ひさね
2025-11-18 00:00:00
3682文字
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アイドルと賞味期限

レノ視点。レノ誕生日短編。
共犯者と避けられない話。

 顎を伝ってくる汗をタオルで拭う。今日のダンスのレッスンは特に複雑なパートだったから、いつにも増してトレーナーの熱が入っていた。レッスン室の隅にぺったりと座り込んで、足を伸ばして、壁に背中を預ける。
 鏡張りの壁が一面伸びていて、蛍光灯の明かりをぴかぴか跳ね返す。事務所にくっついている訳ではないけれど、敷地内にあるレッスン場の部屋は、いくら動き回るといっても、ボクとトレーナーの一対一で、あるいはボク一人で使うには広すぎる。仮にニ対一の合計三人だったとしても、広い事には変わりないけど。他に使う人がいないから、今はもっぱらボクが自由に使っていると言って間違いなかった。
 ここを維持できるお金があるんだな、と余計なお世話だと所長に小突かれそうな事がさらりと過る。
 それから、ふう、と一息吐いて、腕を伸ばす。結構酷使したから、ぐいーっと上に引っ張る度に気持ちが良い。ああ、そういえばストレッチがまだだったから、後でやっておかないとな。帰るまでのぼんやりとした予定を組み立てながら、下ろした腕を水筒の脇に置いていたノートに伸ばす。
 ぺらぺらとページをめくって、今日メモしたことを振り返る。曲のリズムが中々不可解で、不規則で、ステップのリズムがいまいち分かっていない。つまり、曲のリズムが分かっていない事にもなるんだけど。
 根本的で致命的な所に目を向けてしまって、あーと声を漏らす。
 緩急がはっきりしすぎているならまだ良いけれど、ただただ不思議で少し曖昧な曲調の中では滑らかに拍子が変わっていく。ノートの表紙に添えた指でリズムを取って、歌を口ずさむ。歌詞は曖昧に、でもハミングよりは明確に。
 くたびれた全身の重さに、ふわふわした歌は釣り合わない。誘われるように瞼を下ろす。少し駆け足のリズムが沈んで行って、緩やかな拍子に崩れていく。
 サビというには心許なく頽れたテンポに曖昧な声を乗せようとしたとき。
 かちゃり、と音がした。それから少し冷たい風が吹き抜ける。
 開いたドアに顔を向ければ、長い赤毛を蓄えて右肩に全部掛けた女性がボクをちらりと見下ろす。

「あ、こんばんは。所長」
「はい、今晩は」

 にこり、と笑いかけると、所長は後ろ手にドアを閉めながら、つかつかとボクの隣にやってくる。取り繕わずに、ぐたっと伸ばしたままの足をちらりと目をやって、ふう、と小さく息を吐く。
 
「練習に精が出ているようで殊勝な事。今日も随分、根を詰めていたみたいだけれど」
「まあ、はい。難しい所なので。……でも、今日はそろそろ帰ります」
「はい、結構。未成年が帰れる時間に帰って頂戴。もう二十時だし」
……進学を目指して塾とか行っていたらあんまり変わらないというか、皆、もうちょっと帰り遅いと思うんですけど」
「職業倫理というものだわ。諦めなさい」

 腕時計から目を離して、所長はあっけらかんと答えた。彼女の言葉はもっともで、言い返す言葉もない。はーいと間延びした返事をしてから、それからあれ、と思って所長の顔を見上げる。

「それにしても珍しいですね。ここに来るの。打合せで忙しいんじゃないんでしたっけ」
「お陰様で。先方があなたの事、かなり気に入っているようだから」
「へえ。ありがたいですね」
「相変わらずの反応。冷静というか、何と言えば良いのか」
「いや、これ以外に言う事なくないですか?」

 本当にこれ以外の言葉も感情も無いものだから、困ってしまう。
 じっと所長の顔を眺めていると、所長は腕を組んで、右手でこめかみを押さえた。彼女はきゅっと眉間に皺を寄せて、小さく頭を振る。

「もうちょっと何かあっても。子供らしくない、というか。欲とか野心……と言ったら、こんな事は貴方にとって小さすぎるか。ああそう、期待とかはないの?」
「うーん……あるにはあるけど、こっちの期待だけで信頼とか貰える訳ではないしって感じですかね。じゃあ出来るだけの結果を出さないとなーって思います。売り方が売り方だから、尚更」
「相変わらず素敵な正論だし、取引先相手に正しい態度ではあるわね」

 素敵、なんてわざわざ強調して繰り返す所長の顔は険しいままで、なんだか面談みたいな雰囲気になってきた。
 誰も踊っていないレッスン室はとても静かで、テレビの音とか同僚の話し声とか、そんな抵抗もない中で真面目な雰囲気ができてしまえば、ただ広がっていくしかない。
 空気につられて、先のことを考える。
 アイドルとは言っても、正統派ではない。自覚はある。
 肩につくかつかないかまで伸ばした髪。今は着ていないけれど、少年アイドルが着るにはフリルやレースが多い衣装。とはいえ、最近はそういう装飾は大分減らしているけれど、それでも可愛い系統の服に変わりはない。
 一見、性別は曖昧。皆、口を揃えてそう言う。センセーショナルだったのか、悪目立ちだったかは知らないけれど、狙い通り強烈な印象を与えたのだろう。
 その印象の素が何なのかは分かっている。
 ノートをぱさりと置いて、そして手の平から指先へと視線を滑らせた。
 関節に目が留まる。アイドルの衣装を身に付ければ隠れる部分は最近、出っ張りが目立ってきた。骨ばった、と言うのだろう。これを見越して、昔から手袋も衣装のセットに含めるように所長と話し合って決めた。結果、待ちかねた成長期は、はっきりと、しっかりと来る方だったから、始めから仕込んでおいて正解だった訳だ。今の所は。

「この方針は、潮時かな、と思っています」

 手を蛍光灯で透かすように伸ばして、見つめる。指の隙間から差す光は眩しくて、手の甲に影が濃く差して、シルエットが現れる。
 十四歳。男子はそろそろピークがやってくる。ボクも例に漏れず。
 毎夜、とは言わないけれど、それなりに頻繁に痛む足には最近慣れてきた。去年より身長も伸びた。声がひっくり返ったり、かすれた事はまだないけれど、でもいずれ声変わりもやってくるだろう。
 ファンに押し出した中性性も、曖昧さも失われる。それも、そう遠くない内に。始めから決まっていた事だ。
 強烈なコンセプトは維持できない。それに依存したアイドルの存在感はどう足掻いたって、どんどん曖昧に霧散する未来も理解している。
 蛍光灯に向けた手を下ろして、所長の顔を再び見やる。
 所長はこめかみから離した手を腕に戻して、でも眉間の皺は微かに深めて、はっと小さく息を漏らした。笑ったのか、ため息だったのかは曖昧だ。

「もう次の段階を考えているの。今の仕事も忙しいでしょうに」
「一番の当事者はボクだから。あとどのぐらいで変わるのか、賞味期限が一番分かるのもきっとボクだと思うし」
「中々……生々しい喩えを選ぶのが得意ね。ファンに夢を見せているのに、夢を見せる本人が一番シビアな子供というのも含めて、皮肉だわ。……こちらが言う事ではないでしょうけど」
「一過性を売っている宿命ですね。考えるしかないじゃないですか。お互い、ずっと」
…………ファンの事は好き?」
「勿論。ファンの皆は大事ですよ。でもボクが大事にしているからって、皆がボクに何を求めるかまでは変えられないってだけで。曲や振付、仕事を提供してくれる取引先も同じ、だと思います」

 真面目な話をしていると喉が渇いてきて、息継ぎで吸った空気が喉に刺さる。
 水筒に手を伸ばす。今度は額を押さえる所長を横目に見えて、けらけら笑ってしまう。

「それに、所長も共犯でしょ」

 水筒のボタンを押して、かぱりと蓋を開ける。そして冷えた麦茶を一口流し込む。

「返す言葉もないわ。大人の事情に、始めから首を突っ込んできたものね。主犯は大人がやらせてもらうけれど」

 所長は、今度は明確にため息を吐いて、額から手を外す。ボクの顔を見つめる視線はまっすぐだ。黒い瞳を柔く細めて揺るがない。
 全部織り込み済みだ。ボクも、所長も。
 それでも、アイドルを辞めない方針で進んでいる。続ける理由がボクの極めて個人的な理由だと黙認していても、行く先が泥船だったとしても、所長には関係が無いらしい。

「ありがとうございます」
「従業員の意向はなるべく叶えるのが役目でしょう」
 
 所長は肩を竦めて、それからぱちぱちと手を叩いた。話の終わりの合図だった。

「さ、さっさと帰りましょう。鍵、閉めて帰るから」
「所長が閉めるんですね。珍しい」
「ついでで連れて帰らないとずっと居つくでしょう。明日も学校があるのだし、エレンにもよろしく言われているし」
「相変わらず仲良いですね。エレンと」

 ぱちりと水筒の蓋を閉めながら、苦笑する。きょうだいの名前を出されては仕方がない。水筒を脇に置いて、足を広げて上体をぐったり倒す。

「じゃあストレッチだけさせて下さい」
「はい、どうぞ」

 身体を捻ると、所長はくす、と漸く笑って、ポケットから鍵束を取り出す。鍵同士がぶつかって、ちゃりんと音が響いた。