宮腰
2025-11-15 21:47:40
27208文字
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ソーマセーマ【2】

【1】→https://privatter.me/page/68f336de454f1
ヌヴィリオ/執行官if
法無き自治区ナド・クライ。
そこで互いに『裏の顔』のまま出会い、初めての恋と真実を知るお話。



 

「今日はちょうどパハ島の警備が手薄になっているはずだ。ケラティの眼と呼ばれる場所に調査隊が遠征している」
 翌日。リオセスリが手配してくれた小さな漁船でパハ島へと向かうことになった。徐々に遠ざかって行くナシャタウンを甲板から眺めつつ、隣にいるリオセスリへと尋ねた。
「パハ島へはどの位で?」
「一時間もかからないさ。少々無骨すぎるが、しばしのクルーズを楽しもうじゃないか」
 そう笑うリオセスリの前髪が風に煽られ白い額が露わになっている。前髪を上げるとより幼い印象になるな。と、つい見惚れてしまった。だが彼の年齢すらも知らない事に気が付いてしまい、そこで考えるのを止めた。
 昨夜、ヌヴィレットは宿へ戻らず領事局で仕事をしていた。メロピデ要塞でまた問題が起きたとフォンテーヌからの報告が入っていたからだ。問題の中心人物は例の管理者一派。やはりこのままにはしておけない。早急にトップの交代が必要かと頭を抱えつつ、出来る限りの対応を済ませてきた。仕事に没頭していた方が、いつ帰ってくるのかと隣室の気配に気を取られる心配もなかったからである。
「ケラティの眼付近も通る航路だから、調査隊の状況も遠目で確認できる」
「ふむ……リオセスリ殿」
「ん?」
「憂いがあれば君は船で待機していて構わない」
 半分は本心からの思いやり、あと半分は幼子のようにただ拗ねているだけだ。聡いリオセスリはそれに気が付いているのか、少しだけ目を瞠りつつわざと明るく笑い飛ばしてくれた。
「はは、憂いならあるぞ?」
「ほう……? 聞こう」
「あんたは昨日徹夜で仕事をしていたのか、それとも気に入った女の子でも見付けたのかなってさ」
 ス、とリオセスリの指がヌヴィレットの眼鏡をずり上げ、目元の隈を揶揄うように撫でる。馬鹿馬鹿しい、とヌヴィレットは片眉を上げ、悪戯された眼鏡を戻した。どうやら昨夜リオセスリは恋人の元へは行かず、宿へ戻って来たらしい。
 リオセスリもそれ以上は追求することもなく、甲板の柵へもたれ掛かり遠くに見える鯨の集団へ目を向けた。
「あんたと同じさ。正義感を振りかざす気は俺もさらさらないよ」
…………
「見なかったフリをするのは簡単だが、寝覚めが悪い。ならば、俺にできることはするだけさ。そうだろう?」
……ああ」
 そうだな、と。モヤモヤとした迷いを言語化してくれたリオセスリへ、心の中で同意を告げる。彼は本当に不思議だ。一人でどれだけ考えても答えの出なかった心の迷いをいとも簡単にすくい上げ、こうだろうと教えてくれる。
「君の言う通り、無辜の市民が巻込まれる状況は看過できない」
「ああ。理由なんて〝なんとなく〟で良いのさ」
 時々、君には私の心の中が見えているのかとさえ思えてしまう。見透かしたついでになのか、ヌヴィレットの心の絡まりをもう一つ解いてくれるつもりのようだ。
「昨日行ったスペランザにさ、女主人が居ただろう?」
「ああ、確かカーチャ殿……
「そう。カーチャさんはさ、昔は冒険者をやっていて怪我をして引退したらしい」
 冒険者と聞いて、ヌヴィレットはつい最近も聞いた話だなと記憶を探る。そうだ、確かガブリエール商会の代表マーセル氏の過去だ。彼はスネージナヤ出身の冒険者であったとリオセスリは教えてくれた。ガブリエール商会について彼女が何か情報を持っていないか確認していたのだろう。ヌヴィレットのその考えは正解であったのか、リオセスリはニッと悪戯な笑いを浮かべていた。
「残念ながらヴァ……ああ、今はマーセルさんか。彼とは活躍した時期がずれているから、直接の面識は数えるほどしかないらしいが」
「君は……そこまで調査していたのか」
「念には念を、ってね。彼には同じ冒険者の恋人もいたそうだ。今はどうなったのか分からないが」
「ふむ……感謝する。覚えておこう」
 どういたしまして。そう笑いホエールウォッチングに戻ったリオセスリの背中へ、ついつい熱い視線を注いでしまった。
 本当に、彼はいったい何者なのだろう。ただの技術者にしては聡明すぎるし、寧ろただの技術者にしておくにはあまりにも惜しい。もっと高い視点でその才を活かすべきだ。だがそれを告げるには彼のことを知らなさすぎるし、自分の立場も今はまだ明かせない。
「それに、カーチャさんには犬を引き取ってもらった礼があるしな」
「犬?」
「そう。店からの帰り道で子犬を拾ったんだが、俺は飼ってやれないから困っていてさ」
 一昨日の話。店からの帰り道でリオセスリは子犬を拾った。後を付いてきてしまったそうだが、今の住まいは仮の宿だし、就職先にはペットを連れて行けない。どうしようかと困っていた所に、あのスペランザのカウンターにいた少年とカーチャが声を掛けてくれたそうだ。
 怪我で冒険者を引退したカーチャは、路頭へ迷った子供達を引き取りあのスペランザで働いてもらいつつ面倒を見ているらしい。孤児達は労働の代わりに衣食住を保障され、彼女は命を預かる重責と引き換えに労働力を得ることができる。双方共に利益がある、非常に理に適った方法だ。
「人道的で効率も良い方法だ。彼女の理念は素晴らしい」
「はは、あんたなら賛同してくれると思ったよ」
「うむ。参考にさせてもらおう」
 ナド・クライへ足を運んでみて良かった。様々な市井の生活へ触れ、視野も広がったしたくさんの出会いや知識も得た。煮詰まり凝り固まってしまった思考も和らいだお陰で、もっと俯瞰的な視点から自らの役目やフォンテーヌの人々についても考えられそうだ。
 ──キミ、そろそろ友人を作りたまえよ。
 いつかのフリーナがくれたアドバイスは、あながち間違ってはいなかったのかもしれない。鏡の中へ映り込む自分は所詮は虚像だ。本当の自分がどんな顔をしているのか、己の見えぬ所ではいま何が起きているのか、それは誰かの目を通してでしか知る術がない。
 眼が二つあるのも、手足が二本あるのも、対になっている理由がそこには必ず存在している。アルケーにプネウマとウーシアがあるように、己に必要であったのは違う視点から見た世界。そう気が付かせてくれたのは、彼だ。
「お、パハ島が見えて来たな」
 北の水平線へ大きな建造物がぼんやりと浮かび上がっている。ソルトマーシュと呼ばれる夕焼け色の湿地が広がった幻想的で静かな島。そこには勇敢なライトキーパー達が眠る地を守護するように、大きな灯台が聳え立っている。
 一見すると穏やかで何処にでもある平凡な島だが、周辺には物々しいオーラを放つ偵察船がちらほらと見受けられた。ファデュイの偵察船だ。リオセスリの情報通り、道中でケラティの眼と呼ばれる小島へファデュイの構成員が多数上陸しているのは確認していた。それでも、まだこれだけの人数がパハ島へ常駐しているのだろう。人気の無い桟橋を選んで漁船が停泊し、二人は無事にパハ島へと上陸した。
……静かな場所だ」
「ああ、ここは元々あまり人が住んでいないからな」
 確かに、ナシャタウンのあるレンポ島とは全く空気が違う。人の気配があまりなく、どこかもの悲しく寒々しい。かつてここでライトキーパーとワイルドハントの激しい闘いが繰り広げられたせいなのだろうか。ヒュペルボレイアの末裔たちが今も暮らすヒーシ島ともまた違う、とても不思議な場所だ。
「あ、そうだ」
 するとリオセスリは羽織っていたブルゾンのポケットを探り、カプセルが入っている銀色のシートを渡してきた。ヌヴィレットが首を傾げつつそれを受け取ると、リオセスリはシートに収められていたカプセルを取り出しポイッと口へ放り込んだ。
「クーヴァキ中毒の予防薬だ。ここはかなり濃度が高い場所もあるから、飲んでおいた方が良いぞ」
「なるほど、感謝する」
 肌がピリピリするこの感触はそうだったのかと納得しつつ、ヌヴィレットはカプセルをリオセスリの手へ戻してやった。
「私には必要ない。君が所持しておくと良い」
「必要ない、って……? あ、こら。待てって、俺も行く」
 クリムゾン・ソルトマーシュ。そう呼ばれている不思議な春色をした砂浜を、ヌヴィレットは慎重に気配を探りながら歩き始める。遠くまで広がる春色の砂浜はまるで大地へ咲き乱れる花々のようで、所々にファデュイが建てたと見られる鋼鉄製の建造物があり、とても不釣り合いだ。
 沈黙の春、たしかそんなタイトルだった。人間が及ぼす環境被害へ警鐘を鳴らす生物学者の本を以前に読んだ。ここの光景を眺めていると、その冒頭部分で描かれた文章がつい脳裏へ蘇ってきてしまう。人工物が壊してしまった世界には音がなく、春になっても鳴く鳥もいない。様々なことを考えさせられてしまう良い本だった。
「リオセスリ殿」
「うん?」
「君は読書が好きだろうか」
「読書? ああ、良く読んでいるけど……
 食事へ行って雑談へ興じたり、同じ本を読んで感想を述べあったり、共に休日を過ごしてみたり、こうして肩を並べて歩いてみたり。
「そうか。なら、今度君のお勧めを教えてくれ。私もフォンテーヌの書籍にならば多少の知識がある」
「お、良いぞ。フォンテーヌの推理小説とか流行ってるよな。機械工学の本もたくさんあるし……
 サク、サク、と。砂浜を踏みしめる二人分の足跡が春色へ刻まれて行く。いつかこうして、フォンテーヌの白い砂浜にも君と二人で春を刻んでみたいと思った。


 パハ島へ研究機関を建造している、とは本当らしい。
 あちらこちらに建造途中の構造物や資材が置かれており、その規模からかなり巨大な施設を計画しているようだ。このような辺鄙な場所へ堅牢な施設を造る目的は分からないが、余り良くない事になりそうだとヌヴィレットは本能で悟る。
「入手した図面から推測すると、買われた子供達は地下にある住居棟に運ばれたのだろうな」
「ふむ」
 図面には簡単な完成予想図と、作業員向けに必要な情報のみが記載されていた。作業員達が寝泊まりする住居棟は地下に造られていたが、かなり広く部屋数も多い。それだけの人員が必要になる想定なのだろう。
「今の時間ならばみな出払っているはずだ。まずはそこへ向かおう」
「ああ、分かった──ところで、この図面はどこで? 闇市への招待状と同じ入手経路か?」
「うーん……鋭いご主人様だ。ああ、そうさ。あの二人組のもう一人は、ここの資材を手配している大手の建材屋でね」
 フラッグ・シップでリオセスリへ執拗に声を掛けていた二人組の男。一人は闇市の関係者で、もう一人は建材屋であった。
「そうか。君は代わりにホットドッグをサービスした訳か」
「ハハッ! 勘が鋭くて疑り深いときたか。違うよ、あれはあんたにだけのサービスさ。安心してくれ」
 あんたに貰った守護のお陰で、怖いくらい美形の彼氏がいるって噂が広まってるから大丈夫だ。そう言葉を付け加えリオセスリは片目を軽く瞑る。
「あんたの美味しいホットドッグを毎晩食べさせてもらっているって、奴等にはあの時念を押しておいたからな」
「私の……? いや、食べさせて貰っているのは私の方だが」
……どうやらあんたの純真さは本物らしいな……お、どうやらあの入り口から地下へ行けるらしいぞ」
 ヌヴィレットは料理ができないし、もちろん彼へ振る舞ったこともない。何かの比喩だろうかと気になりはしたが、崖下へぽっかりと空いた穴を見て頭を切り替えた。春色の砂浜がフェードアウトした先には切り立った崖があり、そこには鉄骨で補強された地下への入り口があった。関係者以外立入禁止、そう記された立て看板を横目に、入り口を塞いでいる錠前へリオセスリが薄型のカードを当てている。
「リオセスリ殿、それは?」
「従業員用のIDカードさ。ここへの就職が決まってるって話しただろう?」
「ああ……なるほど」
 職務内容やポジションによって解錠できる領域は異なるそうだ。入り口からは地下へと続く薄暗い階段が続いており、申し訳程度の灯りに照らされた内部は湿度が高く、少々蒸し暑い。ヌヴィレットもリオセスリも長身の部類なので油断していると頭をぶつけてしまいそうだ。
 地下へと続く階段は、何処まで続いているのだろうか。地下へ行けば行くほど湿度が高くなり、それと同時にクーヴァキも濃度を増していた。より純度の高い元素力、光界の力。その最たる存在であるヌヴィレットにとっては相容れないものの懐かしい感覚ではあるが、確かにこれは人間の身体では持て余してしまう力だろう。
…………
 だが、何故だろう。妙な違和感を覚える。喩えるならば、鏡のように静かな水面へ木の葉が一枚だけ浮かんでいるような。微かにだが、淡い月の輝きの中へ異物が混入している気がするのだ。
 違和感の正体が掴めないまま最下層へ到着すると、そこには想像していたよりも開放的な空間が広がっていた。イメージとしては工場の食堂に近いだろうか。がらんとした食堂には人がおらず、椅子とテーブルが雑然と並べられていた。リオセスリはもう一度図面を開き、ヌヴィレットもそれを覗き込む。
「ここから食堂を起点にして、蜘蛛の巣のように通路が張り巡らせてある。そこに工員達の宿舎が並んでいるな」
「ふむ」
「宿舎の奥にボイラー室とラボがあるな。その辺りを探ってみよう」
 リオセスリの案へ頷き、二人はまずボイラー室を目指して西へ進んだ。
 図面によればボイラー室がこの地下空間の最奥地になる。奥へ行けば行くほど空気が薄くなっているのか、それとも別の力が働いているのか。息苦しいほどの閉塞感を堪えつつ、ヌヴィレットは再びリオセスリの前へ立つ。微かに震える呼吸、脈拍、血流。表情にこそ出していないものの、リオセスリの身体へ何か変化が起こっているらしい。
 それもそのはず。高濃度のクーヴァキと、表現しがたい邪悪な違和感。ヌヴィレットでさえ閉塞感を覚えている空間だ。人体への影響はもっと現れているに違いない。彼は鍛えぬいた体躯と鋼のような精神力で、それらを表に出さぬよう堪えているのだろう。並の人間には到底真似できない、頭が下がるほどの忍耐力だ。
……リオセスリ殿」
「うん……? どうした」
「この先は何かがおかしい。君はここで待、……
 その時だった。鋼鉄に覆われた無機質な空間から、突如子供の泣き声が響いてきたのだ。二人は同時に足を止め耳を澄ませてみると、どうやらボイラー室の奥、行き止まりになった向こう側から聞こえているらしい。
「ここか……!? ッ、オラァっ!!」
 ゴゥンと、無常な音が空間を揺らす。リオセスリが力一杯拳を叩き付けてみたが、その鉄壁はびくともしなかった。だが確かに、壁の向こう側には図面に描かれていない空間がある。拳を打ち付けたリオセスリの皮膚は破れ中手骨、ボクサーが良く骨折をする拳の骨部分が、べこりとおかしな形にへこんでいる。おそらく折れてしまったのだろうが、彼は痛がる素振りも気にする様子も見せなかった。
「チッ……! 駄目か。他に入り口があるのか?」
「私がやろう。下がっていたまえ」
「あんたが? いや、どうやって……
 正体を明かすつもりは無かったのだが、ここは仕方がない。壁の向こう側へいる子供達を傷付けぬように感覚を研ぎ澄ませ、手の平へと力を集中させて行く。地下水、大気中の水分、海。全ての水がヌヴィレットの前へ跪き、その手の内へと吸い寄せられる。
……な、…………?」
 この世界全ての水を従え、その頂点へと君臨する水元素の龍王。人の姿で生まれた意味を、自分の存在意義を探しに、私はここへやって来た。
「私はまだ答えを見付けていない。姿を現わしたまえ、過去の幻影よ」
 ぐにゃりと、びくともしなかった鉄壁が歪な渦を描き、そこへ小さなブラックホールが生まれた。漆黒の渦からは禍々しい邪気を放つ亡霊達が次々と現れ、怨嗟の声を上げる。ワイルドハント──実物を前にするのは初めてだが、なんて哀しい存在なのだろう。ワイルドハント達が放つ負の感情を食らい付くそうとしているのかアビスの魔物達も共に現れ、ヌヴィレットは容赦なく浄化の水を彼等へ放つ。
 指一本触れさせはしない。無辜の民達へも、最愛の眷属にも。ようやく見付けた、共に春を描いてほしいと乞い願う相手にも。
「去れ。君たちがいる世界はここではない」
 水は全てを飲み込む。清らかなものも、汚れた心も、哀しい魂も。生も死も、全ての罪を濯ぎ大海へと帰す絶対的な存在。
 ワイルドハントをヌヴィレットが引き受けている間にリオセスリは拉げた鋼鉄をなんとかこじ開け、壁の向こう側へと進入していた。壁の向こう側には捕虜を閉じ込めておく部屋があり、子供達は恐怖で泣いてはいたものの、ヌヴィレットが咄嗟に作り出した水の障壁で保護されていたお陰か、全員無事だった。
「ほら、泣くな。小さな子とは手を繋いでやれ。順番にそこの輸送用倉庫に乗るんだ」
 騒ぎの中で突然現れた見知らぬ大人に、ワイルドハント。感覚が鋭い子供達はアビスの力を感じ取っているのだろう。最初はなかなか泣き止まなかったが、リオセスリの頼もしい声と温もりに安心したのか、しゃくり上げつつも素直に輸送用倉庫へ移動し始めた。
「大丈夫だ、上で助けに来た人が待機しているから。漁師の格好をしたお兄さんだ、間違えるなよ?」
 子供達を全員保護し終えると、リオセスリは懐から出した小さな偵察型らしきマシナリーで何処かへ合図を送った。すると子供達を乗せた倉庫が持ち上がり、そのまま空気孔を通って地上へと運ばれて行く。子供達を無事に救出し終えたリオセスリは急いで壁の向こうへと戻り、力の入らぬ拳を気合で握り直しアビスの魔物を殴り飛ばした。
「ヌヴィレットさん! 子供達は全員救出した」
「ご苦労。では、こちらも終いにしよう」
 一気に片を付けようとヌヴィレットが最大出力を放とうとした時だ。唐突にボイラー室内が眩い閃光に包み込まれた。
……な、……
「ゔ、!? ……ァ、ッ!!」
 クーヴァキ、とんでもない量のクーヴァキが放出されたのと同時に、ワイルドハント達の姿が虚空へ掻き消された。まるで液晶へ表示されたプログラムがデリートされたかのように、一瞬で。真っ白に塗り潰された空間、上下左右もあやふやな、白へと。
「今の、は……?」
 眩い光で塗り潰された空間へ、徐々に暗闇色がジワジワと戻り始める。クーヴァキの奔流が収まり再びボイラー室へ暗闇が戻ると、ワイルドハントも奇妙な大穴も全て消えていた。壁に設置されていた緊急時を報せるランプが赤色に点灯しているところを見ると、どうやら先ほどの騒ぎでセキュリティシステムが稼働し始めたのだろう。エレッサの手掛かりは掴めなかったが、もう一つの目的は無事に果たせた。ここへの長居は無用だ。
「リオセスリ殿。ここを……
 すると、クーヴァキの暴走を真正面から受けてしまったのだろう。ヌヴィレットの探し人は床へ広がる血の海へ横たわっていた。
「リオセスリ、どの……!?」
 血で汚れるのにも構わず床へと膝を付き、ピクリとも反応しないリオセスリを慌てて抱き上げた。動かした衝撃で意識は取り戻したのか、激しく咳き込みながら大量の血を吐き出した。だが、その顔に生気はない。
 致死量のクーヴァキを浴びたことによる重度の中毒症状。動けなくなった所で消えゆくアビスの獣からの一撃を避け損ねてしまったのか、喉から胸にかけてを布のように鋭い鉤爪で引き裂かれてしまっており、血が止まらない。
 幸か不幸か、それとも彼の戦闘能力が非常に優れているお陰なのか。おそらく後者だろう。咄嗟に急所を避けたお陰で即死は免れたようだが、生命の泉がもう枯れようとしているのは明白だった。
「は、はは……流石にまずい、な……血が止ま、……ゴホッ!」
「喋るな、命令だ」
……ぬ、う゛ぃれっ……さ、ん……ぃ、から……外に……
「喋るなと私は命じている。従いたまえ」
 命の瀬戸際でも、彼は自分の身ではなく他の者を案じているらしい。震えが止まらぬ手でポケットから図面と薬のシートを取り出し、ヌヴィレットへ渡そうとしている。ヌヴィレットはわざと骨ごと砕きそうなほど強くその手を掴み、痛みを与えることで彼の朦朧とした意識を覚醒させようとした。だが、痛覚すらもう彼の意識を留めておくことはできないらしい。
「こど、も……外、……ガホッ、……! ふね、俺の部下、……、ッ……いる、から」
「ああ、分かった。後は私が引き継ごう」
「ふ、……ぁ、がとう……
 もう咳き込む力も残されていないのだろう。彼の身体からフッと力が抜け、握り込んでいた手がスルリと滑り落ちそうになった。
 駄目だ。
 逝かせない。渡さない。
 君を天にくれてやるつもりは毛頭無い。
……生きて、私との約束を果たしたまえ」
 リオセスリ殿。君は、私と共に生きるべきだ。
……、ッ、……
 彼の流した血の海で力の抜けきった身体へ覆い被さり、深く口付けをする。体液、体温、そしてヌヴィレットの体内を流れている原始の力が、とめどなくリオセスリへと注ぎ込まれて行った。
「ん、……、っ……
 ビクリと、魂を作り替えられて行く感覚にリオセスリの身体が小さく跳ねる。それに構わずヌヴィレットは自らの力を彼へ注ぎ込み、深く深く、何度も角度を変えて口内から自分の魂を分け与えてやった。
 君は、本当の君へと生まれ変わる。
 生殺与奪の権を天へ委ねてはならない。それは私が許さない。
……──」
 やがて止まっていたリオセスリの呼吸が徐々に戻り始め、不安定にだが肺の動きが再開したらしい。首元の傷は跡が残ってしまうかもしれない。だが傷口は完全に塞がり、血も止まっている。
……ふ、……
 ──取り戻せた。
 ヌヴィレットは静かに唇を解放してやり、血の汚れが生々しい彼の胸元へ耳を押し当てる。すると、弱々しいながらも再び命のリズムを刻んでいる音が伝わってきた。失血のせいで深い眠りに入ってしまったらしいが、死神の腕からは無事に取り戻せたようだ。
 遠くから物々しい足音や怒声が聞こえてくる。侵入者に気が付いた警備の者達だろう。一刻も早くここを抜け出さなくてはと思いつつ、ヌヴィレットはもう一度静かに唇を重ね、体温を取り戻した彼の身体を強く抱き締めた。
…………良かった」
 それはシンプルで端的な、心からの安堵。
 良かった。彼をこの手に取り戻せて、本当に良かった。