結局、世界がどう転んでも、どんなふうに産まれ落ちたとしても、どうやって生きたとしても、トラファルガー・ローが渇望するのはたったひとりだけだった。それはもうどうしようもないほど、魂にまでこびり付いているものだった。
古い過去の記憶を持ったままこの世に生を受けたローは、その記憶に愕然としながらもなんとか今まで生きてきた。周りを見ても顔見知りはおらず、どこを探しても繋がりのある者は見つからなかった。記憶にある名前を調べてみたところで手がかりもなく、いつまでも無力感に打たれていた。そもそも日の当たる世界に生きていなければ探し出すことはますます難しい。そのため、ローは自身の医者という職業を生かしてカタギではない者を私欲のために助けたりもしていた。そんな人間を助けることで善人であるという印象がついたのは、ローにとっては良い方向に働いている。
善人であるというイメージは、人の警戒心を解きやすいし気を許しやすいのだ。そこから信頼も得られ、人脈も広げられる。人を探すことにおいて人脈というのはかなり重要なものである。だからこそ、ローは自分の利になる相手は助け、そこから情報を得ようとしたのだが芳しいものはなく、人探しは上手くいっていなかった。
それでも諦めきれずにいたある日、ローは不意に僥倖に見舞われることになった。いつもよりも遅れて帰宅したアパートの一室の前に、ひとりの少年が蹲っているのが見えた。手入れのされていないボサボサの髪は、けれども月明かりの下でやけに眩く燦めいた。ローの隣の部屋の前にぽつんと座り込む少年は残暑が厳しくなってきている近年の秋にしても、あまりに寒々しいものだった。暑いといえど夜になれば半袖では肌寒くもなるというのに、少年は生地の薄いTシャツと短パンといった服装だった。加えて額には何かしらの怪我の保護としてガーゼが貼られていて、ついローは眉を寄せた。それでも関わり合うことではないだろう、と決め込んだローがドアの鍵を開けたとき、俯いていた少年の顔が上がる。その瞬間、ローは目を疑った。色素の薄い青色が、じっとこちらを見つめている。やわらかく垂れた眸は、静寂を掬い取ったように凪いでいた。
「ドフラ、ミンゴ……」
忘れもしない、延々と探し続けていた男の姿を目と鼻の先で見つけ、ローはその場で立ち尽くした。鍵穴に刺しそうとした鍵を動かすこともできず、ただ名前を口にするしかできない。そんなローに、子供――ローの記憶が正しければ、ドフラミンゴである――が笑んでみせた。子供にしてはやけに色のある、毒を孕んだ甘やかな笑みが、ローの脳を灼いた。ローが長らく求め続けていたその顔は、確かに、ドンキホーテ・ドフラミンゴのものだった。
「ドフィ!部屋で待っててって言ったのに!」
きっとドフラミンゴにも記憶があると踏んだローが声をかけようとしたところで、甲高い声がそれを掻き消した。バタバタとドフラミンゴに駆け寄る女は、おそらくドフラミンゴの母親なのだろう。ドフラミンゴの身体に手を添えてローに頭を下げた女が隣の部屋のドアを開けて入っていく。追い縋る間もなく閉じられたドアをローは呆然と見つめるだけになってしまった。
今のは一体なんだったのか、と動揺と混乱で脳内がめちゃくちゃになっている。隣に越してきた一家の中に、探し続けていたたった一人がいたなど、この瞬間まで知らなかったことが信じられない。あれだけ、方々探していた男が目と鼻の先にいて、なおかつ自分よりも大分年下なのだということをローは受け止め切れなかった。
再び開くはずもないドアを凝視したまま固まり、どれだけ時間が経ったのかはわからない。それは数分であったかもしれなかったし、数十分であったかもしれなかった。気温が下がっていく秋の夜はローからも体温を少しずつ奪っていて、その身体に震えを走らせた。けれども寒いとも感じておらず、ローは震えた手から鍵が落ちて廊下に叩きつけられた音ではっとようやく我に返った。
のろのろと身体を曲げて腕を伸ばし、鍵を拾い上げたところでローは自分の身体が震えていることに気が付いた。それがわかると秋の終わりが近付く空気の冷たさが舞い戻り、寒いという感覚も取り戻す。わずかに震える手では鍵を差し込むのさえ難しく、カタカタと鍵の先が鍵穴に当たり続けてやっと捩じ込むことに成功した。
カチリ、と鍵を開けて緩慢な動きで玄関に入り、すぐ近くにあるチェストの上に鍵を放り投げる。付けられているキーホルダーが不平を言うようにギッと音を立てたがそんなものはローの意識を揺らしたりはしなかった。
電気を点ける気も起きず、雑に靴を脱いで慣れた部屋を手探りで進んで洗面所で手を洗う。その途中でカランから出た水が服の袖を濡らしたものの、それも気にもしなかった。洗面所から出てリビングへ行く最中に何かしらで躓きつつも無視して、ローはリビングで上着を脱ぎ捨てる。暗がりに慣れてきた目が、ローテーブルの上に置かれた煙草の箱を見つけ、それを掴んでぐしゃりと握り潰してゴミ箱へと投げ入れた。どこか地に足がついていない錯覚を覚えながらローテーブルの傍まで近付き、ずるずるとラグの上に座り込む。まだ震えの残る手のひらで顔を覆い、ローは頭を垂れた。
隣に一家が越してきたのは、2ヶ月ほど前だった。その時は女の挨拶だけで、他の家族は一切見なかった。特に気にすることでもなかったし、興味もなかったので当然ローは隣の家族の様子を知ろうとも思わなかった。ドンキホーテの姓でもなかったはずなので、ドフラミンゴと結び付く要素がなかった。そもそも女とドフラミンゴはあまりに似ていやしない。あのやわらかく垂れた青い眸は、ドフラミンゴだけのものだった。ローのことを、きっと誰より知っている、青い眸が瞼に焼き付いて離れない。毒を孕んだ甘い笑みが、いつまでも脳裏に過っている。
ドフラミンゴの様子を見る限り、良いとは言えない環境であることは疑いようがなかった。貧相な細くて薄い身体と、それを包む季節感のない服と、丁寧とは言えない怪我の処置を思い返すと、ローの目の前は暗くなる。あの男の過去の所業が如何なるものであっても、誰とも知れない人間にドフラミンゴが傷付けられていることがローには耐え難かった。あの小さい子供は、これまでどうやって生きてきたのかと考えるだけでローは腹から湧く憤りを抑えられない。もしもドフラミンゴがこの世に愛されていないというなら、自分があの男を攫っても許されるはずだ。そう、ローは確かに思った。たとえそのことで後ろ指を差されることになっても、なんと罵られようと構わないとも思う。ドンキホーテ・ドフラミンゴという男がこの手に入るというなら、手段は選ばないし付け入ることも厭わない。この先で地獄が待っていようと、ローにはなんの関係もなかった。
ゆっくりと長く息を吐き出し、ローはそろりと顔を上げる。閉じられないカーテンの向こうから、月の明かりがうっすらと射し込んでいた。顔を覆っていた手を離し、開いた手のひらに視線を落とす。この手は、あの男を捕まえるためにある気がした。
「……あァ、逃さねェよ」
ぽつり、と呟いてローはうっそりと笑みを浮かべた。この世に生を受けて探し続け、ようやく巡り合うことができたのだから、絶対に逃がすつもりはなかった。手が届く場所に、求め続けていたドフラミンゴがいるなら、ローはどんな手を使ってでも捕まえるだけだ。その行為にどんな非難が降ろうと知ったことではない。ローにとって重要なのは、ドフラミンゴがこの手に収まることだけだった。
「逃がしてやるか」
射し込む月明かりに目を向けて、ローは変わらず笑みを浮かべて手を握り込む。しずかにこぼれ落ちた決意を聞いたものはおらず、月だけがローの密事をただ見下ろしていた。それが冬になる前のある日のことだった。
次の日から、ドフラミンゴの情報を集めるという日課がローには増えていた。隣にドフラミンゴがいて、その環境が良くないことを思うと、ドアを突き破るか壁を打ち壊してドフラミンゴを掻っ攫いたくなるのだが、さすがにそれは悪手すぎる。そんなことをすれば、まともに暮らしてはいけないことが明白だった。けれどもこの壁を一枚隔てた向こう側で、ドフラミンゴが蔑ろにされているかと考えるとローは憤りで腸が煮える。あの子供がこれだけ執着している自分ではない誰かのものになっているということが、とにかく許せなかった。ドフラミンゴの気配を感じられるわけでもないし、声が聞こえるわけでも届くわけでもないのだが、ローは隣の部屋に続く壁に額を寄せて、その名前を呟かずにはいられなかった。
「ドフラミンゴ」
あの子供にも確かに記憶がある、と勝手に決めつけているものの、真偽は定かではない。あの美しい空色の眸とかち合った時、ドフラミンゴの記憶を確信したのだが、それがローの願望でない、とは言えなかった。それでもローはドフラミンゴに記憶があるという前提で物事を運ぶことにする。ひとまず隣の家族を知る必要があると判断して、ローは早朝の時間を見計らってドフラミンゴの部屋とは反対の隣にいるふるい住人に話を聞いてみることにした。
「おはようございます、トラファルガーさん」
「あァ、おはよう」
「なんか久しぶりに会った気がしますねえ」
隣のふるい住人は身体が縦に長い優男、という印象の男で、この日もアパートの敷地内にある花壇の手入れをしていた。朝早くからその手入れを習慣にしているので、優男が捕まえやすいのは幸運だった。ローよりは歳上の彼は長くこのアパートに住んでいるようで、人付き合いも中々上手い。そのため、情報通でもあるといえ、話を聞くには十分な相手だった。
「そうかもな。そういや、おれの隣に越してきた家族ってどんなだ?」
「なんでまた」
「この間、挨拶以降久しぶりに見かけたからな。ちょっと気になった」
「そうなんですか?私は結構お見かけしますけどね……まァ、時間帯にもよりますか」
優男の黒くて丸い目がいっそう丸くなるのに、ローは澱みなく事実だけを伝えてみせた。それに優男がなるほど、と納得したらしく頷き、考えるように目を細めた。ローが気にもしていなかったから会うこともなかったかも知れないのだが、それは言わなくてもいいことなので胸に仕舞っておく。
「挨拶の時は女が一人だったんだが……」
「住んでるのは恋人か夫婦のお二人ですよ」
「……子供は、いなかったのか」
「お子さんはたぶん、いらっしゃらなかったような……」
「ふぅん」
やわらかい口調で語る優男の話を聞きつつ、ローはそろりと踏み込んでみた。ドフラミンゴの存在が知られているなら、その話題は確実に出るはずなのだ。けれども優男が返したのはドフラミンゴの存在を否定するもので、ローは舌を打ちそうになるのをどうにか堪えた。
「でも、子供はいないほうが良い気もします」
「どうしてそう思う?」
「あの、なんとなくなんですけど、男性がすこし、危ないように思えて」
「へェ……」
優男が言い澱みつつ伝えてくるものに、ローは腹の内側がいやなふうに撫でられている感覚がして眉を顰めた。再びもれそうになった舌打ちも既のところで抑え込み、ドフラミンゴの部屋へと視線を投げた。あの部屋には今、ドフラミンゴ以外に誰がいるのだろう。
「私の勝手な勘なのでそんなことはないかもしれないんですけどね」
「そうか……すこし気にしてみる」
「ありがとうございます」
苦笑して肩をすくめてみせる優男にしずかに応じてみせれば、彼がほっと息を吐いた。人の勘、というのは実のところ侮れないものである。事実、ドフラミンゴという子供はいないものとされていた。それが女の意思なのか、男の意思なのかは判然としないものの、秘匿にされていることは確かだった。そのことに改めて憤りが湧いて、視界が暗くなる。やり場の無い苛立ちを持て余し、ローは気持ちを落ち着かせるために近くを歩こうと決めた。話に区切りがつき、優男が部屋に戻っていくのを見送って、ローはアパートを離れた。
あらかじめ危惧していたドフラミンゴという子供の存在を隠している、ということについてはおよそ間違ってはいなかった。夫婦もしくは恋人だけ、で通しているならドフラミンゴが外に出ることはほぼ無いに等しい。外に出ることがあったとしても、人目につかない時間帯なのだろうし、それは本人の意志とは別物に違いなかった。隣の優男の見る目を信じるなら、男はおそらくドフラミンゴに何かしらの無体を強いている。それがどういったものなのかはこれから調べることではあるが、そもそも男の素性や経歴なども洗う必要があった。日の当たらない場所で生きる者たちにも多少のつながりはあるのだが、ロー自身がどこまで情報を得られるかは判然としない。早いうちに様々な証拠を集めてしまいたいのだが、ここ最近は手術の予定が立て続いていて、時間を作るのも骨が折れそうだった。いっそうのこと、一時的に休暇でも取れないか、と思ったもののそれもまた建設的ではなかった。
「キャプテン!?キャプテンじゃないですか!」
「ちょっ、覚えてなかったらどうすんだ!」
黙々と頭を回転させて歩いていたローの耳に、聞き覚えのある明るい声が飛び込んでくる。そしてその呼び方は今のローには似つかわしくはないもので、けれどもひどく懐かしいものだった。ローはぱっと声の方へ顔を向け、視線の先を確かめる。そこにははたして、かつてのクルーの姿があった。帽子こそ以前と違って動物を模したものではなくなっているものの、どちらもローの航海を支えた頼もしい者たちだった。
「シャチ、ペンギン……」
「ほら覚えてる!」
「ウソだろ……」
ぽつりと二人の名前を口にしてみせれば、ペンギンが喜色満面の笑みを浮かべ、シャチが驚きに目を見張っている。その目元が確かに見えなくとも、シャチの驚きはありありとローに伝わっていた。こんなところで記憶を持つ過去と結び付いた者たちと出会うとは、運命はローにかなり肩入れをして味方をしているらしい。またとない機会は僥倖でしかなく、ローはこの二人を巻き込むことを決めた。
「お前ら、もう一度海賊になる気はないか?」
「キャプテンのためなら」
「喜んで」
再会の感動を分かち合うのも早々に切り上げて時間を惜しんで問いかければ、シャチとペンギンが顔を見合わせたあと、にかりと笑って頷いてみせた。その頼もしくも躊躇いのなさにわずかに苦笑してローは来た道を引き返す。ほとんど一本のような道を歩いていたので、帰りで迷うこともなかった。
「なら作戦会議だな」
「面白くなりそうですね」
「どこに集まるんです?」
「おれの部屋だ」
「キャプテンの部屋!」
「楽しみ!」
くるりと踵を返したローに続いてくる二人に返していけば、実に楽しげな声が上がってローはやや呆れてしまう。特別なものは何もないというのに、学生のようにはしゃぐ二人がおかしい。けれども仲間の部屋というものに興味を引かれる気持ちはわかるので、ローは肩をすくめて先頭を歩いた。
アパートの前まで戻ってくると、辺りには誰もおらずしんとしていた。静かなのは良いことだと思いつつ、ローはドフラミンゴのいる部屋に視線を投げた。相変わらず人の気配がうすいそこは、ドフラミンゴがひとりきりなのかも知れないと思う。閉じられたドアの鍵を強引に抉じ開けてあの子供の手を取りたい、という感情を押し殺してローは自分の部屋へと戻った。
シャチもペンギンもローのあとに続いて部屋に入り、きょろきょろと室内を見回している。興味深く見られたとしても変わったものがあるわけではないので、ローは息を吐いてリビングへとすすみ、ラグの上に腰を下ろした。ローにならった二人はローの前に座り、何をしようとしてるのか、と期待に満ちた眼差しを向けてくる。それに応えられるかどうかはともかく、ローはかつてのクルーに躊躇なく話をすることにした。
「まず、確認だが、記憶はあるな?」
「当たり前でしょ」
「なかったらキャプテンなんて呼んでません」
今更何を、と言う顔をする二人に念のための問いかけだといなして、ローはまた別のことを投げかける。この先、ローと海賊になるからには、普通に仕事をしているとしたら多少危ういかもしれない、と思ってのことだった。
「一応の確認だ。お前ら、今何をしてる?」
「オレたち二人で『ハートのしろくま』っていう何でも屋やってるんですよ」
「はァ?」
「なんか一応就職はしたんですけど、肌に合わないっていうか、下につきたくないっていうかで……」
「だったら二人でなんかやるか!になって……」
「へェ……なら好都合だな」
どこまでも運命はローに都合の良い展開を用意してくれているらしい。思わずこみ上げる笑いをこぼして、ローは喉を鳴らした。歯車がぐるぐると勢いよく回って、世界が開けていく気がする。そしてその先には、ローが何よりも渇望したドフラミンゴという男が待っているのだ。
「キャプテンのあくどい顔、久しぶりだな〜〜」
「で、何するんです?」
わくわくと期待をその目に宿して身を乗り出してくる二人に、ローはますます笑みを深めてみせた。この世に生を受けて生きてきて、ローが望むのはたったひとつだ。魂から焦がれ続けている、たったひとり。
「隣の子供を奪う」
「…………はっ?」
「え、それって誘拐……!?」
「海賊ってそういうことっすか!?さすがに犯罪とは思ってなかったんですけど!?」
「うるせェ、騒ぐな。まず話を聞け。これは誘拐じゃねェ。正当な段取りで、あいつを奪う」
「どういう、こと……?」
ローの言葉を受けたシャチとペンギンがさすがに思ってもみなかったことだったのか目を見開いて声を上げた。それに息を吐いてローは二人を宥めるために淡々と話を続けていく。飛び上がるようにして驚きを見せていた二人が、ローの落ち着きを見てラグの上に座り直した。
「隣にいる子供は、ドンキホーテ・ドフラミンゴだ」
「はァ!?」
「だからキャプテン奪うって……」
「ドフラミンゴは、まだ小学生の子供だ。そして、親に虐待をされてる」
「えっ……」
いちいち声を出すな、と思いつつも二人の反応は想定内なのでローはゆっくりと話をすすめた。自分の口からドフラミンゴの今の状況を語ることは、内臓を内側から撫でられるような不快感を湧かせて、ローは隣の部屋に繋がる壁を睨みつけた。腸が煮える感覚は吐き気も伴っている気がして、とにかく気分が悪くなる。
「……その状況から、助けたいってことですか」
「助けたいわけじゃねェ。あいつが蔑ろにされてるなら、おれが貰うほうが良いに決まってるだけだ」
「ははっ、キャプテンらしい!」
沈みかけていた空気が、ペンギンの声によって明るくなった。ローは自分の行為が善意で慈悲深いとは思っていない。むしろ、これ以上私利私欲に塗れたことはないだろう、とすら思っている。ローの欲は、ドフラミンゴが欲しいから奪う、というものだけだ。それなら、とシャチとペンギンが悪ガキのように楽しげにあくどい笑みを浮かべて顔を見合わせる。二人して大きく頷き、ローへと向き直った。
「まず、何からします?」
「なんでもしますよ、キャプテンのためですから」
「ひとまず身辺調査と前科の探りと今の様子の確認だな」
「いや、多いな!」
「まァ、やりがいはありますね」
どんなことでも、と安請け合いする二人に同じく笑みを浮かべてローは、この先の予定を組み立てる。すらすらと出てくる注文に突っ込みを入れつつも笑って応じる二人が実に頼もしい。そんなシャチとペンギンに、流石にタダで働かせるわけにはいかないな、とローは腰を上げた。身辺調査をするにしても、何にしても、費用というものはかかるものである。そこを惜しむつもりも、ローにはなかった。
「キャプテン?」
「とりあえず、これで初期費用と報酬にしろ」
「いやいや!こんな大金出さないでくれます!?」
「てかこれなんのお金!?やばいやつ!?」
リビングのチェストにある引き出しから、二つの札の束を出してローテーブルに置けば、シャチとペンギンが叫んで目を剥いた。上がる声のうるささに目を眇めてローは心外だと、口を開く。
「これはちゃんとした治療費の報酬だぞ」
「えっでも額おかしくない!?」
「けどまァ、キャプテン腕は良いから……」
「どうやっても金は必要だろ。足りなかったら言えよ。追加で出してやる」
「大丈夫です!!」
ワッ、とローの提案を全力で拒否するペンギンに、ローはそんなものか、とひとまず引き下がることにした。本当に必要ならば後々言ってくるだろうと思ってのことだった。金銭を惜しんでドフラミンゴを逃がすなどあってはならないので、そこに妥協をするつもりはなかった。
「……にしても、キャプテンって執念深いですよね〜〜」
「確かに。今でも、そんなに好きなんですか?」
「当たり前だ」
しみじみと言われてもローにしてみれば当然のことすぎて、端的に返すしか出来なかった。それ以外の言葉など、ローは持っていない。前世のしがらみも憎悪も、もとを正せばドフラミンゴへの恋慕から始まっている。それが成就しなかったせいで、ローの胸にあるあの男への感情はいっそう拗れてしまっていた。
「それでこそキャプテン!」
「まァ、それが伝わるかは謎ですけど」
「うるせェ」
水を差すシャチの言葉には思い当たる節があったものの、気にもしないことにする。それに伝わらないからといって、伝えないというのはおかしな話である。ドフラミンゴにローの感情がすべて理解されるとは、今でもなお思っていやしない。けれども、ローはいつまでもドンキホーテ・ドフラミンゴという男を諦めることはできないのだ。だからこそ、ローに都合よく出来ている今世で逃がすつもりはなかった。絶対に捕まえて、この手に繋ぎ止めてやる、という気持ちを新たにして、ローはシャチとペンギンとこの先の話をすることにした。そうしてこれは、確かにドンキホーテ・ドフラミンゴを奪う道になっていた。
その後、シャチとペンギンの尽力のおかげで、ローはほぼ強引にドフラミンゴを引き取る手はずを整えた。ドフラミンゴの虐待も明るみに出し、ドフラミンゴの母親とその恋人にはそれ相応の罰が下るようになっている。おそらく社会で生きていけず、その命を無為にするしかないだろう母親たちを思うと、すこしばかり胸のつかえが取れた。
そうしてドフラミンゴを引き取ったローは拠点を変えた。もっと別の場所で、この子供と二人で暮らしたかったのだ。他の誰にも、この世界を乱されたくはなかった。
「フッフッフッ!ずいぶんと強引な手を使ったなァ」
「お前にだけは言われたくねェ」
「それもそうか」
ローの運転する車の助手席で笑みを転がすドフラミンゴに返してやれば、なるほどと納得されてローは息を吐いた。引っ越しの荷物もほとんどなく、身軽な二人旅のような時間が、ローはひどく心地良かった。春になった引っ越しは心機一転にも思えただろうが、そんな意図はなく、偶然にすぎない。フリーランスの医師として働くローにとっては場所にこだわりはなかったのだが、ドフラミンゴと暮らすなら、海が近い街にしたかった。都会の喧騒から離れて行く街並みを静かに眺めているドフラミンゴの口元がわずかにほころんでいることに気付き、ローは得も言われぬ幸福に満たされていた。
広めの1LDKを新しい住居にしたのに、ドフラミンゴが目を瞠ってローを胡乱げに見つめてくる。部屋がひとつしかないということに眉を寄せるドフラミンゴを無視して、ローは運び込まれたベッドの位置を確かめた。
「…………どうして部屋をわけなかった?」
「必要ないからな」
「ロー、お前に世話になるからと言って何もかも晒すわけじゃ、」
「お前はおれのなんだ。異論は認めねェ」
「話が通じねェな」
人の領域は弁えろ、とでも言うようなドフラミンゴの言葉も流してローは言い放つ。それにドフラミンゴが苛立ちを見せたものの、ローはそのことすら意に介さなかった。剣呑になる薄い青色の眸をしずかに見つめ返してローは口を開いた。
「ドフラミンゴ。おれはお前を、ずっと捜してたんだ。この世に生まれたなら、絶対に見つけ出すつもりだった」
「…………」
「見つけたら、今度こそ逃さねェと決めてる。このままここでおれに囲われて、最期まで一生に生きろ。お前を、他の誰にも渡さねェ」
「本当に話が通じねェな。今更、俺をどうしたい?」
「おれと結婚しろ」
「…………は?」
苛立ちを増したドフラミンゴの声が冷えるのを感じつつも気にすることなくローは言い放った。それに、ドフラミンゴの空色の眸がまるくなる。あどけなささえ見えるその顔に胸が揺れる感覚がして、ローはポケットに押し込んでいたものを取り出した。
生まれてから今の今まで、ローが渇望したのは、ドフラミンゴだけだ。喉の奥から手が出そうなほど、心の底から欲したのはドンキホーテ・ドフラミンゴたったひとりだ。たとえこの男の所業を許せなくとも、魂がどうしようもなく、求めてしまっている。まだちいさいドフラミンゴの手を取ってローは左手の薬指に指輪をはめた。これが繋ぎ止めるための道具にはならないことをローは誰より知っていて、けれどもはめないわけにはいかなかった。
「おれにはお前だけだ」
「お前、ペドフィリアだったのか」
「違うに決まってる。お前だから欲しい」
「…………囲うってのは、そういう意味じゃねェのか?」
「今のお前にその気は起きねェよ」
ローが焦がれるほどに求めたのはドフラミンゴであることは疑いようもないものだ。ただだからといって、子供相手に劣情が湧くかと言われれば否である。この先はわからないものの、少なくとも今はドフラミンゴに対して邪な思いを抱いてはいなかった。それよりもドフラミンゴをこの手の中に置いておきたい、という思いの方が強い。
「フフッ、フッフッフッ!本当によくわからねェな、お前は」
「わかってもらおうなんて思ってねェ」
「フフフッ……そうか」
ローの気持ちをドフラミンゴが理解することなど、この一生をかけたところで無理だろう、とローは本気で思っていた。ローの胸に長らく棲み続けて居座って内側を食らい尽くしているドフラミンゴに、その自覚など皆無である。だからこそ、ローの気持ちがドフラミンゴに理解はされないとローはよく知っていた。けれども、それなのに、ドフラミンゴがやわらかく笑みをこぼして指輪を撫でるものだから、ローはまた心を搔き乱されて食い荒らされている気になってしまった。いつでも、どんな時も、ローをこれだけめちゃくちゃにするのは、ドンキホーテ・ドフラミンゴただひとりだった。
「にしても、これからサイズなんて合わなくなるってのに」
「その都度作り直せば問題ない」
「…………」
ドフラミンゴの抗議というよりもささやかなそれにローは真面目に返していた。ローとてドフラミンゴの成長を見越していない、わけではない。けれどもそんなものは些末なもので、取るに足らないことだった。今この瞬間にドフラミンゴがローのものである、という証明が必要なのである。ローの言い分を聞いたドフラミンゴが何とも言えない顔をして、そうして、ばかだな、とやわらかく呟いた。
おそらくドフラミンゴからすれば奇妙な生活は、特に変わりなく続いている。初めこそそれなりに警戒していたドフラミンゴも、ローがあらゆる意味で手を出さないので拍子抜けしたようだった。ローにとってはドフラミンゴが帰る場所にいる、というだけでとにかく満たされていて、まだ子供のドフラミンゴに性的な行為を強いるなど考えられもしなかった。ただ他の誰にも渡したくない、誰の目にも見せたくない、自分だけで囲い込みたい、という思いの強さだけが確かなものだった。そのため、ドフラミンゴの外出はあまりなく、あるとしてもローと二人で出ることが絶対条件なのだった。ドフラミンゴのことを考えればこれは軟禁に近いだろうし、逃げようと思えばきっと容易いだろうとローはわかっている。たとえ逃げたとしてもありとあらゆる手段を使って見つけ出して捕まえる気でいるのだが、ひとまずはそれもしなくて済んでいた。
ローとドフラミンゴの日課になりつつあるのは夜の散歩だった。傍から見るとどうにも怪しく思われるのが明白なので、人気のいない時間帯に人気のない場所を歩くことがローにとっては至福の時間だった。手を繋いでも、抱きしめても、誰かの目に触れなければ問題がない。ドフラミンゴにキスを仕掛けたとしても、誰も見ていなければ言い訳も必要なかった。
夜の散歩でも、太陽の光を厭うドフラミンゴの眸はサングラスで隠されていて、それはすこし勿体ないなという気持ちになる。本来ならそこにも医療の手が伸びているはずだというのに、ドフラミンゴにはその機会も与えられてはいなかった。そういったことを考えると黒い感情で胸が塗り潰されそうになり、ローはゆるゆると首を振った。
夜の海はとにかく静かで人の気配がみじんもしない。まんまるに満ちた月が海面にこぼすひかりで道をつくっていて、世界の果てまで繋がっているかのようだった。月明かりを反射した海面が星空を模していて、海と空の境目を曖昧にする。
「まだ暑くはないな」
「そうだな」
「夜の海ってのは、静かでいい」
「……そうだな」
「フッフッフッ!同じ返事しかしてないぞ」
「…………」
防波堤の上を歩くドフラミンゴがこぼす言葉を拾い上げても返事が一辺倒になり、それに笑いが返された。子供のままで無邪気に笑うドフラミンゴに胸が掴まれる。皮肉めいたものではなく、素直におかしそうな笑みを見せるドフラミンゴが、隣にいるという事実はローの心臓を突き刺した。
ローが知るドフラミンゴの顔にも笑顔は常にあった。けれどもこんなふうに無邪気に幼く笑っているのをほとんど見たことはなかったのだ。そのことをこうして実感する度、ローは叫びだしたいような、泣きたいような、蹲りたいような、そんな感覚に陥っていた。
「ロー」
ちいさな唇が、まだ声変わりのしない幼い声が、ローの名前を口にする。純真すら漂わせてなんの悪意もなくドフラミンゴがローを呼んだ。まるく満ちた月からこぼれるひかりがドフラミンゴを夜の海に浮かび上がらせている。神々しささえ覚えるその姿があまりにも眩しくて、ローは目を細めずにはいられなかった。月よりも何よりも、ドフラミンゴという眩しさが、目に刺さる。子供の姿であったとしても、ドフラミンゴという男に見惚れて目が逸らせず、その目を焼かれていた。見た目など関係なく、年齢も関係なく、ドフラミンゴという男のたましいに、ローはもうずっと脳を灼かれている。
「ドフラ、ミンゴ」
「どうした?」
月の明かりはいつまでもドフラミンゴに降り注ぎ、ドフラミンゴと世界すら曖昧にしようとした。不思議そうにローを見つめる眼差しと問いかけに答えることもできず、思わず腕を伸ばしてまだ幼い身体を抱きしめる。子供らしい体温が薄い生地越しに伝わり、ぬくもりが溶け合っていく。防波堤に立つドフラミンゴとは背の高さがさほど変わらないことになっていて、まるで縋り付いているかのようだった。
「どこにも、行くな」
「フッフッフッ!囲い込んでるやつの台詞じゃねェなァ」
「なんでもいい、置いていかないでくれ、」
「…………ロー」
小さな身体を囲って閉じ込めて、ローは切実に懇願した。ドンキホーテ・ドフラミンゴという男に囚われ続けていて、ドフラミンゴがいなくなるなど考えられない。それなのに、いつだって置いていかれる予感だけが鮮明で、ドフラミンゴが海に攫われて空に拐かされるような焦燥感が纏わりついている。そんな思考を振り払いたくてローは腕の力を強くするしかなかった。
「どこにも行かねェよ」
「ドフラミンゴ」
「お前を置いて、行ったりしない」
「…………それなら、いい」
穏やかに落ちて来る声がやさしくローの心を救いあげる。ちいさな手がローを甘やかすように髪を梳いていった。ローにも、ドフラミンゴ自身にも言い聞かせるみたいにこぼされる言葉に深い安堵を覚えてローはそっと息を吐いた。口約束だけで繋がり続けていられると、本気で思ってはいない。けれどもドフラミンゴの言葉は強い意志をのせてローへと届いていた。きっと置いていかれることなどなく、最期まで傍にいてくれるのだと身勝手に確信してローはしばらくドフラミンゴを抱きしめ続けていた。
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