【見つめていたい/Every Breath You Take】
はじめてそれに触れた時、世界を手に入れたと思った。
祖哥哥にねだって買ってもらった、最新式のラジカセだ。銀色でピカピカしていて、丸いスピーカーが両側についている。持ち上げてみるとずっしりと重かった。
ずらりと並んだ四角いボタンのひとつを押して、カセットテープを入れる。そうして再生ボタンを押せば、それだけで音楽が流れだす。
小遣いでカセットテープを買い集めた。レコードショップに出かけては、派手派手しい音の洪水からお気に入りを見つけだして自分の部屋に並べていくのが楽しかった。
十二を連れていく時もあった。もとから音楽に興味はないらしく、英語の曲はどれも同じに聞こえると言って店内では暇そうにぶらついていた。たまにおまけのポスターがもらえると一緒に喜んでくれたし、ラジカセを見せびらかした時もすげえなと感心はされたけど、それだけだ。
幼なじみの反応はさておき、信一は夢中になった。寝ても醒めても鳴り続けるのはロックミュージック、気分次第で選びとっては歌って踊る。
歌詞カードを壁に貼り、読みがなを書きつけたりもした。
ヴォーカリストが歌う。恋を、悲哀を、幻想を歌う。
鮮やかに、時にはひそやかに、世界に向かって音を放つ。
年中薄暗くてじめじめとした城砦の中にいても、お気に入りの曲ひとつで燦々とした真夏のビーチにいる気分になるし、見たこともない退廃的な都会にも、それこそ宇宙にだって飛んで行ける。最高にクールだ。
「信仔。音量を下げてくれ」
みんなに聴かせたくてラジカセを理髪店に持ち込むと、祖哥哥は決まって眉を顰めた。客とのやり取りに大声を出さなくてはならないからだ。やがて小言が飛んでくる。
デカい音で聴くのがかっこいいのに、とくちびるをとがらせながらも信一はボリュームをしぼる。
けれど、それはそれで悪くなかった。かすかに流れるメロディにリズムを取りながら眺めると、見慣れた理髪店が映画のワンシーンのようにも見えてくる。
そこにいる祖哥哥も一段とかっこよくて、目が離せなくなった。
店の中を歩いてるだけでさまになる。ふと立ちどまる時も、剃刀を鞣す手つきも、煙草をくわえて火をつける横顔も。
住人の止まらないお喋りに困っている顔さえもキマっていて、そんな仕草のひとつひとつがまるで映画スターみたいでつい見入ってしまうのだ。
「信仔は歌手になるのかい」
祖哥哥の働く姿を見つめながら小さな音に合わせて口ずさんでいると、隣で散髪中の客に声をかけられた。
「え、おれ?」
「そりゃあいい。顔立ちも華やかだし有名になるよ」
そのまた隣の客が口をはさんだ。
「世界中を飛びまわる自慢の息子になる。ねえ龍さん」
「ああ、そうだな」
店主は鋏を手に、なに食わぬ顔でそう言った。
まさか、と信一は躍起になって口を開いた。
世界中だなんて、やだよそんなの。
スポットライトを浴びてキラキラ輝く彼らにはそりゃ憧れるし、イカしてる着こなしだっていつか真似してみたいとは思うけど。
「だって、そんなことしたら何か月も帰ってこれなくなるんだよ。祖哥哥のご飯もおやつも食べられなくなるなんておれ、絶対いやだ」
離れたくない。そばでずっと見ていたい。
涙ぐみながら頬を膨らませる信一を見て、信仔はまだまだ子どもだなと客たちが笑う。
そんな中で、少祖はなにも言わなかった。
眼鏡の奥で少しだけ目を細めて、なんとも言えない表情で微笑んだ。
「あの時、本当はどう思った?」
揉め事も集金も帳簿の締めもなく、珍しく暇を持て余した日。
いつものバーバーチェアにただ座っているのにも終いには飽きて、ナイフの手入れをはじめた。客足も引いているのを良いことに、剃刀用のなめし革を拝借して薄い刃を研いでいる。ついでに店の剃刀も。
鼻歌まじりに心地の良い摩擦音を鳴らしながら、信一はふと少祖に訊いた。あの流れで、俺がやっぱりロックスターになりたいなんて言いだしてたら、どうするつもりだったかと。
隣の鏡には同じように暇に遊び、腰を落ち着け煙をくゆらす姿が映る。
「言っただろう」
指に挟んだ煙草が揺れる。
「お前の好きなようにすればいい」
お前なら、ロックスターだろうとサッカー選手だろうと望みのままだ。
真っ直ぐなまなざしでそう言われ、信一は吹きだした。
「まだそんなこと言ってんの? だからそれは、身内の欲目ってやつだから」
外で言うなよ、と冗談まじりに、半分本気で釘を刺す。
音楽は相変わらず好きだけれど、ラジカセはもう店に持ち込まない。今日のようにすることがなければここに座っている。
そして、ただひとりを見つめている。
聞こえてくる外の音。代わり映えのない景色。それでも毎秒ごとに目に焼きつけたくなる姿がある。同じ目線で同じものを見るために、ただひたすら追いかける。
特別なメロディはなくても、世界中の人間に知られなくても。自分と目の前にいるあなたが知っていればそれでいい。
今が幸福だってこと。
しかし少祖も本気だった。
「今からだって遅くはないんだぞ。ここに縛りつけられる必要はない。お前はどこへでも行けるし、なにもかも好きなように選べるんだ」
そう言って立ち上がると、客は来ないと踏んだのか、店の片付けをしはじめた。
それが信一を思っての言葉だとは痛いほどよくわかる。世界は広い。自由に羽ばたいていくべきだ、とよくある物わかりの良い親のつもりでいるのだろう。
だからこそ知ってほしくて、はっきりと口にする。
「──そう、選べる。だから俺はここにいるんだよ、大佬」
磨き終えたナイフを並べ、目の前の鏡には満足げな自分が映る。
さらに目を凝らせば、その奥に小さく点る横顔もまた、同じように微笑んでいた。
【これが愛だって?/So This Is Love?】
「信一」
朝早く、テーブルの向かい側から差し出されたのは細長い箱だった。まだねぼけ眼のまま朝食にありつこうとしていた信一は、粥の隣に置かれたそれに首をかしげた。
「
……なに?」
「少し早いが誕生祝いだ」
「えっ、なになに? もしかして、」
ぼやけた視界と思考が一気に塗りかえられる。早速開けてみれば、箱の中身はネックレスだった。装飾はなく、銀色のチェーンだけのシンプルなやつだ。
「哥哥
……これって、」
「まったく同じものじゃないんだが」
幼い頃、養父の胸もとからのぞく銀色の鎖は信一の興味を大層引いた。背伸びをしても見えないけれど、抱っこをされると普段はシャツの下に隠れたそれに触れられる。
真っ直ぐな鎖骨にかかる鎖。少し重たげだけど、きらきらしていてかっこいい。
「こういうの、おれもしたい」
「そうか、じゃあ信仔が大人になったらくれてやろうか」
そうじゃないよ、と信一は頬を膨らませた。
それじゃあ意味がない。祖哥哥と一緒に、同じのがしたいんだ。
それで、なんて言ったんだっけ。
記憶すら覚束ない、他愛ない思い出のひとつ。
「俺のは随分と昔のものだからか、同じものが見つからなくてな。似ているやつをと探したんだが
……、店員が言うにはそれが今風なんだそうだ」
そう言われて、信一はネックレスをまじまじと見つめた。たしかに鎖の形が少しだけ違う。
「もし気に入らなければ取り換えて──」
「全然いいよ、気に入らないわけないだろ?」
信一は食い入るようにそう言った。ありがと哥哥、すっごく嬉しい、と笑顔を見せる。
今日も仕事着でもあるハイネックシャツの下には信一が憧れ続けたその鎖がきらめいているのだろう。
それと違うものだとしても、揃いのものを与えようとしてくれたことが、探してくれたことが嬉しかった。
それはもう、ほぼお揃いみたいなものだ。
勝手にそう解釈して早速箱から取り出すと、新しいネックレスは濡れたような輝きを放ちながら手のひらの上でずしりと重みを主張した。そっとつまんで留め具を外す。
「今、つけてもいい?」
子どもの頃なら後にしろ、先に食事をとたしなめられたかもしれない。仕方がない、起きぬけにこれを出してくる哥哥も悪い。
行儀や躾よりも信一が喜ぶであろうことを優先してしまうのは、今も昔も変わらない。
「んー、うまくはまんねえな」
「どれ」
煙草をくわえたまま少祖が手を伸ばした。信一は首の後ろに手を回したまま背中を向ける。
甘い香りの煙に包まれながら、耳許でかちりと音がした。それからふと、苦笑いを混じえながら少祖が言った。
「
……本当は、誕生日当日まで取っておこうと思ったんだが」
「待てなかったんだ?」
信一はくすりと笑って振り返る。
案外子どもっぽいというか、可愛らしいところがあるのだ、このひとは。
今も昔も信一を優先してくれていると思っていたけど、ひょっとすると、それと同じくらい少祖自身も楽しんでいるのかもしれない。
そう思えるくらいにはご機嫌だった。その手でつけられたネックレス。ひんやりと肌に吸いつく、特別な感触。
一生外せる気がしない。
「似合うかな?」
「ああ、色男ぶりに磨きがかかるな」
そこでようやくすっかり湯気の消えた粥の存在を思い出す。向かい合って匙を取り、きれいに平らげてから信一はもう一度礼を言った。
「ありがとう哥哥。大事にするよ」
そう言ったからには大切に、手入れもきちんとするべきだ。どうすればいいかと訊くと、少祖は何のことだと言わんばかりに首を傾げた。普段からつけっぱなしで特になにもしていないらしい。
他に誰か詳しそうなやつを思い浮かべて、とりあえず四仔を訪ねた。
貴金属の扱い方? どうして俺が、と顔を顰めながらも、鎖を絡めた信一の指先をちらと眺めて言った。
「プラチナか」
「そうなのか? 銀じゃなくて?」
「素材が違えば手入れの仕方も違う」
同じ銀色だろ、と言った信一に、四仔は呆れ顔で新聞を投げつけた。経済欄の金相場には銀やプラチナの時価も載っている。
「え、高。こんなに違うのか」
といってもそこに書かれた数字と今実際に身につけている現物とでは比較しようがないし、違いがわかるわけではないけれど。
「でもたしかに、よく見てみるとなんかこう、品のある色してるよな」
「現金なやつ」
「でもさ、これって」
信一はまた胸もとの鎖を指で掬った。
「言ってみれば哥哥から俺への、愛情の形だろ? 愛って計れるんだな」
「用が済んだら帰れ」
四仔は心底どうでもいいという顔をした。背を向けてビデオテープをセットする。響きわたる嬌声の中、うっとりしながら信一は俺の愛も経済欄に載ればいいのに、と思う。そうすれば俺がどれだけ哥哥のことを好きかわかってもらえるのに。
たかが一グラム。けれどもそれが時価になったら絶対に途方もない数字になる。これだけいつも考えているんだから。
子どもの頃からずっと好きで、ことあるごとにそう伝え、同じくらい返された。当たり前にあった感情は揺らがないまま、大人になるにつれ変化していった。それがどんなものなのか、あのひとはきっと知らない。
そんなことを考えながら一日の仕事をこなした。理髪店へ向かったのは閉店後だ。
扉を開けると、少祖は奥で何やら取り出していた。いつもの普洱茶かと思えば、手にしていたのはウイスキーのボトルだ。
「どうしたの、珍しいね」
「差し入れにもらった。せっかくだから味見に少し付き合うか?」
「いいね」
頷くと、テーブルに置かれたふたつの小さなグラスに琥珀色の液体が注がれた。今日一日の労りを込めて、軽く目線に持ち上げる。ひと口含めばとろりと喉を灼いた。
「そういえば今朝もらったこれ、プラチナなんだって? 金より高くてびっくりしたよ」
新聞で相場を見たことを伝えると、少祖はさして興味もなさそうな様子だった。
「まぁ変動するものだからな。いつどうなるかはわからん」
「そっか、じゃ俺の時価が載っても面白くないな。絶対変わんないし」
「お前の時価?」
訝しげな声で聞き返され、信一は答えにつまった。溢れまくるこの愛を数値化して哥哥に見てほしいんだ。真顔で言うには酔いが足りない。
微笑みが吐き出された煙とともにふわりと浮かぶ。
「それは困るな。信仔がどこぞの誰かに買われてしまう」
困るだなんて。たまに冗談だか本気だかわからないことを言う。片頬だけを緩ませながらも信一は同じような調子で返した。
「切り売りはしないよ」
「そうしてくれると助かるな」
そう言って少祖はグラスを傾けた。それにつられるようにして信一も手許のグラスを呷って空にする。テーブルにこてんと頭を載せて、上目遣いで少祖を見上げた。
「哥哥はさ、俺を喜ばせるのが上手いよね」
「それはなによりだ」
「買われるなら哥哥がいいな」
「なら、それは首輪か?」
ん? と信一の胸もとを目線で指した。白金の鎖は今日一日ですっかり肌に馴染んでいる。
「いいよ、それでも」
悪戯っぽく見つめると、ほう、と溜め息ともつかない声がした。思いのほか艶めいた視線が返されて息をのむ。
なんだそれ。息子にする目つきじゃないだろ、と意表をつかれたままの信一に向かって、ゆるりと手が伸びてきた。
サングラス越しのまなざしが信一の輪郭をなぞる。指先でくいと顎を持ち上げられて、声にならない声が出た。
「ぁ
……ぇ?」
頬が一気に熱くなる。
このくらい、子どもの頃ならなんでもなかったはずなのに。散々飛びついてくっついて膝の上にも乗っかって。今思えばなんてもったいない。両手で顔を覆いたくなる。いや、今だって頼めば膝にも乗せてくれるに違いないって確信は絶対にあるけれど。
動揺する信一を堪能したとでもいうように、少祖は満足そうにふっと笑って手を離した。そうして何食わぬ顔でまた煙草をくわえる。
「
……ねえそういうの、よくないよ」
喜ばせるのが上手いけど、同じくらい困らせもする。総じて困る。
「ん?」
とぼけた振りをして片眉を上げる。揶揄われていると知りながら、ちょっと悪い顔してるのもいいな、なんて思ってしまうから。
ああ、もうほんと。始末に負えない。
これも愛?
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