いまさら
2025-11-14 15:24:08
3405文字
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つう

カプ要素薄めの宮トガ

 傷だらけだ。
 小宮は自分の脚を見て、無感情にそう思った。
 幼い頃はよく転んで怪我をしていた。そのせいか、母親が小宮に買ってくるのは長ズボンばかりだった。小宮はそれに文句を言ったことはない。そもそも衣服に対して自分の意見を持ったことなどなかった。何だってよかったのだ。
 それでもできてしまった擦り傷は乾いてかさぶたになった後、周りの皮膚より盛り上がって白い跡となり、小宮の体に歴史を残す。小さなものはもうほとんど消えたが、今でも残っている傷がいくつかある。その多くも、いつできた傷なのか記憶にない。
 特に目立つのは両膝の傷跡だ。ただ、これが何の傷なのかは、小宮ははっきりと覚えている。
 そう、あのときは半ズボンを履いていた。体操服だったのだ。砂の匂い、胸の高鳴り、そしてスタートのピストル。駆けだした直後に派手に転んだ。やっぱり自分はダメなのか、と絶望しかけた瞬間、少年の叫び声が響く。小宮を信じるトガシの声だった。それに対して小宮が何かを思う前に、体が動いていた。勝手に回転する脚に体が着いていかず、ゴールで二度目の転倒。痛かった。幸せだった。
 この膝の傷は十二歳のとき、運動会で作ったものだ。二度も転んだからか治りが遅かった。風呂に入ると湯がしみて痛かったが、そのたびに運動会を思い出して誇らしい気がした。
 その傷は長ズボンの下で、しばらく赤く煌めいていた。
 かさぶたになっても、確かめるようにその凹凸に触れて、あの日のことを思い出す。もう一度、本気で走ってみたい。そんな願いも募っていった。
 別れが決まったのは突然で、感情の整理もできないまま決定事項に従うしかなかった。ただ、トガシと走りたい。それだけが頭にあった。勝ちたかったのか、気を紛らわせたかったのか、何を考えていたのかは覚えていない。

「小宮くん、そのつう、どうしたん?」
 体育の見学中、跳び箱の順番待ちを抜け出してきた生徒にそう尋ねられ、小宮は返事に困った。言葉の意味が理解できなかったのだが、それを聞き返してもいいものなのかも分からない。小宮が黙っていると、見かねた別の同級生が助け船を出す。
「つう、って方言なんよ。『かさぶた』って言っちゃらんと。ね、小宮くん」
「あ、うん」
 転校先で飛び交う言葉はまだ聞き慣れない。小宮は曖昧に頷いた。「つう」は「かさぶた」。「かさぶた」は「つう」。心の中で繰り返す。
「えー! 知らんやった! じゃあ、他にも分からん言葉ある?」
 最初に小宮に質問した生徒は、既にそのことを忘れ、自身の操る言葉が方言であるという驚愕の方に飛びついた。分からない言葉。これも困る質問だ。だって、何が分からないのかも分からない。
「おーい、喋っちょらんと集中せー」
「はーい!」
 教師に注意された同級生たちは元気よく返事をして順番待ちの列に戻っていく。体育館の端に残された小宮は密かに安堵した。
 前の小学校とはまた雰囲気が違うが、転校生の小宮にはみな好意的だ。違うアクセントで、違う言葉で喋る小宮のことを面白がることはあっても、排除することはない。
 でも、小宮自身はどうしても孤独だった。鮮やかな赤い魚の群れの中、自分だけが黒く異質な魚だ。幼い頃に読んだ絵本を思い出しながら、心細い気持ちで跳び箱の列を眺める。
 半ズボンから覗くかさぶたをそっと撫でる。この夏は例年よりも暑く、母が珍しく半ズボンを買い与えたのだった。それに、今の小宮は右足を怪我していて──足の甲を疲労骨折したらしい──松葉杖の生活だ。走って怪我をすることすらできなかった。
 あの日トガシと走ったのは夢ではないと、この骨折が、このかさぶたが証明している。かさぶたの少し上には運動会のときの傷が白く引き攣れた跡になって残っていた。
 引越し先に持ってきたものの中で、小宮はこれらを一番気に入っていた。
 疲労骨折の経験が足枷になるのはもう少し後のことだ。十二歳の六月はまだ、膝の傷跡とかさぶたを見れば、小宮は自分を確かなものとして実感することができた。

 ◆

 シーズンに入り、リハビリを終えて復帰したトガシとも会場で会う機会が増えた。トガシは試合前もしくは試合後に毎度律儀に挨拶しに来る。試合前は言葉少なだが、試合後だとたわいない会話を投げかけてくることもある。
 たまには小宮がトガシを訪ねようと思っても、いつも彼の方から現れるのだ。
「小宮くん、お疲れ。それ、どうしたの」
 今日もレース後の小宮の前に姿を現わしたトガシに問われ、それ、とはどれのことだろうと考えた。
「髭、なくなってるし。頬、ちょっと切ってるし」
 小宮の思考を読んでか、トガシが答える。ああ、これのことか、と小宮は納得して答える。
「気分……で、剃って、怪我した」
 何とはなしに髭を剃ったら、剃刀で頬を切ってしまった。トガシは何がおかしいのか、けたけたと笑って「跡にならないといいね」と言った。
「別に跡になってもいいよ」
「えー、撮影とかあるだろ。それに、跡になっちゃうと髭も剃りにくくなるよ」
「そっか。じゃあ、それがいい」
「めっちゃどうでもよさそうだな」
 小宮は毎度不思議な思いでトガシと会話していた。今もそうだ。走ることを通して分かり合う部分はきっとあるが、それもすべて重なるわけではない。一歩でも走ることの外に出れば、途端に何もかみ合わなくなるのではないか。
 トガシはそんなことを全く気にする様子もなく話しかけてくるので、小宮も気にしなくていいのだろう、とは思うものの、自分の変化に不安がないわけではなかった。走るために、記録のために、不要な他者との関わりを削ってきた。このやり方では限界があると気がついたが、かといってどこを目指せばいいのかも分からなくなってきていた。
 少し前にトガシにスランプのときはどうしているか聞くと「俺ずっとスランプみたいなもんだしなー」と嘘のような返事があったのは記憶に新しい。「いつもとちょっとだけ違うことする、とか?」とアドバイスのようなそうでもないような回答があったのも覚えている。
 何とはなしに、ではなくトガシの言葉に惹かれて髭を剃ったのだった、と小宮は思い出した。そして、頬を切った。
「傷跡って、その存在を忘れたら消えるらしいよ」
 トガシが冗談か本気か分からないトーンで言う。どちらでもないのかもしれない。血液型占いのような迷信だ、と小宮は思った。

 自宅でストレッチをしている際に、膝の傷跡が目に入り、トガシとの会話を思い出した。
 迷信だと一蹴したが、確かに身に覚えがある。かつてお守りのようにしていたこの傷跡たちは小宮の脚に居座り、いつしか人生の半分以上を共にしている。
 トガシが言ったことが本当なら、この傷が消えることはないだろう。小宮はきっとそれらを──記録に取りつかれるようになっても、無意識下では──忘れたことはないからだ。
 膝の表面に白く盛り上がって散りばめられた傷跡に触れ、凹凸を確かめる。忘れられないのは、毎日この傷を見るからだろう、とも思った。
 小宮にとって心臓とも等しい場所に、少年の日の証が静かに横たわっている。

「小宮くん、お疲れ。おお、頬の傷、まだ痛そうだね」
「痛くはないけど、つうになったら、余計に目立つようになった」
「つう?」
「かさぶたって、大分の方言で「つう」って言うんだよ」
 説明しながら、小宮はこの言葉が自分の一部になっていることを少し意外に思った。あの孤独で不安な日々も確かに自分のものなのだ、と今になってはっきりと自覚する。
 トガシは「そっか、小宮くんって大分にいたもんな」と納得する。
「大分って唐揚げが有名だよね、いいなあ」
 心底羨ましそうにそう言うのを見て、小宮はまた不思議な心地がした。トガシくんって唐揚げが好きなんだな。どうでもよくて、どうでもよくないことを初めて知る。
「とり天もおいしいよ」
「うっ、とり天も……!」
 トガシの大げさな反応に、小宮はついに笑ってしまった。そんなわけがないのに、なぜか初めてトガシと話したような気がする。
 笑うと、頬の傷が引っ張られて痛みが走った。これもきっと跡になって残るだろう。小宮はそう思いながら、もうしばらく髭は剃らないでおこう、と決めたのだった。