shika
2025-11-07 21:28:50
17337文字
Public 🇺🇲軸/現役選手の流×引退後のリョ
 

all for love all night long

ある一家と流リョの話。
○現役選手の流×引退後のリョ
○🇺🇸軸
○流リョがなかなか出てきません

こんなお話ですが117の日の記念にお祝いを🥂

 いくつになっても忘れられない出来事が、きっと誰にでもある。
 楽しかったり嬉しかったり、優しく美しいものであるかもしれないし、辛く悲しいものもあるかもしれない。
 日々いろんな感情を伴っては終結し、そうして人生で起こり得る出来事のうちのいくつかは、生涯において時に少しの変化を起こしながらも心に残り続ける。歳を重ねても、どんな環境に身を置くことになっても、例えば忙しい日々の合間や、なんとなく心が疲れたときにぽっと心に灯るように。
 そんな風に変化したものを思い出と呼び、慈しみ、そして私たちは再び前を向くのだ。
 
 
 寝室の白いクロスに反射した陽射しがベッドに届き、昨夜の息子の夜泣きによるダメージが色濃く残る目を無理やりこじ開ける。
 秋の訪れを感じさせる冷たい空気に触れた肌をさすりながら体を起こし、癖づいたように夫を探したけれど彼の姿は既にない。シーツの波から夫がいたであろう場所を推測し、そこに手を触れれば既に冷たくなっていることから、起床してから随分と時間が経っているらしい。
 起き抜けの重く感じる体を動かす気にならず、しばらくフリーズしたまま項垂れているとリビングから娘と夫が楽しげに話している様子が聞こえてきた。それからテレビから流れてくる息子のお気に入りのアニメの音と、はしゃぐ声。次いでほのかに香ばしい匂いが鼻をくすぐる。そこでようやくハッとして壁にかけられた時計を見た。
 八時十五分。あぁ――……やってしまった。
 時計の秒針が音もなく無情に進んでいく。朝一番のため息が頼りなく空気に漂った。

「おはよう――大事な日に寝すぎちゃったみたい」
 ボサボサの髪を手櫛で整えながらリビングのドアをいそいそと開けると、おはようの挨拶と共にキッチンに立つ夫と娘が揃ってこちらを向いた。私の声を聞いた途端にマミー!とむちむちの足を豪快に鳴らしてやってきた小さな怪獣を抱き上げてダイニングに向かうと、テーブルの上にはリネン地のエプロンが二枚、丁寧に折りたたんで行儀よく置かれていた。夫の両手には布巾と綺麗に磨かれた空っぽのボウルがあり、小麦粉をパントリーにしまった娘はふぅ、と一息をつきながら束ねていた髪を解く。そしてオーブンの起動音、先程より豊かに香るバターの匂い。
 そのすべてが、娘と作る約束をしていたショートブレッドが私の手が加わることなく既に完成間近の状態であることを表していた。
「ジェイデン、誕生日おめでとう。一緒に作る約束だったのに、本当にごめんね」
「ありがとママ。気にしないで、昨日の夜泣きナイトメアは部屋がふたつ離れててもひどかったもんね」
「ショートブレッドはあと焼きあがるのを待つだけだから、焼いてるうちに装飾ができるよ」
「マーシュも本当にありがとう。助かったわ」
「パパがバスケット以外にこんな才能があるなんて知らなかった」
 おかげでスムーズに進んだよ、と腰を下ろした娘の頭をそっと撫で、夫にキスをした。
 
 夜泣きこそ通ってこなかったが、少しばかり気が強くておしゃれが大好きな女の子だった娘が、本日十六歳の誕生日を迎える。
 大きなヘイゼルの瞳に大粒の涙を浮かべ、お気に入りの服が洗濯中だから幼稚園には行かない!と泣きわめいていたこの子が、今や私を追い抜かす勢いで背丈は伸び、ファッションやメイクに少しのゴシップを共に楽しみ、弟のお世話まで手伝ってくれる頼もしい存在になった。あの小さかった女の子が――
 頭の中で走馬灯のように成長メモリーが溢れかえって……こういう時、きっと世界中の全母親に同じ現象が起きるのだと思う。そしてそれにどっぷりと耽った後、ついにはこう思うのだ。
「十六歳かぁ……あっという間ね」
「ママ、おばさんくさいよ」
「ところがね、母親っていう生き物はみんなそう思うの。だからあなたの夜泣きもじきに終わると信じてるわ、カイル」
 まだ小さな紅葉の葉のような両手をむにむにと握って手遊びしてあげるとキャッキャと笑う小さな怪獣のおでこにもキスをする。そう、きっとあっという間に過ぎていくのだ、この期間だって。
「モーガン、カイルはオレが見てるからよかったら朝食を食べて」
 夫のありがたい申し出に息子の抱っこ役を変わってもらい、娘の横に腰を下ろした。シリアルをゆっくり食べられるだけでありがたいのに、ベーコンとチーズが乗ったトーストにトマトのスープ、キウイとヨーグルトまで添えられているお皿を眺めるだけで昨夜の苦労が吹き飛んでいくようだ。本当に、冗談ではなく。
 温かいスープをいただきながらホッと息をつき隣を見ると、本日の主役がテーブルに散らばる小さなカードへペンを走らせている。
「ひとりひとりにメッセージ?素敵」
「ショートブレッドのラッピングにしようと思って」
「いいと思う。それで?一際長くなりそうなこちらはどなたへ?」
「ママ!もう、どうせ分かってるくせに」
 口を尖らせ、夫に似た長い睫毛が伏せられた先に『To Rio』とだけ書かれたカード。心なしか他のカードよりも時間をかけて悩みながらメッセージを書いていく姿がなんともいじらしい。
 “リオ”。五年前、夫が引退前に最後に所属したチームで少しの間チームメイトだった、リョータ・ミヤギ――彼の名前を正確に発音するのが難しいのでリオと呼ばせてもらっている――日本人の選手だ。
 この国でバスケットボールという競技において、そしてNBAというリーグにおいては平均にも届かない身長は彼の個性のひとつでもあったけれど、元バスケットボール選手の妻として言わせてもらえば、身長そんなことよりもコート内外でチームを鼓舞する姿や、インサイドを鮮やかにカットして積極的に得点を取りにいく姿の方が鮮明に記憶に残っている。夫とは同じポジションでもありライバルと言ってもいい関係性ではあったけれど、選手間同士でプライベートな交流が少なかった夫が家に誘うくらいに好きだった選手でもあり、イースターや感謝祭を私たち家族と共に過ごしたこともある。そしてお互いが引退した現在でも交流は続いている。
 丁寧で礼儀正しく、けれど堅苦しくない。態度や話す言葉から感じられるユーモアは決して下品ではなく、誠実。ファーストコンタクトで感じ取ったリオの印象はざっと並べても好印象としか言いようがなかった。それはつまり、年頃の女の子が憧れを抱くには十分な要素が揃っていたということでもある。
 当時、娘がクラスメイトやスクールメイトの男の子達に目もくれなかったのはリオという「年上の優しいお兄さん」が割と身近にいたからに他ならないと私は思っている。彼が初めて家に来た日、ホームワークを見てもらったりスケートボードのコツを教えてもらったり学校の先生の愚痴なんかを聞いてもらったりと至れり尽くせりの後、夕食には彼の隣を我先にと確保していたことは私と夫の間で密かに語り草になっている。
 それまであまり興味を示さなかった父親の練習や試合にも積極的に顔を出すようになったかと思えば、時に父親の得点よりも彼の得点やファインプレーに喜んでいたくらいに夢中になり、なんとか見向いてほしくて必死だった様子を随分と長い間見てきた。
 そう、「初恋」というやつだ。時を経た今もまだその初恋が当時の形のままなのか、その辺は娘に詳しく聞いてはいないけれど、初恋っていうのはそれだけで特別なのだ。恋そのものも、もちろんその相手も。
 今夜我が家で開催される娘の誕生日パーティーにはリオも招待している。パートナーとぜひ一緒に、と言伝を添えて夫が先月にメッセージを送ったのだ。その翌朝には「why not? thanks for invitingもちろん行くよ」と返信が届き、それを夫から聞いた娘はいつになく朝の準備に時間をかけ学校へ行き、一日中そわそわと落ちつかなかった。その日から部屋のボードには『ほしいものリスト』が貼られ、次々にメイク用品やボディケア用品が書き足され、時にお小遣いの前借りを相談され……文字通り一生懸命に磨き上げていく様子に昔の自分が重なって、お小遣いはほんの少しだけ増額して渡した。
「ねぇママ、ネックレス貸してくれないかな。あの二連パールのやつ」
「いいけど、服は決まったの?」
「うん、黒のタイトワンピース。シンプルだし上品でいいかなって」
……いや待って、誕生日なんだし、赤とかグリーンとか……ブルーはどう?」
「黒がいいの」
 年頃の女の子ということを念頭に角が立たないように別のカラーを提案する夫に、娘はピシャリと言い切ってから新たに本日のヘアスタイルについて悩みだした。
 できる限り――特に想いを寄せる相手の前においては――常に美しくありたいし、抜かりなくありたい。自分にも覚えがあるから娘の気持ちはよく分かる。ありのままのあなたが素敵よ、と伝えても、ありのままの自分でいいと分かっていても、背伸びをしたくなる年頃なのだ。
 『黒いドレスにパールのネックレス』。今夜の彼女のテーマは、カポーティ原作のニューヨーク五番街が舞台である、あの映画に影響を受けたものだ。
 映画を観たことのない娘が何故あの主人公に憧れを抱いているのかといえば、先週の土曜日に家族で招待されたランドマーク本店のダイニングにてオードリー・ヘプバーンが演じたホリーと彼女を包んだジバンシィ――レプリカではあるが――に出会ったからだった。いただいた食事も過ごした時間も申し分なく素敵だったのだけれど、娘の心を動かしたのはティファニーブルーで装飾された空間でも、宝石を散らしたかのように可愛らしく盛り付けされたディナーでもなく、オートクチュールのジバンシィを身に纏いパイプを持って見つめてくるホリーだったというわけだ。
 けれど夫としては娘がホリーに憧れるのになんとも言えない葛藤があるようだった。主人公が娼婦という設定であるため、世界中を魅了したあの美しい女優の魅力を際立たせていた黒いタイトドレスを十六歳の未成年が身につけるには些か早すぎないか、ということらしい。
「私もホリーに憧れたわ。ジェイデンと同じくらいの年にね」
「いや、彼女が素晴らしい女優であることは分かるんだ。分かるんだけど……
「確かに実装するには少しばかり早い気もするけれど、リトルブラックドレスはね、いつの時代もホリーと同じように憧れの対象なのよ」
「あまり口を出していい気がしないところがまたモヤモヤするんだよ……こう、父親として」
 食べ終わった食器を下げに立ち上がると夫がそれらをすぐさま受け取り、代わりに「食後にどうぞ」と煎れてくれたエスプレッソを渡された。
 惚気のように聞こえても仕方がないと思うくらい、夫は完璧だと思う。その代償にとでも言うべきか、が当たり前の環境で育った娘はもしかしたら理想がうんと高くなってしまったのかもしれない。
 身近にこんな素晴らしい男性がいるのにと思うと同時に、身内ということを差し引いても夫のそれが霞むくらいのリオの魅力たるや、とこちらも少々複雑な思いでエスプレッソを頂戴した後、娘のお目当てであるパールのネックレスを探しに寝室へ戻った。

 焼きあがって荒熱が取れたショートブレットをメッセージカードと共にラッピングし、装飾やディナーの仕込みが終わる頃にはリビングの窓から見えるビルの合間に美しい夕陽が差し込んでいた。
 そこから娘のおめかしの準備にディナーの仕上げ、テーブルに並べた後に自分のメイクと着替え、息子とゲストの子どもたちのためにお気に入りのアニメをブックマーク、キッズスペースの確保と溢れかえるToDoリストを家族総出になって怒涛の勢いで捌いていき、パーティー開始予定の一時間前にはゲストが続々と到着し始めた。
「ねぇママ、髪おかしくない?後ろ崩れてない?」
「さっき見たじゃないの。ちゃんと綺麗に整ってる」
 直前まで悩んでいたヘアスタイルを十分おきに心配する娘のフォローをしながら娘の友達や両家の家族と談笑していると、息子を抱っこしながらポーチでゲストを迎えている夫の後ろに背の高い男性が何人か見受けられ始めた。夫の現役時代に交流があったバスケット選手だ。現役で名を馳せている選手や今は引退している元選手に囲まれた息子が興奮してキャッキャとはしゃぐ声が聞こえてくる。幼いながらに普段と違う雰囲気を感じているのか、いろんな人から掛けられる「かわいい」を理解しているのか、ご機嫌に愛想を振りまいちゃって!あの様子から見るにもうしばらくは夫に任せておいても大丈夫そうだと判断し、この場は娘と友達のカメラマンに徹することにした。
 夕陽が落ちかけ、オレンジとパープルが混じりあい始めた空を確認してそろそろ招待リストの中からまだ到着していない人に連絡をと思い始めたところで「モーガン、ジェイデン!」と夫に呼ばれた。リストをチェックしていた手を止めて夫の元へ向かうと、ポーチから離れた車止めに一台のタクシーがハザードライトを点滅させて停まっている。
「来たんじゃないか?」
 その一言に隣にいた娘に緊張が走り、そして私も瞬時に理解した。
 ドレスの後ろが僅かにつん、と引っ張られ、右腕にぴたりとくっつく娘の肩に手を置く。こういう時、母親にできる事なんて主役プリンセスの身だしなみをチェックしながらそっと肩を撫でるくらいなのだ。そして私たちの視線の先でタクシーの後部座席のドアが開き、少し背を屈めた男性が降りようと片足を降ろした。……今、ドレスが悲鳴を上げた。タックにがっつりシワができたに違いない。
 足元にChurch'sのアイコンシューズ、ダークネイビーのスリーピース、そしてゆるくカールしたダークブラウンの髪に刈り上げられたサイド――
「リオ!」
 運転手に何かを話した後にタクシーが去っていくのと同時に娘が車止めに駆け出した。つい先程までの緊張も忘れて、タイトワンピースであることも、あれだけ気にしていたヘアスタイルも忘れて――まるでホリーのように軽やかに。
「甘酸っぱいねぇ……あんなキラキラした目で見つめちゃってなぁ」
「今日のジェイデン、ホリーだろ?Breakfast at Tiffany'sの」
「ご名答」
王子様ジョーのご登場ってことだな」
「いや、ジョーっていう柄ではないな、リョータは」
「それを言うならジェイデンだってホリーっていうより何だっけ、ローマの休日の……
「アンだろ」
「言えてる」
 後方で両親と選手たちが好き勝手言いながら見守る先で、噂のお二人さんがポーチライトの下で挨拶のハグを交わす。黄昏時の景色と庭に実るレモンの香りが、街中に溢れかえるような光景をロマンチックに演出していた。そして何と言っても、皮肉にも夫が時期早々と心配していたリトルブラックドレスとパールのネックレスがこのシチュエーションにおいては彼女をより一層引き立てている。もう少しクローズアップしてみれば、きっとチェックがついた『ほしいものリスト』に爪先まで念入りに施されてきたボディーケアもバフになっているに違いなかった。
 この一瞬のために準備されてきた女の子の一撃は果たしてリオにどう映ったのだろうか、保護者として気になるところではあるけれど――我が娘ながら、映画のワンシーンのよう。ティーンのあどけなさは残るものの、少女から女性へなっていく様をこんな形で垣間見ることになるとは――
「とっても素敵なワンシーンだけれど――父親としては複雑ね?」
……同じ年頃の女の子を持つ同士の中では比較的穏やかかな」
「相手がリオだからだろ」
 こちらに歩いてくる二人を穏やかな表情で見つめる夫を見た選手たちが笑った。
 
「MD、モーガンも遅くなってごめん。招待ありがとう」
「こちらこそ、ジェイデンの為にありがとう」
「ちょうど連絡しようと思ってたところよ。……何かトラブルが?」
「それがさぁ、一緒に来る予定だったんだけど、広報に呼び出されたって連絡来て……祝の場に遅れて行くのも悪いからって」
「お祝いだもの、来てくれるのなら私たちもジェイデンも嬉しいわ」
……じゃあ連絡しておく」
「急がなくていいからリカバリーとケアはしっかりしてと伝えて」
 リオと娘の肩を抱いた夫が肌寒くなってきた外から家の中に入ろうと促し窓を開けた。キッチンのオーブンからは朝の甘いバターの匂いに代わって赤ワインに付け込んでおいたフィレ肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。選手たちが釣られるように入っていく後ろについて、私もドレスの後ろを伸ばしながら家の中へと入った。
 
 昼間に娘とあれこれアイディアを出しながら仕込んだオードブルやアミューズにメインのリブステーキを添えたテーブルはなかなかの出来栄えになった。
 並べられた料理に舌鼓を打ちながらゲストが会話を楽しんでいる様子にホッとしながら夫とリオのグラスにワインを注ぎ、みんなで娘の誕生日を祝う。主役は今日もリオの隣をしっかりキープし、パイ生地にサーモンとクリームチーズを挟んだ彼女のスペシャリテを頬張るリオに嬉しそうに顔を綻ばせた。
「それ私がアイディア出したの」
「美味い。天才」
「ほんと?嬉しい!いっぱい作ったからたくさん食べてね」
「ありがと。……これ、少し分けてもらってもいい?」
「もちろん!持ち帰る?」
「いや、ここでいただいてく……あいつが好きそう」
 ほんの一瞬、ふ、と零れた柔らかな笑み。小さな頃の娘と接していたときのそれと明らかに違う眼差し。
 気付かれないようにちらっと娘に視線を向けると、「じゃあ別のお皿に他の料理と一緒に乗せて除けておくね」と手際よくピックアップした料理をお皿に乗せ、そのままご機嫌な様子でキッチンへと向かった。
……主役がここにいなきゃだめじゃん。余計なこと言っちゃったな」
「そんなことないわ。褒めてもらえて嬉しかったのよ」
……ジェイデンには、」
「話してない。私とマーシュだけ。でも、ジェイデンはきっと気付くわね」
「だよね……
「リオ、気にかけてくれるのは親として嬉しいけれど大丈夫。それにジェイデンだっていつまでも子どもじゃないのよ。もしかしたら私たちの思い過ごしかもしれないじゃない」
「それもそうか。オレの思い上がりならいいんだけど」
 優しさというのは、時に酷だ。特に彼みたいな背負ってしまうタイプの人には。
 娘の誕生日とはいえ、こんな場くらい楽しんでしまえばいいのに、どこまでも優しい彼を労うように夫が彼の空いたグラスにワインを注いだ。
 
 リオのプライベートについて、私達はそれまでそんなに多くの情報を持っていなかった。
 というのも、記憶の限りではそれまで彼の口から個人的な話題が出たことがなかった。久しぶりに会っても話題は大体バスケットボールのことや仕事のこと、お互いの近況がメインで、たまに彼の故郷の話が出ると娘と日本が好きな夫があれこれ質問してはその話題で盛り上がって、というパターン。あまり自分のことを多く語る人ではないから、彼のプライベートで知っていることといえば故郷が日本のオキナワだということ、お母様と妹がたまにこちらに遊びにくること、ファッションが好きで行きつけの古着屋がいくつかあることとか、そんな感じだった。
 状況に変化が訪れたのは二週間前に遡る。バークレイズセンターで行われたアーティストのコンサートに訪れた際、ユースキャンプのコーチングの打ち合わせに来ていたリオと偶然会い、今日のパーティーについて話が及んだ時だ。そこでパートナーや同行者の参加の有無を何気なく尋ねると、「それなんだけど、オレだけ参加するっていうのはアリ?」と眉を下げて笑うリオにほんの少しの違和感が残った。
 もちろんパートナーの同行が必須というわけではないから、彼が一人で参加することに何ら問題はない。ただその時に彼に感じた違和感がどうにも心に残り、お節介だと思いながらもこちらから少し掘り下げて聞いてみたのだ。
「もしジェイデンに気を使ってるのなら気にしなくていいのよ?知ってると思うけれどこの国では普通のことだから」
「それも考えなかったわけではないんだけど……
「都合がつく人がいないとかいう事情ならリョータだけでもいいんだ。君を誘ったんだから」
「あー、うん……一緒に住んでるやつはいるんだけど……オレが、他の人を誘う気になれなくて。……なんか、寂しい顔、するかもしれないから」
 この時初めて、彼が誰かと一緒に住んでいるということを知った。
 だんだんと消え入るように細くなっていく声と反対に、潮が引いた浅瀬のように、そこに残る芯のようなものが鮮明に浮かび上がる。そんな印象だった。触れた感覚すらあった彼の心があんまりにも綺麗で思わず感動してしまうくらいだったけれど、同時に彼の覚悟が垣間見えた気がした。
 話の内容からするに、一緒に住んでいるお相手がいるけれど何らかの事情で同行できないということらしい。お相手の都合でタイミングが合わないということなら仕方がないと割り切って他の人を誘うこともできるけれど、彼はそれをしたくないのだ。
「一緒に住んでる方が、とても大事な人なのね」
 選び取った言葉から受け取った感想をそう伝えると、少し目を見開いたリオが一息開けて「maybe」と呟いた。柔らかな笑みを浮かべて――まるで慈しむようなその表情はどう見てもyesだというのに。
「そのお相手のご都合がつかないのなら、無理に誰かを誘う必要なんてないのよ。あなたの気持ちを大事にして」
 この「お相手の都合がつかないのなら」がきっかけだった。
 私が伝えた言葉を飲み込んで一瞬躊躇った様子で俯き、再び私と夫に向き合った彼が「都合がつかないんじゃない」とはっきりと言った。そして意を決したように一緒に住んでいる人がパートナーであること、そして同性であるそのお相手のことを打ち明けてくれたのだった。
『自由の国』と謳うこの国は、先進国の中では確かに多様性を受け入れられやすい国だ。けれど差別は様々な状況で未だ根強く残っては遺恨をもたらす。それは世界中どの国でもきっと変わらない。夫は黒人だけれど、黒人の差別問題は対白人であるときも、同じ黒人間の中でも非常に複雑だし、他国や移民についても同じだ。アジア人である彼も心無い言葉に触れてしまって傷付いたことがあったのかもしれない。
 そういった考えに及ぶほどに、リオの言動はいつだって人の気持ちに配慮があるものだったし、丁重なものだった。彼の告白の根底にあるものは、自分がというよりも参加者からパートナーにどういった感情を向けられるのか、そしてお相手の彼を連れて参加することで娘の誕生日パーティーに水を差すのではないかといった、私たち家族への配慮そのものだった。
「もし君たちが良ければ、ぜひ一緒に。うちは大歓迎だ」
 夫は彼の目を真っすぐに見てそう言った。
 極めてプライベートな内容に加え、リオの性格を思うといろんな葛藤があったのだと容易に察しが付く。これ以上は言葉にせずとも、こちらの意は十分に伝わったと思う。
 夫と私を交互に見たリオは、ぽつりと「ありがとう」と言い、私たちはコンサート終わりの観客が賑わうエントランスの中でハグをした。

 娘の中では五年の間に恋が憧れへと変わっているのかもしれないけれど、誕生日に受けるショックが少しは和らぐかもしれないという親心から(または過保護ともいう)、リオと一緒に来る人がいるということはその日のうちに伝えてあった。ワンクッション入れておけば本人も心の準備ってやつができるだろうと思ったのだ。その甲斐あってか、いつもリオがいる時に見せる彼女の姿と変わらなく見えたし、この空間もこの時間も、今日という日を全力で楽しんでいる様子が伝わってくる。けれどどこか別次元で、きっと何か思うところがあるのも確かなのだ。
 キッチンから戻ってきた娘は「お腹空いてたら可哀想だからいっぱい取っておいたよ」と先程と変わらない笑顔で再びリオの隣に座った。リオが娘を思いやるように、娘も娘なりに察してリオともうすぐ訪れるであろうお相手を思いやっている。気を遣うのではなく、この場合はやはり思いやっているという言葉が適切に思えた。
「主役なのにありがとな。ジェイデンも食べようぜ。お誕生日様、十六歳の豊富は?」
Be a ladyいい女
 誕生日の定番とも言える質問にきっぱり言い切った娘に、リオが「これ以上?」とニヤリと笑う。彼のお言葉どおり、我が家のホリーも見た目だけではなく、内面も立派にレディーへの道を一歩ずつ確かに歩み進めている。

 お腹が膨れ始めてキッズスペースの怪獣たちがピニャータに夢中になっている頃、その人は大きな袋と大輪の真っ赤なバラの大きな花束を抱えてやってきた。何も知らないゲスト、特に女性たちは訪れた人物とその姿に一瞬言葉を失くした後、「噓でしょ!!」と大興奮のち大絶叫だった。
 まず彼がここニューヨークにあるふたつのバスケットボールチームのうち、マディソンスクエアガーデンを本拠地に活躍する人気のバスケットボールプレーヤーだったこと。これについては先に訪れていた他の選手たちも同様に驚かれていたし、やはり最初はみんな興奮していた。
 次に、彼がその髪色と同じ漆黒のスーツを着てバラの花束なんて抱えて、まるで王子様の如く現れたこと。チームのSNSや試合中に観客向けに流れるスクリーンではジャージかユニフォーム姿しか見られない彼が――ニューヨーク市民に「サムライは不愛想」なんて言葉で揶揄されるくらいには表情が乏しい(と思われている)、あの彼が!これには私もしっかり驚いて持っていたビデオカメラを落としそうになった。
「遅くなってスミマセン。それと誕生日おめでとうございます」
 ざわめくゲストへの挨拶もそこそこに私たちのところへ来てくれた彼、そして濃厚なバラの香り。両手でやっと抱えられる程のそれを想定外過ぎるその人から渡された娘がポカンとするのも無理はなかった。
「ありがとう……ルカ?……であってる?」
「?あってる」
 とんちんかんにも聞こえるその質疑応答を聞いていたリオが噴出す。
「ぶふっ……おまえ、どうしたの、その花束」
「この後パーティーだから急いでってスタッフに言ったら花屋の場所教えてくれて。そんでこれでって金渡したらこのでかさになった」
「ジェイデンもビビってるじゃん……んははは」
 ケラケラ笑うリオの様子を、彼――カエデ・ルカワは「そんな笑う?」とどこか穏やかに見つめた。
 
 カエデの登場で場はますます華やかになった。普段は華やかというよりは洗練された技術を淡々と見せる職人みたいな選手という印象だけれど、ここぞというときの豪快なプレーと本人とのギャップがたまらないのだと、ある試合でリポーターが捲し立てていたのは先週のことだ。彼のユニフォームは売上ランキングのトップテンに入り、移籍してきた頃から確実にファンは増え続けている。
 マンハッタンを練り歩けば少なくとも十回は等身大より大きなルカに会えるね、と先日のティファニー本店の帰り道に娘が溢した言葉通り、彼の広告経済効果は日本を飛び越えてアメリカでも顕著だ。ディオールの口紅を頬に引いたカエデを見た時にはなぜ彼に?と思ったが、すぐになるほどと頷いてしまうくらい、スーツを着ると華美という言葉がまさしくぴったり。近くで見ると本当に花でも背負っているのかと思うくらい圧倒的な存在感。……これはマディソンスクエアガーデンで時折聞こえる黄色い声も仕方ないのかもしれない。
「はじめまして、カエデ。こんな立派な花束……娘の為にありがとう」
「ご招待ありがとうゴザイマス。切り戻し?してあるから、そのまますぐ飾れるって花屋が」
「ほんと?せっかくだし、ジェイデンと写真だけ撮ってここに飾らせていただくわね」
「あとこれ、そこのちびっこたちに」
 そう言って彼の足元にあった大きな袋を今度は私が受け取る。開けると袋詰めにされた色とりどりのビーンズやバーのスナック。子どもが好きなもののオンパレードだ。
「ホーリーのうちに行くって言ったらチームの広報から遅れる詫びにと」
 夫もかつて彼と同じチームに所属していたから、おそらくあの頃からいるチームスタッフからのご厚意をカエデが持ってきてくれたらしい。ありがたく受け取って袋の中身を子どもたちにそっと見せると、途端に袋と彼の周りに子どもたちが集まって争奪戦が始まった。少し上の年齢になると彼を知っている子も多く、キラキラした目でルカ!ルカ!と彼を見上げている。
 サインをせがまれて娘が渡したペンでスナックのパッケージにサインするカエデ。こう言ってはなんだけれど、〝子どもに囲まれるスーツのルカ〟はチームの広報スタッフが飛びつくくらいのお宝映像だ。
……ルカ、サンタみたいね」
「いやほんとに、どうしちゃったのかと思ったよ……
「なんか知らねーけど渡されるんすよ、先々で」
「君もオレも特権てやつだな」
 息子のおむつを替えてくれていた夫が戻ってきて、「会えてうれしいよ」とカエデとハンドシェイクで挨拶をする。引退前に試合で相対して以来の再会となるカエデに夫の笑顔も随分と柔らかい。
「練習の後だろう?腹減ってるんじゃないか?」
「そうだ、ジェイデンがおまえの分をとっておいてくれてる」
「すげー空いてる。もらっていいすか」
「もちろん。取って来るね」
「待って、ジェイデン」
 キッチンに向かおうとする娘を引き留めて時計を確認――十九時を少し過ぎたところ。そろそろ夜のお楽しみの時間だ。せっかく一週間前から娘と夫と三人で作り上げてきたプレイリストを最後まで流せないのはもったいない。
「あなた、リオと踊ってきたら?」
「えっ!?」
「ほらほら、時間が遅くなっちゃう!」
 狼狽える娘の背中をトンと押してやって、お節介もこの辺までにしないとと思いつつリオの方へ手向けた。たどたどしくあーとかうーとか言った後、なるようになれとでも言わんばかりに「あー……リオ?よかったらなんだけど、ダンス一緒に踊ってくれない?」と申し出た娘に「オレでいいの?」と返事をしたリオを見届けてカエデに向き直る。嫌な気分にさせてしまっただろうか。
「ごめんなさい、あなたたちのこと、リオから聞いて知ってるんだけれど……少しだけ娘に時間をあげても?」
 念のため声を落とし、事情を知っていながら娘へ加担したことを謝罪すると、カエデはなんてことないように「それは、全然」と首を降った。
「オレもリョータさんから彼女のこと聞いてるんで」
「ふふ、初恋の相手になっちゃったって?」
「初恋なんすか」
「そうっぽいの。今はどうか分からないけれど」
 二人を見ながらオレと同じ、とカエデが呟いた。あちらこちらでなんて甘酸っぱいこと。心の中でリオに初恋キラーの称号をつけ、娘の代わりにキッチンへ向かった。
 
 窓の外が完全に暗くなり、淡いオレンジ色の照明がシャンデリアに反射してキラキラと光る家の中を、イギリス出身のロックバンドの曲が更にムードに仕上げていく。パーティーの大本命ともいえるダンスお楽しみの時間の始まりだ。幻想的なピアノのイントロが次第にハミングを誘い、ゲストがそろそろと前に出て体を揺らし始めた。
 ダンスが始まるこの瞬間の雰囲気が、私は大好きだ。誰かに強制されることなく、好きな人の手を取り一曲いかが?と愉しんで流れに乗る、このリズムにおちていく人々の光景を何故かとても美しく感じるのだ。コンテストではないから、技術はいらない。間違いもない。自由に踊るだけでいい。好きなタイミングで一息入れて、また躍って……。リオと娘もまた、他のゲストの間でそんな風に楽しんでいる。リオのリードで踊る娘にジョーとホリーのダンスを想像し、そういえばダンスシーンがあるのはローマの休日だっけ、なんて思いながら腕に抱いた息子とゆらゆらと揺れながら見守った。
 曲がサビに入ると、ボーカルの心地よい歌声に合わせてフロアにクルクルと回りながら踊る人達の笑顔が溢れた。息子とペアを組んでリズムに乗っている私の横で、シャンパンをお供にカエデと夫がおしゃべりに興じている。見ている人にとってはこれも楽しみ方のひとつだ。
「引退後って、どんな感じすか」
 現役選手の素朴な問いに、元選手は朗らかに笑ってグラスを傾けた。
 競技をしていると少なからず付きまとうプレッシャーや世間の目、批判や期待といったものから一定の距離を置けるようになると、ピンと張り詰めていた糸が少しずつ緩むように次第に表情にも変化が訪れる。
 引退してから夫は随分と柔らかく笑うようになった。頬に伏せられた睫毛の影がかかり、そっと笑う口角に刻まれた皺は深くなったかもしれないけれど、そんな変化を家族は愛おしく思う。
「時間の進み方はみんな同じはずなのに、自分の時計だけがやけに遅く感じる。最初は慣れなくて戸惑うけど、やがてそれを心地よく感じるようになる」
……心地よく」
「リョータは尚更そうかもね。現役の頃は人一倍気を張ってただろうし」
……あの人、昔から人のことばっか気にかけて自分をあんま見せねー」
「あぁ……よく分かるよ」
「引退してからようやく素みたいな部分がよく出るようになって、なんつーか……安心、した」
 あんな風に踊ってるのですら、よかったと思うくらいには。
 そう言ってリオを見つめる彼に、思わず目を見開いてしまった。
 コートの中でボールを追う黒い瞳が、今リオだけを映している。コートの中と同じように、ボールと同じように、目を離さず追い続けている。
 無愛想?――とんでもない。視線ひとつで、こんなに雄弁に語っているというのに――
 リオがカエデの前で素の自分でいられるように、カエデのこの瞳もおそらく普段はリオしか見ることができない。きっとこれは、リオの宝物。二人のプライベートを覗き見てしまったような気がして、そっと目をそらした。
「なに、オレが下手だって話で盛り上がってた?」
 気がつくと最初の曲が終わり、娘のエスコートを終えたリオがカエデの隣に並んだ。流れる曲はアッパーチューンへと変わって、娘はお友達やゲストとキャッチなメロディーを歌い、はしゃぎながら踊っている。
「リョータさんがジェイデンの足踏みそうだったって話してた」
「バレたか。でもちゃんと持ち直しただろ」
 背の高いパートナーを見上げる形で話しているリオと、パーティーの騒ぎで聞こえづらいであろう彼の声を拾おうと少し屈むカエデ。ダンスに夢中の人たちと喧噪にそっと溶け込む二人。日常や街中でよく見かける風景だ。このくらいなら罪悪感なく見ることを許されるだろうか――。少し頬が緩んでしまうのは許してほしい。
 ここで大事なことを思い出した。そうだ――さっきのをカエデに返さなくては。
「カエデもリオと一緒に踊ってきたら?せっかく来てくれたんだから」
「えっ!?いや、オレさっきジェイデンと踊ったし」
「一人しか踊っちゃいけないなんてルールないのよ。主役は十分楽しんでるし、誰が誰と踊ってても誰も気になんてしないわ」
「その通り。君も楽しまなきゃ」
「十分楽しんでるけど……流川だって慣れてねぇだろうし」
「オレ多分、足踏むんで」
「だろ?」
「うまく避けてください」
「あっおまえ、ちょっと酔ってんな!?あぁ待てって、だから、避けられるようなテクがねえんだって……!」
「楽しんで!」
 〝カエデはお酒が入ると随分と大胆な行動に出るらしい〟。これは後々に何か言われたとき、こちらからもフォローとして振りまいておこう。パーティーによくある光景に疑問を持つ人なんていないとは思うけれど、アフターケアは念入りに。あとはセルフでよろしくね、ってことで。
 正直に言えば、彼が率先してリオの手を引いていったことは少し意外だった。積極的にダンスを踊るイメージとはかけ離れていると言われれば元も子もないのだが、彼もリオが好奇の目で見られることを気にかけて自分から人の前にリオを連れて出るようなことはしなさそうと勝手に思っていた。
 それはそれでおそらく間違ってはいない。少なくとも公衆の中においては、きっとしなかったのだと思う。ただここは公衆の場よりはプライベートな場で、パーティーだ。みんな好き好きに踊っているし、リオに楽しんでほしかったのかもしれない。もしくはリオが言う通り少し酔っていたのかも――と思ったのも束の間、盛り上がりを見せていた曲が終わってしまった。せっかく二人で出て行ったのに、と思っていると即座に次の曲が流れ始める。
 ――――あ、これは。
……誰だっけ、これ選んだの」
「私……。ちょっと、タイミングが遅かったかしらね……
 曲ではなくて、彼らのタイミングが。
 そう、リストに入れたのは私だった。で、順番的にこの辺で少し緩急をつけておけばいいかもね、なんて三人で言いあって決めたのだ。確か。ほら、歌詞だって「君の足が昔みたいに動かなくなった時……」って始まるじゃない、とかなんとか言って。
 ギターの音色に合わせて耳に届くのはラブレターだ。
 〝君が年をとっても、僕も同じように年をとるよ。それでも毎日君に恋に落ちるよ。君に伝えたいから、傍にいて僕の声を聞いていて〟。
 少し前に全米チャートを圧巻し、グラミー賞を獲ったアーティストの愛の歌が緩やかに流れる中、一息つきにドリンクやおしゃべりを楽しむ人が出てきた。オンステージでそのまま踊り続ける人はそれまでとリズムを変えてスローなダンスを楽しんでいる。そしてその中に、他のゲストと同じように曲に合わせて緩やかに手を取り合う彼らの姿はあった。
 ゆっくりと流れるラブレターを聞き入っていた人も、お酒やジュースと共におしゃべりを楽しんでいた人も、踊っている人も、次第に二人に目を奪われた。
 リオがリードするわけでもなく、カエデがリードするわけでもない。でも不思議と、ちゃんと二人のダンスになっていた。カエデがリオの足を踏みそうになっても、リオが勢い余ってカエデにぶつかっても、手を引いて引かれ、お互いが身を委ね、笑い合って、またぶつかって。――まるで二人で人生を歩み進めていくように。
「素敵ね」
 いつの間にか隣に来ていた娘が、夫の腕に寄りかかりながら呟いた。
「一晩中でも見ていられそう」
 真っすぐに彼らを見つめ、微笑みながら。
――一晩中でも、踊っていたいのかもね」
 夫も娘の肩を抱きながら言った。
 そして私も、娘と夫に身を寄せ、夫の言葉に頷いた。
 どうかあの二人の日々が、進む道が、穏やかでありますように。慈愛に溢れた人と環境の中で人生を送っていけますように。
 ここに集まってくれたゲストにも、同じことを願っている人がきっといる。だってここは自由の国だから。例え信仰する神が許さなくても、私たちはここニューヨークで、自由と民主主義のシンボルのもと日々を営んでいるのだから。誰が誰と踊っても、誰が誰を愛しても、そう願うのも自由であっていいはずだ。
 “鼓動する胸の上で僕の声を聞いて。今、愛を叫ぶから”。
 愛の歌が穏やかに流れる。二人が手を引いて引かれ、笑い合って、ぶつかって、また笑う。
 私たちもゲストも、思い思いに彼らを見つめ、けれど同じような表情を浮かべ、この曲が終わらなければいいと二人のダンスに見とれていた。

「ジェイデン、これ」
 パーティーの終わり、ゲストを見送っていた私たちのもとへ来たリオがシフォンのリボンに包まれたブルーの箱を娘に渡した。受け取った娘が「開けていい?」と彼を見上げ、了承を得てリボンを解く。中から取り出したのは、ダークブラウンのレザーにファーがついた華奢な手袋だった。
「わ、素敵……!嬉しい……ありがとう」
「寒くなるから、よかったら使って。――それでいい女目指せそ?」
「当たり前」
 腰に両手を当てて自信たっぷりに言い切る娘に、リオもまた先程の夫のように慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。夫や私が彼女を見るときのそれに限りなく近いそれは、間違いなく彼の娘に向けた愛だ。
「私からも、今日のお礼。受け取ってね」
 そして娘も、朝から準備していたショートブレッドを彼の手に乗せた。ワックスペーパーを絞ってティファニーブルーの糸で結んだ間には、朝のメッセージカードが挟まれている。カードをそっと抜いて目を通したリオが眉尻を下げ、くしゃっと笑って娘を抱きしめた。娘もまた、そっと彼の背中に手をまわした。
「リオ、また遊びに来てね。今度はぜひルカ……カエデも一緒に」
「うん――。うん。また来るよ。ありがと……
「カイルがもう少し大きくなったらカエデにバスケットボール教えてもらわなきゃね」
「それ、MDかオレじゃだめなの?」
「ポイントガードは身内に最高の選手が二人もいるからもういい」
 ここに来て娘から最高の賛辞をもらった二人の元選手は顔を見合わせ、かつて勝利した試合の後に見せていたハンドシェイクでお互いを称え合った。
 身内に二人も、か。これは、リオも嬉しいだろうな。
 リオが受け取りやすいように丁寧に紡がれた娘の愛に、危うく涙が出そうになった。十六歳ってこんな大人だったっけ……。今日一日で娘の成長を何度も痛感させられ嬉しい反面、近い未来に確実に訪れる巣立ちを思うと寂しさを感じてしまう。でも、今日は特別な日だから。明日からはしっかり切り替えて、夜が明けるまではこんな気持ちも大事に自分の中で抱きしめてあげよう。
「ジェイデン」
「ん?」
「そのネックレス、あなたにあげる」
 娘の首元を飾るパールが、それでいいのよと言うように満足げに輝いた。
 
 あのカードに書かれたメッセージを、私は知らない。
 この先も娘とリオだけが共有できるものであり、二人だけが思い返したり懐かしんだりできるものだ。
 あのカードが、娘の初恋と一緒に、いつか大人になった娘の慰めになるといい。社会に出ていろんな人と出会い、時に喜び、時に傷付き、逞しくなっていくためのお守りになってくれるといい。
 そうして大事に抱えていくうちに少しずつ形を変えながら娘の心のあるべき場所におちつき、彼女を温め支え続けていく優しい思い出へとなっていくことを願った。