らん
2025-11-05 21:20:57
6602文字
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さくこと

2月新刊序文


 雪の降るとても寒い夜だった。
 しんしんと降り積もっていく白くて丸く見える冷たいそれを温い室内から窓越しに眺めていた桜は、ベランダの柵にうっすら積もっていくさまをじっと眺める。すると、隣に並んで座っていた楡井が桜の視線を追いかけて声を上げた。
「わ! 雪だ!」
 桜の視線がうっすらと開いたカーテンの隙間にあるとすぐに分かるあたりは、共に過ごした時間の賜物だろうか。自分が見つけたものを喜んでくれる相手が居るというのは心地が良い。
 今年初の雪にはしゃぐ楡井を桜が横目で眺めていると、ちょうどキッチンから茶を持ってきた蘇枋が笑う。
「今日は一段と寒いもんね。雪が降るのも納得だ」
「天気予報も雪マークでしたしね! 積もったら学校で雪合戦しましょうよ」
 珍しく好戦的な楡井に目をきょとりと瞬かせると、桐生から貰った簡易テーブルに人数分のマグカップを置いていた蘇枋と目が合った。
「桜君も雪合戦するでしょ?」
「雪合戦って、そんなにメジャーな遊びなのか?」
「うーん、男子たるものまずは雪合戦みたいな」
「あー、分かります」
 ホラ吹きの異名を桜の中で付けられている蘇枋の言葉に楡井が苦言を呈さない。ということは、雪合戦というのはテレビや漫画だけの遊びではないのだ。小学生や中学生の時にも雪が積もった覚えはあれど、あいにくと楽しく雪を投げ合った経験が桜には無かった。
 中に石を詰めるのは無しだよ、と笑う蘇枋に、桜はそんな卑怯な事はしないと胸を張る。
「雪玉の作り方もこだわると楽しいんですよ」
「玉に差なんか出るのか?」
「固く握ると威力は上がるけど作るのに時間がかかったり、とか!」
「ふーん」
 ふんふんと鼻息荒く興奮気味に雪玉について語る楡井が落ち着いたところで、蘇枋は自身の淹れた茶の出来に満足しながら、いつものようにふたりへ提案した。 
「クラスのグループで誘えば皆来そうじゃない? 他の衆を呼んでもいいし」
「確かに! 明日の朝、ちゃんと積もってたら集まりましょう!」
 出来るかも分からない雪合戦の話で盛り上がる副級長を見ながら、桜はふと気づいた事を問う。
「つか、お前らこの雪の中帰れんのか?」 
 そんな心配を他所に、桜の前で顔を見合わせるふたりはただ笑うだけだ。 
「うーん、帰れって言われたら帰りますけど……まだ全然帰れますし……
「ねー」
 おそらく、雪が降っても降らなくてもこのふたりに帰る気は更々無かったのだろう。蘇枋がのんびり茶を淹れ始めた時点で気付くべきだった。
 思えば、来た時から手土産のカップラーメンと菓子たちはずっと居間の端に置かれている。桜はむず痒いような心地を味わいながらも、そっぽを向いて小さくこぼす。
……もっと降るかもだし、危ねーから泊まってけば」
「やった、じゃあカップラーメン食べましょ。実はもう親には泊まるかもって言ってあって……桜さん、ラーメン何味がいいっすか?」
「明日はポトスのモーニングにしようね」
 あれよあれよと泊まりの方向で話が進み、やはりはじめから泊まる気だったのかと若干呆れたものの、こういうのもなかなか悪くない。桜にとって、風鈴に通い始めてからの経験はどれも悪くないものばかりだ。
 夏休み以降、桜が一人で暮らす家に誰かが泊まる機会は少しずつ増えてきた。毛布は一人分よりも多く用意されており、枕も持ち込んできた人間が居るのでいくつか押し入れに仕舞われている。
 最近は桐生の住む離れか桜の住むアパートが友人達と遊ぶ際のスポットのひとつになっており、アパートの場合は金曜夜からやってきて泊まる事もあった。
 例に漏れず今日も金曜で、三人は見回りのあとも桜の家でのんびり遊んでいたのだった。
 窓際近くはひどく冷えている。簡易テーブルの上に置かれているリモコンに手を伸ばし、暖房の温度を一度上げると、思ったより室内も冷えていたようだ。すぐさま温風が吹き出すエアコンを確認すると、桜は楡井の買ってきてくれたカップラーメンを選ぶために腰を浮かせた。

 
 寒い。そう感じて目覚めることが増えたと思う。
 桜はうっすらと目を開けると、掛けていたはずの毛布が胸にしか掛かっていなかった。他人の家でも寝相の悪さを発揮するほど自然体の楡井のせいだ。
 同じ体勢で枕に頭を乗せて寝たはずなのに、蘇枋と桜に挟まれてもなお朝になると足が枕に乗っている。一体この狭さでどう移動したのかと思いつつ蘇枋のほうを見ると、寝た時と変わらない体勢のまま目を閉じていた。毛布は足にしか掛かっておらず、桜と同じように楡井に持っていかれたらしい。
 寝ている途中でタイマーを使って切らせた暖房は、どうせなら朝まで点けっぱなしでも良かったかもしれない。思わず冷え切った肩をさすり、桜は欠伸をひとつかます。うっすらとカーテンから射し込む光に目を慣らしながら、近くに置いていたリモコンで暖房をつけた。
 陽が充分に射し込むくらいには寝ていたのだろうか。そう感じるほどカーテン越しの光が視認出来る。冬の日の出は遅い。それこそ登校する時にも完全に明けていない時もあるというのに、今日は随分と早く感じた。
 桜はゆっくりと布団から抜け出し、ふたりを起こさないようにカーテンの隙間から外を覗き込む。
「ぅ、お」
 そんな桜の瞳に映ったのは、真白の世界だった。 
 たまらずに漏れた感嘆は普段よりも冷えた室内に消え、桜のオッドアイはしんしんと積もった雪のかたまりを捉えて離さない。
 べつに雪を見るのははじめてではないが、ここまで降り積もっているさまを見るのははじめてだ。もしかしたら過去にもあったのかもしれないが、少なくとも桜の記憶の中には存在しておらず、ただただ積雪を見続けた。
 ベランダはすっかり雪に覆われ、柵にも昨日の比ではないほど白い物体が溜まっている。ようやく日が明けてくるところなのか、誰にも触れられることなく積もったそれはひかりを吸って淡く輝くようだった。
 いつもより早すぎると思った光の正体は、どうやらこの真白の雪たちらしい。
 うっすらとした僅かばかりの朝日を反射してきらきらと輝くそれを眺め続けていると、自分の息が当たって窓が曇る。気づけば体ごと前に出ていたのだ。開きっぱなしだった口を閉じ、桜はしばらく変わることのない積雪に目を凝らした。
「思ったより積もったね」
 すると、突如隣から聞き慣れた声が聞こえてきたせいでびくりと肩が跳ねる。雪から目を逸らして声のする方へ向くと、特徴的なピアスはしていないものの眼帯は既に着けている蘇枋と目が合った。
「おはよう。もうそろそろ七時だって」
「ビビらせんなよ」
 小声でひそひそと話すのは、楡井はいまだに眠っているからだ。蘇枋は軽く自身の後頭部を撫でながら、欠伸もなく澄ました顔で外の世界を覗いている。
「絶好の雪合戦日和だね。溶ける前に人を集めなきゃ」
「皆起きてると思うか」
「結構起きてるんじゃないかな? なんだかんだ見回りの癖がついてるしね」
……じゃあ、グループで人集めるか」
 自ら率先して招集をかけようとしている桜を見、蘇枋は小さく笑んだ。
「それじゃあ招集は桜君にお願いして、オレはにれ君を起こそうかな。……あ、あと、ことはさんにも連絡をお願い」
「は、なんで」
「なんでって……こんなに積もってたらポトスが営業出来るか分からないだろう?」
 そう言われるまで、桜はそこまで考えが及んでいなかった自分に驚いてしまった。
 夏休みにも臨時休業で悔しい思いをした事があるというのに、いまだにポトスはいつでも開いているものという認識が強い。こういう日も臨時休業する可能性があるということも、朝にことはと会えないということも、まったく思い至らなかった。
 あまりにも当たり前の毎日の中にポトスがあるから、いつも忘れてしまう。
 充電していたスマートフォンでまずクラスのグループに雪合戦しようと持ち掛けると、既読がいくつか付く。すぐにスタンプで行ける旨が返ってきたのは安西と栗田だ。少なくとも自分達を含め五人は確定したことを確認し、グループの通知を無視して今度はことはとの個人メッセージを開く。
 定期的にやりとりをしているせいか、比較的ことはのアカウントは見つけやすい。最後に連絡をしたのは二日前で、夕飯を食べに行くという宣言にことはからスタンプが返ってきて終わっていた。
『きょうポトスやってるか』
予測変換を秋頃にはどうにか覚え、カタカナぐらいだったら打てるようになったメッセージを送り、また一組のクラスグループに戻る。参加者は増え続け、七時過ぎの時点で結局半数は参加することになっていた。
『九時までに学校なー』
 招集は桜がしたものの、既に取り仕切りは安西が引き継いでくれているようだ。そのまま任せるために『オッケー』とだけ打ち込み、あとは返すことなく終える。こういうのは適材適所である。いかんせん桜はいまだにフリック入力が得意ではないため打つのが遅いし、取決めるのも苦手だ。
 求心力があると言われはするものの、集った人間の意志をひとつにすることが出来るからと言って、機能するようにまとめたり、指示を出すことも器用に出来るわけではない。一組内であれば、仕切りは蘇枋と安西の得意分野であった。
 まだ十分も経っていないのにそこそこの未読数になっていたメッセージたちを全て読み終えると、ちょうどことはからのメッセージが届いた。どうやら既に起きているらしい。
 ことはのメッセージを確認するためにいくらか操作すると、新着にはいつもと同じような文言が並んでいた。
『営業します!』
 ほ、とひとつ胸を撫で下ろし、桜はまた打ち返す。
『にれいとすおうと行く』
『はーい』
 お待ちしてます、というスタンプまで数秒経たずに返ってきたのを見届けてから、桜はもう一度窓の外を眺めた。陽の昇りはまだ浅い。けれど、雪はさっきよりもきらめいている。
 綺麗だと思う光景に意識が呑まれる前に、桜はゆっくりと立ち上がった。
「ポトス営業するって」
 いつのまにかキッチンで茶の準備をしている蘇枋に小声で伝える頃、ふわりと香る中国茶の匂いでようやく楡井が目を覚ました。
 ひとまず朝から茶を飲み、着替えは昨日と同じ学ランのまま三人で家を出る。コートとマフラー、楡井はニット帽まで被ってはいるものの、全員手袋は着用していなかった。
「雪合戦が九時からなら、軍手でも買ってから行きます?」
「雪玉作るのに邪魔じゃね?」
「素手だと冷えすぎそうで……悩みますね……
 アパートの通路にも吹き込んで積もっている雪は、階段に到達すると段差がほとんど見えないほどになっていた。三人で顔を見合わせてから、まずは桜がまだ誰も踏みしめた者の居ない白さに靴跡を残すと、続いて楡井、蘇枋がその跡を辿ってくる。
 過去にも同じように雪へ足跡を残した事があったと桜は思い出してみるが、その時は独りであることをひしひしと感じるくらいに寂しくなった覚えがあった。それでも、今日の雪は悪くない。
 同じ感覚を共有するひとが近くに居て、同じように足跡を残しながら、いつもとは様変わりした風景の中、歩き慣れた道を辿っていく。
 桜は背後から聞こえてくる楡井のはしゃぐ声を聞き、人知れず笑みをこぼした。
 ポトスへの道程は普段よりも遠く感じた。それもそのはず、積もった雪に対して桜のスニーカーはあまりにもひ弱で、すぐに足全体が凍っていくような寒さと溶けた雪の不快感を拾う。ブーツや長靴といった類のものは持っておらず、仕方なくいつも通りに出てきたのが敗因であった。
 昨夜は泊まったせいで準備が出来ていないふたりも桜と同じような状況のはずだが、桜よりはいくらかマシらしい。
「桜さんの足跡を辿ってるんで!」
「そーいう理由でオレが前なのか?!」
「いやー、さすがにそこまで考えてなかったなあ」
 声色としてはどっちとも取れるが、蘇枋はなんだかんだ意地悪をしない。単純に桜に新雪を踏ませてやりたかったのだと弁明する蘇枋を横目に、桜は感覚さえもよく分からなくなってきた足を懸命に動かした。
 踏みしめられた故の氷がないおかげで、ただの柔らかな雪は比較的歩きやすい。途中から三人とも駆け足でポトスへ向かうなか、ようやく最後の一本道まで到達する。
 土曜日ということもあってか、いつもなら既に店支度を始めているはずの店舗も閉まっており、シャッター前に雪が積もっているところもあった。営業する店も開店前から雪かきをしたのか、ひとまず店前だけ雪を除けている様子が窺える。
 もしかして、ポトスの前も雪に埋まっているのではないか。
 ことは一人の手でこの雪を除くのは骨が折れるだろう。朝食を作ってもらうのだから手伝うくらいはしてやりたい。
 少しだけ足を速めた桜の不安を他所に、視認できるようになったポトスの店舗前では、ことはが慣れた手つきで雪かきをしていた。
 いつもボードを置いているあたりにはこんもりと雪山が出来ており、凍てつくほどの寒さの中で額の汗を拭うことはの姿がよく分かる。
「ことはさーん!」
 桜の背後から楡井が大きな声で彼女の名を呼ぶと、こちらの様子に気づいたことはも手を振り返してくれた。桜はその様子をどこか他人事のように眺め、そうして、そのまま立ち止まってしまった。
 桜が速めていたペースと歩幅を合わせていた楡井がつんのめる形で桜の背に突っ込む。その後ろを歩いていた蘇枋は、そのまま桜を押し倒しそうな楡井の腰を支えて歩を止めた。
「何事っすか?!」
「なにか踏んだ?」
 どうにか将棋倒しを免れ安堵するのも束の間、突如立ち尽くした桜を心配するふたりの声は右から左へ綺麗に受け流されていく。いくらか前方で三人を見守っていたことはからも「大丈夫?」と若干呆れたような声がかかり、こちらを向いている彼女の瞳を見た瞬間、桜は唐突に分かってしまった。
(オレ、ことはが好きなのか)
 どうして今だったのか。それは桜自身にも理解できない。ただ、まっすぐ向けられた目が、はじめて会った時よりも嬉しかった。それだけ。それだけなのに、正解としか思えない。
 降り積もった雪は踏まれていない部分がとても柔らかだ。まだ踏まれる前の雪は踏むと音を立てながらへこみ、靴裏の痕跡を残す。さくりと踏みしめられたものは固くなり、時間を経て氷を垣間見せるはずだ。雪は結晶なのだといつだか理科の授業でやった気もするけれど、生憎と桜には意味を理解する間もなく、ただ其処に存在しているものとして学んだだけだった。
 踏まれ続け、汚れ、固まった道で滑って転びそうになりながら、ひとりで小学校に向かった記憶が桜にはある。
 誰も助けてくれなかった。笑い飛ばしてもくれなかった。心配なんて、勿論なかった。
 今は背を押したり、支えてくれる仲間が居る。そして、見守ってくれる存在も。
 充足した毎日の中で、ひとつだって欠けてほしくないものたち。そこに優劣は無い。そのはずだ。そのはずだけれど、どうしても今、この冷たい世界で陽を浴びて輝く存在に目が焼かれそうになっている。
(眩しい)
 目を細めないと、ことはの顔も見れない。
「桜さん?」
……なんでもねえ」
 名を呼ばれ、ようやく桜は現実へと意識が戻った。楡井に両肩を掴まれたまま、桜は先ほどまでとは打って変わり、のろのろと目的地まで大股で進んでいく。
 ポトスに向かう道は全てまだ踏まれていない雪を狙った。ただ跡を残していくだけだった足は、今は真白の雪に靴を踏み込ませて刻むたび、桜の全身にはじめてのこころを刻みこんでいく。
「これが、好きか」
 吐息とほぼ変わらない音は白い息に変換され、ようやく明けた白い朝に溶けて消えていった。それでも、確かに胸の内には形が残る。
 橘ことは。名前を呼ぶ必要さえないほど近くて、あまりにも馴染んだひと。
 呼ぶだけで胸の奥にひかりが灯る。全身の表皮が凍えるほど寒いはずなのに、心なしか体内は熱く感じる。
 この感情を恋と呼ばないのなら、今の桜にこころを表す適切な表現は出来なかった。