
あの、俺、今めちゃくちゃ怒ってる。その、どうすればいいか分からないけど、ていうか、実際、何もできないけど
……
もうちょっと若かったら、壁とか殴ってたかもしれない、いや、本人のもとに行って一発殴ってたかもしれない、くらいには
……
」
トガシは弱々しい声で物騒なことを言った。小宮にとっては過去でも、トガシにとっては今だった。小宮はトガシの発言にぎょっとして、それから困ったように口を歪める。
「トガシくんって意外と血の気が多いね。でも、何も殴らない方がいい。僕、あのあと、病院に行ったら拳を骨折してたから。すぐ治ったけど、不便だったよ」
小宮は至極当然の忠告をした後、とんでもない事実を告白した。
「ええー
……
」
トガシはか細く呻き声をあげて、傷の残る小宮の左手を見る。
孤立。小宮はトガシがかつて心より恐れていたことを経験してきたのだった。トガシは今日初めて小宮という人間を見た気がした。
「きっぽ。ヘンな響き」
小宮は覚えたての言葉を確かめるように呟いて左手を眺めている。
知らない言葉、知らないものがこの世にはたくさんあって、自分とは別の場所で生きてきた人がこの世には大勢いる。トガシはその当然さを急に理解して、救われるような、絶望するような気持ちになった。
グラスの結露がテーブルに落ちて、水たまりを作っている。
◆
あの雨の日、トガシは全てを打ち砕かれた。
表面張力で何とかコップに収まっていた水が、最後の一滴を落とされて溢れるように、あの日を境に何かが決壊した。元々トガシはいつ崩壊してもおかしくない状態だったのかもしれない。その一滴を与えたのが小宮だった。
ずっと恐れていた敗北。早く楽になりたい、負けるのがこわい、でもいっそ負けてしまえば。そう思っていたこともあるが、実際にそれを与えられても決して楽になることはなかった。
崖から落ちる。ガラスのコップが粉々に割れる。蝋燭の火が消える。破滅、瓦解、崩落。そんな分かりやすい終わりは訪れない。じわじわと空気が抜ける風船のように全身が蝕まれ、思うように走れなくなっていった。
それからトガシと小宮は長らく対照的な道を歩んだ。いや、ある意味ではきっとずっと同じ道にいた。
トガシは今日小宮と話すまで、彼がこの二十数年をどのように過ごしてきたかを考えもしなかった。小宮だけではない。これまで関わってきたはずの他の人間のこともだ。
帰宅してシャワーを浴びながら、小宮の傷を思い出していた。
彼もまた打ち砕かれたことが何度もあるのだろう。そのことを知ってしまった。
別の人生を生きて、同じ煌めきを見た。それだけで十分だと思っていたのに。今は知らなくてもいいことを知りたいと思っている自分がいる。
髪を乾かす気にもなれず、ソファに座り込んでいる。
かつてのトガシは何よりも孤立がこわかった。だから自分の才能を鼻にかけないように振る舞ったし、学校では小宮をからかう同級生にやめろと言えなかった。
周囲から浮くのは死と等しい程に恐ろしく、みんなに合わせてファストフードに行った。囁かれる陰口を聞いても誤魔化すような苦笑いしかできなかった。
トガシは自分の右手を見やる。ここにもかつて小さな傷があった。
食べたものを吐くために口の中に手を突っ込むと、拳の関節に前歯が当たって手が腫れた。それを繰り返すと、いつも歯に当たる関節の皮膚が厚く硬くなっていった。飲み込んだものが体の一部になる前に、罪悪感や閉塞感と一緒に吐き出してトイレに流した。
吐き出せば問題ないと思っていた。傷を認めさえしなければ痛むことはないと思い込んでいた。自分を罰するような苦しさを味わえば許されると勘違いしていた。それで何かをした気になって安心できていた。
孤独だった、惨めだった、愚かだった。今はもう痛まない、傷跡もない右手の甲を左手で覆う。
ぽた、と髪から頬に水滴が落ちて、トガシは我に返った。
「あー
……
洗濯しなきゃな
……
」
唸るように独り言を言って、ようやく立ち上がる。
お好み焼き屋にいたおかげで、着ていた服からはソースのにおいがした。洗濯機にそれらを突っ込んでボタンを押す。髪も乾かさなければいけない。
──きっぽ。ヘンな響き。
ソースのにおいとともに、小宮の声を思い出す。確かに、聞き慣れないその言葉はどこか軽妙な響きを持っている。きっぽ。トガシはひとりで呟いてみる。覚えたばかりの、自分のものではない言葉だ。どこかでは誰かが自分のものとして使っている言葉。きっと小宮もトガシが持っていない言葉をたくさん持っている。
洗濯が終わるのを待つ間に髪を乾かし、いつも通りのストレッチをする。今日はいつも通りではない日だった。
トガシが小宮を知らないように、小宮もトガシを知らない。でも、小宮はその一部を今日トガシに話した。誰にも話したことのない過去をトガシに打ち明けたのはどうしてだろう。
洗濯物を干して部屋に戻ると、スマホの画面が光ってメッセージの受信を知らせる。小宮からだった。
今日はありがとう、おいしかった、と律儀な挨拶が送られてきていた。意外ではなかった。というのも、食事に誘って日付や場所を決める際も小宮からの返事は速く、簡素で丁寧だったからだ。こちらこそ、またご飯行こう、とトガシは当り障りのない返事をし、最後に猫のキャラクターが「楽しみにしとるけん」と広島弁を喋っているスタンプを送った。これはチームメイトからもらったものだ。
すぐに既読がつき、小宮からデフォルメの熊が「しんけんうれしい」と踊っているスタンプが送られてきた。調べると「しんけん」は大分弁で「とても」という意味らしい。踊っている熊を見て、トガシは微笑ましい気持ちになった。小宮くん、一部のファンや同業者から熊みたいって言われてるの知ってるのかな。
トークルームの画面を眺め、次はどこに行こう、何を食べよう、とはしゃぐ気持ちになった。
消灯した部屋のベッドに倒れ込み、ようやく体がほどける気がする。小宮と会うのにやはり緊張していたのだな、と自覚する。寒さもあり、無意識に体に力が入っていたのだろう。意識して全身の力を抜き、まだ冷たい布団に体温を溶かしながら目を閉じた。
いつか小宮にも自分のことを話してもいいかもしれない。それがトガシに何をもたらすのか、小宮がどう受け取るのかは分からない。何かが変わっても、何も変わらなくてもきっと大丈夫だ。
あのとき、すべてが痛かった。トガシはそれをついに認め、柔らかな布団の中で眠りについた。
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