エウロパからの誘い

12.06〜07 きえないハイライト展示物
気持ち的には本編3話頃の話
距離が縮まってない(エグシャリ成分は薄めかも)

 イズマ・コロニー内に雨が降る。人工的に降る雨はぱらぱらと音を立て、やがて地面をしとどに濡らしていった。
 コロニー内に建つホテルの一室でエグザベは一人思い悩んでいた。窓を叩く雨の音が強くなり、外を眺める。時刻は午前九時。予定表では雨はまだしばらく続く。やるせない胸中のまま、ため息を一つこぼした。
 テレビの電源をおもむろにオンにしてみる。ニュース番組はジオンの艦船がイズマ・コロニーに入港したとの報道が絶えない。画面に映るのは見慣れた強襲揚陸艦。この報道の原因は自分にもある。それは理解していた。ジークアクスを失い、軍警にも捕らえられ、おまけにシャリアの手回しにより釈放された事実を上官本人の口から聞かされた。今着ている服も、このホテルの宿泊手配も、全てシャリアの手によって用意されたものだ。「傷、痛みますか?」と道すがら渡された絆創膏も何もかも。
 全く持って立つ瀬がない。己の失態に頭を抱えたくなった。
「はぁ、参ったな……
 テレビの映像は相変わらず同じような内容を報道している。キャスターの淡々とした口調を耳にしていると、じわじわと自責の念が増していくようだった。
 直後、けたたましい音が部屋中に響く。肩が跳ね視線を巡らせると、小さなナイトテーブルに置いている携帯端末からの音だった。端末の振動が伝わっているのか、テーブルがガタガタと一定の間隔で揺れる。ラシットからの帰艦命令だろうか。ぼんやりとしながら端末の画面を確認すると、新着メッセージが一件の表示。見慣れた名前が目に入る。
『おはようございます、エグザベ少尉。昨夜はよく眠れましたか?』
 同じホテルの別室に泊まっていたシャリアからの連絡だった。慌てて端末を拾い上げ、メッセージを返す。今はどうしてもこの人に頭が上がらなかった。
『昨夜はありがとうございました。体の疲れも取れましたし、もう大丈夫です』
 ふと、思い出したかのように備え付けの時計をちらりと見た。端末の下敷きと化していたインフォメーションブックを開き、文字の羅列を指でなぞる。チェックアウトの時間まで、残り二時間弱。溜まっている仕事の量を考えると、頭が痛くなりそうだった。帰艦しなければという焦燥感が、端末に触れる指の動きを早める。
『あと少しで時間ですが、このまま帰艦しますか?』
『それなんですけど』
 含みのある言い回しに、訝しんでメッセージを見る。間髪入れずに、ぽこんと受信を知らせる音が鳴った。
『今晩、一緒に食事でも行きましょう』
……はい?」
 吃驚し、素っ頓狂な声が勝手に出ていた。どういう風の吹き回しなのか。メッセージの内容を見て、エグザベはしばらく放心していた。
 シャリアの意図が全くわからない。下士官の自分と食事をして一体何があるのだろう。ソドンに着任してからしばらく経つが、シャリアは突拍子もない言動をする時が多々ある。今届いたメッセージもまさしくそうだ。単に気を遣われているだけなのだろうか。視界がグラグラ揺れるのをぐっと堪え、努めて冷静に指を画面へと滑らす。
『ですが、ソドンの方は大丈夫でしょうか?』
『帰艦が遅れる事は連絡済みです。それに、一日二日くらいは私達が戻らなくても、皆さんなんとかしてくれますよ』
『そういうものですか?』
『そういうものです』
 時すでに遅し。それは今の状況を言うのだろう。
 シャリアの無茶な話にため息を漏らすラシットとコモリの姿が頭をよぎる。コモリにいたっては業務柄、シャリアへの確認事項も多い。今頃、仕事が滞り「ゲロまず……」とソドンで言っているのだろう。その様子が容易く想像できて、エグザベは思わず苦笑いを浮かべた。
『あと』
 再び、ぽこんと受信音が鳴る。
『このホテルも延泊の連絡を入れてます。なので少尉も安心して下さい』
「えぇ?」
 事態を飲み込むまで、頭の中が真っ白になった。安心して下さい、と言われても何がどう安心なのか理解に苦しみ思わず眉をしかめる。あっという間に今日の予定が組み立てられていき、エグザベは途方に暮れ天井を見上げた。
『いや、でも。さすがに仕事も溜まってますし』
『でももう決めちゃいました。私が奢りますから』
「ご、強引だ……
 ここまで話が進められているとなると、こちらが折れるしかなかった。やはり、長期間ソドンに滞在しているせいか段々とシャリアに絆されてきているのではないかと考え込む。
 まだスパイ疑惑は拭えていない。信用するには根拠が必要だ。
 このままシャリアからの誘いを断る事もできる。だが、それだけは気乗りしなかった。
 肺に溜まった空気を目一杯吐き出し、意を決して送信ボタンに指を置く。
『わかりました。そこまで言うんだったら、ご一緒します』
『それじゃあ、夜にロビーで』
 メッセージの後に「ありがとう」と書かれたスタンプが送られてきた。こういう機能も使うのか、とシャリアの意外な一面を見てエグザベが僅かに目を細める。
 時刻は午前九時三十分を過ぎた頃。夜の待ち合わせまではまだしばらくかかる。窓の外を見ると雨の勢いがより盛んとなっていた。



 朝の雨が止んでいる。予定表通りだった。地面を踏みしめると、微かに雨の匂いが香り立つ。採光窓が向きを変え、瞬く間に夜が迫っていた。建物の灯りが流れる川のように点き、コロニー内の暗闇を煌々と照らし始める。表通りを歩いていれば、これから帰宅するであろう大勢の人とすれ違った。
「実は、もう既に行く所は決まっているんです」
「随分詳しそうですけど、ここに来た事でもあるんですか?」
「いいえ、全く」
「えぇ……?」
 想定外の答えが返ってきて、エグザベは面食らった。そんな様子のエグザベを気にも留めず、シャリアは人当たりの良さそうな笑みを黒縁の眼鏡から覗かせる。
 曰く、サイド6の大統領補佐官とは知己であり良い店を教えてもらえた、という話らしい。ふとしたきっかけではあるが上官の人脈の広さを知る事となり、開いた口が塞がらなかった。

 道なりに進んでいると、ポツンと佇むようにサターンドーナツの看板が視界に入った。店内でドーナツを美味しそうに頬張る人達を見て、こちらも思わず顔が綻びそうになる。外にまで漂う生地やトッピングの香りが、子供の時に食べた甘いドーナツの味を思い起こさせた。
 瞼を閉じると父と母が温かな笑顔を自分に向けている。今は失われて跡形もないルウムに居た頃の記憶。あれから随分遠くの地まで来たものだ、と込み上げてくるものがある。記憶の中の懐かしい香りに想いを馳せていると、気が付けば店の真正面で足が止まっていた。
……もしかして、ドーナツ食べたいですか?」
 シャリアに優しく声をかけられて、意識が急速に現実へと引き戻される。
 灰緑の瞳に顔を覗き込まれ、エグザベは首を横に振った。
「今はいいです。これから食事をしに行くんですよ?」
「確かに、それもそうですね」
 言いながら僅かにシャリアの口が緩む。その表情につられて、エグザベも少し口角が上がった。
「後少しで着きます。もう少しの辛抱ですよ」
「わかりました」
 後ろ髪を引かれるようにドーナツの看板を流し見て、サッと視線を前に戻す。他愛もない話を続けながら、本来の目的地へと歩みを進めて行った。

 煌びやかなネオンが所々で輝いている。雑然と建物が並ぶ中、大統領補佐官に教えてもらったという飲食店はひっそりとした場所に店を構えていた。
 辛うじて小さく店舗名がドア横に記されているだけで、看板などは何もない。いわゆる隠れ家的な店なのだろうか。外観からは飲食店だとは到底判断し難く、ついつい首を傾げたくなった。
「大丈夫ですか? お店、入りますよ」
「あっ、はい!」
 おずおずと扉をくぐると「いらっしゃいませ」と店員らしき人物の声が出迎える。外観のとっつきにくさとは裏腹に、店内は高級感のある木材を基調とした落ち着きのある雰囲気を漂わせていた。来客者を歓迎する生花の柔らかな香りが、訝しげに思っていた心を次第に落ち着かせる。意外と繁盛はしているのだろう。談笑している人の声が方々から聞こえてきた。
 店員と軽く言葉を交わした後はすぐに奥の個室へと案内された。ぱたん、と木製の仕切りが閉められ、個室内はエグザベとシャリアだけの空間となる。淡く光るオレンジの明かりが二人を照らし、下へ影を落としていた。
「ひとまず、落ち着けそうですね」
「そう、ですね……
 普段、同期達と行くような店とはまるで正反対の空気に、ふと、息が詰まりそうになる。コートをそっとハンガーにかけ、向かい合うように椅子へと座った。
「あの、ち——
 中佐、と口の形を変えた瞬間。身を乗り出したシャリアに指で発言を遮られた。唇に触れるか触れないかのギリギリの距離感。反射的に喉がごくりと鳴る。シャリアの纏う香りがふわりと風に乗って鼻を掠めていった。
「すみません、突然。ですが、ここでその呼び方は避けたほうがいいかと思いまして」
「あ、あぁ……。確かに。申し訳ありません、軽率でした」
「いえ、大丈夫ですよ」
 指摘されればまさにその通りであった。サイド6は主権国家だ。表向きには連邦にもジオンにも属していない。だが、今はソドンがこのコロニー内に侵入し、あまつさえ停泊までしている。そんな中、階級同士で呼び合う軍属の二人がこそこそ動き回っていたら、余計な諍いを生みかねない。シャリアに対してもだが、これ以上皆にも迷惑をかけるつもりはなかった。
 一拍おいて、エグザベが眉尻を下げながら尋ねる。
「それでは、なんてお呼びすれば?」
「こんな場ですし、ご自由に呼んでもらって構いません」
 体を元の位置へ戻したシャリアが、エグザベの瞳を真っ直ぐ見る。
「私も好きにさせてもらいますよ、エグザベ君?」
 自由に呼べというが、なんせ相手は灰色の幽霊。ジオン最強のニュータイプであり、年上の上官だ。失礼がないようにしなければ、と口を結び思案する。
「わかりました」
 視線が揺れ動いた後、エグザベは意を決してぽつりと呟いた。
「えっと、シャリア、さん……?」
「よろしい」
 辿々しい返事を聞いたシャリアは、両手を組みながら満足気な笑みを浮かべていた。
 そのまま、テーブルに置かれたハードカバーのメニュー表を手に取り、目の前へ差し出してくる。
「先に貴方から料理を決めてください。ちなみに、ここはお肉が美味しいと評判らしいですよ。なんでも地球産のお高いエサを使っているとかなんとか。本当ですかねぇ?」
 言われて中を確認すると、高級そうな見栄えの料理がずらりと並んでいた。本当に自分が頼んでいいものなのかと思い、どうしても目が泳ぐ。ちらりとメニュー表越しにシャリアを窺うと、先程と変わらない表情でエグザベを眺めていた。この人が何を考えているのかはいつも読めない。寧ろじっと見続けていると、却ってこちらの心中を全部暴かれそうだった。慌てて視線をメニュー表に戻しページを一枚一枚丁寧にめくる。様々な料理の名前が羅列しているが、どうにも目が滑ってしまい頭に入らなかった。
「じゃあ、これにします」
 恐る恐るメニュー表を指差し見せる。エグザベの指先に視線を向けて、シャリアが口を開いた。
「いいですね。私も同じものにします」
 昔、故郷で食べた料理にどことなく似ている。ただそれだけが決め手だった。


 
「お待たせいたしました」
「はい、ありがとうございます」
 店員によって、注文した料理が丁寧にテーブルへと並べられた。肉やサラダ、スープなど、食欲をそそる香りが漂い鼻腔をくすぐる。色とりどりの料理を目にしていると、思っていたよりも空腹だった事にエグザベは気が付いた。
「本日の料理に使用している肉は……
 料理への満足度を高める説明を、丁寧な口調で店員が喋り始める。だが、店側の気遣いも虚しく、内容はほとんどそのまま右から左へ流れていった。
 口を噤んでいると、未だに自分がこの場にいて良いものなのかという疑問が湧いてくる。シャリアの様子をじっと見ると、どうやら店員の説明に傾聴しているようだった。おまけに質問までして、会話に花が咲いている。こういった分野にも造詣が深いのだろう。ますます、別の誰かと来た方がいいのではないか、という気持ちが強くなる。
 ある程度の説明を終えた後「ごゆっくりお過ごしください」とだけ言い残し店員が部屋を去った。再び二人だけの空間となったこの場に静寂が訪れる。
「冷めないうちに食べましょうか」
 最初に口火を切ったのはシャリアだった。
 料理をぼんやり見つめていたエグザベが小さく「はい」と答え頷く。
 ナイフとフォークで丁寧に切り分け、料理を口へと運ぶ。口に含むと、肉とソースがよく絡み、誰が食べても顔が綻ぶのではないかと思える程だった。故郷で食べた料理に似ていたという安直な理由で選んだが、あまりの美味しさに思わず舌鼓を打つ。
……美味しい」
 目を輝かせながら食を進めるエグザベを見て、シャリアが一口料理を食べる。こくりと一度頷いた後、柔らかく微笑んで喋り始めた。
「確かに。美味しいですね、これ」
「ええ、今まで食べたご飯の中でも一、二を争う美味しさですよ」
 エグザベの大袈裟な言い回しに、シャリアが瞬きを繰り返す。
「もしかして、気に入りましたか?」
 低く、聞こえの良い声が耳に届いた。
「はい」
 早く答えなければ、と口に入れた料理を飲み下し、一息ついてから話し始める。
「昔、ルウムの故郷で食べた料理を思い出しました。味は全然違うんですけど、見た目が似てて」
「ルウム……。そうでした、エグザベ君はルウムの出身でしたね」
 少しだけバツの悪そうな顔をしながら、シャリアがグラスの水を僅かに口へ含んだ。コトン、と置かれたグラスの中の水がオレンジの照明を反射して眩しい。
「すみません。今日は気分転換になればと思い誘ったのですが、却って辛い記憶を思い出させてしまったかもしれません」
「いえ、そんな! こうやってあなたに誘ってもらえて、とても嬉しいです。故郷の件は、もう起きてしまった事ですから……
「君は、強いですね」
「僕は運が良かった。それだけです」
「その運も、君の強さの一つだと思いますよ」
 言い終えた後、お互いに目の前の料理を黙々と食べ進める。ただ、カトラリーの音だけが部屋の中で鳴っていた。

 沈黙が続く中、料理を一口飲み込んでエグザベは頭を働かせた。
 この場へ自身を連れてきた理由を、シャリアは先程口にしていた。気を遣われている事に変わりはないが、どうしても嬉しい気持ちが勝る。だが、ひたすらに考えても、シャリアが自分の世話を焼いてくれる根拠はいまだにわからない。
……あの」
 腹をくくり口を開くも、慣れない呼び名が喉につかえてしまう。
「シャリア、さん」
「何です?」
「どうして、こんなに僕を気遣ってくれるんですか?」
 カチャカチャと鳴る金属音が、ピタリと止まった。
「と、言いますと?」
「今回の件、僕は処罰を受けてもおかしくない。そう思っています。ですが、あなたは僕を罰するわけでもなく、救ってくれた。その上、気分転換に食事まで」
「そうですね」
 顎に片手を添えながら、シャリアは思案をしているようだった。悩む様子をただただ口を噤んで見続けるのも躊躇われ、出された料理をもう一度頬張り飲み込む。左手でフォークを動かし、二口目。舌鼓を打つ料理のはずなのに、先程まで感じていた味がわからない。視線を感じ正面へ目を向けると、灰緑の双眸がじっとエグザベを見つめていた。
「エグザベ君を気に入ってるから、という理由ではダメですか?」
「だ……っ」
 飲み込んだ料理が喉に詰まりかける。慌てて水を流し入れ、努めて平静を装った。目尻に軽く溜まった涙を指で拭い、何度か咳き込む。
「ダメではありませんが」
 もしも、シャリアの言葉が本当だとしたら、顔に熱が集まるほどの喜びを感じただろう。スパイ疑惑は兎も角、過去の経歴や軍人らしく峻厳に指揮を取る様子を間近で見て、尊敬の念を抱いてはいる。そこに変わりはない。
 だが、自身が持つ勘と、どこか仄暗さを宿すシャリアの瞳が、言葉の真意を曖昧にしていた。気が付けば、掌にじんわりと嫌な汗が再び滲み出す。
「本心ですか? 違いますよね、きっと」
「さあ、どうでしょうか」
 シャリアが目を伏せ、ゆっくりと手を動かした。静寂の中にカトラリーの音だけが鳴る。料理を口に入れ嚥下するその瞬間まで、エグザベはただただシャリアから視線を逸らせないでいた。照明の光が睫毛にあたり、キラキラと赤みを帯びて輝く。その光る赤がシャリアの追い求めている彗星を想起させ、頭の中で長い尾を引いていた。今だけは自分の持ち得る勘に少しだけ嫌気がさし、眉を寄せる。
……もしかして、僕がニュータイプだから見過ごせませんか?」
 赤い彗星と同じだから。そう言葉を続けようとして、上目遣いでこちらを見るシャリアの瞳と視線が交わった。暗さを灯す目にじっと射抜かれて、思わず体が竦む。
「それは違いますよ」
 カチャカチャと鳴っていた金属音が再び止む。ナプキンで口を抑える所作すら丁寧で、指先の上品な動きに心臓が波打った。
「私は、君のような実直な人間を好ましいと思っているんです」
「実直?」
 シャリアが頷く。
「君は真面目で素直です。ルウムではさぞかし辛い経験をしたはず。にも関わらず、とても心が強い」
 グラスの水を口に流し込み、シャリアは言葉を続けた。
「そんな君だから、何かあった時に私は手を貸したくなってしまう」
「えっと。僕は、褒められてるんでしょうか?」
 再び、シャリアが首を縦に振る。
「言葉通りに受け止めてもらって構いませんよ」
「あ……
 言葉通りに受け止めてもいい。その意味を頭の中で理解して、エグザベの顔が紅潮する。不意に口元が緩みそうになるのをぐっと堪え、咄嗟に右手で太ももをつまんだ。
「ありがとうございます」
 謝辞を述べるとシャリアが柔らかく微笑み返す。嘘を見抜くような能力は持ち合わせていないが、先程とは打って変わりシャリアの言葉に曖昧さを感じられなかった。

 照れ臭さからしばらく黙っていると、シャリアがふうと息を漏らす。
 少しだけ水の残るグラスをくるくる回しながら、ぽつぽつと呟き始めた。
……君と、話をしていて改めて思いました」
「何がですか?」
 エグザベが不思議そうにシャリアの顔を覗き込むも、どうにも視線が合わない。
「やはり私は貴方のような人が、自分らしく生きられる世の中になって欲しい」
「シャリアさん……?」
 目を伏せながら、淡々とシャリアは話を続ける。ここではないどこかをシャリアは見ている気がして、エグザベの心は波立ち落ち着かなかった。
「いつか、そんな世の中が来るまで、君にはそのままでいてほしい。純粋で真っ直ぐなエグザベ君のままで……
「ちょっと待って下さい」
 このままシャリアが灰色の幽霊の二つ名の如く、何かを成し遂げた後どこかへ消えてしまうのではないか。そんな予感が頭をよぎった。
 どうにか繋ぎ止められないか。考えをぐるぐる巡らせる。そのまま二の句が継げないでいると、決まりが悪そうにシャリアが黒縁の眼鏡を指で押さえた。
……余計な事を喋りすぎました。君の気分転換のため、ここへ連れて来たというのに。今の話は全部忘れて下さい」
 エグザベがかぶりを振る。
 頭を絞り出しても結論は出ない。考えるよりも先に体が動いていた。
 テーブルの上に無造作に置かれたシャリアの右手を包み込むように、エグザベは上から左手を被せる。触れる瞬間、筋張った手が僅かに反応を示した。まるで死人のように冷えた指先と熱の籠る自身の体温がゆっくりと混ざり合う。徐々に弛緩していく手に、胸の奥も不思議と温かくなった。
「エグザベ君?」
「すみません。僕は今、あなたに失礼な事をしているのはわかってます」
 何のためにソドンヘ来たのか見透かされてもエグザベは構わなかった。スパイの可能性があるからと言って、このまま星屑の如くシャリアに消えてほしい訳ではない。
 憂いと決意が滲む灰緑の瞳を見据えながら、握る手にも自然と力が籠った。
「あなたの望んでいる世界は必ず訪れます。大丈夫です、絶対に。だから、そんな苦しそうな顔をしないで。どうか、シャリアさんもあなたのままでいてほしい」
 エグザベからの言葉にシャリアが目を丸くし、力なく微笑む。
……不思議ですね。君と話していると、なんだか胸の辺りが温かくなる。そんな気がします」



 食事を終えて店の外に出ると、寒々とした空気が出迎え鼻先を冷やしていった。
 往来する人々も予想外の寒さに堪えたのだろう。襟を立てたり、ポケットに手を入れながらそそくさと目の前を通り過ぎていく。自身の体温も徐々に奪われていき、エグザベは僅かに身震いをした。
「意外と冷えますね」
「ですね」
「気分転換にはなりましたか?」
「おかげ様で、バッチリです」
 他愛もない話に軽い気持ちで答えた途端、シャリアが「あっ」と一言声を漏らす。
「そうだ」
「どうかしました?」
 店に忘れ物でもしたのか。そう思い様子を窺うと、シャリアの瞳と視線がぶつかる。
「実はエグザベ君にお願いがあって。頼み、聞いてくれますか?」
「頼み、ですか?」
 首を傾げているとシャリアの顔がぐっと目の前まで近付いてきた。呼吸の音、心臓の音、どれもがうるさく聞こえる程の距離感でシャリアがそっと耳打ちをしてくる。耳に当たる吐息の感覚がどうにもくすぐったくて、頭から体にかけて肌が粟立つ。低くそれでいて聞き取りやすい声が、胸の鼓動を徐々に早めていった。
「これから少々難しい任務があるんです。行ってくれますか?」
「任務?」
「ええ」
……それだけ?」
「はい」
 何かと思えば任務の依頼。上司と部下なのだから一つ考えればわかることだ。逸る心臓を落ち着かせるように瞬きを何度か繰り返す。そもそも今、自分はシャリアに対し、一体何を期待していたのだろう。ただの一回食事をしただけなのに。途端、顔に熱が集まっていることを自覚する。軽く息を吐き、渋々口を開いた。
……わかりました」
「頼みます。私も手伝いますから。ね?」
 気分転換のためと言うのは建前で、本来の目的は任務の依頼だったのではないか。やはり、シャリアの行動は全く読めない。そう、エグザベが口を尖らせ考え始めた、その時。
「ああ。今夜誘ったのは先程のお願いをしたかったからではなく、本心から君の気分転換になればと思ってのことですよ」
 思考を先読みしたかのようなシャリアの発言に、エグザベは驚いて目を見開いた。口をあんぐりと開けて佇むエグザベにシャリアが目を細める。
「それともう一つ」
「今度は何です?」
 物言いたげな目で顔を見ると、シャリアが右手で輪を作り始めた。嬉々とした声色で、穴からエグザベを覗き込む。
「帰りにドーナツ、買って帰りましょう」
……いいですね、そうしましょうか」
 雨がすっかり乾き切ったコロニーの中に、まだ買ってもいないドーナツの甘い香りが漂ってくる。そんな気がする帰路だった。