来羅
2025-11-09 23:01:42
2135文字
Public トワウォ
 

散歩(風信)

ワンドロライ第17回。



 マズイ。
 マズイ。マズイ。マズイ。マズイ。
「クソ!」
 悪態をついて狭い路地を駆け抜ける。
 追う背中はなかなか近づかない。
 それだけでもその男に土地勘があるのが窺えた。
 部下から上がってきた情報によれば、三年前まで城砦に住んでいたらしい。真面目に働くことよりも、賭けの儲けを生業として生きていた男は、城砦の暗部についても詳しかった。
 ふらりと城砦を出たあと黒社会の末端も末端に片足を突っ込み、甘い言葉と旨い話で巧みに金を巻き上げることにも慣れた男が次にターゲットにしたのはかつての古巣だ。
 身ぐるみはがされ、生きる術も希望も失った人間の末路は決まっている。首を吊った死体が見つかったのは、立て続けに五件。助けてくれと理髪店に駆け込む住人が現れる前から調査に乗り出していた信一は、今日までなかなか正体を掴めない男に振り回されていた。
「城砦にさえ手を出さなければ、見逃してやれたんだけどな」
 外の世界に蔓延る犯罪は手に余る。
 龍捲風が大切にしているこの城砦を守ることが信一の使命だ。
 けれども逸った部下が男を捕まえようと飛び掛かってしまった。最大級に警戒していた男は寸前で背を向け、あとは一目散に出口目指して逃げ出した。そして今、その背を追う信一との距離は縮まらない。
 とんだ失態だった。
 このまま逃がせば、龍城幫の面子は丸潰れだ。
 引いては龍捲風の顔に泥を塗ることになる。
「クソッ、逃げ足だけは早いな!」
 よくぞこんな裏道を知っていたものだ。城砦で育った信一ですら知らない道は位置情報も狂わせる。気がつけば、出口はすぐそこだった。
 マズイ。間に合わない。
 伸ばした手は空を切る。
 その瞬間。
 風が吹いた。
 凄まじい拳風と共に男が吹き飛ばされて壁に激突する。
…………大佬!」
「ああ、信一か」
 マズイ。さらにマズイことになった、と思った。
 どこから情報を聞きつけたのか、龍捲風の目と耳は城砦内の至る所にあるのだ。
 肩を竦める龍捲風は、この失態を咎めることはないだろう。それでも僅かですらガッカリされたくはない。
……ごめん、大佬、コイツ逃がした」
「ん? 逃げてたのか?」
「わかってるくせに。大佬がぶっ飛ばしてくれなかったら、逃げられてたかも」
「そうか、それはよかったな」
「よくないって。大佬の手を煩わせた」
「なに、俺は散歩の途中で邪魔を退かしただけの話だ」
……また、そうやって」
「ただの散歩だ、信一」
 片眉を上げる龍捲風は信一に滅法甘い。そもそも彼の右腕となって日の浅い信一の失態など、猫の額ほどの痛手もないのかもしれない。それはそれで悔しい。ショックだ。
「信一」
 咥え煙草の隙間から紫煙を吐き出して、龍捲風が見下ろした。たいして変わらないはずの身長は、こんなときばかり威圧的に大きく見える。
「お前も一緒に散歩するか?」
………………は?」
 顎をしゃくると、ようやく追いついた部下たちが伸びた男を引き連れて行った。どこの色に染まったのかを聞き出したあとは、警察に渡して終わりだ。
 最後まで見届ける必要もないとばかりに、行くぞと歩き出す龍捲風は、信一を振り返ることすらしなかった。だから慌てて後を追う。
「大佬、」
 その背は謝罪など求めていなかった。
 言いかけた言葉を呑んで、小走りで隣に並ぶ。いつになくゆったりとした足取りの龍捲風は、すれ違う住人たちに呼び止められるまま何度となく足を止め、そのたびに信一もまた隣で話を聞いた。
 誰それがまた悪さしたらしい。
 どこそこの配管が水漏れしている。
 電線が切れて困っている。
 作りすぎた饅頭を持っていってくれ。
 冰室で聞くような話を、たびたび聞く龍捲風は柔らかな笑みで答えている。相手のいない信一はその間、キョロキョロとあちこちを見まわしていた。あまり来たことのない場所だ。だいたいの位置はわかっても、こんなところに細い裏道があったとは知らなかった。もしかして大井街へ抜けられるんだろうか。思わずふらりと足が向く。
 ちらりとこちらを見た龍捲風は、けれども何も言わずに柔らかな笑みを住人へと向けただけだった。許されたのだと判断してそばを離れ、裏道を進む。思った通りに、迂回するよりも早く見慣れた通路に出て目を瞬いた。
 もし、もっと城砦内を隈なく歩いていたら。
 もし、もっとこの入り組んだ道に詳しかったら。
……クソ」
 口汚く吐き捨てて、頭を掻く。
 早く龍捲風の右腕としてその隣に並び立ちたいのに、その場所は未だに遥か遠い。
「散歩はどうだった?」
 理髪店に帰れば、いつの間にか先に戻っている龍捲風がニタリと口角を上げた。わかっているくせに。本当にこの人はずるい。
「次の散歩は俺も連れてって」
「お安い御用だ」
 龍捲風の目に映るもの、交わされる言葉、語る内容、その全てを知りたい。知らなきゃならない。
 まだまだ信一には足りないものだらけだ。
 学ぶべきことばかりだ。
「大佬、俺、あなたの右腕として恥ずかしくない男になるから」
 それは楽しみだと笑った龍捲風は、養父ではない、龍頭の顔をしていた。