世界に永続性は無く全ては有限に生きている。生の中で感情を変質していく人間は、幾度と行動を反芻し、馴染むように、理解するように、感情に操作される事の無いように稼働を続けている。理性とは、自分自身を抑制する装置の筈だと、ビリーは認識していた。――筈だった。人間の精神構造が複雑怪奇である事を理解していた筈なのに、忘れていた。
約三十七度の体温が金属の肩口に押し付けられている。背中から抱きしめられる事、基、拘束される事早一時間が経過しているが、未だに離れる気配は無く名前を呼んでも「まだです」「いやです」と駄々が返るばかりで、ビリーは数時間前の記憶を再生させ小さく溜息を吐いた。正しくは、吐くフリだが。
――事は、数時間前に遡る。
久々にアキラから依頼を請け負ったビリーは、指定された場所に数分程早く到着し、再度依頼内容の確認をしていた。ホロウのデータの採取と調査、今回はこの二つである。ホロウに入れるようになったとはいえ、まだ戦闘はできないと言うアキラに同行する人数はあと二人。一人は聞いているが、もう一人については聞いていなかった。
依頼内容と周囲の構造を確認し終え、端末をしまうと「――あ、また会ったね~」と何処かで聞いた事のある声を聴覚モジュールが捉え、振り返った。キックボードにのった水縹の人間が此方に近付いて「シードだよ、憶えてる?」と直ぐに距離が消滅する。勿論、憶えている。物理的な問題を言えば記録に残されているが、そういう事では無く、ビリーは彼女を忘れる筈が無かった。
「よかった、オイルもちゃんと変えたみたいだね」とシードはキックボードから足を下ろして、すんすんとビリーの匂いを嗅ぎ、ビリーの手に柔く触れる。光を含んだ目が此方を凝視し「君にね、次に会ったら言おうと思ってたことがあって」と花が咲くように微笑んだ。
「連絡先を教えて欲しいんだ。勿論、悪用はしないよ」と続けてゆびさきを捉えられ「駄目かな?」と上目遣いで言われて。ビリーはどうしたものかと思考回路を回した。個人的に交換をすることは問題無いが、ビリーが所属する邪兎屋は人材派遣会社であり、主な業務は「ホロウ災害」に関わる依頼の解決である。
ホロウに関係する仕事の中で、果たしてそれが防衛軍側から良しとされるかと言われればグレーゾーンだろう。判断を誤って邪兎屋にダメージを与える事だけは避けたかった。──が。この目に、ビリーはよわかった。懊悩する最中「あ、プロキシ君」とシードの声に、はじかれるように視線を移動させる。──何故か、ライトとアキラが停止していた。
ビリーとシードがそれぞれ疑問符を浮かべていると、ライトが挨拶も程々に此方から視線を外し、少し距離を置く。薄闇に隠れた翠が伏せられている。何か、あったのだろうか。アキラが「ええと……シード、少しいいかい?」とビリーの手に触れていたシードを連れて離れて行く。様子を視線を追っていると。
「……随分と仲が良いんすね」と、何処か含みのあるような言い方で、おとこは言った。明瞭な思考回路がこの感情表現の中身を暴こうと回っている。けれど、拗ねたように聞こえたそれに演算等殆ど不要に等しかった。二人が付き合ってから幾度か視たことのある表情に。
「何だよ、妬いたか?」
聞かないという選択肢は無かった。ビリーのことばに、ライトの皮膚が少しずつ赤く染まっていく。解り易いおとこだと思う。というか、解り易くなった。ビリーが解るようになった。少しの静寂のあと「…………そうですけど、悪いんすか」と蚊の鳴くような声が聞こえて──演算用の回路が悲鳴を上げた。──これは、演算の範囲外だった。
「カッッッッッッッッッッ」とかたちにならない嗚咽が漏れ、論理コアがぎゅん! とつよく回転し、思考回路はショートしかけて、よろめいたままライトの手に縋り付いた。何時も不敵に笑っていて、いじっぱりで。ビリーの言う事に負けないように返すくせに。
「え、何、怖いんすけど……おい待て、あんた何でこんなに熱いんだ」
「…………ウルセーばか、おまえのせいだ」
狼狽えるおとこにしばらくしがみついていると二人が戻ってきてライトとビリーを交互に目視したあと「「……ライトさん/君、何をしたんだい?/何したの?」」と言った。残念な事に、誰一人この現状を説明できなかった。ビリーの放熱処理が完了し、ホロウへと移動し無事に記録と調査を終了させたあと。
「君って、とてもつよいんだね。エーテリアスの何処を撃ち抜けばいいのか解ってやってる。潰れるところをよく識ってるんだ──ねえ、レッド・デビルって呼んでもいい?」と唐突に、そこまで外れでも無いあだ名をシードに付けられ、遠慮した。一応、連絡先を交換し「じゃあまたね、ビリー」と手を振られ、アキラとシードとは別れたのだが──。
「…………ライト〜、そろそろ気ぃ済んだか?」
「全然まだです」
――成程、即答である。このおとこの機嫌は全然まだ直る事は無いそうで。余りにも長過ぎる抱擁に、溜息を吐くフリをする。先程脱がされたジャケットはソファにかけたままで、剥き出しになった金属の皮膚、皮膚と呼んでいいのかは定かではないが肩口に青碧が押し付けられている。
いい加減顔が見たいところではあるが、この駄々っ子をどうしてやろうかと思っていると「――……連絡先」とくぐもった声が聞こえた。「連絡先?」と反芻して言うと、金属の側から熱が少し離れる。
「交換したんすか」
「したけど」
アンビーも防衛軍の一人と連絡先を効果しているようだし、問題は無いだろうと解に行き着いた次第で。まして、ビリーは人間のあの目によわいのだ、もともとはそうでも無かったけれど。一人のおとこによって、ビリーは随分と甘くなってしまった事も又、事実だった。とうの本人は気付いていないだろうが。
「………浮気か」
「しねーよ!?」
それを言うなら寧ろ、此方が浮気される側では。とは思ったが、これを言うと途轍も無くキレられた事があるのでビリーは無い口を噤んだ。再び肩口に体温が押し付けられる。痛くは無いのだろうか。「ライト」と名前を呼ぼうとして。
「………俺だけでよかったのに」
「何が?」
「あんたの全部、気付くのは俺だけでよかったのに」
そのことばで、停止する。意味等回さなくとも直ぐに解った。おそらく、オイルを交換した事も、ビリーの戦闘方法も、全て。識っているのは自分だけでよかったと言っているのだ、このおとこは。拗ねて、駄々を捏ねている。
かわいくて仕方が無かった。此処まで駄々を捏ねる事はいままで無かったが、一体何がそこまで焦れている要因となっているのか、そこまではビリーには理解できなかった。項垂れたあたまを撫でてやれば「ぱいせんの馬鹿野郎、浮気者」と言う。中々酷い言われようである。
「俺のうしろを此処まで赦されておいて、まーだそんなこと言うのかよ」
ビリーの一言に、呼吸音が一度止まる。だって、そうだろう。無防備に晒して、剥き出しで、それでいて寄りかかっている。赦している。戦闘中だってそうだ、ライトがいると解っていたから多少「動いて」も問題が無いと判断した。──と、そこまで思って。
戦闘中の翠の目が瞑目していた事が回って、甦る。ビック・シードと、シードと連携をしていた時の事だった。確かにビリーは今日、何時もより動き易かった。背中を預ける事とは異なる、初めての感触ではあった。けれど、それとこれとは話が別である。「ラーイート」と今度こそ名前を呼んだ。
「…………絆されないですよ」
「絆されとけよ、いまから慰めてやるから」
「へえ、どうやって慰めてくれるんすか」
「――ん、」
首を少し捻って、おとこの唇にフェイスガードを押し当てる。粘膜と金属の接触をキスと呼ぶのかは識らないが、ビリーはこの行為が好きだった。人間の真似事に過ぎないが、それでよかった。触れた皮膚の温度が上昇している。「まだいるだろ?」と言うと、ライトは「……あんた、狡いっすね」と唸り声を上げた。
「いらねーの?」
「いるに決まってんでしょ」
又も即答するおとこに笑って「じゃあ、一旦離してくれ」と体勢を変え、ライトの膝の上に腰を下ろした。「好きなだけ触っていいぞ」と言うと「そういう意味で?」と聞かれ「そういう意味で」と応えた。「…………狡い」と二度目のことばに、ビリーは「お前にだけな」と言った。背中に這う手の感触が熱くて、擽ったかった。
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