村椿と玉揺さん

焼肉。

「村椿さん!」
 後ろからかけられた聞き覚えのある声と、モールを駆けるたったっと軽い音。
 振り返った村椿は、片腕を振って駆け寄ってくる玉揺の姿を見てぱちりとまばたきをしたあと、そのまま彼へ向かって足を進めた。
「こんにちは、玉揺さん。なにかありましたか?」
 玉揺の表情に僅かに浮かんでいた焦りは、立ち止まれば安堵に落ち着く。ただ、知り合いの後ろ姿を見かけたからだけではないだろう、と判断して問いかければ流石の運動部か、息も乱さぬ玉揺が片手を差し出してきた。一瞬のきらりとした光。
 なにかしら、と思いながら見遣って、村椿は咄嗟に片耳へ手をやる。不在の感触。
「村椿さんだって思って声かけようとしたら、丁度落としたのが見えて……
 玉揺の手にあったのは村椿が愛用するイヤリングであった。
 村椿の耳にはピアス穴も開いているのだが、このイヤリングを使うようになって長いので塞がりかけている。
「ありがとうございます……! 気に入っていたので失くしたらショックでした」
「いえ、偶然見つけただけですから」
「でも、助かりました……今日もバイトですか?」
 はにかむ玉揺に訊けば、彼は不思議そうにしながらも頷いた。黒髪が掠める頬は走ってきたからか、僅かに林檎色を帯びている。
「では、終わったあとに一緒に食事でも如何ですか?」
「えっ、いや、俺は拾っただけだし……
「初めて一緒にご飯を食べたときもそうだったでしょう?」
 玉揺と出会ったのは村椿が彼の落とし物を拾ったときだった。玉揺のバイト先である店のご飯はどれも美味しくて、村椿は以降も利用している。
 条件は同じだ、と言えば玉揺はもごもごと口を動かしてから「それなら……」と承諾してくれた。
「良かった。焼肉とかお好きですか?」
「焼肉……! 好きです!」
 ぴん、と耳を立てる猫の幻覚。
 村椿は目を細めながら「では、お店を探しておきますね」と頷き、イヤリングを握り締めることでうっかり玉揺の頭を撫でてしまいそうになる手を抑える。二十歳の青年である。こどものように頭を撫でられるのは好ましくないだろう。
「バイトが終わったら連絡をください」
「はい。村椿さんはこれからもお仕事ですよね? 頑張ってください」
「ええ、玉揺さんも」
 イヤリングを耳に着け直し、村椿は「またあとで」と玉揺に手を振る。大きく振り返された玉揺の手が嬉しかった。


 仕事後の気怠い体を引き摺る夜であるが、楽しみのおかげで足取りは軽い。
 普段、個室の店を選ぶことの多い村椿だが、今回は玉揺が気兼ねしないように開けたテーブル席を予約した。向かいに座る玉揺はじゅうじゅうと耳にも美味しい音を立てる鉄板の上のカルビを見て目を輝かせており、大盛りの白米も準備万端であった。
 じわじわと焼けた肉の端が縮こまっていくのを見て、村椿はトングでひっくり返していく。ほんの少しついた焦げ目。網の下へ脂がたらりと落ちると弾みのように火が一瞬ぶわりと起き上がる。いい塩梅で育ったと見るや、村椿はカルビを玉揺の小皿に分けていった。火から逃れた香ばしい焼けた肉の匂いがぶわりと立ち上る。
「肉美味い……溶ける……
 甘口のタレをまとったカルビが脂をじゅわりと滴らせ、艶々の白米とともに玉揺の口に運ばれていく。本人には言えないが小柄な玉揺なのでがっつりと食べていく姿は意外性もあり、何度見ても村椿は楽しくなってしまう。若者が沢山のご飯を食べているのは良いことだ。
「あ、村椿さんもちゃんと食べてます……っ? 俺ばっか焼いてもらっちゃって……
「食べていますから安心してください……あ、ありがとうございます。はい、今度はハラミですよ」
 はっとした顔になり丼を置こうとする玉揺を制し、村椿は店員が運んできてくれたハラミを網の上に乗せていく。分厚いハラミはカルビのように脂もたっぷりな肉汁を持たないが、口の中でねっとりと蕩けて旨味がいっぱいに広がるので、村椿はこちらのほうを好んでいた。玉揺はどうだろうか。
「一人で焼肉という機会もあまりないので、今日は玉揺さんと来れて良かったです」
「そうなんですか……? 村椿さんでもそういうの気にするのちょっと意外です」
「どうせ食べるなら玉揺さんのところのお店のように、誰かが作ってくれるものを食べたくて」
 焼肉には下拵えもあるし切り方ひとつにも繊細な仕事が必要だけれど、しかし生肉を自分で焼いて食べるものである。他者の手作りを好む村椿が一人で利用することはあまりない。
「玉揺さんの作ってくださった餃子もすごく美味しかったので、また食べたいなって思っているんですよ」
「そうなんですか? 俺で良かったらまた作りますよ」
「嬉しいな。本気にしてしまいますよ?」
「あはは。いつでも言ってください」
 それならばほんとうに連絡してしまおう。いい年した大人は欲深いのだ。
 考えながら村椿は焼き上がったハラミに淡雪塩をまとわせている玉揺を見つめる。頬張る前に耳へかけられた黒髪。まっさらな耳朶にピアス穴は開いていない。玉揺の年頃にしては珍しいなと思ったけれど、彼は弓道部の所属である。いつか、なにかの特集で見た知識だけれど、弓道というのは足袋の裏に米粒一つがあっても影響するものらしい。ピアスも集中力に影響するのかもしれない。
……村椿さん?」
「ああ……不躾でしたね。すみません」
「いえ……俺、なにかついていますか?」
「格好いい目鼻が」
「え……! あ、あんまり揶揄わないでくださいよ」
「揶揄ってませんよ」
 照れたように顎を引く玉揺の素直な反応が可愛らしくて目を細める村椿だが、ここで笑い声まで上げてしまえば失礼だと堪える。
 口を塞ごうという意図はないが、物言いたげな玉揺に「次はタンも食べたいなと思うのですが、玉揺さんもどうですか?」と言えば、彼は反射のように「食べます!」と答えた。ご機嫌にゆらゆら揺れる尻尾が見えるようだ。
 ──それからももりもりと肉を食べ、濃厚なチーズミルクアイスも食べ、ふたりは満腹で店を出た。
 夜風が吹くなかを歩きながら他愛ない話をして、マンションの前で立ち止まる。
「今日はご馳走様でした!」
「元々お礼なので気になさらないでください。それに」
「それに……?」
 ぺこりと頭を下げた玉揺の肩を制するように触れて、村椿はまあるい彼の目に悪戯っぽく笑いかける。
「次は玉揺さんの手料理を期待していますから」
 気が抜けたようにへにゃりと笑う玉揺。
「分かりました。めちゃくちゃ美味いの作ります」
「楽しみにしてますね。では……今日はありがとうございました。おやすみなさい」
 肩から手を離す際に一瞬触れた玉揺の耳朶。ぴくりと跳ねた玉揺が「っおやすみなさい」と返す声を聞きながら、村椿は昼間のように彼へと手を振る。
 季節はもう冬になる。
 一緒に鍋を囲みたいとお願いしたら、玉揺は叶えてくれるかしら。