vineh118
2025-11-11 19:39:28
2661文字
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11/16 新刊サンプル①

『午前三時のエッグタルト』
龍信 / 文庫88P / 全年齢 / ¥700
Xに投稿済の作品を再録+書き下ろし

再録
・十二から見た龍信
・四仔から見た龍信
・洛軍から見た龍信
・夜中に蛋撻を食べる龍信
・「おまえがボスだ」の話
書き下ろし
・龍捲風の宝物の話
・水上小屋での信一(+四仔)
・本編後の龍(の幽霊)と信の話

本文以外の再録は https://poipiku.com/607757/ こちらからご覧いただけます。(一部加筆修正あり)

【午前三時のエッグタルト】


 開けっぱなしの窓からは時折、生ぬるい夜風が入り込んでくる。
 寝間着代わりのTシャツが湿った肌に貼りついている。篭もる温度を払いのけ、のそりと腹を掻きながら信一はベッドの上で身体を起こした。
 暗闇に目が慣れてくるにつれ、ぼんやり浮かんでいた光はくっきりと直角に筋を描く。
 ドアの隙間から洩れるその気配に引き寄せられるようにして、床に足をつけた。そっと寝室を出てみれば、白々と灯る蛍光灯の下、さほど広くはないキッチンにやはり寝間着のままの後ろ姿があった。
「哥哥?」
 ドアの前に佇む信一に、少祖は琺瑯ボウルを手にしながらちらと目線を向けた。
「起こしてしまったか」
「美味そうな匂いにつられてね。……どうしたのこんな夜中に」
「暑さのせいか、少し寝苦しくてな。どうせ眠れないならと」
「だからって今、菓子作り?」
 あくび混じりにそう言いながら隣に立って手もとをのぞきこむ。ボウルの中にはつややかな淡黄色のクリームがたっぷりと仕込まれていて、その舌触りを想像させた。
「卵が余っていたからな。明日、食べるといい」
「それは嬉しいけど」
 煙草を取り出そうとポケットに手を入れかけて、寝室に置いたままだったことに気づく。少祖がくわえていた煙草をすっと信一の口にあてがった。ありがと、とすでに半分ほどになっているそれを指にはさむ。起きぬけには少しばかり重く甘い香りが肺を満たす。
「別に付き合わなくていいんだぞ。眠いだろう」
「うん、でも」
 なんかもったいないような気がして。
 ゆっくりと煙を吐き出しながら目を細め、端正な横顔を眺める。少祖が料理をしているのを見るのは子どもの頃から好きだった。
 店で食べるか買ってきたほうが楽だしそうする奴のほうが多いのに、どういうわけか昔からよくこうして食事を作る。
 理髪師なんてやってるくらいだから手先を動かすのが好きなのかもしれない。そう思っていたが、それがひとえに自分のためであったと気がついたのはいつの頃だったろう。
 信一がこれが好きだと言えば、すぐさまレパートリーの上位に加えられた。鋭い目つきで料理本と睨み合い、それでも時々焦がしたり生煮えだったりしていたのが懐かしい。
 今ではレシピもコツもすっかり頭に入っているらしく、散髪と同じくらい流れるような手つきで仕上げ、食べさせてくれる。それも、信一ひとりだけのために。
 だから信一にとってはどこの料理店よりも贅沢で、舌になじむ味だった。
「オーブンを開けてくれるか」
 言われた通りに取っ手を引く。ガス式の、ところどころに錆と油がしみついている年季の入ったオーブンだ。待ちかねていたように熱をため込んでいたそこに、タルトを並べた天板を入れる。
 扉を閉め、両手が空いた少祖はふたたび煙草に火をつけた。それからしばらくの間、ふたりで食事用のテーブルをはさんで座り、橙色に点るオーブンを眺めるともなく眺めていた。
 耳を澄ませば遠くから人の動く気配やさまざまな物音が振動のように聞こえてくる。これだけの人間が住む場所だ。何時も、すべてが完全に眠ることはない。
 揉め事が起きれば夜中だろうと叩き起されることだってある。そんな中で、龍頭お手製のエッグタルトは家庭用の小さなオーブンの中で少しずつ焼き色をつける。漂いはじめる匂いは甘く、香ばしく。
「ねえ、それ、今食べてもいい?」
 信一が口を開くと、少祖はわずかに眉を動かした。
「構わんが、こんな時間にか」
「こんな時間に作りはじめたのは哥哥でしょ」
 にっこり笑って信一は続ける。
「お茶もほしいな、ミルクティーがいい」
「湯を沸かそう」
 少祖は椅子から立ち上がると、蛇口をひねり、薬缶を火にかけた。その一挙一動を信一は目で追いかける。薬缶を載せたガス台を見下ろす横顔。口もとがやわらかく緩んでいる。
 信一のわがままを笑って許してくれるのは、今も昔も変わらない。それが取るに足らないものであればあるほど、このひとはうれしそうな顔をするのだ。
 信一がマグカップをふたつ出すと、すかさずそこにミルクが注がれた。
「砂糖は」
 ほんの少し眉を上げるだけで伝わる馴れ合いに、視線ごとおさまる心地良さ。
 頃合いよく焼きあがったエッグタルトも目の前に並べられた。こんな時間に、と言いながら、食べさせる気満々らしい。
 冷めてしっとりしたやつも美味いけれど、焼きたてはひと口齧ればほろほろと崩れる薄い生地と一緒に熱々の卵が舌の上でとろけて最高だ。
「うまいか」
 頬張ったまま深くうなずくと、少祖は満足気な顔でマグカップを傾けた。
「やっぱり哥哥のエッグタルトは香港一、ううん世界一だね」
「盛りすぎだ」
「いや本当、絶対。店開けるって」
 俺がなんか商売はじめるとしたら──たとえばカラオケ屋とか。そう、俺のカラオケ屋で哥哥のエッグタルトを出すんだ。香港中の評判になる。タルトを食いながらみんなが歌う。
 いい考えだと思わない?
 そんな埒のあかないことを、ずっと話していたかった。
 以前より少し薄くなった身体にも気づかないふりをして。甘い匂いじゃなくて本当は咳きこむ音で目が覚めたことも、いつか笑って話せる日まで。
「ねえ、哥哥」
 クリームのまろやかな余韻を飲みこんで、指についたタルトの欠片を払う。そうしながら信一は少祖をじっと見つめて言った。
「俺はどこにもいかないよ。もう哥哥を置いていかない」
「親離れはするものだぞ」
「子離れしたいの?」
 肩をすくめ、悪戯っぽく笑ってみせる。少祖はなにも言わず、苦笑した。
「だから、哥哥も俺のこと置いていかないでね」
 そう言って、ティーポットに手を伸ばす。紅茶はまだたっぷり入っていて、差し出されたカップの縁ぎりぎりまで注いだ。
「俺は果報者だな」
「それは俺のほうだって」
 だからこうして、今はまだ。
 あなたの信仔のままでいたい。
 それがたとえ絵空事でも、正しくなくても、あなたが望むすべてのために。
「信一」
 一瞬伏せた目を開いてふと見上げると、少祖は真顔で信一を見つめていた。煙草をはさんだ指の隙間から低い声がする。
「寝る前にもう一度、ちゃんと歯を磨くんだぞ」
「ねえ、俺のこといくつだと思ってる?」
 唇をとがらせてみせると、最愛のひとは目を細めて笑った。
 それだけでうれしくなって、わかってる、でももうひとつだけ、と信一はタルトに手を伸ばした。