racmon
2025-11-14 21:44:00
3624文字
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近所のごふうふ

おじいちゃんになったくらいのささろ

 閉じた瞼に淡い金が差し、魔法の時が映る。熱く焚いた風呂と脂の乗った焼き魚の匂い、まんまるに膨らんだ雀たちのささやきは微睡みとの境か。この街の人々もまた、それぞれの住処で今日を穏やかに終えようとしている。
 大きく息を吸い込んで、視界がぼんやりと広がる。うっすら結露した窓が西陽の光量を和らげてくれていた。頬に寝跡をつけた盧笙の隣にはこたつ布団の抜け殻があった。今回は芸術点が高く、綺麗な空洞を保っている。
 このようなものが残されている場合、起き抜けの家人は思い立って何かを始めていることが多い。まだほんのり暖かいラグに確信を得た盧笙は顎を撫でる。庭先か、それとも屋根裏か。はたまたガレージかもしれない。
「どこ行った」
 のそりと這って起き上がったあとには、綿のかまくらが二つ並んだ。

 起毛のスリッパで階段を降りるには細心の注意が必要。「足元注意!」と昇降するたびに傍から言われては、無意識にでも慎重になる。赤子扱いか──というより年寄りの方がいくらも近いか。盧笙は寒さに軋む膝をさすった。
 三和土から繋がったドアを開ける。ちょうど車検中でがらんとしたガレージに簓はいた。
 ボリュームのあるダウンジャケットの背中が、小さなアウトドアチェアの上に乗っている。頭でっかちに見えるフォルムが可笑しい。小刻みに揺れているのを見て、盧笙は簓の手元を予想した。
「簓」
「んー」
 肩口からひょこりと覗き込む。読みは的中、丁寧に手入れされる革靴があった。盧笙の声かけに振り返りもせず、どうやら簓は作業に没頭しているようだった。
「ガレージでお前、寒いのに」
 優しい小言にまた「ん」と生返事があった。盧笙は短いため息をついて玄関へ引っ込んだ。廃品回収に出すために結えてあった紙の束から横着に一部引き抜く。冷たいコンクリートの床に新聞を敷いて、その上にリビングから運んできたストーブを置いた。徐々に熱を帯びてくるそれに体を寄せ、簓はちゃっかり暖を取る。よそ見をして近づいたため、ダウンの裾と熱された網が触れ合いそうになった。
「焼ける焼ける」
「ありゃ、また穴空くとこやった」
「もう処分しぃや。パッチだらけやん」
「家で着るだけやからええねん。これがいっちゃんあったかい」
 ここ数年で金遣いの豪快さも落ち着いて、おそらく本来の簓の堅実さが出てきている。実際、物持ちの良さでいうと盧笙といい勝負だった。左肘の辺りにある、神社のお焚き上げの火の粉で出来た焦げ跡も、いつ作ったものか覚えていない。
 盧笙は畳んで立てかけられた丸椅子を引っ張り出し、なんとなく作業を眺める。それに気づいた簓は一旦手を止め、盧笙の背中をさすった。
「そんな格好でお前、寒いやろ」
 どの口が、とも言えるが、お互いの身体のことにはやたらと気にかける癖がついていた。健康診断だって、自分の結果については記憶が曖昧だが、相手の数値は覚えている。気遣うあまり小言も増えた。
「なんか着ぃや」
「昨日の雪でまだ湿ってる」
「俺のジャンパーそこかかってるからそれ着とき」
 盧笙は大人しく、作業着代わりとなった簓のデニムジャケットを羽織った。少々オイル臭いが、普段の簓からはあまりしない類いの香りにも良さがあった。
 簓がぶるりと一度震えて、鼻を啜った。
「すするなて。蓄膿なるぞ」
 ダウンから飛び出した羽毛を引っこ抜いた盧笙は、それを簓の鼻先に近づけてくすぐった。大きなくしゃみと共に発散されたものを、盧笙はティッシュで優しく拭き取った。鼻の下を赤くした簓はへらりと笑う。
「きちゃな」
 言葉とは裏腹にほくほくとした笑顔でティッシュを丸め、傍らのゴミかごへ放った。
「あ、袋ついてへんやん」
 かごの底へ直に落ちていった簓の鼻水ティッシュを拾い上げ、盧笙は物置をガサガサと漁った。工具や束ねた雑誌、農家直送の野菜が入った段ボールなど、気づけばかなり所帯じみた空間になっている。
「──ハアどっこいしょと」
「すまんろしょ──え、芋持ってる」
 なんでもないような顔をして戻った盧笙は、さつまいもを棍棒のように握っている。コンパクトな三角に畳まれたレジ袋をパッと解いてサッとゴミかごにセットし、今度はさつまいもをアルミホイルでくるりと巻いた。
「食うやろ?」
 ストーブの上にそれを乗せ、腰掛けた丸椅子ごと簓にぴとりとくっついた。
「食う食う〜」
 やや預けられた盧笙の重みに、簓はさすがに作業を中断して腰に手を回した。ちょうど小腹も空いていたため「さすが盧笙」と言って、その頬へ唇を突き出した。盧笙はそれを気にも留めず、目先の芋が温まっていく様子にワクワクを抑えきれないとばかりに「ココアしよ」とまた立ち上がった。
……ンマンマ」
 行き場を失った口先は悲しみの音を立てた。

 湯気が立つマグカップに、数滴のウィスキーを垂らす。簓が靴磨きで使っているそれを拝借するのは、盧笙にとって優雅なひとときだった。
「ほんでどうする、飛行機」
「結局どこにしたんやっけ」
 二人は寝落ちてしまうまで、旅の行き先の話をしていた。行き先の候補がたくさん出ていて、最終的にどこに決まったか覚えていない簓に盧笙は肘で小突く。
「オキナワは同業と会いそうやから嫌やて、時期もずらしてアタミなったやろ」
「そうやった」
「まあお前鼻ちょうちん作ってたもんな」
「んなアホな」
 盧笙はおもむろにスマホを取り出し、数時間前の動画を再生した。ウトウトと舟を漕ぐ被写体は、顔のアップをローアングルに捉えられている。目を凝らすと、小さいけれどたしかにプカプカと見え隠れするものがあった。画面が小刻みに揺れている。撮影者は笑いを堪えていたようだ。
「お前、これ……。──鼻ちょうちんやんけ」
「そうや言うてるやん」
 盧笙は「赤ん坊でしか見たことない」と満足げだ。
「今年のかくし芸これで出ぇや」
「隠し通すわこんなもん! 今年は傘回しすんの! いつもより多めに目が回っております!言うて!」
「三半規管やられとるがな」
 そこまで言った盧笙ははたと考えた。ついこの間まで若手芸人だった簓が気付けば中堅になり、ついには伝統芸能に挑戦するという。トレードマークのスーツもいいが、もしかするとと思い当たった。
「袴かなんか着てやるん?」
「せやで! ちょうどこないだ衣装合わせもした!」
「ほぉ。楽しみやな」
 「タッ、タノシミ?!」簓は高く鳴いた。
「盧笙が楽しみにしてくれるんやったら俺、頑張っていーっぱい回るわな!」
「いやお前が回るんかい」
 盧笙は芋をひっくり返しながら「升を回せ升を〜」とはにかんだ。

 2人は芋を半分こしてペロリと平らげ、それからさっきのような平凡な会話をしばらく楽しんだ。部屋に戻ってもよかったがちょうどいい具合に温まっていたし、すっかり馴染んだはずのこの家にもまだ新鮮なスポットがあることに気付けた。リビングと比べて他に気を取られるものがない分、お互いをよく見て、よく聞き、なんだか初々しい頃を思い出すような感じがした。
「あー。晩飯めんどくさいな」
 盧笙がそう言うときは「ちょっとデートをしませんか?」という意味を含んでいた。簓はそれをとうに知っていたが、気づいていないフリをしている。そのほうが旨みがあるからだ。
「そうか。ほなどっか食い行くか」
「ええの? 撮られてまうんちゃう?」
「俺らが飯食うてるだけでオモロがるやつなんか今もうおらんて」
 簓は思い出したように靴のつま先を乾拭きし、その立派な輝きを確かめた。鏡のような仕上がりに2人の顔が写り込む。
「そらそうか。なんやぁ寂しいもんヤナァ」
「路チューでもしたら話変わってくるかもな?」
「アホやこいつ」
 ケラケラと笑い合うとガレージに賑やかに反響する。
「そんなん自分がいっちゃん嫌なくせにな」
 おっ、と盧笙に感心した簓は、ギュッと抱きしめて頬擦りした。よう分かってるやん、と褒めれば、うっとうしい、と素っ気なく返す。かと思えば、手持ち無沙汰にシューポリッシュの蓋を閉めて照れを隠したりするのだ。
「おっしゃ。なんしょうか? 焼き鳥か?」
「お前これ着てくんか?」
 盧笙は当たり前のように簓のジャンパーを着たまま財布を手に取った。
「まさか! これは家ン中の一張羅や」
 簓はダウンをバサリと脱いで、適当なコートに着替えた。着倒したそれを後生大事にするのだろう。たくさんの布パッチに盧笙との思い出があるのだから当然だ。
「ほな行きましょか」
「ゆっくり歩いて行きましょか」
 帽子もマスクも一切身につけず、簓は盧笙の手を取った。

 この時期、多くの記者たちがスクープを狙い、成田空港へ向かっていた。手薄になったオオサカで目撃されたのは、この街代表のおしどりふうふの、仲睦まじい光景だけだった。