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nenne000
2025-11-15 00:37:58
1880文字
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狩りの作法
「こーんな近くにぼくの急所があるのに、ジュンくんは噛み付こうともしないの?ついに鈍らになっちゃったのかな、この牙はっ」
そう言って、日和は遠慮する素振りなど欠片も見せずジュンの口に指を突っ込んで犬歯に触れる。ちらりと覗くそれは常ならばチャームポイントとして扱われることも多いためなんとも思わないが、こうして揶揄う対象として見られるだけならこんなもの無くていいのになあ、と心の中でぼやいてみた。
なにものにも汚されたことのないような手。実際はそうでないと知っていても、箸より重いものは持たないと公言して憚らないようなひとなので、いつだってそういう人間の手のかたちをしていた。彼の指が尖りに触れる。生え変わりの時期はとっくに過ぎていたからむず痒くはない。何のつもりだと不満げに日和へ目を向ければ、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌でジュンの内側を弄り回していた。
ねぇ、あんたは愉しそうに遊んでるけどさぁ、目の前に横たわってるのは牙の抜けた仔犬なんかじゃないって分かってます?
そう言ってやろうにも、好き勝手に口内を荒らされているものだから、自分に出来ることは時折息を漏らすこと屈しているんじゃないのだと睨みつけることぐらい。───そう、屈している訳ではないのだ。従順に、飼い犬らしく。彼の好む「それ」のように自ら振舞ってやっているというだけだった。
どうしてそこまで尽くすのか。いつだか聞かれたことのある問いだった。ジュンの返答はいつだって「抱えきれない程の恩があるから」というもので、それを聞いた大抵の人間はそれでも首を傾げて戻っていく。そっちが聞いてきた癖に、とは思うものの、自分にとってはこれ以上も以下でもないのだから諦めてほしい。
あんたの望む通りに振舞ってやる。ただのひとりに忠実な番犬でも、太陽にも劣らない恒星にも───お望みとあらばこの指を噛みちぎってやることだって吝かではない。あんたが望むのなら、いつだってそうする心積りはあった。
目元をゆるめて満足気なひと。自分が遊んでやっている側だと信じて疑っていないだろうひと。この指に、頬に、腹に、頸動脈に。己の牙が肉薄し得るのだとジュンはとうに知っていた。皮膚の薄さは?内臓の手触りは?肋骨の所在は?薄ら透ける血は本当に赤いのか?すべてを詳らかにする主導権は、きっと今この瞬間だけはこちらにあった。まぁ、あんたは痛いの嫌いだしどうせ散々ごねるんでしょうけど。いや、でも。臍を曲げたこのひとの機嫌をとる役回りはきっと自分以外にいないし、ならば別にどうでもいいか、と直ちに考え直した。
犬歯に触れる指。泥に塗れた野良犬を躊躇せず拾い上げてくれるところ。この世のなにものであろうと───ジュンでさえも穢せない、巴日和というひとだけの眩しさだった。そこに確かに牙を立てる。がり、とやわらかいものに触れた感触。驚いたのか一瞬指先に力が入るが、幸か不幸か口内が傷付くことはなかった。不幸というのは、まだジュンを気遣うだけの理性があるんだと密かに落胆したからだった。そういうひとだと理解していても尚そう望んでしまうのは、自分が欲深いというだけなのだろうか。
一生残る傷痕になってほしいとも、はやく治ってくれればいいとも思った。ちっぽけな存在にはなりたくないけど、彼を害するものになる気はなかったから。
薄らと形のいい眉を歪め、日和は反射的に手を引っ込める。身体を起こし、ようやく自由になった口元を拭う。ジュンから距離をとるように己の枕に顔を沈める日和の頬に触れ、ぐいとこちらに向かせれば、やっぱり想像通りのむくれた様子でジュンを睨み上げていた。精巧につくられた能面のような澄まし顔でも、天の上からお気に入りを愛でるだけの微笑みでもない。ひとつの綻びもなく自身を規定してしまうひとにこんな顔をさせているのは間違いなくジュンなのだ。歓喜か、畏れか。どちらともつかない興奮で口角が上がっていくのを自覚する。
「
……
っはは、いい気味。たぶんオレ、あんたのそういう顔がずっと見たかったんでしょうね」
あんたにめちゃくちゃにされたオレと同じくらい、あんたもオレでめちゃくちゃになってくれればいい。ジュンのいっとう特別は日和にいつの間にか強奪されてしまったのだから、これくらいは仕返しの範疇にも入らないだろう。飼い犬に手を噛まれた無様な飼い主と、躾を忘れた馬鹿な犬。どちらが愚かで、どちらに非があるか、などという誰に言ったって鼻で笑われてしまう程度のしょうもない議論は頭の隅に置いやることにした。
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