遅い時間に来客があった。窓の外にたなびく雲が、うっすら染まりかけているころだった。こんな時間に、こんな場所に、珍しいこともあるもんだと重い腰を上げ、扉を開け、あ、といいかけて飲み込んだ。頭からすっぽり被った黒い衣の奥、まっすぐ見上げてくる瞳が、まんまと驚かせてやった、といいたげに細められる。そういえばこの子はいつも、こうして意表をつくのだった。
「太公望。久しぶり」
「伏羲と呼べ」
「なんの用?」
してやられた悔しさはとりあえず置いておくことにして、つとめて普段通りに片手を上げると、小柄な客は後ろに隠し持っていた酒瓶を掲げてみせた。
「どうせ暇であろう。一杯付き合え」
得意げに目くばせする様子が可笑しくて、太乙は「きみらしいね」と笑った。
どこにいるか、なにをしているか、そもそもどこかにいるのかどうかすら、もうだれにもわからないという話を聞いていた。教主を引き受けた楊戩が「やたら重い荷物ばかり押し付けてまったく……」と愚痴をこぼしていたのを覚えている。あれほど多くの人の心と記憶に、存在感と喪失感を残しながら、だれにも尻尾を掴ませないところも、いかにも彼らしかった。太乙自身は、わざわざ捜索するほどの執着もないし、本人がいなかったことにしたいなら、そのまま放っておいてやればいいと思っているのだけど、
「そんなきみがわざわざ訪ねてくるなんて、どういう風の吹きまわしだい」
散らかった部屋を申しわけ程度に片付けながら訊くと「まあそう急かずとも」とのらくらかわした挙句、勝手にそのへんにあった酒器を並べ、いそいそと酒を注ぎはじめた。
「わしが各地を飛び回って探した極上の酒だ。これほどの美酒にめぐりあえるのはあと千年はないであろう」
「おおげさだなあ」
肩をすくめつつ、かるく杯を合わせる。甘やかな香りがあたりに満ちて、ささやかな酒宴がはじまった。
久しぶりの酒だった。やることも、考えることもあるにはあるけれど、以前のように飲まねば眠れないという日々ではなかったのだ。作るものがすこし変わったからかもしれない。前向きで、ささやかで、だれかをちょっとだけ幸せにするものを作る、そんな仕事は、太乙に新しいよろこびをもたらした。こんな充足感ははじめてだった。
伏羲は「やはり酒はよい」とご満悦で手酌をくり返している。えらく変わったものだ。道士として崑崙山に来たばかりの頃は一途で、まちがったことを許さぬ生真面目さを鎧みたいにまとっていた。十二仙が昼間に酒宴など開こうものなら「位の高い仙人が、日の高いうちからこうもだらしなく酒など飲んでいてよいのですか」と息巻いていたのに。
いつ、どこで、どんな理由で酒を許したのだろう。
「そんなのは言うまでもない」
伏羲は愉快そうに笑う。ということは
「もしかして普賢?」
「わしにそんな悪事を教えるものなど、ほかにおらぬからのう」
はじめて酒を口にしたのは冬だった、とても寒い日で。
まるで昨日を思い出すみたいに、彼は昔を語りはじめる。
崑崙山に来て以来、いちばんの寒さだった。ここに長く暮らす仙人たちでさえ、今年の厳しさはこたえると愚痴をこぼすほど。若い道士にあてがわれた部屋は、雨風こそしのげるものの壁板は薄く、火をくべる暖炉などもないから、夜中に寒さで目が覚めることも少なくなかった。薄くてかたい布団をかきあわせるだけでは足りず、二人で布団にくるまってガタガタ震えながら、早く春になればいいのにと冷えた足先をすり合わせた。
「体温を上げればいいんだ」
ある日の夕方、普賢がそっと手のひらを開いた。蓋付の小さな器だった。中に澄んだ液体がなみなみと入っていて、ふんわり甘い香りが立ちのぼった。明らかに酒だった。
「いや……、ダメだろ」
まだ修行中の身であるのに、そんなものにかまけていてはいけない。そう拒んだものの普賢は譲らなかった。
「だってこのままじゃ凍えて死んでしまうよ」
「だからといって酒は」
「適度なアルコールは体温を上げるから、適量を守れば問題ない」
実は僕、飲んだことがあるんだ、と小声で打ちあけられ、とうとう折れた。だれにも見つからない時間に、すこし舐めるくらいならと、ほだされてしまうほどには、夜の寒さは耐えがたかったのだ。おそるおそる口をつけ、舌と喉を焼く刺激にしかめ面をしたのは最初のひと口だけ。やがて雲の上を歩いているような、ふわふわした感覚に包まれた。手も顔もほかほかとあたたかい。
「ほら、言った通りでしょう」
普賢もすっかり頬を染め、声を弾ませる。
「十二仙さまに教えていただいたんだから、まちがいないんだよ」
「十二仙? どの十二仙?」
「とてもいい人」
「見習いの道士に酒を教えるなんて、いい人なわけないだろ」
そんな軽口をたたきながら、ひと口ずつ交互に飲み、気づいたときには酒器は空になっていた。酔った勢いで二人で外に出れば、肌を刺すほどの冷たい空気も、ほてった体に心地よかった。木々の枝は葉を落とし、その向こうに見える空は濃い群青。日中溶けなかった霜柱が、足の下でさくさく音を立てて、それが楽しくて、笑いながら意味もなくぐるぐる歩き回った。
「結局、次の日は頭痛と吐き気がひどくて起きられず」
「凝りたのかい?」
「残念ながら」
伏羲は首を横に振った。
「わしらは愚かだったので、次こそ大丈夫と思ってしまったのだ、しかも何度も」
あははは、と太乙は吹き出した。太公望が無断で修行を休んで、広成子がガミガミ叱っていたあれだろうか。「若者が調子に乗って飲みすぎるなんて、よくあることじゃないか」ととりなした記憶があるけれど、あんなに憤慨していたのは、もしかしたら一度や二度ではなかったからかも。あそこに普賢も一緒だったんだな。普通、二人いればどっちかが止めそうなものだけれど、この二人なら「二人だからこそ大丈夫」と思ってしまっても不思議ではない。
「あの子、そんなに飲むんだっけ」
「むしろわしよりも」
「へえ、それは知らなかった」
そうであろうな、と伏羲はこちらの杯に酒を注ぎ足した。麦の風味を舌の上で転がせば、ほのかな香ばしさが鼻から抜けていく。酒は、水と穀物と酵母で作られるので、土地ごとに味や風味がちがうというけれど、この美酒はいったいどのあたりのものだろう。
いつの間にかとっぷり日が暮れ、窓の隙間からひんやりした風が部屋の空気を回した。なめらかな酒の表面に、部屋のうすい火がぼんやり映って揺れる。
「——ところで、以前から訊きたかったのだが、太乙、」
逸らした目がふたたびまっすぐこちらを見据えた。
「——普賢に酒を教えた十二仙というのはおぬしか」
「ええ……どうだったかなあ」
そんな昔のことは覚えていない。普賢は勉強熱心で修行熱心、でも同期と一緒にいるとまれに驚くほどはめを外すこともあった。ただ、それだってとりたてて特別ではなく、いわば「よくいる道士の一人」だった。
「あの子はみんなにかわいがられていたから、玉鼎あたりが甘いのを分けたかもしれないよ。赤精子もおもしろがってすすめそうだし」
「あやつらは普賢に甘かったからのう」
「だから私じゃないんじゃない? だって私は一度も普賢と飲んだことはない」
悪酔いするまで飲むことがあったなど初耳だし、さしで酒を酌み交わしたこともない。そもそも気になるなら本人に聞けばいいのに、と口を尖らせると「できればとっくにやっておる」と不服そうに酒を舐めた。
「いっこうに口を割らんからこうして訊いておるのだ。あやつがどこかで酒を覚えてこなければ、わしも無様に酔いつぶれることはなく、酒とは無縁の清廉な人生を生きたかもしれんのに」
「泥酔拳使えるようになってよかったじゃないか」
「それはそれだ。——これでようやくわかった。やはりおぬしだ」
「私じゃないってば」
「普賢が言ったのだよ。酒を教えてくれた十二仙はけっして自分とは飲もうとしなかった、と」
「たぶんその人は、僕のことはなんとも思ってなかったんじゃないかな」
普賢がそんな話をしたのは、仙人になって洞府を持ってからだ。たまたま夜に訪れた白鶴洞で、ぼんやり外を見つめる同期の手に、杯があった。月のない夜、酒に映るのは夜の闇ばかりだった。
「酒は体をあたためる妙薬である。体温を上げればよく眠れるようになるし、食欲も出る。よく食べてよく眠れば病気になりにくくなり、丈夫な体になればおのずと集中力も増す。翌日の修行にも適度な飲酒は効果的である」
その人はそういって道士の普賢に酒をすすめたという。
ただし、「宴席など懇親の場にも用いられるが、もともと気心の知れた間柄だからこそ、酒が互いの緊張を解くのであって、だれとでも飲んでいいわけではない。百薬の長ではあるが、人によっては理性のたがを外してしまいかねない。つねに理性的であるために、考え事をしながら飲むなら一人で。酒を酌み交わす際には相手を慎重に選ぶこと。だからきみとは飲まない」
そう付け加えたという。
杯を手のひらで揺らし、ほんのり染まった頬に頬杖をついて、普賢はくすくすと笑った。
「僕は子供だったから、その人と酒を飲む身分ではなく、その資質も備えていないと思ったんだよね。でも結局、仙人になっても十二仙になっても、一緒に飲んでもらえなかった」
誰かと酒を飲むとは、そこでいろんな話をしたり笑ったり、酔いの力を借りてこれまで言えなかった思いを打ち明けたりして時間を共にすることを指す。それは酒を覚えてから知ったことだ。
「飲みたいならこちらから誘えばよいではないか」といえば「なんどか言ってみたけど、やんわり断られたよ」と肩をすくめた。
「指導する側の仙人が、導くべき新人道士に、体をあたためるために酒を教えた、それだけ。なんとも思ってなかったんだ。湯たんぽ代わりだって言ってたし」
普賢はすこしだけ考えるそぶりをしてから酒を飲み干した。
「二人で飲んだら楽しいんじゃないかなと思うこともないわけじゃないけど、今さら酔ってるところを見られるのも気恥ずかしいからね、これでいいんだ」
「あやつは昔から、自分の中だけで物事を完結させる癖があって」
残り少なくなった酒を惜しむように、伏羲は杯を傾ける。
「最後まであやつは本心をあかさず、結局うやむやにしたから、律儀なわしはほかの十二仙に問いただしたのだ。するとだれもが普賢と飲んだことがあると答えた。ということは、おぬししかおるまい」
しばしの沈黙の後、深く、深く息を吐いた。視界が揺れたのは酒のせいかもしれないし、目の前の、おせっかいな弟弟子のせいかもしれなかった。
「酒は体をあたためる妙薬——」
太乙はぼそりと呟いた。
「体温を上げればよく眠れるようになり、食欲も出る。よく食べてよく眠れば病気になりにくくなり、丈夫な体になればおのずと集中力も増す。翌日の修行にも適度な飲酒は効果的である。……確かにそう言ったさ。仕事が忙しすぎてストレスで眠れなかったから、寝付くまでそばにいてよって頼んだんだ。とても寒い夜だったから、あの子の体は冷たくてね。だからまず体をあたためようとしたんだ」
まるっきりでまかせではないけれど、普賢だってそのまま信じたわけではなかったはずだ。「湯たんぽ代わりだよ」と付け加えてようやく、おそるおそる酒を口にした。あからさまに、この仙人を本当に信じていいかどうか疑いながら。
「そういうことが何回かあったかな。——ねえ、太公望。あの子がやってくるのは、足音でわかるんだ」
遠慮がちに、足の下の霜柱を崩さないように、そっと、そっと歩いてくる。眠いのと眠れないので麻痺した耳が、霜を踏むかすかな音だけはいつも正しく捉えた。
「たいてい私より先にあの子が眠ってしまって、私は寝息を聞きながらうとうとするんだ。朝まで熟睡できたことはなかったけれど、それでも、何日も一睡もできなかった後のほんのちょっとの眠りは気持ちよかった。頭の中の空気が全部入れ替わったみたいにすがすがしくてさ」
あれが最初の酒だったかどうかなんて知らなかったけれど、朝「よく眠れたよ、ありがとう」と言うと、普賢はちょっとホッとしたような、それでいて疑いの晴れぬ表情で一礼した。
「言っとくけど、飲ませるのが目的じゃなかったからね。あくまでも酒は、私を寝付かせるための道具。だからその後も飲まなかったってだけ」
太乙は杯の底に残った酒に指先を浸した。普賢が仙人になってすぐだっただろうか、これまで修行に付き合ってくれたお礼をと酒に誘われたけど「きみとは飲めないっていっただろう」と笑ってはぐらかした。
「あの子は十二仙になると思ってたし、こちらから断ったのさ。年上の仙人と同席していれば誰に見られるかわかんないし、便宜をはかったと噂になるのも困るし。太乙真人さまに酒の味と酩酊の後悔を教えてもらいました、なんて言いふらされた日には元始天尊さまになにを言われるかわからないし」
伏羲はしばらく黙って耳を傾けていたが、やがてほとほと呆れたといわんばかりにため息をついた。
「どいつもこいつも、きれいごとで話を終わらせたがるくせに、ひと言も本音を吐かぬ。おぬしも普賢と同じだ、自分一人でわかったふりをするでない」
よーするに!と空になった杯を目の前に突きつけて、伏羲はじっとり酔った上目遣いで睨む。
「——なんだかんだ小難しい講釈を垂れておるが、要するに、酔ってなにをするかわからんから近づくなと。そういうことであろうが」
「…………うるっさいなあ!」
卓に突っ伏して頭を抱えた。
「わざわざこんなところまでそんなことを言いに来たのかい。だいたいなんできみがそんなに気にするのさ! 今さらどうでもいいだろう?!」
図星を言い当てられた八つ当たりだという自覚はあったが、言わずにいようと思っていたことまで、穴の開いた袋みたいにぼろぼろとこぼれ出る。だから嫌だったのだ。
「もちろん別にどうでもよいのだが」
伏羲は肘でにじり寄って、太乙の額をつついた。
「あやつには借りがあるからのう、始祖の一生をかけても返せぬほどの大きな借りが」
さっきまで酔った笑みをたたえていたのに、このときだけは真面目に、その人は太乙を見つめた。
「普賢はおぬしと酒を飲みたがっておったし、それはいまだに叶えられておらぬようだ。だからそれにほんのすこし近づけてやろうと思うたまでだ」
「きみが勝手にそう思ってるだけじゃないのかい」
「うんと遠回しな愚痴を聞かされたわしの身にもなれ」
「うっ……」
おせっかいめ、と唸って、太乙はうなだれた。
最初は本当に冗談だった。
眠くて死にそうだったのは事実だけれど、眠るまでそばにいて、というのも、湯たんぽ代わりだというのも「そんなことできません」と拒まれる前提で、からかっただけだ。まさか本当に洞府にやってくるなんて想定外だった。
おいでと手招きすれば、ぎこちなく腕の中におさまった。酒を飲んだ普賢の体は思った以上に華奢であたたかかった。まいったな、と思った。つねに理性的であるべきだと、偉そうに説いた手前、こちらが酔うわけにはいかなかった。酔った勢いでなにも言わずにいられる自信はなかったし、ましてや酔いに任せて抱いてしまわない理性もなかった。
「普賢とどうこうなるつもりはなかったよ。あの子は真面目で前向きで、きみとの時間をいちばん大事にしていたから」
「わしのせいにするのもそれぐらいにしておけ」
「言い訳も許してもらえないのかい」
「普賢からの誘いを断った代償だ」
「理性を総動員した私は、もっとほめてもらってもいいと思うけど!」
「わしはつねに同期の味方だからのう。……おっと、そういえば」
わざとらしい声を上げて、伏羲は懐からなにか小さなものを取り出した。手のひらに包んだそれは、封を切っていない酒瓶だった。
「わしが各地を飛び回って探した極上の酒だ。これほどの美酒にめぐりあえるのはあと千年はないであろう」
「————」
「ぜひ大切な友にも飲ませてやりたいが、あいにくわしは多忙でのう。そこでだ、太乙」
ぐいと身を乗り出し、声をひそめる。
「神界へ届けてくれぬか」
一瞬、言葉を失ってから、変わらないなあ、と苦笑した。悪だくみを持ちかけるときはいつもこんな調子で、こっちの都合もそこそこに巻き込んで共犯者にしてしまう。
仕事は忙しくないし眠れないわけでもない。普賢はもうとっくに大人になった。
断る理由は見つからなかった。
「……わかったよ。わかった。太公望が何としてでも持っていけって脅すからって言っておくよ」
「それならわしもせいぜい悪役に徹するかのう」
そういって笑った顔は、悪戯を楽しんでいた道士の頃のままだ。
「ねえ、太公望、」
そろそろ時間だと立ち上がりかけた人を呼び止めた。
「また寄っておくれよ。ときどきこうして普賢の話をしよう」
理屈っぽくて素直じゃなくて、秘密主義で、人の話を聞かず、どこまでもまっすぐに生きた、大好きな人の話をするには、酒も時間もいくらあっても足りない。
「向こうへ行った人の噂話をすると、その人の頭上に花が降るシステムが、神界にはあるらしいよ」
そういうと、伏羲はきょとんとしたあと、くつくつと笑った。
「それではきっと、いまごろあやつは花まみれにちがいあるまい」
空から降ってくる花を見て普賢はどんなに驚いているだろう。そんな姿を想像するのはとても愉快で愛おしかった。おそらくこの同期も同じ気持ちのはずだ。
「さて、じゃあ花が降り続いているうちに行ってくるかな。花には酒があったほうがいいから」
「体温を上げればよく眠れるようになり、食欲も出る。よく食べてよく眠れば病気になりにくくなり、丈夫な体になればおのずと集中力も増す。さぞ健康的な神になるであろうな」
笑いあい、空になった杯を合わせて、酒宴は幕を下ろした。
了
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