スマートフォンの通知に、二通のメッセージ。
表示された送り主たちとその本文を順番に見た北信介は、口角を上げるのを堪えられなかった。
「ほんま、おまえらは相変わらずやな」
【証言者 北信介】
大学の講義は知的刺激に富んで興味深く、農家を継ぐにしても大学で農業生産を学ぶことも悪いことではないと進路相談に乗ってくれた教師に、北は感謝している。覚悟をしていた通り学生生活は必修の講義が多いだけでなく圃場作業も多いため大変だが、冬になるとそれも少し落ち着く。
そんな北の学生生活と入れ違いのようにVリーグはシーズン開幕から少し時間が経ち温まってくる頃で、高校を卒業してプロになった同級生はもちろん、今年からは一つ下の後輩たちも、ちらほらと試合に出ているのを確認している。なにせ北の手元には、シーズン中は出場する本人たちが寄越してくれるチケットがあったりなかったりで(自分で買うからいいと言っているのに、尾白は構わず送ってくるのでついに言うのを諦めた)自宅から通える会場のチケットを送ってくれるものだから、予定が合えばなるべく足を運んでいる。
チケットを送ってくれるひとりには、宮侑がいる。
北が高校でバレー部に所属していたときの一つ下の後輩で、侑は一年生のときから県内随一の強豪である母校で正セッターをきっちり三年間務め上げ、さらに在学中に全日本ユースにも選出されている優秀な選手だ。そんな侑でも、流石にプロの世界でいきなり主力というわけにはいかないようで、まだまだベンチスタートも少なくない。それでもひとたび仕事を与えられれば待っていたとばかりに活躍し、その派手な形からは想像もつかないほど堅実な働きをして結果を出し、チームによく貢献している。チームメイトやスタッフからは勿論、サポーターからも信頼は順調に蓄積しているようで、しっかりファンも増えているらしいと、これは少し前に集まって食事をした大耳や赤木の談だ。
そして、ある冬の日。その侑から、普段とは異なる方法で週末のブラックジャッカルホーム戦のチケットが北の元に届く。いや、届くというよりは。
「北さん、ご無沙汰です」
「今日は悪かったな、治。わざわざチケット持ってきてもらって」
「いえ、俺も北さんと観戦できるのは、めっちゃ嬉しいんで」
北の姿を視界に入れるなり、ぺこりと頭を下げてそう言ったのは、ようやく最近見慣れてきた黒髪がいまは少し長めに伸びている(単に切り損ねているんだろう)治で、スタジアムの入り口にできている入場列のすぐ近くに、帽子も被らずそのまま突っ立って北を待っていた。おかげで会場に入っていく観客には、漏れなくちらほら二度見されている。それはそうだろう。侑とそっくりな男が立っていて、でも黒髪なものだから話しかけられはしないが皆、首を傾げたまま会場へと入っていく。
北は「そいつも俺の後輩なんですわ」と心中で苦笑しつつ、キャメルのショートコートなんてあまり羽織っている姿が見慣れない治と共に、群衆の流れに混ざって歩く。これからは待ち合わせ場所は考えなあかんなと少しばかし反省しつつスタジアム内の案内表記を見ながら座席を確認すると、2階のサイド側で実況席がすぐ後ろにあった。どうやら関係者席らしい。北も流石に関係者席のチケットを寄越されたことはなく、少し驚いて治を見上げれば、治もまた侑からは何も聞かされていなかったらしかった。
「あいつ、
……せめてこういう席にすんなって言うたのに」
座るときには随分と不満気にぶちくさ呟いていたが、試合が始まってしまえばその目はすっかりとぴかぴか輝いて、2セット目の途中からセッターとして奮起し、見事に勝利を収めた侑の姿を、どこか眩しそうな目つきで追っていた。それは時折、泣きそうにも見えて北はぎょっとしたが、北の視線に気づいた治はコロッと普段と変わらない飄々とした顔をして見せたため、その場では見なかったフリをする。
試合はブラックジャッカルが快勝した。
途中、明らかに侑は北とそれから治が自分が用意した席にいることを視認していたが、その表情はブレずにコートの中にいるあの宮侑のままで、北は「少しは大人になったなぁ」と感心し、隣の治はといえばグッと何か堪えるように難しい顔をしていたが、その視線は侑とシンクロするように真剣そのものだった。
そんな治は試合終了をブザーが告げるやいなや、人混みに紛れてすぐ席を立って出ていこうとした。おそらく一階に降りて侑に声をかける、などというつもりはなく、むしろ侑に声をかけられる前に会場を出たそうな素振りだった。
が、侑は思いっきりコート上から「サムっっ!!」とその名前を、周りに構わず大声で呼んで治の目論みを止めると、畳み掛けるように「北さん、すんません! サムとっ捕まえて、どっか会場近くで待っとってください!」とロッカールームへと退場する際に言い投げると、先輩に呼ばれたのか慌てて退場していったのだった。
北は「おう、任されたわ」と快諾して手を振ったが、治はというと苦味を潰したような顔をして侑を見送るだけだったものだから「ああ、侑が言ってたのはこれか」と納得しながら侑からの頼まれたとおり、会場から近いファミレスにでも入って侑を待っとくかと治を誘う。けれど治は北の誘いだから辛うじて即刻の断りはしなかったものの、今も明らかに乗り気ではない様子で会場から最寄り駅までの歩道を歩いている。昼過ぎから開始の試合だったため夕飯にはまだ早いが、コーヒーでも飲んでいれば時間などすぐだろう。けれど、治は。
「あの、北さん。俺、明日バイトが早めで。ツムが来るまではちょっと
……」
と、なかなか歯切れ悪く、侑を待たずにさっさと帰路につきたいと主張してくる。
ただ、これほどわかりやすく侑と直接顔を合わせないように避けたい意図は見え見えで、北がそのままええよと言ってやれるはずもなく。
「なんや。今日の待ち合わせ決めるときにも『北さんの分は持っていくけど、俺は観戦せずに帰ろかな』とか最初は言うてたな。いましれっと侑に会わんと帰ろうとしてんのと、なんか関係あるんか」
「うっ
……。それは
……」
露骨にも、治は言葉に詰まる。
けれど完璧にそれを隠そうとしていない辺りを見るに、一切触れてほしくない話題、というわけでもないらしい。なにせこの後輩は、本気で触れて欲しくないことなら、侑と違って驚くほど上手くすべてを取り繕って隠してしまえる器用なところがある。(これをそのまま侑に言おうものなら、またああでもないこうでもないと意義を唱えるだろうが、これは北だけの意見ではない)
兎にも角にも自分が話を聞いてやれる余地があると知り、北は「少し話せるか?」と提案すれば、治は特段、嫌がる素振りもなく素直に頷いた。
「侑が俺の分のチケット、わざわざ治に持って行かせる言うて連絡寄越したときにな。言うてたで。治はたぶんなんやかんや言って自分からのチケットで試合観にこないから、首根っこ掴んででも連れてきてくれませんかって」
「あいつは
……なにを北さんパシっとんねん。相変わらず失礼なやつでほんまスンマセン」
「ええよ。侑がそんなふうに俺を頼るなんて、余程のことやんか」
「大袈裟なんすわ、あいつは。むかしっから」
「せやな。あいつにとって治のことは、どないしたって大げさになってまうくらいのことなんやろ。昔っから」
侑はいつだって、お前のことにはなり振り構ってられんからな。
そう言い切れば、治はぐっと眉間に皺を寄せたけれど、口元がむずむずとしている様子で、言われたことに不満があるというよりは単純に恥ずかしいのだろう。
最寄り駅の飲食店は、当然ながら同じ試合を観に来ていた観客で溢れかえっていて入れそうになかったため、ひとまず駅前のチェーン店で温かいコーヒーをテイクアウトして、ロータリーから少し外れたベンチに腰掛ける。スタジアムとは反対側の駅口だからか、観客の姿は不思議なほど見当たらずちょうどよかった。場所は選んでやらないとまた二度見を山ほどされることは明白で、しかも侑が活躍した試合のあとの今は、下手すると声までかけられかねない。
北はコーヒーだけを頼んだが、治は小腹が空いたと一緒にスコーンとドーナッツをひとつずつ頼んだ。相変わらずよく食べる。北が大学で受けている講義は体力勝負の実習が多いものの、運動部にもサークルにも入っていないため、身体を動かす量はめっきりと減った。おかげで高校生の頃の胃の容量はとっくになくなってしまっていたが、目の前の後輩が温めてもらったスコーンや砂糖がまぶされたドーナッツを五口もいかず胃の中に入れていくのを眺めていると、こいつらはまだ高校生活から離れてまだ一年も経っていないんだなとしみじみ思う一方、治に関しては一年後も二年後も食べる量はあまり変わらなそうだとも思う。
「余程、自分で用意した特等席に座ってほしかったんやろ。驚いたわ。今日まで侑からのチケット、使わんかったんか」
治は口の中にあったものを飲み込んでから「はい」と肯定する。
小さく息を吐いてから、北はコーヒーを啜った。
温かい飲み物が内臓に沁みるほど、日が少し傾いてきただけで最近はグッと冷え込む。なんでも昨日から強い寒波がやってきていると天気予報が言っていた。北はしっかり予報を見てアウターを選び、今年初めてダウンを下ろしたが、治が身を包む上着は薄手のショートコートで首元もマフラーなどはしておらず、実際に治は寒さに首をすくめたままだ。それでもこのコートをあえて選んできた治。着ている姿に見覚えがなくとも、コートそのものには見覚えがあった。
「ふたりしておんなじタイミングで連絡してきて、片方は『治が自分の用意したチケットでどうしても観戦してくれない。少し前までは自分でチケット取って観戦しに来てくれていたらしいけど、自分にはちっとも連絡を寄越さないし、挨拶もないからどこに座ってるのかわからないし、自分が見つける前には帰ってる。最近は観に来てるかもわからないし、なんやかんや予定があわないとか言って顔を合わせてすらない。ならせめて自分を見てくれる治のことが見たい。だからどうにか治と一緒に観戦してほしい』て、そらまあ必死な文面でな。そんでもう片方はといえば『北さんの分を侑から預かってて、絶対に手渡せ言うんで待ち合わせしたいんですけど、できたら北さんの分だけ渡して帰ってもいいですか』て侑が言ってきたとおり、観戦したくないって言うてきたと」
北は自分のカードをすべて見せてやらないことにはさすがにフェアではないだろうと、自分に送られてきた両者の連絡について種明かしする。すると治は予想通り顔をやや赤らめてから、ひどく居心地が悪そうに背中を丸めた。
「ほんま、すみません
……。あの、俺らは決して北さんを巻き込もうとかパシろうとか利用しようとか、そういうんやなくてですね
……」
「わかっとるわかっとる。なんやようわからんけど、困ってたんやろ。せやけど、なんでこんなんなっとんのかくらい聞かせてもらう権利くらいあるやろ、とは思てんねん」
また変な意地でも張ってんとちゃうんか、と北が隣に視線を投げる。それを受け取った治は「
……北さんってエスパーか何かなんです?」とこぼしたため北は、ははっ、と声に出して笑った。
「残念ながらエスパーちゃうけど、後輩らのことはそれなりに見てきた自負はあるし、お前にそない避けられとんのは、さすがに侑が可哀想やな思うで」
「いや、その。避けとるというか」
「ん?」
「ほんまは、
……逆というか
……」
逆?と、北は首を傾げる。あまり想像していない会話の展開だった。てっきり何かきっかけになるような喧嘩でもして、振り上げた拳を降ろせなくなってるとか、そういうものだと思っていたけれど、逆とは?
北が次の言葉を待っていると、息を白く吐いた治が、どこか遠くに視点を置いてから実に重たそうに口を開いた。
「俺と侑は、物心ついたときには片割れが一緒にいて、
……それが当たり前でした。せやからこんなふうに住む場所も生きる場所もなんもかんも違くなったんは、初めてで。兄弟が大人になったら家を出てそれぞれで暮らしてるのなんて普通やろって話やと思いますし、兄弟離れできてなさすぎやろって笑われてもしゃあないんですけど
……でもやっぱ離れてると物足りんっちゅーか
……俺は、すぐ顔を見たくなったり、話したくなってもうて」
「家族と離れるんやから、別に寂しくなるくらいでおかしいと思わんし、笑わんて。遠くの大学に行って、ホームシックになってるやつなんて沢山おるし」
実際、北の脳裏にはプロ一年目の尾白がしょっちゅう元部活の同学年グループメッセージに連絡を寄越してきて、口を開けば地元が恋しいと言っていた一年前がリフレインする。ちなみに尾白の所属するチームは大阪がホームであるため、兵庫から出て行ったというだけで同じ関西圏にいるというのにだ。
北はそれらを付け加えて伝えてみたが、治はといえば「そうですよね」と曖昧に返事をするだけで、どうもしっくりときていないらしかった。
「そんでも今のアイツに、俺から会いたいとは
……言えんです」
「なんで言えへん」
「だってアイツ、
……頑張っとるやないですか。一番年下で、チームでも色々とポジション争いだのなんだのあるし、その上会社でも慣れない仕事だろうに一生懸命にやっとって。そんな奴に、言えんです。あっちはなりたいもんになってて、まっすぐに前向いて走ってる。苦しくて辛くてもグッと堪えて。そんでも立ちたかった舞台に立てば目ぇきらきらさせてる。
……なのにこっちはまだ、ただの学生でバイトで。自分のやりたいことのスタートにも立ててへんくて。そんな奴が一丁前に、さびしいなんて」
あんなに頑張ってるやつに、あいつに比べたらまだなんもできとらん俺が、寂しいから会いたいんやけどなんて。
そんなん、口が裂けても言われへん。
紙製のマグカップを持つ治の手に力が入って、コップがへこんで折れ跡ができる。けれどそのまま治は一口、中身を口に含んでごくりと飲み込んだ。まるで、続けてしまいそうな本音をのどの奥に押しやるように。
北の隣で、はぁ、と大きく吐かれた息は、さっきよりも真っ白に染まって、すぐに掻き消える。この時期は夕方から夜の空になるまでは一瞬だ。辺りは暗くなり出していて、駅前は街灯や店の看板に明かりが灯り始める。
「せめて自分でチケット取りたくて、アイツの世話にはならず観に行ってたりしてました。アイツに気づかれないようにこっそり見れればとか思っとったんですけど。
……でも遠くから観てる方が、なんやキツかったです。コートにいるアイツの視界に入らんのは当たり前で、入らん道を選んだ自分はまだ始まったばっかで焦ってもしゃあないって。頭ではわかってんですけど。せやから最近は中継でばっか観てました」
「中継は見んねやな」
「まあ、
……その、あいつの頑張りはちゃんと見ときたいですし。ちっとも姿が見れんのも、それはそれで元気にしとんのかとか、顔色悪いかなとかは気になるっちゅーか
……」
何も観ないことはできず、せめて画面越しにと言いながら毎試合律儀に観ているんだろう治が、ゴニョゴニョと露骨に口ごもるので、北は「そんで。久しぶりに生で試合観て、アイツの真剣なツラを直に正面から向けられて、どないやったん」と水を向けてやる。すると、治が北の表情をチラリと目線で確認した。
答えはわかりきっている問いかけだ。視線が合い、苦笑を浮かべれば、治は少し目を見開いてからふっと目元を緩めた。
北は後輩をよくよく見てきた。だからわかる。
昔から、治がこうして目元をやわこく緩めて素の表情になるのは、決まって侑のことを話すときだった。
「子供の頃にふたりで憧れてた場所のど真ん中で、ツムが楽しそうだったり悔しそうだったり、とにかく全力ではしゃいでんの見てたら、やっぱこいつやりよるなぁって、昂りました。ぜったいに負けたくないって思いました。俺も、もっと頑張らなって」
「頑張ってるやつ見てると、こっちも触発されるよな」
「はい。そんで同じくらい、
……ツムと俺は、もう違う世界におるんやなと思いました。それがなんや寂しいって、ちょびっとだけ思ってもうた」
あんなに激しくて苦しい部活の練習でも、音を上げず、顔色もさほど変えずにこなしていた後輩。その後輩のやわこく解けかけた視線が、実に痛々しく歪んだものだから、北は驚く。
こんな顔をするのもさせるのも、この世でひとりであることは薄っすらと察していた。が、いざそれを目の当たりにするのは初めてのことだった。
「電話はちょこちょこしとるんですけど、そんでも
……ちゃんと会って、話がしたくなりました。あの喧しい声を、直接聞きたいって、思いました。疲れてたって、多少無茶したって顔が見たいって、思いました。なんなら、いまも喉から飛び出そうになってます」
「でも治は、それが嫌なんか」
「
……どの口が会いたいとか言うねんって、思ってしまうんですよね。そんで、思ってまう自分が、嫌になる。嫌な自分で会うのはなんか避けたくて会う予定を立てるのをなんとなくはぐらかしてたら、ますます顔合わせ辛くなってもうて」
言いながら北から視線を外し、前方の遠くにある駅前の交差点へと視線を放るその治がいま身に纏っているコートは、北の記憶が正しければ、以前は侑が着ていたものだ。
治が侑から取り上げたり、借りたままということは考えにくい。ということは、おそらくこれは侑が、自分のものだからこそあえて治に寄越したのだろう。
(アイツは昔っから、譲りたくないもんにはビタイチ妥協せんかったけど。でも、ここまできっちり名前を書くんやなぁ)
侑は存外わかりやすい。
またわかられやすいことを誰より本人が自認していて、それを隠すこともなければ、主張をあえて躊躇わないところがある。
そして、その矛先が自分に向けられていることを治自身がきちんとわかっているのか、いないのか、そこまでは北でも推し量れない。だが少なくともいま隣に座る治は、もっと厚手の上着だってあるだろうに、他でもない侑のコートをしっかりと着込んで来た。どうしたいかなんてことは最初から決まっている出来レースなのだろうが、当事者になってしまうと普段できる判断が、うまくできなくなるものかもしれない。
「ええやんか、会いたいって言うたって。それともなんや、社会出てへん奴とか夢叶えてへん奴は、会いたいって一言も言うたらあかんのか」
それならと投げた北の言葉に、治はぼんやりと遠くの信号機に置いていた視線を、ハッとしたように隣に戻した。あと残り僅かになった紙のタンブラーを握ったまま、北は僅かに頬を緩める。
「俺も学生やけど。侑に会いたいって言うのはあかんの?」
「はっ!?
……え!? いや、ぜんぜんそんなことないです! ないですけど
……え!? 北さん、侑に会いたいんです
……?」
「そうやでって言ったら、おまえはどうすんの」
「いや
…………、べつに。どうもせんですけど。それに、北さんはええんですよ。べつに言うたって」
「なんやねんそれ」
ええんですよ、なんて顔をまったくしていないくせに、よく言う。
俺が、侑に会いたいと言う。
ただそれを想像しただけで、驚くほど露骨に嫌な顔をして、それを隠しきれなかったくせに。
と、そこまで言おうか迷って、結局は呑み込んだ。なんでもかんでも答えを与えてやるのは人のためにならないと、祖母も昔から言っていた。
「頑張ってるやつの足引っ張るみたいで、嫌なんです。忙しいのに、無理に時間作ってほしいなんて。でも顔見たら、
……あんなカッコええとこ、間近で見せられたら。カッコよかったって、言いたくなる。手放しで、褒めてやりたくなる。
……そんで、もっと顔見てたいって思ってまう。離したく、なくなる。だから──」
「だからおまえ俺と最近ろくに会おうとせえへんし、電話もそっけなく切っとったんかッ!! そんんんんんんなくッッッだらない理由で!!」
ふたりが座るベンチの真後ろから、聞き慣れた、でも間違いなくこんな駅前のロータリーで出す声量ではない叫び声のようなものが響く。
北はもちろんわかっていたため、あらかじめ両手で耳を塞いで難なく鼓膜を守り、塞げなかった治はといえば案の定、目をぐるぐるさせて耳を両手で塞いでいるが、驚きすぎて掌で耳の穴を覆えていなかった。
そして、北と治がふたりでぐるりと内向きに振り向けば、温かそうなボアコートとマフラーで身を包んだハイブリーチの金髪を揺らす男が、リュックを背負ってこめかみにぴきぴきと血管を浮かべ佇んでいた。
北としては、治が吐露した本音もわからなくもなかったが、同時に侑が怒り心頭と立ち尽くす様には、まあ、それはそうなるやろ、とも思う。声量に関しては嗜める必要はあるものの。
「な、
……んやねん
…っ! こんな駅前でそんなデカい声だすなや! テメェのホームスタジアムの最寄り駅やぞ!」
「そんなん構うか、こんアホ!! ボケナス!! ほんま! お前ほんっっっまアホ!!」
「侑、言いたいことあんなら、もうちょっとちゃんとした物言いせえ。それじゃ小学生の捨て台詞や」
「はいッ! 北さん、すんませんッッ!!」
「いやそこ謝る相手がちゃうやろがいっ
……!! 大体お前どっから聞いて
……盗み聞きなんぞしよって最悪や、この人でなし喧しクソツム! ハゲろ!!」
「せやからハゲだけは言うな言うたやろ!! 記憶力3か!!」
「なんや3って! 上はなんぼやねん!」
「100!!」
「お前がIQ3じゃボケっ! 真冬なのに藪蚊に五箇所くらい喰われてまえ!!」
「報復が地味なのにイヤすぎる!!」
突如として目の前で始まったやりとりに、北はまるで二年前に戻ったかのような感覚に陥る。
あまりに不毛で、残念で。
そしてこんなにも互いへの信頼しかない罵りあいは、もしかするとこの先、一生聞けないものなのかもしれない。いや別に特に罵りあいが聞きたいわけではないけれど。
「いや、ちゅうか、そんなんどうでもいいねんボケサムっ!!」
「どうでもいいってなんやねんッ、このカスツム!!」
「カスはどっちやねんクソサム!! なんで、
……なんで最近、こんなにサムと会われへんのか。俺は、よおわからんくて! 電話しても眠いってすぐ切るし! 次いつ会えんねんて聞いても、バイトのシフト出たらとかなんや言うてうやむやにしてくるし! 俺はほんまに
……会えないんがしんどくて、しんどくてしゃあなかったんやぞ
……!」
胃のあたりから絞り出すような侑のその切実な声は、どうやらきちんと治の耳や心に届いたらしい。
それまでは本音を聞かれていたことが恥ずかしくて。声をかけずにあえて盗み聞きしてたことに、至極腹が立っていて。そうした憤怒の感情でいっぱいになっていた胸中は、侑の切実な主張を聞いた途端、引き潮のごとくボルテージを下げたようで、治の顔色がわかりやすく変わる。
どこか心がここにないように見えていた治の金灰色の瞳が、侑を見上げて。するとベンチのすぐ側に立っている街灯の淡い琥珀が、はじめて差し込んできらっと照り返したように、北には見えた。
「そんでも
……、サムは平日学校もあって授業も実習もあんのに、隙間時間めっちゃシフト入れてくったくたになるまでバイトして、疲れてるってわかってるから! そしたら俺の勝手で無理に会おうやとか言えへんやんか
……! お前、俺がバイト先に客としてこっそり行ってんのだって、知らんやろ!」
「は!? いつ来とったん、そんなんぜんぜん知らん
……」
「サム、厨房おること多かったし。客席ぜんぶなんて見れてへんやろ思うて、こっそり行った」
「そんなん
……声かけてくれたら」
「ほれみ!! お前かてそう思うやろがいっ!! ならこれからはこっそり人の試合観にきて、なんも言わず帰んな。
……他から今日サム来てたって聞かされるの、しんどい。俺も会われへんのになんでやって。俺が、
……誰よりも会いたいって思ってんのにって」
「そんなん
……俺かて一緒や! 自分ばっかみたいな言い方すんなッ!」
睨み返す治が、勢いよくついにベンチから立ち上がった。立ち上がれば北風がちょうど強めに吹いて頬を刺したが、そんなものは諸共せず。
「俺だって、会いたかった
……! お前の試合だって観たいに決まってる! 直接会って話したいに決まってる!!」
「ほんなら会いたいって言え! 試合も観に来いや!! お前が『会いたい』って、ただ一言、言うてさえくれたら、俺はどんなことしたって飛んで行けるやろッ!!」
「
……!」
ぎゅっと金灰色の瞳が潤んで、それを見つけた金茶色の瞳は寒さなど構わず、その熱視線を言葉と共にまっすぐにぶつける。
そのくせ侑は自分が首に巻いていたマフラーを解くと、薄着の治の首回りに勝手にぐるぐると巻き出す。その手つきは宝物を包むように丁寧だった。
「
……それ、俺がやったコートやん」
「
……それがどうした」
「いや、
……でも寒いやろ、これじゃ」
「そんなでもないし」
「そっか。まあ、似合っとるしな。ほんならこのマフラーやるわ」
「うん。
……俺のやつ、今度やるわ」
「あのチェックのやつな。
……髪、いつのまに伸ばしとんの」
「切り損ねてるだけや」
「会わんうちになんや見たことないサムになっとって、
……ちょびっとだけ慌てた」
「
……会われへんで、すまん」
「今回だけは許したる。次あったらお前の学校かバイト先に乗り込むし、いつも治がお世話になってますぅー双子の宮侑ですぅーって言って回るし、お前が仲良くしとる奴の連絡先もらってお前の様子教えてもらうからな」
「ふざけんなノンデリ。絶対やめろ」
「ノンデリもクソもないわ。大体、そんなん二度とやらなけりゃええだけの話やろがい
……!!」
「
……なぁ。イチャついとるとこすまんけど、お前ら双子は、俺がまだおるのまさか忘れて話てたりせえへんよな?」
北はわざと大きく咳払いをする。なにせ180センチ超えの顔がソックリな大男ふたりが立ちっぱなしで言い合いをしていると、人が少ない駅の反対側でもさすがに周りの視線がチラホラと刺さりだすからだ。
双子は「「はいっ、忘れてません!! すんませんッッッ!!」」と即座に声をハモらせ、揃って直立不動の姿勢を取ると、あの頃と同じようにいかにも叱られ待ちという顔をしたが、自分の存在を忘れて話されることに北が特に思うことはなく。むしろ当初から自分を抜きにしてこうして本音をぶつけ合ってほしかった(どうせそのほうが100倍早いに決まっていた)ところではあるので、大目に見てやるべきだろう。
まあ、ええわ、とベンチを立ち上がる北に「いや、あの、イチャついたりとかはまったくしてなくてですね
……!」とこの期に及んで顔を真っ赤にしてアタフタとする治に、北は「会いたいって思うことに忙しいも忙しくないも、頑張ってるも頑張っとらんも、男も女も兄弟も家族も関係あらへんて、俺は思う」と言って、ダウンのチャックを一番上まで上げきって首元まで詰める。
立つとやはり断続的に吹く北風が、切るみたいに露出している肌という肌を一気に冷やした。それでも治は先ほどよりも血色は随分よく見えるし、それはぐるぐると暖かそうなマフラーを巻かれたおかげだけではないのだろう。
「変だとか、おかしいとか。そんなんは都合のいい言い訳や。大事なんは、治、おまえがどうしたいかやろ。ちゃんとしいや」
ほんなら、俺はここらで解散するわ。あとはふたりでどうにかしい。
そう言い残すと、治は凄い勢いで身体を折り、被っていたキャップを取った侑もワンテンポ遅れて深々と礼をする。
ふたりが頭を上げるのを見届けてから、北は駅の改札口へと歩き出した。手元にある残り少ないコーヒーはすっかりホットからアイスに変わっていたが、それを一口含んでもコーヒーはコーヒーでしかなく、なにも変わらない。
(いつまでも手ぇかかるんは変わらんし。そんで、頼られるのが嬉しいんも、変わらんな)
心中でぼやきながら、北はスマートフォンで時計を確認し、帰りの電車を調べていると元部活の同学年グループで友人たちのメッセージが飛び交い始めた。
なんでも尾白がまた来週末に実家に帰るとかで、息するように皆で飯の約束が始まる。そのやりとりは、あと少しで卒業から二年経とうというのに、やはり何も変わらない。
友人らの顔が、見たいと思う。無性に。
そして、そうした誰かに会いたいという気持ちは、友人だろうと家族だろうと、──それでは括れない誰かであろうと。
決して優劣などなく、等しく尊重されるものであってほしい。
後日。治から来たメッセージには、あの日は本当に迷惑をかけましたという詫びと、あのあと、きちんとふたりで話しあえましたと報告が書いてあった。それから。
『あのとき、北さんが侑に会いたいっていうてたのは、後輩としてってことですよね
……?』
あんなものはたとえばの話で、それ以上でも以下でもないのに。
そして、そんなことは治とてわかっているだろうに。
でも尋ねられずにいられないほど、気にしてモヤモヤとしてしまっているんだろう後輩を脳裏に浮かべた北は、同じ遺伝子やなぁ、とやはり笑って返信を打つ。
『侑にばかり書かせておかんで、たまには治もちゃんと、自分のモンなら名前でもなんでも書いてやらなあかんで?』