眞昼
Public ss
 

Toward that Flame

2025.11.16 に開催されたCTオンリーにて頒布した新刊の書き下ろし作品全文。
CT無印後に関係の変化を迎える二人。

 火にかけたケトルからくつくつと湯の沸く音が立ち始めると、その口から吹き出す蒸気の勢いも増し、縁で焼き飛ばさた水分が身悶えの音をあげる。
 頃合いを見極めたガラは火を消し、二つのマグカップと紅茶葉を入れたティーサーバーに沸騰した湯を注ぎ入れた。琥珀色の水中に舞い上がった葉は、旋回を繰り返しながら身を綻ばせ、徐々に底へと降り積もっていく。

「砂糖もミルクもなしでいいんだよな?」

 キッチンから後方にあるリビングに向かって問いかけると、ああ必要ない、とハイドの声が返ってくる。
 振り向いて見れば、ハイドはソファに深々と背を預け、スマートフォンを操作していた。最新ニュースか、あるいはSNSのチェックか、画面をスクロールしながらどこか熱心にそれを見つめている。
 カップを満たしていた湯をシンクに流し、十分に抽出された紅茶をカップに注ぐと、秋の草木のような、仄かに翳りのある薫りがガラの鼻先まで軽やかに立ち昇った。
 一方にのみティーシュガーを一つ落とし入れスプーンで適当にかき混ぜると、カップを両手に携えてソファへと向かう。
 画面からガラへと目を移したハイドはスマートフォンを傍に置くと、陣取っていた中心から一人分身体をずらした。

「こっちがお前のだ」
「ありがとう」

 空けられた場所に腰を下ろしたガラはハイドにカップを手渡した。
 並び合った彼らは、湯気の立つそれを慎重に口元へと運ぶ。
 しかし紅茶が咥内を潤すよりも先に、一度動きを止めたハイドは顔を上げてガラを見やった。

「茶葉を変えたか?」
「ああ、家でも多少良い紅茶が飲めればいいと思ってな。お前も来ることだし、ちょいとばかりグレードアップだ」
……別に、私に気を遣わんでいい。美味い茶を飲もうと思ったら店に行けば済むことだ」
「こっちこそハイドさんの気遣いに感謝したいところだが、全く遣ってないから安心してくれ。実はネットでプロモーションセールをやってたんだ。一箱買えばもう一箱ついてくるってな」
「フ、それなら良い」

 納得したように笑み、ハイドはカップを傾ける。その横顔の中で静かに降ろされていく薄い瞼の動きをガラは追っていた。
 再会してからというもの、二十年寄りつかなかったことが嘘のようにハイドは度々シアトルを訪れるようになった。
 休暇のシーズンだけでなく突発的にガラの家を訪れては、今のように我が物顔で寛いでいた。そうした姿も、随分見慣れたものになった。
 何をするでもなく共に過ごし、食事をし、散歩やコーヒーショップに行き、語らい、生活の営みを分かち合った。多くは数日、時に数週間に渡る時間の共有は、雇用関係に合った時代のものとは違っていた。相手の些細な拘りや癖を懐かしく思い出し、また微細に変化したことで初めて知るものがあった。 
 寝室は話し合いの末、交互に使用することになった。
 しかしガラが夜勤から帰宅すると、ハイドはいつも窮屈そうにソファで眠っていた。
 ある明け方、ハイドの伸びやかな脚が片方、座面から落ちていた。
 見かねたガラが寝室へ行かせようとその肩を揺さぶったものの、ハイドは小さく呻いただけで起きようとしなかった。仕方なく、ベッドに運ぶため腰を落としたガラはハイドの上に身を屈めた。
 閉ざされたブラインドは外の光を遮り、室内は未だ夜更けほどに暗かったが、より黒々とした影がハイドの上に落ちた。
 その暗闇の中で、す、とハイドの瞼が開かれた。
 そして澄みやかな眼が、何かを問いかけるようにガラを見据えた。
 ガラはそれを瞬きもせず見つめ返した。
 だが彼らはそれ以上何かを脅かすことはなくハイドの瞼は眠りによって再び降ろされ、ガラはその身体をゆっくりと抱え上げ、寝室へと運んだ。
 この時、街には夜明けの陽が差しかかっていた。彼ら二人には明るすぎた。

「そうだ、トモチルみたか?」
「いや、今日はまだ開いてない。何かニュースか?」
「では私から言うとしよう。例のお騒がせカップルがついに婚約したぞ」
……! そいつはめでたい!」

 カップをテーブルに置いたハイドは、スマートフォンを手にすると素早く操作し、画面をガラの方へ差し向けた。ハイドと共に覗き込んだそこには、婚約の報告を添えた写真が表示されていた。
 白いクロスのかけられたテーブルの上で、指同士を絡ませるようにベイリースの手を握ったルアの小さな手。その左手薬指に嵌められた指輪のダイヤモンドが慎ましくも白い極星のような光を放っている。
 そして次の写真にはそれを遥かに凌駕する、寄り添いあった二人の晴れやかな笑顔があった。

「時々コーヒートークで二人に会う度順調そうだとは思ってたんだが、本当によかった」

 恋人たちの幸福な姿に、胸をあたためられた微笑みを頬に滲ませたガラに対して、ハイドは冷たい皮肉で唇の片端を歪めた。

「安心するのはまだ早いぞ。入籍したわけじゃないからな。結婚まで、いや、結婚したとしても上手くいくかはわからん。それに結婚生活が続いたとしても離婚していないだけの、関係としてはとうに破綻しているカップルだっていくらでもいる」
「またそんなことを……
「それでも、未来がどうなろうとも、互いの愛を、その力を信じようとしている今の二人は、間違いなく輝いて見える。まるで呼応し合う火のようだ。私の諦めを、悪くさせるほどの」

 そう言ってハイドは眩しいものを見るかのように目を細めた。
 そして二つの視線が、全く同時に歯車のように間近でかち合った。
 数瞬間の停止の後、彼らは身を捩りながらソファの中心に向かって、相手の方へと重心を傾けた。その動きに古びたスプリングが悲痛な軋みをあげたが、二人は構いもせず身を寄せ合い、相手の瞳を覗き込んだ。何を映しているのかを探り、確認し合うように。
 ガラの指先が躊躇いがちにハイドの顎を辿り、輪郭の線を変えない程度の力で頬に掌を添える。そこに仄かに冷たいハイドの手が重なり、サージカルテープを施された手の甲を撫ぜた。
 互いに抱き寄せようと、一方の腕は相手の背へと回り、もう一方は首元へとまつわった。
 相手の貌を形造る起伏に自らのものが合わさるように頭を傾ける。
 温かい息遣いを唇の上に感じ、同じ場所で息を呑む。それがひとつとなる。
 寸前、ハイドが僅かに顔を背けたことによって二つの唇はすれ違った。
 しかしその裏切りにもガラは動じず、唇をハイドの口端に触れさせ、少しの間そこに留まった。
 それから二人の身体はぎこちなくもどこか惜しむように緩慢な動作で解け、先程と同じ位置へと戻った。

……言っておくが、気の迷いなんかじゃないからな」
「そんなこと思う訳ないだろ⁉︎ 大体、お前が気の迷いでキスするような男なら私は……っ、」

 念を押すようなガラの言葉にハイドは反射的に声を荒げたが、そこで喉を塞がれたように言葉を詰まらせた。そこから先を口にすることへの怯懦が舌を微かに慄かせ、それを打ち消そうとして噛み締めた下唇に鋭い犬歯の先が食い込んだ。
 悲愴に歪んだその表情を見たガラの眉間にも影が生じた。
 ハイドは片手で顔を覆うと、長い嘆息と共に深く項垂れた。

……ガラ、誤解しないでくれ。拒絶したわけじゃない。むしろ待ち望んでいたことだ。ただそれは私にとって、ほとんど夢のようなものだった。……そしてそれを見ていた時間が、長過ぎた。それが現実になったらどうなるのか、それでもし、お前を……

 微かな吐露には、締め切った窓ガラスから染み通ってくる雨音のような、捉えきれない不透明な淋しさがあった。
 それはガラに半世紀前のことを思い出させた。
 または二十年前、昨年、数ヶ月前、今夜までのハイドを。
 次いで、少し手を伸ばすだけで届く、隣までの果てない距離を思った。

「ハイド、お前は言ってたよな、もう遅い、と。たしかに遅いかもしれん。だが、手遅れという訳じゃないと、俺は思う」

 それは、ガラが至った一つの結論だった。

「お前もそう思った瞬間があったから、あの土産を俺に渡してきたんじゃないのか?」
……

 頭を擡げたハイドの眼が僅かにガラへと向けられた。
 言葉はなかったが、その沈黙は否定の色をしてはいなかった。
 彼ら二人は変わりながらも変わらないまま、ある距離を測り続けてきた。
 輪郭が触れ合ったとしてもその平衡は保たれていた。時折送る視線の意味も、真正面からでなければ読み取れないよう瞼の影で巧妙に隠してきた。
 しかしハイドの冗談めいた贈り物だけでなく、長い空白期間の後に隣り合った距離そのものが、今や彼らを揺らがせていた。

……だが本当に、私たちは変われるのだろうか」
「なぜそう思う?」
「それを私が強いることはできない」
「強いる必要はない。それに俺は、強いられるつもりもない」
「変化しても、望むような結果にならないかもしれない」
「俺の望みを知らないのに?」
「それが私の望みと同じとは限らない」
「お前は何を望んでる?」
……変われないなら、願わずにいられることを」
「それじゃあ、……もし俺たち二人が望むことで変わるとしたら?」 

 答えを待たず、ガラはハイドの肩を静かに抱き寄せた。
 さらりとした手触りのシャツの下、皮膚の奥にある硬い骨の存在を初めて知ったような心地がした。
 ハイドは肩に乗せられた手の温かさとやさしい重みに驚きながら、導かれるまま肩口に寄りかかった。

「炎の熱さは、近づいた者にしかわからない」

 それがどれほど大きく、どれほど熱く、どれほど明るいか。
 そしてどれほど近づけるものなのか、その危険性も。
 全ては試みた者にしか知る由はない。
 ハイド自身、よく知っていた。そのために、未だ微かに疼く場所がある。

「俺たちは、俺たちの火の傍に近づいたらどうなるか、やってみないか」

 暫く、沈黙が訪れた。
 二人は身じろぎもせず、相手が起こす呼吸の反復とそれに重なる自分のものを聴き、触れ合った身体のあわいで体温を馴染ませていた。これほど近くとも融和はしない、自分と異なる肉体の在処が一層確かなものとなった頃、身体を離し、向き直った。
 伸ばされた白い手が、ガラの片側の瞳を隠す髪を避ける。
 一瞬開けた視界の中に、薄雲を透かした月の光のような微笑みが現れた。
 そうして彼らは再び互いの瞳の底を覗き込んだ。
 しかし、もう尋ねることも探り合うこともしなかった。
 どちらともなく、相手を腕の中に招き入れた。

「では、今夜が最初の一歩だ」
 

 その炎について、彼らは知ることを始める。