ねぶくろ
2025-11-08 20:35:50
5070文字
Public Skeb
 

絡新の救い

Skebにて納品した作品です。BLです。
※タイトルは「じょろうのすくい」と読みます。


  休憩、平日サービスタイムで最大六時間。五千五百円から。
 見慣れた掲示を素通りして、指定された部屋までノールックで突き進む。誰とも顔を合わせることなく辿り着いた部屋の前で呼吸を整え、オレはいつものようにそのドアを二回ノックした。ほどなくして、先に来ていた男性──タローさんが顔を出す。
「どうも」
……っす」
 素っ気ないを通り越してぎこちない挨拶を交わして、部屋に入る。オレは部屋の中央にデンと据えられたベッドを一瞥して、適当な場所に荷物を置いた。
 タローさんは「先にシャワー浴びてください」と、スマートフォンを操作している。初めてではないので交わす言葉は多くない。オレは「っす」ともう一度、アルバイトの大学生みたいな返事をして、シャワーを浴びるためにバスルームへと向かった。

 タローさんは、マッチングアプリで出会った男性だ。目的は恋愛でも結婚でもなく、体を重ねること。初めて会った時には、四十を超えて何をしているんだこの男は、と思ったものだが、オレも同じようなことをしている立場なので何も言えない。
 シャワーを浴びて、雑念を振り払う。どうせするなら気持ちいい方がいい。頭の中に蜘蛛の巣のようにかかった細かな不安を洗い落とすため、水の勢いに頭を差し出す。
 頭を洗い、体を洗い、独り暮らしではガス代をケチってなかなか入れない湯船に浸かってからバスルームを出れば、タローさんは相変わらずスマートフォンをいじっていた。「あがりました」と声を掛ければ、こちらを一瞥して、操作を止める。彼はにこりともしないで、「それじゃあ、俺も浴びてきますね」とバスルームへ向かった。
 その背中を見送り、オレは小さく息を吐き出した。一人になると、途端に落ち着かない気持ちになる。気を紛らわせようとスマートフォンに手を伸ばし、──怯えたように、伸ばした手が空を彷徨った。頭蓋の内側に巣食った虫が、蜘蛛の糸のように繊細に、細かな日常の断片を編み上げて、思考が不安に絡めとられる。
 見たい。見たくない。揺れる心が、『見たい』に振れて、スマートフォンを掴み取る。開いたのは、無料のチャットアプリだ。新着メッセージはない。画面の最上部にピン止めされた連絡先を開いて、チャットの履歴を眺めた。
 最後の文章はこちらが送ったメッセージで、相手からの返事はない。もう三日も経つのに、と不安に体を締め付けられた。何がいけなかった? オレは何を間違えた?
 やっぱり、──と、脳裡によぎるのは、ひとつの可能性だ。
 不特定多数の男と関係を持ってるのがいけないのか?
 それしかないよな、とオレは画面に表示された相手のアイコンを見つめた。去年の秋に二人で観に行った、京都の紅葉。鮮やかに切り取られた紅を目に焼き付けて、ため息を吐く。やっぱり、結婚なんて無理なのかな、とオレはスマートフォンのアプリを閉じて、ラブホテルの天井を見上げた。

     *     *    *

 誰にも触れられたくない、と彼女は言った。
 付き合い始めて半年、初めてのお泊りデートに誘った時のことだ。彼女はどこか憂鬱そうに目を伏せて、怯えたような顔で、「お泊りするのはいいんだけど、」とオレに言葉を返した。
「ただ、私は、貴方に肌を許すことは出来ない」
 砂でも噛んでいるのか、と思うほど険しい顔の彼女を前に、オレは「女の子って、そういう言い方をするんだ」などとどうでもいいことを考えていた。何を言っても責めているように聞こえる気がしたので、目線だけで先を促す。彼女は、暗い顔で言葉を続けた。
「アセクシャルって、わかる?」
「分かんない」
「私は、人と、性的なことをしたいって、思わないの」
 何か、とてつもなく苦いものを飲み込むように呟いた彼女を見つめて、「そっか」とただ相槌を打つ。オレは、公園の売店で買ったコーヒーを飲み、言葉を探して虚空を見上げた。空気が澄んでいるのか、真っ青な空が遠くまで広がっている。クリスマスにお家デートではじめての夜、なんて馬鹿みたいなことを考えていた自分が少し恥ずかしい。そっか、ともう一度呟いて、オレは彼女へ視線を戻した。
「君がオレと……、オレに限らず誰とでも、そういうことをしたくないのは分かった」
 オレはどうしたらいい? と尋ねたいのを堪えて、コーヒーを飲む。付き合って半年で、彼女とキスをしたことはない。そう言えばいつも恥ずかしがって逃げてるな、と思い至って、あれは恥ずかしかったんじゃなくて不快だったのかもな、と不安がよぎった。寂しさが木枯らしのように胸のあたりを通り抜けて、唇をへの字に曲げる。オレは頭を掻いて、言葉を探した。
「お泊りは……、しない方がいい、ですか?」
 肩を並べた彼女が、遠い。目を見ることが出来なくて、オレはまっすぐ前を見たままそう尋ねた。彼女がたっぷりと時間を使って、言葉を考える。考えなくてはならないほど不安なのだ、と気づいて、どうしようもなく悲しくなった。
 オレが信用されていないことも、オレを信用できないほどに、彼女が悲しい思いをしてきたことも。
……ううん。大丈夫」
 信じてる、と小さく呟いて、彼女がオレの手に触れた。指先を絡めて、──それだけで、黙り込む。他の子だったら、抱きしめるなり、口づけるなりするタイミングだ。それでも、それは彼女にとっては苦痛なのだろう。そわつく唇を噛んで、絡めた指をほどけないようにと淡く結ぶ。
 繊細なガラス細工のような彼女を前に、オレは少しだけ途方に暮れていた。
 愛し方のわからないものを、愛してしまった。
 その予感に、頭の隅に蜘蛛が這う。それからずっと、俺の頭には不安の巣が張られている。

 タローさんがシャワーを浴びてバスルームから出てきた。髪を下ろした彼は、タオルで湿った頭を拭きながら「お待たせしました」と、無感動にオレを見る。スマートフォンをカバンに仕舞って、オレはベッドに腰を下ろした。
 タローさんは、とにかく快楽を追求することに余念がない。事後に体を労わる言葉もそこそこに、「『次』があるので」と部屋を出て行った時には、世の中には想像を絶するクズがいるものだと感心したほどだ。──彼女がいる身でこんなサイテーな行為を繰り返しているオレにとっては、相手がクズであればクズであるほど、都合がいい。
 オレがいつものようにシーツの海に身を横たえても、彼はベッドに近づかず、その場に佇んでいた。訝しんで上体を起こす。彼は、「……あの」とあまり感情の見えない表情で、ぼんやりとした声を発した。
「体調、悪いんですか?」
「え、」
 目を瞬く。体調は、普通だ。顔色が悪いのだろうか、と自分の頬に手を当ててみても、感触に違和感はない。体温は、湯船につかった分普段よりも高いが、平熱だ。
 タローさんはオレの様子を眺めながら、手近な椅子に腰を下ろした。近づいてこないのは、自分の理性のなさを自覚してのことだろう。彼は、スイッチが入るとどんな状況でも完遂せずにはいられないところがある。──何度限界だと言っても全く聞く耳をもたなかった日のことを、オレは多少根に持っている。
 彼はオレを見ながら、「体調が悪い人に無理をさせる趣味は、ありません」と言葉を続けた。
……やめるのであれば、今のうちに決めましょう。時間がもったいないですから」
 その提案に、オレは気持ちが揺らぐのを感じた。
 サイテーでどうしようもないオレからの脱却。──たった一回で今までのすべてが清算されるわけもないが、目の前にチラついた可能性に、喉が鳴る。ゴクリと唾を飲み込んで、オレは視線を自身の足元へと落とした。
 彼の提案に乗っかってこの場を去れば、一回分は、彼女を裏切らなかったことになる。その一回を重ねれば、オレも、サイテーじゃなくなれる。そんな、甘い誘惑。立ち上る香りに引かれて頷こうとしたところで、彼が、更に言葉を続けた。
「それとも、何か悩みでも?」
 問われて、思わず顔を上げる。
 タローさんは、オレが会ってきた相手の中でも群を抜いて素っ気ない。行為にしか興味がなく、事前にしろ事後にしろ、会話は必要最低限。その上、満足できなければ容赦なく関係を切っていく。その姿勢にはストイックという言葉がよく似合い、彼の情熱はアスリートのそれに通じるところがあるとさえいえる。
 そんな彼が、オレの個人的な話を聞こうと質問をするなんて。──一体どんな風の吹き回しだ、と怪訝さが顔に出たのか、彼はあまり表情を変えないまま、「貴方とは半固定で、長いですから」と抑揚の薄い声と共に小首をかしげた。
「それと、オレの悩みを聞くことに、何の関係が……?」
「気持ちよくないと、互いに時間の無駄なので……。貴方とは相性もいいですし、今後を考えるなら、少し悩みを聞くくらいは必要な時間かな、と思いまして」
 少しでよければ聞きますよ、と傾聴の姿勢を見せる彼に、動揺しながら視線をカーペットへ落とす。
 オレには、彼女がいる。付き合って四年。そろそろ結婚を考えている、愛する彼女が。最愛の人は、オレに限らず誰にも肌を許すことのない純潔の乙女で、──だからオレは、今、ここにいる。
 そんな話を、どうやって打ち明けたらいいのだろう。彼女のことを話すのは、アウティングというやつになる。だから、出来る話はオレのことだけだ。オレは、知らずのうちに手を組んで、祈るように首を垂れた。深く、肺の中にこごったおりをすべて吐き出すように息を吐く。
「自分のこと、サイテーだと思ってるのに、どうしようもない時って、どうしたらいいですか」
 前後関係の剥落した問いかけに、彼が「どうしようもないのなら、仕方がないんじゃないでしょうか」と温度の低い言葉を返す。少しでよければなんて言っておいて、やっぱり興味はないんだな、とオレは少し愉快な気持ちで顔を上げた。見上げる高さから、タローさんがこちらを見下ろしていた。目線を合わせて、苦く笑う。
「付き合ってる人がいるんです。……なのに、こんなこと、ずっと止められなくて」
 彼女は、男性が相手であれば体を重ねていいと言った。
 一人で堪え続けるのは苦しいだろうから、と──やっぱり砂を噛んだような彼女の顔を知っていながら、オレはその言葉を握り締めて、タローさんと出会った。他の男とも。彼女には触れてもらえない肌を許して、彼女とは一生できない関わり方をした。その度に、抗えない快感と、埋められない虚しさを感じた。
 不安の蜘蛛が、糸を張る。
 汚れたお前のことなんて、彼女はもう愛してないんじゃないのか。
 そもそも、肌を許せないなんて、彼女は初めからお前を愛していなかったんだろう。
 きっかけが何であれ、サイテーなことを繰り返しているお前はもう、二度と真っ当に恋なんてできない。
 蜘蛛が囁く。それでも、欲望は尽きなかった。理性的であろうとすればするほどに熱が疼いて、ダメだと思えば思うほどに求めずにはいられなくなる。彼女はずっと変わらないのに、オレだけが堕ちていく。彼女はずっと清潔なのに、オレだけが果て無く穢されていく。
 どうして、こうなってしまったのか。
 彼女に対して誠実であろうと思っただけなのに、オレはもう、取り返しが付かないほどに彼女を裏切っている。彼女の心をこれ以上痛めることなく彼女を愛したいと願っただけなのに、オレはもう、この口で彼女への愛を囁けるとは思えない。
 オレは、どうしようもなくサイテーで、彼女の傍にいるべき人間じゃない。
 どうしたらいいのか、と途方に暮れてぼんやりとカーペットを見つめる。タローさんは、少しの間を置いてから、自身のカバンを漁った。何かちいさな、光るものを取り出して、それをオレに見せて来る。
 目線を持ち上げても、それが何なのかを理解するまでに数秒の時間がかかった。彼はそれを左手の薬指にはめると、「俺には、何も言えません」と静かな声で言った。
「貴方のその悩みは、俺に善悪を決められる内容ではないので……、実際にお相手の気持ちを確かめるしか、ないんじゃないでしょうか」
 少なくとも俺は、貴方の行動を否定する材料を持っていませんが、と言い訳のように付け足した彼の左手をじっと見つめる。オレは彼の顔と、その手によくなじんだ結婚指輪とを見比べて、苦笑した。
「タローさんって、マジでサイテー野郎っすね」