ugatuno
2025-11-07 19:00:00
4737文字
Public 二次小説
 

その心臓は世界のかたち 17話

※嘔吐あり 真顔で付き添うラント

夕暮れの陽射しに照らされた病室は、色が溶けてどこか現実味が薄い。
カーテン越しの光が、ジンペイの顔を照らしていた。枕元にはコップとストロー、ラップをめくったままのゼリーが置かれているけれど、ほとんど減っていない。
少し身じろぎをしただけで、腹の奥がぐらっと揺れる。
………………
胸を抑える。さっきよりも、じわっと汗がにじんでいた。
——なんだこれ、昨日よりずっと、きつい……
昨日までは「重い」ってだけだったのに、今は内側から巻き上げられるような吐き気がする。のどの奥がヒュッと縮んで、冷たい汗が背中を伝っていく。
誰もいないのを確認して、ジンペイは小さく呻いた。
………………ぅ、っ……
喉の奥を何かが逆流しそうな感覚に襲われて、慌ててベッド脇の処理袋に手を伸ばす。力が入らない腕をなんとか持ち上げて、ぐっと口元を押さえた。
でも、何も出てこない。ただ、苦しさだけが何度も喉を締めつける。
……っは…………
ひとしきりの波が過ぎると、汗だくになったジンペイはシーツに背をあずけた。息を吐くたびに、胸の奥が鈍く痛む。見えないところで、何かが確かに削れていくような感覚だった。
……なんなんだよ……これ……
呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。問いかけのようで、でも答えを期待していない。小さな呟きの後、ジンペイはそっと目を閉じた。
また誰かが来る前に、平気な顔に戻さなきゃ──
ジンペイは、枕元の袋を抱えるようにして、肩を震わせていた。
……ッ、ごほっ…………
こみ上げてきた胃液が、喉をじわりと焼く。胃の中には何も残っていない。それでも体は、何かを吐き出そうとして蠕動し続けている。
…………ッ、げほっ……
ようやく出たのは、苦い液体と、くぐもった息の音だけだった。ストローにも口をつける気にはなれない。唾液の味すら気持ち悪くて、口の中を濯ぎたくても、身体を起こす力ももう残っていなかった。
喉の奥に、酸っぱくてえぐい味が残っている。
ジンペイは、横になったまま両手で顔を覆った。
……いやだな……こんなの……
誰もいない。だからこそ、声に出せた。
……助けるって……言って……俺が……これかよ……
言葉は、ぽつり、ぽつりと溶けていった。責めているのは誰でもなく、自分自身だった。
もともとこの身体に、無理があったんだろうか? それともただの妖魔界の負荷か──そんなのはもう、どうでもよかった。
うつ伏せに沈めた顔の奥で、熱を帯びた涙がにじむ。自分でも、なぜ泣いているのかわからなかった。ただ、もうひとつ吐き気が来たら、今度こそ戻せなくなる気がして、それが怖かった。
——不意に、ドアの向こうから音がした。
反射的に顔を上げる。心臓が、ばくん、と跳ねた。それだけのことで息が上がる自分に嫌気がさす。
誰だ——
けれど、まだ姿は見えない。足音は、静かに近づいてきて——
——ガラッ。
ドアの開く音がして、足音が一歩、また一歩と近づいてくる。
ジンペイは咄嗟に体を起こそうとした。でも、胃の奥からこみ上げるものに歯を食いしばりながら、その動きを途中で止めた。
「──っ……!」
布団の中で、喉が小さくひゅっと鳴る。息が詰まり、肩が微かに震えた。
目だけ動かして、ちらとドアのほうを見やる。
……会長……
入ってきたのは、制服姿のラントだった。手には何か書類を持っている。
……寺刃。医者が、明日の午前に経過を聞きに来るらしい。……大丈夫か?」
ジンペイは、すぐに答えなかった。答えたくなかった。
……ん、大丈夫、大丈夫……
喉が渇いて声が掠れる。でも、無理に笑おうとした。
「ちょっと寝不足で気持ち悪いだけだから……
そう言いながら、上半身だけ無理に起こそうとする。けれど、腹筋が引きつってうまくいかない。肩がズルリと落ち、代わりに呼吸が荒くなる。
「──ぅ……ッ、く……
言葉より先に、息の乱れが聞こえてしまう。胸のあたりが、ギュッと締めつけられるように痛んだ。
ラントは無言のまま、ベッドの脇に歩み寄る。
「顔色、最悪だぞ。」
「だから、言ったじゃん……ちょっと寝不足なだけだって……
見られたくなかった。こんな姿。バレたくなかった。しんどいのに、無理してるってこと。
でも、ラントの目はどこまでも冷静で、ジンペイの小さな変化すら見逃さない。
——吐いたか?」
ジンペイの肩が、ぴくりと動いた。
それが何よりの答えだった。
……胃に何も入ってない状態で吐き続けると、逆流性食道炎を起こすぞ」
……うるさいな……会長って、医者でもなんでもないくせに……
絞り出すように、ジンペイが口を開いた。吐き気も痛みも誤魔化すように、少しだけ強がる声で。
ラントは、それ以上何も言わずに、そっと紙コップの水を机に置いた。
……本当に少しずつでいい。飲めるときに飲め。」
…………
ジンペイは、視線をそらしたまま、わずかに唇を噛んだ。
それでも、布団の奥に見え隠れするその手は、さっきよりも少しだけ震えが弱まっていた。
 
ラントは踵を返しかけた。けれど、数歩歩いたところで、ふと立ち止まる。
ジンペイが顔を上げるより早く、その背中がゆっくりと振り返った。
……寺刃。」
低く、落ち着いた声。けれど、どこかためらいがちで、少しだけ迷いを含んでいる。
ジンペイは布団に身を沈めたまま、わずかに顔だけ向ける。
……なに?」
ラントの目が、じっとジンペイの目を見据えた。
……お前、自分が壊れているのに、気づいているんだろう。」
その言葉に、ジンペイのまぶたがぴくりと震えた。
………………
ラントは一歩、ベッドの近くまで戻る。
「俺には、どれだけ取り繕っても無駄だ。……見ればわかる。」
……俺は……
何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。口の中に残る、さっきの胃液の苦さだけが、喉の奥にまとわりついている。
「どうして、もっと早く言わなかった。」
「言ったら……会長、心配するじゃん。」
そう言って笑おうとしたけれど、表情の筋肉がうまく動かなかった。
「心配されるの、……やなんだ。」
……心配されるべき時にされないほうが、よっぽど面倒だぞ。」
「会長って、ほんと合理主義だよな。」
ジンペイはぼそっと呟いて、目を伏せた。少し乾いた笑いを漏らしたけれど、それもすぐに咳に変わって、体がかすかに震えた。
ラントは、その小さな震えに目を細める。
……俺は命令で動いているわけじゃない。お前が俺を助けたときも、そうだったはずだ。」
ジンペイのまぶたがわずかに揺れる。
「だから、今度は俺の番だ。……お前を放っておく理由が、もうどこにもない。」
………………
何も言わなかった。言えなかった。
代わりにジンペイは、ほんの少しだけ、ベッドのシーツを握る手に力を込めた。
それを見て、ラントは静かに息を吐いた。
……明日の午前の問診、俺も一緒に受ける。」
「えっ……いや、それは──」
「拒否は無効だ。……お前一人じゃ、ちゃんと話せないだろう。」
そう言って、ラントは再び静かに椅子に腰を下ろした。まるで、そこが自分の定位置であるかのように。


無機質な白い壁と天井。
ほんのり漂う消毒液の匂いと、静かすぎる空気。
ベッドの上に、ジンペイは浅く腰かけていた。
肩に毛布をかけたまま、背筋は丸まりがちで、どこか“呼ばれてきた感”が強い。
隣では、ラントが椅子に腰かけ、資料ファイルを片手に黙って待機している。
ほどなくして、ドアが開く音。
白衣の人物が一人入ってくる。名乗りもしなければ、余計な挨拶もない。
ただ視線だけが、静かに二人を捉える。
……体調はどう?」
短く、柔らかい問いかけ。
けれど、情に流されるような色はない。仕事としてのテンションだ。
ジンペイは少し間を置いてから、前を向いたまま口を開く。
「えっと……昨日の夕方は……まあ、ちょっと、吐いたりしてて……でも、今日はそこまでじゃないです」
「動くとちょっと気持ち悪いけど、寝てれば平気です。熱も……たぶん、下がってると思います」
さらっとした口調。深刻さを消して話すのが、癖になっているようだった。
「水とかは、まあ……ちょっとずつ飲めてるんで……
ラントが、少しだけ視線を横に向ける。
ジンペイの様子を見ながら、落ち着いた口調で補足する。
「昨日は呼吸が浅くなっていました。……朝方、不整脈ぎみだったようにも見えました」
「う、うーん……寝起きだったんで、たぶん……大丈夫です」
苦笑まじりに肩をすくめるジンペイ。
医療スタッフはあいづちもそこそこに、記録端末に入力を進めていた。
「点滴は継続。薬も、今朝から少し変更入れてある。反応見て判断するから」
……わかりました」
短く答えるが、表情はどこかぼんやりしていた。
数秒の沈黙が流れ、ラントがすっと一枚の紙を差し出す。
「本人が自覚していない症状が多いようです。昨夜からの状態をまとめておきました」
「わ、ちょっ……やめろよ、会長……
ジンペイが思わず小声で抗議するが、勢いはない。
スタッフは黙ってそれを受け取り、軽くうなずいた。
「助かるよ」
静かな空気が、また数秒だけ流れる。
やがて医療スタッフが席を立ち、何も言わずに退室する。
扉が閉まったあと、ジンペイはふっと息を吐いた。
……しゃべるだけで、なんか疲れるな……
つぶやいた声に、ラントは視線を動かすが、言葉は選ばない。
ただそのまま、静かに横に座り続けていた。
——その沈黙が、今のジンペイにはちょうどよかった。
 


——しんと静まり返った病室。
カーテン越しの陽射しが、少しだけ午後の匂いを運んでくる。
ジンペイは、布団をかぶるでもなく、ベッドの上でうつむいていた。
膝の上に乗せた手は、握ったまま少し震えている。
…………………
さっきの問診では「大丈夫そう」に見せようと、無理やり話していた。
今も、隣に誰かいたらたぶん、ヘラっと笑ってた。
でも——今は、誰もいない。
ジンペイは、そっと片手を胸元にあてた。
ギュッ、と心臓のあたりが締めつけられる感覚。
まるで、何かが内側から静かに「重さ」をかけてくるみたいに、じわり、じわりと苦しくなる。
…………っ」
呼吸を浅くする。
あんまり深く吸うと、胸の奥に圧がかかって、うまく息が入ってこない。
指先に少しだけ力を入れた。
…………やだなぁ……まただ……
誰に言うでもない、独り言。
でも、声はかすれていて、ちょっとだけ震えていた。
……ずっとだったら、どうしよう……
その言葉に、自分で驚いたのかもしれない。
強い人は、ヒーローは……そんなこと言わないはずだった。
でも、今はその仮面すら、持ち上げる気力がない。
——ジンペイは、胸に手を当てたまま、そっと横になる。しかし――
「っ……う、…………
すぐに息が苦しくなった。
喉の奥が詰まるような感覚と、胸の奥から這い上がってくる圧迫感。
心臓を押し潰されるような痛みに、眉をひそめる。
……ムリ、これ……横になれない……
ゆっくりと体を起こす。
汗ばんだ額を腕で拭って、背中を丸めるようにして座り込んだ。
「はぁ…………
静かな病室の中に、呼吸音だけがにじんでいく。
気休めみたいに胸を押さえて、ジンペイは苦笑する。
……寝るのも、命がけかよ……
でも、そこにいつもの軽口はなかった。
ただ、そうでも言わないと、やりきれないだけだった。