shirajira
2025-11-09 16:42:12
16702文字
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2月新刊の導入ちょこっと

尻叩きに公開。犬猫ビマヨダ+飼い主ビマヨダの全年齢ダブルビマヨダです。応援お願いします🙏

 人理は救われた。若きマスターの手によって。
 喜ばしい、誇らしいことだ。役目を終えて後は去るのみの兵器の身でも、何か心が弾むようなものがある。はちきれんばかりの安堵と喜びを、仮初めの身でも感じる。
 ただ一点の曇りを除いて。
「泣くなよ」
 目元を拭われて、自然と眉が寄った。
「泣いとらんわ。お前こそ、目が潤んでおるのではないか? わし様とのお別れがそんなに寂しいか。お前はこの体に随分とご執心であったものな」
 ぼろっ、と崩れるように、目の前の男が表情を変えたから、ドゥリーヨダナは口を噤んだ。
 下げられた眉に細められた目、けれども弧を描く口元。そんな表情を見るのは、初めて繋がった時以来だった。
「そう、だな。寂しい。寂しいな」
 静かな声に、ドゥリーヨダナは腹が立った。素直に認めるな。意地を張ったこちらの立つ瀬がない。
 自分たちはサーヴァント、座の影法師。今を生きる者、あるいは人理に喚ばれて役目を与えられ、ようやく存在できるモノ。
 此度の召喚は何もかもが特殊だった。人類最後のマスター。人理を救うための旅。悲鳴のような呼び掛けに応えた、数多のサーヴァントを乗せた舟。
 そんな特殊な環境だったから――ドゥリーヨダナは、足を踏み外した。本来起こり得るはずのない奇跡を掴んだ。
 生前いがみ合い、殺し合った宿敵、パーンダヴァ五王子が一人ビーマと、情を交わす仲になった。
 夢のような日々だった。友がいて、マスターがいて、愛する人がいた。生前必死に手を伸ばしても掴み取れなかった、世界全てを手にしたような心地だった。
 だがそれも終わりだ。明日には多くのサーヴァントたちがマスターとの契約を解かれ、座へと還る。例外はない。
 最後の夜だ。
 大きな手が伸びてきて、ドゥリーヨダナの髪を掴むでも引っ張るでもなく、優しく梳いた。
「でもな、別にこれっきりってわけじゃねえだろ。形が変わればまた……全く同じとは言えねえかもしれねえが、俺たちが同じような関係に落ち着くことも、あるかもしれねえ」
「そんなこと……本気で思っているのか? わし様とお前だぞ」
 サーヴァントは兵器だ。基本的には争うためにしか喚ばれない。特にドゥリーヨダナとビーマであれば、顔を合わせたら最後、殺し合いしかないだろう。
 ここだけだ。ここだけが、特別だった。
 しかしビーマはそう思ってはいないらしい。にかっと、安心させるように笑いかけてくる。
「何言ってんだ、俺とお前だから、信じられるんだろうが。……だって、ここではこうなれただろ」
 頬を撫でる手にすり寄る。目を瞑れば、低く落ち着いた声が鼓膜を叩く。
……信じろよ、ドゥリーヨダナ。信じてくれよ」
 目を開ければ、思っていたよりずっと真剣な顔があって、何だか笑ってしまった。
 思っていたよりずっと、自分はこの男に愛されていたのかもしれない。
 衝動のまま、相手の唇を奪う。首の後ろに手を回して引き寄せ、胸と胸をくっつける。
……なら、信じさせてみろ。お前をこの玉体に刻め。わし様という至高の味を、決して忘れるな」
 キスの合間に告げれば、相手の目の色が変わって、ドゥリーヨダナはまた笑った。
 最後の夜だ、湿っぽく穏やかであるよりは、こちらの方が自分たちらしい。
 この熱を、座に持ち帰ることは叶わないが。別にいいのだ、今ここにいる自分だけのものだから。
 羨ましかったら、また手に入れてみろ。祈りに近い挑発が座に届いたのかどうかは、わからなかった。

    ★

 わし様は猫である。名前はドゥリーヨダナ。
 どういう理屈で何の因果かわからんが、死後英霊として座に召し上げられたはずのわし様は、今は猫をやっている。
 最初にこの世界で自分を認識した時は、大層驚いたものだ。身に覚えのない猫化。霊基異常でも何でもない、魔力も不思議な力もな~んにもない、ただの猫。
 おまけにわし様には確かな記憶があった。クル族の高貴な王子として生を受け、偉大なる戦士として死した後に座に召され、その後カルデアにサーヴァントの一騎として召喚され、人理救済に一役買った記憶が。
 覚えている。覚えているのだ。
 座に召された英霊の魂は輪廻しない。だからこれはおかしなことである。しかしなってしまっている以上、どうしようもなかった。
 そもそもわし様、猫だし。猫に大層なことを求められても困るぞ。何? 猫の手も借りたい? マスターよ、お前はいい加減その向こう見ずに片足突っ込んだ、若さに任せた働き方をだな……
 むにゃ、と目が覚めた。何だか外が騒がしかった気がして窓の外を見るが、普段と変わらない往来――早朝の往来は時折ジョギングするおじいさんだの、犬の散歩だのが通りかかるだけで、基本的には閑散としている――があるだけだ。
 わし様はうーんと体を伸ばした。時計を見る。飼い主を起こすにはまだ早かった。
 つけっぱなしにしてもらっている、もはやわし様専用のパソコンの前に移動する。猫の手はキーボードも押しにくいしクリックも難しいが、わし様の手にかかればほれ、この通り。
 パスワードを打ち込んで、パソコンにログイン。まだ株価を確認するような時間ではないので、ニュースなんかを見る。テレビだと音が流れて飼い主が起きてしまうかもしれんからな。わし様は最高の猫なので、飼い主にも気を遣ってやれる。ああ、なんて賢く健気な猫なのだ!
 そうこうしていたら、そろそろ飼い主を起こしてやる時間だ。わし様は階段を軽やかに上って、寝室の前に移動した。よっこらせっと立ち上がり、ドアノブに手をかける。
 飼い主はまだ夢の中のようだった。わし様はその顔をそっと覗き込む。
 褐色の肌に、すっと通った鼻筋。意志の強さを表す力強い眉に、今は閉じられている目蓋の向こうには、透き通った玻璃のような瞳。桔梗色の髪が目元にかかっているのを、鼻先でどけてやる。
 ビーマ。わし様がそっと呼んだ声は、にゃあ、という音になって口から飛び出した。
 あーあ。本当に、この世ってやつは不公平だ。わし様はちんちくりんの猫なのに、ビーマのやつは人間に生まれた。バッラヴァだなんて名前を変えて。
 わし様はてっきり、ビーマのやつも猫に生まれ変わっているのだと思ったのだ。だから母猫の乳を飲まなくてもよくなって早々に、飼い主の家から逃げ出した。飼い猫のままではビーマに会えないと思ったからだ。
 信じろと、わし様を抱きしめ言ったあいつのことを、信じたかったのだ。もう一度奇跡が起きるのを、信じたかった。奇跡がほしかった。
 どうせビーマのやつのことだから、どこかで野良で楽しくたくましくやってるとかだろ。そう思って、あちこち歩いた。しかしビーマは、なかなか見つからなかった。
 いくらわし様が元高貴な王子で最優最高のサーヴァントだったとは言え、当時は産まれたばかりの子猫、それも猫をやるのは初めてだ。わし様が現実の厳しさを知るのはそう遅くはなかった。
 人間に捕まりそうになったことも、他の猫と喧嘩になったことも、カラスに襲われたこともあった。
 まあ、そもそもがわし様は高貴な生まれで高貴な育ちだからな。野蛮な生活は、合わなかった。
 いつからか、左足が動かなくなって。何日も食事を取れなくて。せめてどこかで休みたくて、朦朧とした意識のまま、暗くて狭いところに潜り込んだ。
 それが今の飼い主と出会った馴れ初めだ。ビーマの馬鹿はわし様のことに気づきはしなかったが――どうも記憶がないらしい、まったくふざけている――わし様はビーマを手に入れたというわけだ。
 わし様は眠りこけるビーマの胸の上に乗った。そのままふみふみと、前足でパン生地をこねるようにビーマの胸を揉む。そうするとビーマが呻いた。
「んんっ……。ん、おい、その起こし方、くすぐったいからやめろって言っただろ……
 寝起きの掠れた声で囁いて、けれどもビーマの口許は笑っている。伸びてきた手がわし様のふわふわの毛を撫でる。
「おはよう、ドゥリーヨダナ」
 みゃお。わし様が応えると、ビーマが体を起こした。うーん、と伸びをする。
「っし。まずは飯だな」
 ベッドから降りたビーマに、わし様はついていった。調理中にキッチンに入るとうるさいから、朝食の用意中はおとなしくクッションに座って待っていてやる。
「ドゥリーヨダナ、できたぞ」
 声を掛けられて、わし様専用の皿の前に移動する。捌きたてのアジの刺身と、味はまあいかにも大衆向けだが食感は悪くないカリカリ。もちろん高級カリカリだ。
 みゃあ、と鳴いてから、わし様は皿に鼻先を突っ込んだ。おい行儀が悪いとか言うなよ? わし様は猫としてのマナーを守っているだけだ。
「いただきます」
 ビーマも食事を始めたらしい。ちらりと見れば漫画みたいにドカ盛りにされた白米が視界に入った。食事を終えたわし様はテーブルに近づいて、ビーマの隣の椅子に飛び乗る。
 テーブルの上にあるのは味噌汁と白米、それから卵焼き、それだけだった。馬鹿の量ではあるけれど。
 ビーマのやつは相変わらず料理が好きで、今だって仕事は料理人だ。猫のわし様にすら毎日何か作って出そうとする。
 けれども自分一人しか食べないのであれば、ちゃんとした料理をしようという気にはならないらしい。量さえ食べれればいい、そんな料理が大半だ。
 仕事がある日は昼に賄いを食べているらしいが、さすがに栄養とか大丈夫か? とわし様はこいつのことを心優しくも心配しているわけだ。なんせこいつにはわし様の飼い主として、末長くわし様を崇め養う義務がある。倒れられては敵わん。
 誰かこいつと一緒に食事を取ってくれるやつがいればいいのかもしれない。というかわし様がそうできればよかったのに。わし様はテーブルの上の味気ない料理を眺めた。手を出すとビーマに椅子から下ろされてしまうので、見るだけにする。
 昔。昔って言っていいのか? カルデアに召喚されて、ビーマと恋仲になった時。あいつはやっぱり馬鹿の量の料理をよく作ってきたが、それはこんな味気ないものではなかった。見てるだけで腹が空いて欲が刺激されるような、そんな料理をあいつと一緒に食べるのは、悪くない時間だった。
 今のこいつと一緒に食事を取ってくれる誰か。それって恋人とか? そんなのは嫌だ。
 お前はわし様のだぞ、わし様がいればそれで十分幸せだろ? そうだよなビーマ? そういう気持ちを込めて食事中のビーマの膝の上に頭を乗せて寝そべれば、ビーマは低く笑って、それからわし様の頭を撫でた。
 数年掛けて仕込んでやったビーマの撫でテクはわし様も十分満足できるものだ。喉が勝手にゴロゴロ鳴る。うっとりとした気分になって、わし様は目を瞑った。
 まあ、今のところビーマは昔と変わらない、不健康とは縁がなさそうな体をしているし。
 もうちょっとだけ。先延ばしにしていたって、罰は当たるまい。
 温かくて大きな手に身を委ねる。素直に甘えられるのは猫の特権だった。


 ビーマが仕事に向かったのを見送って、わし様はパソコンの前に移動した。株価とニュースをチェックする。そろそろ決算資料も出てくる頃だ。
 本来わし様は高貴な身であるし、そもそも猫であるので、労働なんてもっての外である。が、全てを任せるにはわし様の飼い主はあまりにお財布が寂しすぎた。
 なんせわし様を拾った時、やつは定まった住居すら持っていなかった。職場兼自宅としてキッチンカーで寝泊まり生活をしていたのだ。そのキッチンカーだって知り合いから譲り受けた中古だとかで、結構ガタが来ていた。
 お前の料理の腕前ならもっといい生活ができるだろ! 原価を見直せ! わし様が訴えてもビーマのやつには届かない。仕方ないから看板猫をやってやろうとしたら、最初はよかったがわし様のあまりの可愛さ美しさに目がくらんだ不埒者に誘拐されそうになることが立て続けに起き、ビーマのやつはわし様を目の届かないところに出すのを嫌がるようになった。甲斐性なしのくせに束縛が強いとか最悪だぞ。
 猫の身でできることは限られている。わし様がビーマのその日暮らしにもほどがある生活にやきもきしていたある日、こいつの兄がやってきた。
 のほほんとしたお坊ちゃんフェイスはどこからどう見てもユディシュティラだったが、ビーマは「カンカ兄」と呼んでいた。ユディシュティラのやつも、ビーマと同じで以前とは違う名前を名乗っているらしい。ビーマの兄はわし様を見ると「おや、猫を飼い始めたのかい?」と小首を傾げた。
「おう。うちのキッチンカーの下で倒れてたんだよ。その時はまだ俺の手のひらに乗るくらいだったんだが、みるみるうちにでっかくなってなあ。今じゃこんなだ。前に兄貴がうちに来たすぐ後のことだったから……三ヶ月前くらいかな」
「三ヶ月!? それでこんなに大きいのかい!? ……すごく大きくなる種類かもしれないね、このキッチンカーじゃ狭いんじゃ?」
 いいぞ! もっと言ってやれ! わし様にふさわしい家を用意しろと! わし様がにゃあにゃあ鳴いて訴えると、ビーマは「つってもなあ」と腕を組んだ。
「狭いアパート借りたところで、大して変わらねえだろ? だったらこうやって俺と一緒にあちこち外を回る方が、こいつも楽しいんじゃねえかと思うんだがなあ」
「まあ、確かに猫に住みやすいような一軒家ってなると、すぐには難しいかもしれないね……
 これだから貧乏パーンダヴァは! 金を稼ぐポテンシャルはあるんだから、ちゃんと稼いで買えばいいだろ! 家を買え! わし様のために!! そのくらいの甲斐性は見せろ!
「何かすごい鳴いてるね、この猫。名前は何て言うんだい?」
「ああ、ドゥリーヨダナってんだ。何でかその名前がぴったりなような気がしてよ」
 へえ、と言いながらビーマの兄が手を伸ばしてきたので、わし様はシャーッと威嚇してやった。しょんぼりした様子のユディシュティラを、ビーマが「兄貴は犬の匂いでもついてるんじゃねえか?」と慰めている。こいつ犬飼いなのか。余計にシャーッだ。
 別に犬は嫌いじゃないが、今生のわし様は猫である。当然、犬好きより猫好きの方が好きだ。わし様はわし様のことが好きなやつが好きだからな!
 その後ビーマはユディシュティラの持ってきたパソコンを開いて、何やら説明を受けていた。どうも資産運用を勧められているようだったので、わし様もビーマの膝の上に乗って一緒に聞く。
「これなら少額からでも始められるし、ほったらかしでもいいからね。生き物を飼うなら尚更、将来のことは考えておかないと」
 ふーむ? 証券会社の口座の開設? これがビーマの銀行の口座? 設定するパスワードは……む。わし様がこいつに拾われた日か。
 投資信託かあ。説明を聞くに、確かに知識がなく時間もない、要するにわし様の飼い主のような男にはうってつけだろう。だがしかし、これで稼ぐには時間がかかるであろうことは目に見えていた。
 わし様は猫だ。でもってビーマは人間。歩みが違いすぎる。わし様に与えられた時間は、こいつよりずっと短い。
「このパソコンはあげるよ。メニュー表を作れるように、画像処理ソフトも入れておいたから。印刷はコンビニでやりなさい」
「ありがとな、兄貴」
 お礼にテイクアウトメニューをどっさり持たされたユディシュティラが帰っていくのを、わし様は見送らなかった。代わりに何を見ていたかと言えば、パソコンだ。
 試しにキーボードを叩く。うーん、どうしても複数のキーを同時に押してしまう。マウスも……自由自在とは言えんなあ。
「おいこら、遊ぶんじゃねえ」
 遊んでおらんわ。わし様はお前のためにひと肌脱ごうとしたところだぞ。抗議の声はにゃーんという愛くるしい声になってわし様の喉から出ていく。
 その日から、わし様の特訓が始まった。ビーマの仕事中はとにかくパソコンをいじっていた。ビーマは「壊すなよ」としか言わなかった。壊さんわ、お前じゃあるまいし。
 そして苦節二週間でわし様は非常にゆっくりではあるがキーボードの操作ができるようになり――ビーマの口座に入っていた有り金を全部使って株を買った。ちょうど底値を叩いていたのだ。ニュースサイトを見ても、二週間もすれば上がるであろうことは確かだった。
 実際、一週間せずとも株価は戻った。わし様は株を売った。そうして得た利益でまた別の株を買った。小さな利益を雪だるま式に増やしていき、三ヶ月後には元々ビーマの口座に入っていた額を二倍にした。
 よしよし、この調子で増やしていけば、マイホームも夢ではないぞ! お前はわし様のような賢い猫の飼い主になれてさぞ誇らしいだろう! この幸せ者め! もっとわし様を崇めたて褒めたたえろ! おやつの献上頻度を増やせ! わし様はビーマに訴えてやりたかったが、我慢した。どうせならあっと驚かせるような額を貯めて、ビーマのやつを驚かせたかったのだ。
 しかしその作戦はうまくいかなかった。ユディシュティラのせいだ。
 あいつがビーマにちゃんと資産運用をやっているか、確認しに来たのだ。ビーマのやつが自分の口座にいくら入っているかも把握していないと知って、ユディシュティラのやつは呆れた。そしてその場で口座を確認しようという話になった。
 わし様は邪魔しようとしたが、所詮は猫だ。ビーマにおやつ――見た目はどろっとしていてよくないが、鶏やツナが煮込まれて鰹節の匂いまでする、わし様の大好きなやつ――を出されてわし様が夢中になっている間に、わし様がせっせせっせとやっていたデキる猫としてビーマをメロメロにしよう作戦は、中途半端なところで全てが明るみに出てしまった。
 身に覚えのない株取引にビーマとユディシュティラのやつは慌てていたが、ふとビーマがこちらを見た。
「まさか……ドゥリーヨダナ、お前なのか? 俺の代わりに資産運用をしていたのは……?」
 にゃあ。わし様はそうだぞ今頃気付いたかビーマ! とそう応えてやった。ばれてしまっては仕方ないからな。ほら褒めろ。なでなでしろ。おやつを出せ。
「バッラヴァ、お前は動物に嫌われがちだったから知らないのかもしれないけど、猫は資産運用なんてしないんだよ」
「でも兄貴、俺はこいつが日中パソコンをいじっているのを見たぜ。それにサイトの閲覧履歴は俺には覚えがないものばかりだ。ってことはやっぱり、こいつがやったんじゃねえのか?」
 ビーマがわし様を抱き上げた。抱っこはあまり好きじゃない。こいつの胸がでかすぎてわし様が潰れそうになるからだ。ええい無駄に発達した胸筋を押し付けてくるな! パンチパンチ!
「それによ兄貴、こいつすげえ賢いんだ。ただの猫とは思えねえ。それにすげえ我がままでプライドが高いくせに、店に客を呼んで俺の仕事を手伝おうとするんだよ。だから……俺の代わりに資産運用しようとしても、おかしくはねえ」
「いやおかしいよ。おかしいんだよバッラヴァ。それはもう猫じゃなくて妖怪、化け猫だよ……
 はぁ~? 人を化け猫呼ばわりとは何事だ! わし様ほどのパーフェクトキャットはいないだろうが! わし様はユディシュティラをパンチしようと暴れたが、ビーマの発達した胸筋と丸太のような腕に阻まれ、叶わなかった。
「兄貴が心配してくれるのはわかるけどよ……でも俺は大丈夫だ。俺はドゥリーヨダナを信じるぜ」
 わし様はビーマを見上げた。ビーマがわし様の喉を撫でる。勝手に目が閉じて喉が鳴った。
 信じる、か。そうか。お前がわし様を信じるのか。
 かつてお前はわし様に、信じてくれと言ったけど。わし様を信じるとは言わなかったな。そのお前が、わし様を信じると言った。それならば。
 ドリタラーシュトラの息子、百王子の長兄でありクル族の正統な後継者である王子としては――応えないわけにはいかん。
 というわけでわし様は奮起した。途中何度もビーマの兄弟やら友人やらに「猫が資産運用なんてどう考えてもおかしいですよ」だの「中におっさんとかが入ってるんじゃ? お祓いにでも行ったら?」なんて言われたが、屁でもなかった。ビーマはわし様を信じているわけだからな、それが全てだ。
 そんなわし様の涙ぐましい努力の結果、中古ではあるが一軒家を手に入れた。猫好きが建てた注文住宅で、キャットウォークや猫用の出入り口、キャットタワーも備え付けだ。ま、わし様には全体的にちっとばかし小さかったが。何でも前に住んでいた者は海外に移住することになって、家を手放したらしい。
 価格も中古にしては高かったが、わし様が二年半かけて積み上げた資金で何とか買えた。ビーマに家を買わせるためにホームページを見せたり見学会に申し込ませるのは骨が折れたが――今となっては済んだことだ。
 とにかく、わし様は狭苦しいキッチンカーよりはましな家を手に入れたわけだ。ついでにビーマはわし様のお陰で一軒家を手に入れた。まったく、幸せ者の飼い主だ。
 証券会社のマイページで買い注文を入れた後、わし様は一人きりの家で、ごろんとカーペットに寝そべった。今やビーマのやつはキッチンカーでの営業は週一に留め、基本は飲食店勤めをやっている。いつかは自分の店を持ちたいのだろうから、わし様の次の目標はあいつの開業資金集めだ。集客が見込めるいい土地は高いからな。
 ……寂しいと、思うことがないと言えば嘘になる。あのキッチンカーは狭苦しかったが、でもビーマとは四六時中一緒にいられた。そんなことはカルデアにいた時だってなかった。
 でもまあ、仕方ない。わし様というものがありながら、ビーマに貧乏暮らしをさせるわけにはいかん。あいつよく食べるし。わし様は最賢く最美しいお猫様なのだ。ビーマの一人や二人、養える甲斐性を見せねばな。
 ビーマの帰りまで、七時間ほどあった。わし様は昼寝でもしようと、目を瞑った。

    ★

 今日は来るだろうか。店じまいの準備を進めながら、バッラヴァは顔を上げた。オフィス街の小さな公園には、ほとんど人通りがない。少し離れたところでコーヒーやクレープを売っているキッチンカーの店主も暇そうにしている。
 閉店時間を後ろ倒しにすれば早めの夕飯、もしくは泊りがけが確定したシステムエンジニアなんかがやってくるかもしれないが、バッラヴァにはそこまで遅くまで働くつもりはなかった。家に待たせているやつがいる。
 スマートフォンを取り出す。アプリからペットカメラを確認するが、動くものは何も映っていなかった。今はリビングにはいないらしい。
 残念に思いながらアプリを閉じれば、待ち受けにしてる飼い猫の写真が映る。バッラヴァは目を細めた。
 ドゥリーヨダナは不思議な猫だ。ドゥリーヨダナと出会った当時、ビーマはこのキッチンカーを職場兼自宅とし、あちこちを渡り歩く根無し草だった。
 その日は冷たい雨が降っていて、客入りも悪かったのをよく覚えている。そんな中、赤ん坊を抱いた若い母親がやってきた。彼女は現金を出そうとし、手を滑らせて小銭を落とした。ビーマは自分が拾うからとキッチンカーから飛び出し、車の下を確認して。
 小銭と一緒に、全身びしょぬれでぐったりしている子猫を見つけた。
 それがドゥリーヨダナとの出会いだった。急いでタオルでくるんでチャイ用のミルクを飲ませれば、子猫は小さく鳴いた。息があるのを確認して動物病院に駆け込めば、栄養失調と後ろ足に怪我をしていると診断が出た。バッラヴァが飼い主でも何でもない、通りがかりの人間だと知ると、獣医は言った。
「どうされますか? 猫に限らずですが、ペットに保険は効きません。あなたが飼うのであれば当然治療費は支払っていただきます」
……飼わないって言ったら、その猫はどうなるんだ?」
「保護団体に預けます。安心してください、殺したりはしませんよ。里親が見つかるまでは、シェルター暮らしですが」
 それが子猫にとっていいことなのか、バッラヴァにはわからなかった。ただ、その時バッラヴァは、子猫がじっとこちらを見ているのに気付いた。
 バッラヴァは昔から、動物には好かれなかった。犬には吠えられ猫には警戒され、鳥も逃げる。ふれあい動物園ではバッラヴァが触ろうとした途端気絶する小動物までいた。
 家を先に出た兄が、子供の頃からずっと飼いたかったのだと犬を飼い始めたのを知った時、バッラヴァは何も言えなかった。
 別に動物が好きなわけでもない。好かれずに困ることもなかった。動物園にも水族館にも興味はないし。
 でも。子猫はこちらを見ている。そこに恐れはなかった。ただこちらを見て、子猫が小さくみゃあと鳴いた。それはどこか、挑発のように聞こえた。
 それを聞いたら、バッラヴァはもう、子猫の幸せを想う気持ちより、別の気持ちに背を押されてしまった。
「俺が飼う」
 自分の口から飛び出た言葉にまずびっくりして、それからもう一度、バッラヴァは言い直した。
「俺が飼う。金も払う。だから、治してやってくれ」
 獣医はそうですか、と言った。それから名前はどうするのだと聞いてきた。カルテを作るから、子猫の名前を決めてほしいと。
 バッラヴァは子猫を見た。何故だか昔から知っているかのように、自然と名前が浮かんだ。
「ドゥリーヨダナ。こいつは、ドゥリーヨダナだ」
 みゃあ、とまた子猫が鳴いた。だから猫の名前は、ドゥリーヨダナだ。
 出会った頃はバッラヴァの手のひらに乗るくらい小さかった子猫は、みるみるうちに大きくなった。何だったら猫じゃなくて虎かライオンなんじゃないかと思うくらいには大きい。そういう猫だから、初めて会った時からバッラヴァを怖がらなかったのかもしれない。
 その大きさと異様なまでの賢さ――気がついたらバッラヴァのパソコンで勝手にバッラヴァの預金を資産運用し、住む家を探してくることまでしていた――から、バッラヴァの兄弟や友人たちからは化け猫だなんて呼ばれているが、バッラヴァには可愛い愛猫でしかなかった。別に化け猫でも何でもいい。あいつが俺の、大事な猫であることに変わりはない。
 昼は給餌器で餌をやっているが、朝と夜はバッラヴァが手づから食事を用意している。バッラヴァより猫の方がいいものを食べていると呆れるものも周りにいるくらいには、バッラヴァはドゥリーヨダナに時間と手間を注いでいた。夜が遅くなるのは避けたい。
 そうしたわけで、今では本業となった雇われ料理人も昼のシフトがほとんどだし、週に一度のキッチンカーも夕方には引き上げている。
 今日は来ないか。スマホに映る時間を確認して、バッラヴァは看板を片付けるため、キッチンカーから出た。するとどたどたと騒がしい様子で公園に飛び込んでくる男がいた。
「お~い待て待てまだ閉めるな! お客様だぞ!」
「自分で自分のことお客様って言うやつがいるかよ」
 思わずバッラヴァが言い返すと、男は「それがお客様に対する態度か!」と不機嫌そうに下唇を突き出した。
「まったく、ちょ~っと料理の腕が良くて顔もいいからって調子に乗りおって……。おい、とにかく料理だ料理。ビリヤニはまだあるか?」
「チキンならあるぜ。ちょっと待ってな」
 キッチンカーの中に戻って、容器にビリヤニを詰める。乱れた前髪を整えながら息をついている男は、走ってきたからだろう、頬に赤みがさしているのもあって、どこか子供っぽい顔をしていた。
 うまいものを前に期待する顔。これがあるから、態度がでかくてうるさい客だなと思いつつも、バッラヴァは男のことが嫌いになれないでいる。
 この名前も知らない客が初めてバッラヴァのキッチンカーにやって来たのは、二ヶ月ほど前のことだ。連れの女に連れられてやってきた男は、あまりバッラヴァのキッチンカーには興味がなさそうだった。
「ここ! ここのカレーがすっごくおいしいの! セットにするならチャパティがおすすめ! スパイスも効いてて……きっと気に入るわよ!」
「キッチンカー? おいおい、ちゃんとした店のテイクアウトならともかく、こんな設備があるだけ屋台よりマシみたいな店で、まともなものが出てくるのかあ?」
 随分と失礼な客が来たものだ。バッラヴァはよく通る声に目をやった。そうして、男が自分と変わらぬくらい体格がいいことに、少々驚いた。
 バッラヴァは高身長で、人を見上げるようなことをほとんどしたことがない。おまけに昔から食べれば食べるだけ筋肉になる質なのか、運動選手と間違われるような体をしている。失礼な客候補は、そんなバッラヴァと同じくらい身長と肩幅があり、体だって鍛えているのが服の上からでもよくわかった。
 おまけに男はなかなか整った顔をしていた。イケメンというよりは往年の男優とでも言おうか、垂れ目がちの目はどこか甘く、しかし山なりの眉にきちんと整えられている顎髭のせいか、決して女性的な印象はない。アンバランスで、けれども完成された顔立ちは、黙っていればさぞ多くの者をうっとりさせただろう。
 しかしながら男は黙っていなかった。何やらずっと連れの女に文句を言っている。
「そもそも何でわし様が貴重な昼休みにテイクアウトを買いに出ないといかんのだ? アーユス、お前はわし様の秘書ではないのか? 金はいくらでも出してやるから、お前が買ってくればよかっただけではないか」
 わし様。あまりにトンチキな一人称にバッラヴァが我が耳を疑っている間に、アーユスと呼ばれた女性が言い返す。
「私が買ってきても好みじゃないとか言って途中で食べるのやめたりするでしょ! たまには自分で好きなもの選んで最後まで食べなさいよ、もう」
 昼時だ。既に並んでいる客の一番後ろについたその二人を、接客の最中バッラヴァはちらりと確認した。
 女の方には見覚えがあった。二週間ほど前に来た客だ。それこそ周囲の分も買い込んでいたのか、大量に買って行ったのでよく覚えている。細い腕でパンパンになった袋を両手に提げて帰っていくものだから、少々心配したものだ。
「この間はね、バターチキンカレーにしたの。でも今日は違うのにしようかな。本日のカレーはナスだって。おいしそう。でもシーフードも気になるのよね。あ、辛さはレベル五まであるんだって! 私はこの間は二にしたけど、今日は三にしちゃおうかな!」
 楽しそうに女の方は話していたが、男の方はどこか心ここにあらずの様子で「ああ」だの「うん」だの適当な返事をしていた。来たばかりの時はあんなにやかましかったのに。
 顔を見れば、見るからに疲れが出ている顔をしていた。目は虚ろで、よく見れば顔色もあまりよくない。それに気付いたのだろう、女の方が心配そうに男の顔を覗き込んでいる。
「ちょっと、大丈夫? やっぱり午後の予定はキャンセルした方が……
……ん。何を言っておる、大事な商談だぞ。キャンセルなんてするわけなかろう。うまくいけばお前もボーナスチャンスだ。しっかりわし様のサポートをしろよ!」
 すぐに男はにぱっと人好きのする笑みを浮かべた。女の方はまだ、心配そうな顔をしている。
「本当に大丈夫なのね? ならいいけど……。土日に予定が入らないようには絶対するから、土日はゆっくり休んでよね。ビーマくんも寂しがってるでしょ?」
「ん~? そうだなあ、まあ、わし様のようなパーフェクト飼い主を持ててあの犬っコロは今でも十分幸せだと思うが……たまにはあいつに一日割いてやるのもいいか。最近散歩もアシュヴァッターマンに任せてばかりだったしな……
 列が進み、女と男の番がやってきた。ビーマは浮かべ慣れた営業スマイルを向ける。
「いらっしゃい! 何にする?」
「私は本日のカレー、セットはチャパティで、辛さは三で! それと……
 どうする? とでも言いたげに、女が男の方を見た。男はぼんやりとメニューを眺めている。
……あんた、うちは初めてかい?」
 バッラヴァが話しかけると、男がこちらを見た。近くで見た男の瞳は珍しい色をしていた。色鮮やかな花弁のような、ショーケースの中の宝石のような、ピンクサファイア。ずっと見ていたいような、目を逸らしたくなくなるような、不思議な色合いをしていた。
「人気なのはバターチキンカレーだ。これにナンのセットが定番だが、俺としてはチャパティの方が自信がある。あとはビリヤニのセットもあるぜ。今日は肉は使ってなくてな、じゃがいもと卵だ。つってもスパイスはちゃんと効かせてあるし、食いではある。少量だがカレーもつける。米の気分なら、おすすめだ」
……なら、それで」
「カレーはバターチキンカレーでいいか? 辛さは? 初めてなら二を勧めてる。辛いのが好きなら四だな。五は……上級者向けだ」
「いや、わし様は辛いのが好きだからな。ここは五で……
「二でお願いします」
 女が口を挟んできた。男が顔を顰める。
「おい、何勝手に口出しとるんだ」
「少し胃を休ませた方がいいわよ。ここ、十分スパイスが効いてておいしいから。そんなに辛さをあげなくたって大丈夫」
「せめて四にさせろ」
「三ならいいわよ。あなたが口に合わなかったって騒いでも、私の本日のカレーと交換できるし」
 男が唇を尖らせた。拗ねた子供のような顔だ。バッラヴァは確認した。
「本日のビリヤニ、バターチキンカレーの辛さ三セットでいいな?」
 否定する言葉が返ってこなかったので、料理を詰める。男が「今時現金のみ? 遅れとるなあ」とケチをつけているのが聞こえてきた。いちいち癇に障る客だな。バッラヴァが思っていると、男が小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。
「いだだだっ、おい今わし様のお尻をつねっただろ! わし様お前の雇用主よ? 普通つねるか、こんな公共の場で!」
「公共の場でお尻をつねられるようなことを言うのをやめなさいよ! まったくもう! こういうお店は手数料の負担だって大変なこと、知ってて言ってるんでしょ!」
 男も男だが、女もなかなかだった。バッラヴァは手際よく本日のカレーセットとビリヤニセットを袋に詰め、人数分のスプーンとお手拭きを入れ、差し出した。
「おまちどう、注文の本日のカレーセットとビリヤニセットだ」
「どうもありがとう」
 女の方から金を受け取る。さすがに荷物は男が持つのかと思いきや、これもまた女が持った。と思いきや、男が奪い取る。
「あ、ちょっと!」
「昼休みは貴重だ。荷物持ちのお前の速度に合わせておけん。とっとと戻るぞ」
「私そんな足遅くないでしょ! 歩幅が違うのはしょうがないじゃない! あっ、こらー!」
 足の長さに物を言わせて男がすたすたと去っていくのを、女が小走りで追いかけていく。あっという間に公園から出て行った客を、バッラヴァは見送らなかった。次の客がもう目の前に立っている。
 妙な客だったな。そう思って終わりだったはずの話が変わってきたのは、その日の店じまい前のことだった。
「テイクアウト、まだやってるか? じゃがいもと卵のビリヤニだ」
 息を切らせてやってきた男は、心配そうな、けれども期待をするような、そんな目をしてキッチンカーの中を覗き込もうと、つま先立ちをしていた。
「ああ、まだあるぜ。カレーはもう、今日はラムしか残ってねえけど」
「それでいい。ビリヤニがあればいい。大盛りにできるか? 二人前買ってもいい」
 目を輝かせた男に、バッラヴァはビリヤニの残りを確認した。二人前には少し足りないが、一人前を大盛りにできるくらいにはあった。自分の晩御飯にするつもりだったが、誰かに食べてもらえるならそちらの方がいい。
「今日はもう店じまいだから、サービスで大盛りにしてやるよ。ちょっと待ってな。……ああ、カレーの辛さはどうする? 四にしてみるか?」
 少しの逡巡の後、男が「三でいい」と言ったので、カレーの辛さを調整するために、既に消していた火をつけ直す。少々待たせる代わりにと、バッラヴァはマンゴーラッシーを男に出してやった。
……これは? わし様、ドリンクは頼んでおらんが」
「人気商品の一つでな。こいつもサービスだ。うまかったら次来た時に頼んでくれ」
「そういうことなら遠慮なく」
 プラスチックのコップに、男が口をつける。途端、男の目が見開かれ頬が緩むのを、バッラヴァは見た。笑ってしまいそうになるのを堪える。
 キッチンカーの営業の難点は、目の前で自分の作った料理の反応が見れないことだ。大概の客は家や職場、離れた場所に移動して、バッラヴァの作った料理を食べる。そういう意味では、店舗での調理の方が、合間に客の様子を見たりSNSで反応が見れたりと、バッラヴァには合っていた。
 けれども未だに週一でキッチンカーの営業を続けているのは、やめてしまうのは惜しいと言われたのもあるし、こうして目の前で反応を見れることもあるからだ。
「あんた、昼に買って行ってくれた人だよな? おいしかっただろ、ビリヤニ。最近人気なんだ」
 バッラヴァが尋ねると、男ははっとした顔をして、「あー、うん」と曖昧に頷いた。かと思いきや、ペラペラと話し出す。
「まあ食材は大したものを使ってはおらんが、スパイスの調合と食材の火の通り加減は絶妙だったし、何より食べ応えはあるのに重くない。ぺろっと食べ終わってしまってな。わし様は美食家で高級食材をふんだんに使った高級料理店なんかもしょっちゅう行っておるわけだが……キッチンカーだなんていかにも庶民向けな店にしてはうまいものを出す。褒めてやってもいい」
「普通においしかったって言えねえのかよ。その失礼さで店を出禁になったりすることもあるんじゃねえのか?」
 思わずバッラヴァが呆れて言えば、男は「褒めてやったのに、何が気に入らんのだ」と不思議そうな顔をした。
「だいたい、こうやって閉店間際にわし様が駆け込んできた時点で、うまかったなんて言わずともわかるだろうが。というかわかれ! ていうかさっきから何でタメ語!? わし様、お客様だぞ!」
「お客様精神が強すぎだろ。……あー、喋り方は申し訳ない。ついこっちの方が楽でな。できれば慣れてほしいもんだが……
 と言っても、不愉快であれば男は二度と買いに来ないだろうから、それで終わりの話だ。バッラヴァが思っていると、男は「ふん。わし様は寛大ゆえ、うまい料理に免じて許してやる。ありがたく思え!」と尊大に笑った。
 どうも俺は変わった常連を新しく手に入れたらしい。思いながら、バッラヴァはビリヤニの入った袋を差し出した。
「ほらよ。夕飯にでもするのか?」
「ああ。今日は早帰りで会合もないからな……。久しぶりに飼い犬も構ってやりたいし……
 一瞬、男が心ここにあらずの顔をした。疲れの滲んだ顔。バッラヴァがかける言葉に迷っていると、男が万札を出してきた。結局何も言わず、会計を終える。
 去っていく男の背を見送って、その日のバッラヴァは営業を終えた。
 それから毎週、男は閉店間際にやってくる。昼はアーユスと呼ばれていた女性が買いに来るが、男は来ない。アーユスは二人分だけ買うこともあれば、十人分以上買っていくこともあり、男が何を食べたのかはわからなかった。
 閉店間際にやってくる男はいつもビリヤニを頼む。それがわかっているから、最近バッラヴァは多めにビリヤニを作っている。閉店間際まで持つように。余れば自分の晩御飯にするだけだから、別に困らない。
「ほらよ。チキンビリヤニだ。今日は少し辛めの味付けだからな、ライタもつけてる」
「ほほう。わし様は辛いのが好きだからな。この期待をお前の料理は超えられるか?」
「お前の期待は知らねえが、良ければ来週感想を聞かせてくれ」
 バッラヴァが言うと、男はきょとんとした顔をして、それから唇を尖らせた。
「前にわし様の感想を失礼だ、出禁だ、と言ったくせに」
「あ? んなこと言ったか? 何にせよ、感想聞かせろよ。また来週も来るだろ?」
……ふん。飽きないうちはな」
 言い捨てて去っていく背中を、いつも通りバッラヴァは見送った。ぼんやりと考える。
 つい、感想をねだってしまった。どうせ口うるさいんだろうなと思いつつも、あの話し方だけでなく中身まで随分と個性的でこだわりの強そうな男が、毎週バッラヴァの料理をどんな気持ちで買いに来ているのか、知りたくなってしまった。
 美味しいと思っているから、来るのだろう。それは間違いないと思う。
 では具体的にどこが気に入っている? どうすれば男をもっと満足させられる? そんなことを考えてしまう。
 自分は料理人で。たった一人を満足させるような自己満足の料理ではなくて、大勢の舌を喜ばせ腹を満たす、そんな料理を作るべきなのに。
 店じまいをして、運転席に乗り込む。何にせよ、来週を楽しみにしている自分がいることだけは、事実だった。