来羅
2025-11-15 23:03:58
2275文字
Public トワウォ
 

写真(風信)

ワンドロライ第18回。




 それは、何でもない城砦の外壁を映しただけのただの写真、のプリントアウトだった。
 信一が後生大事にしていた紙だ。
 仕事終わりの一杯を引っ掛けながら、風の音に物思いにふけりながら、会話の途中でふと意識が逸れたりもして、信一はたびたびそのコピー用紙を眺める。
 九龍城砦は危険な場所だと周知されているはずだというのに、観光気分で近づく者は少なくない。取材をさせてほしいという依頼は大体において断ってきたはずだったが、こうして無断で撮られた写真は実のところ多い。
 それは、そんな誰が撮ったのかもわからない、インターネットの海に漂っていた一枚でしかなかった。
「郷愁?」
 緑寶を呷りながら問うたのは十二だった。
 信一は小さく笑って答えない。
 もう城砦が取り壊されてから二十年以上が経っている。
 あの人たちの年齢に近づいて、きっとあっという間に追い抜いてしまうのだろう。
 年を取れば昔が懐かしくなるなど、年寄りの戯言だと思っていた。
 けれどもふとしたときに、己を呼ぶ声を錯覚する。懐メロに浮かぶ景色がある。滅多に顔を合わせることもなくなった友人たちと久々に会えば、こうして昔話に花が咲くこともあった。
「それ、どこの入口だ?」
「南」
「ああ、水道の近くのやつか」
 どこもかしこも似たような違法建築の集まりは、一見すると見分けがつかない。その印刷された写真もまた、城砦ではよく見るコンクリート壁にしか見えなかったが、信一には分かるらしい。さすがは福祉管理員会主幹だ。
「ここのドアが壊れたままになってるから、八〇年あたりってところだな」
「よく分かるな」
「いや、壊したの、俺」
「お前かよ」
「そ。で、八四年以降だったらもうドア自体なくなってるからさ」
……ああ、……なるほど」
 一九八四年。
 決して忘れることのない年は、いつでも鮮烈な記憶と共によみがえる。
 あの騒動でなくなったものはドア一枚どころじゃない。
 それでは、この写真は信一が一番幸せだった頃の城砦だということになる。
 十二はそれ以上は口を閉じた。





「あ、それ信哥の宝物だ!」
 近所に住む子供だった。
 部屋の片づけをしていた十二が、懐かしむようにそのコピー用紙を手に取ったところで、信一が晩年可愛がっていたという少年が駆け寄ってきた。
 宝物。
 この紙切れ一枚には、信一の想いが詰まっている。
「信哥の大事な人なんだよ」
 けれどもそうニコニコと言われて、十二はぱちりと目を瞬いた。
 大事な城砦、ではなくて?
「大事な人?」
 信一の大事な人はただのひとりしか存在しない。いや、存在していなかった。
 子供はあっと両手で口を覆って「内緒だった!」と首を振る。ほう、と半眼で眉を上げて、逃げようとする子供を抱き込んで擽れば、すぐにギブアップした子供が十二の膝の上で写真を指差した。
「ここ」
「どこだよ」
 コピー用紙を遠ざけて目を凝らす。
 子供が指差すのは、壊れたドア、の隙間だ。
「これがなんだ、」
 というのか。
 言いかけた言葉が途切れた。
 十二は何度か目を瞬く。また目を凝らす。じわりと滲んだ涙はこぼれることなく視界を歪ませた。最近は涙もろくていけない。年のせいだ。
「そうか」
 そうなのか。
 仕事終わりの一杯を引っ掛けながら、風の音に物思いにふけりながら、会話の途中でふと意識が逸れたりもして、信一はこの写真を眺めていた。
 その懐かしさと愛おしさに頬を緩めた信一の顔を、十二は今でも簡単に思い出すことができる。
 懐かしさと、愛おしさと。
 どうして気づかなかったのだろう。
 あの顔はずっと見てきた。
 あの顔が見つめる先の人を、ずっと知っていた。
…………龍哥」
 豆粒みたいなドアの隙間。
 そこから覗く、米粒みたい後ろ姿があった。黒いシャツの袖をまくった太い前腕の先、煙が立ち上りそうな煙草を挟む指。ちらりと映るキューバシャツと半身だけの黒いトラウザーズ。肩から上は暗がりの中に消えていて見えない。それでも十二にだってわかる。信一なら、もっとわかる。
「そうか」
 ずっと眺めていた。
 ずっと大事にしていた。
 ずっと。
「ずっと、一緒だったんだな」
 龍捲風の写真はこれ一枚しかない。





「写真を撮ると魂を抜かれるんだ」
 大真面目にそんなことを言うので、幼い頃の信一はそれを信じていた。それがただの方便だとわかった頃には、もう写真には興味もなかった信一が、一緒に撮ろうと言ったことはない。
 本当にそう思って怖がっていたのか。
 黒社会の一角に立つ男として、姿が残るものを避けていたからなのか。
 確かめたこともないから、今もって謎のままだ。
 それでも。
「一枚くらい撮っておけば良かったなぁ」
 思い出の中にしかいなくなってしまったその人は、いつでも信一を見て優しく笑うから少しだけ寂しくなっていた。
 会いたい。
 あの声で呼ばれたい。
 あの腕に抱かれたい。
 出始めたばかりのパソコンでそれを見つけたのは、だから、ほんの偶然だ。
『写真を撮ると魂を抜かれるんだ』
 それなら、この写真の中にあの人の魂の欠片が閉じ込められているのかもしれない。
 馬鹿な想像にひとしきり笑った。
 笑って、笑って、そして少しだけ泣いた。
「大佬」
 大丈夫だ。
 あの人はここにいる。
 この心の中にいる。
「俺は大丈夫」
 画面越しの写真を指でなぞる。
 やっぱり少し泣いて、また笑った。