待ち人

ほのぼのしたのを書きたかった、フラ視点
⚠︎事後表現
⚠︎カラの家、フラの過去/家柄など捏造過多
⚠︎ネタバレあり

……はい、ええ、わかってますわ。せやから……
 小さな声が聞こえ始め、だんだんそれが自分の近くで話しているのだとわかると、既視感に襲われる。
 フラダリは目を開けて、部屋をゆっくり見回した。寝起きで周囲を確認する癖は、五年前からだ。片目になったから余計に、視界の隅々をよく確認しなければならない。どこになにがあり、なにがどう動かせるのか。危険はないか──しかし今日は、その必要がないんだったと一旦心を落ち着かせる。
 ここはどこもかしこも、カラスバの匂いがする。
 視線が合った。カラスバは通話中で、相手が一旦離席したらしくスマホロトムからは音楽が聞こえる。彼の白い指がシーツを伝ってこちらを窺う。「まだここにいてくれますか」と暗に聞いているのだろう。フラダリは彼の手を包むように弱く握った。ほっとしたように表情を緩めるカラスバに、申し訳なさが募る。
 ──記憶を少しずつ取り戻したとき、フラダリはカラスバの元へやってきた。サビ組事務所の前で組員に名を聞かれ、Fと言えばわかると伝え、数分後にカラスバが駆け寄ってきたときは、路地裏で遊んでいた少年のころと変わらないなと笑ってしまった。
 奇妙な感覚だった。あれから五年しか経っていないはずなのに、カラスバはずいぶん大人びた。嬉しくて、寂しい。フラダリは記憶を失くしていたくせに、自分勝手ながらそう感じた。カラスバは凛とした表情で、記憶が戻ったことに対し「おかえりなさい」と迎えてくれた。その目に一筋、たった一筋涙を流して伝えた言葉に、フラダリが離れていたせいで負った心の傷も、淡い慕情も、遠い思い出も入っているような気がした。
 カラスバの居宅に足を運んだのはそれから間も無くで、彼はサビ組の事務所から離れたアパルトマンに住んでいた。ベッドルームとバスルーム、キッチンのあるごく普通の家だ。事務所の雰囲気とは打って変わって質素な暮らしぶりで、幼少期の不安定な生活から学び、持ち物を最小限に留めているのだろうと窺えた。
 カラスバの自宅は誰も知らない。ひた隠しにしている。フラダリもなるべく立ち寄る頻度を抑えている。自分のせいでなにかがこれ以上崩れるのはたくさんだった。だから記憶が戻り、通うようになった当初は、カラスバの眠っている間にベッドを抜け出していた。誰も歩いていないような朝方に、しんと静まる空気が嫌いではなかった。
 ──けれど今、フラダリははっきりと、あの空気をもう二度と味わうことはないなと思った。カラスバの脈打つ鼓動が指先からわかる。同じくらいとくとくと、カラスバの胸の下で心臓は健気に鳴っているのだろう。大人びた振る舞いをしながら、フラダリの前だけでは年下の人間に戻って笑い、ほころびる彼を、朝焼けに一人残していたなんて。
 通話を再開した彼は、上半身だけが裸で上からフラダリのシャツを着ている。かしこまった口調で話し続ける間、フラダリは仕事中の彼を見上げていた。
「もう一件だけ、かけてええです?」
 まだ微睡まどろみの中にいるフラダリに律儀に尋ね、スマホロトムを操作する。
 カラスバの、メガネをしていない顔立ちは、澄ました鼻先を際立たせる。生意気そうにも勝ち気そうにも見えるのに、フラダリの前で彼は終始穏やかだ。
「ジプソ、相手さんから連絡あったで。明日の午前には……
 業務連絡をする横顔を眺める贅沢に、先ほど目覚めた際に覚えた既視感はどこで生まれたのかを考える──そうだ、あれは。
(カラスバが小さいころに見上げていた、わたしの姿だ)
 小さいころから利口な彼は、フラダリが仕事での通話を終えるのをひたすら待ち、フラダリの横でフシデと遊んでいた。当時「もう少しで終わりますから」とあやし、「子どもやないから待てます」と言ったその金色の目は、さっき指を絡めてきた目と同じ感情を帯びていた。
 逆の立場である今、人を待つという気持ちがどんなものなのかを知り、くすぐったくなる。
「フラダリさん」
 お待たせしました。という声にふと我に帰れば、スマホロトムをしまったカラスバがいた。
「わたしのシャツ、気に入りましたか」
 我ながら意地の悪い質問をする。
「いや、ちゃうんです。これはその」
 おおかた眠っている間に連絡が入り、床に散らばる服を適当にすくい上げ、フラダリのシャツだとわからず羽織ってしまったのだろう。
「やから、自分のやと思って」
「それくらい気にしない、いつでも着ていたらいい。ただ、外に着ていくには丈が合わないですね」
 カラスバが履いているのは細身の部屋着だから、余計にフラダリのシャツが大きく見える。
「待ち疲れて寝てしまったとき、君はよくわたしの服を抱いていました」
 ふと思い出した記憶をたぐり、カラスバに話してみる。彼は「……そんなん、もう忘れてください」と言ったきり、拗ねて視線を逸らした。
 親族が皆、カロスのあちこちに土地を持っていた。このミアレにも一部、そういった持て余した家を持っていて、フラダリが一時期住んでいた。カラスバとはそのときに知り合い、部屋と庭を解放していた。あのころはまだ、フラダリも全てに希望を持っていて、偏った思想に潰れてしまう前だった。やわらかいラグを敷いた部屋の、静かな空間で、フラダリが仕事を終えるのを待つ少年の姿は、今も変わらずそこにある。
 ……そういえばこの部屋は、あのとき過ごしていた部屋と似ている気がする。こんなふうに未練を抱えて作り出された小さな部屋に、まさかカラスバが一人で住んでいるとは誰も思わないだろう。
 これはカラスバとフラダリだけの秘密で、今後も明かされることはない。そしてカラスバの死後、フラダリだけが生きて残り、その思いを胸に朽ちるだけだ。今ではそれも、悪くはないと思える。
「フラダリさんも、待ち疲れました?」
 突然年下の男にこう聞かれ、フラダリはいたずらっぽい金色の目に吸い込まれそうになる。
「待ち……いや、そんなに長い時間は。それに仕事ですし」
「ここは、疲れたって言うところやろ」
 明るい声色でかつて少年だった男は、ベッドに戻ってシャツを脱ぐ。すっかり白く、指通りの悪くなったフラダリの髪を愛おしげにいた。
 疲れた、と言わなければいけないのは、きっと先ほどの意趣返いしゅがえしだ。待ちくたびれて、フラダリの服を抱いて眠ったというあれ。
 フラダリは笑った。カラスバの家へ入るようになってから、何度も笑えるようになった。「君を抱いて眠るよ」と言うと、カラスバはその目を緩めてキスを待ってくれた。
 ──フラダリの、裂傷や根治こんちしないであろう傷だらけの体でカラスバを抱くとき、彼の裸の胸に程よくのった筋肉が瑞々みずみずしかった。自分との対比がひどく艶かしく見えた。今も鎖骨や胸筋のあたりのきれいな骨の輪郭を見ると、触れるたびに心地良く、フラダリを夢中にさせる。鳴くように喘ぐカラスバの声は我を忘れさせる。痺れさせる。
 朝焼けはとうに過ぎた。カラスバの家のドアは開かない。