shioyama
2025-08-15 11:52:36
6406文字
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First Drag

純潔と鉄血 げんみ× 自陣×
HO純潔 前日譚

煙草を吸いたい。できれば、とびっきりクールなやつを。

タールの数字はデカければデカいほど好ましく、舌に穴が空くぐらいの苦みがちょうどいい。あの健康を台無しにするような悪さが最高のスパイスになる。

カフェインたっぷりのコーヒー、夜中の着信音。突然女にそっぽを向かれた時の動揺。引き出しから出てくる提出期限切れの書類。死角から飛び出してくる子供、壊す勢いで踏みつけるブレーキ。どんな代物よりも"起きたばかりに吸う煙草"が一番強烈で目が醒める。

口にくわえてライターを探している間に、じんわりとフィルターから薄い苦みが舌へ移る。彼にとって食前のスープだ。高まった期待に押されるまま、火をつけた瞬間———煙の群れが口内に広がっていく。こぼさぬよう慎重に深く吸い込む。膨らんだ血液を通って、末端の細胞にまで行き渡っていく感覚が心地よい。あの一瞬は、なぜかこの世の平和を祈りたくなったものだ。己の境遇から刹那解き放たれて、心が穏やかになる。幸福の味を帯びた悪魔に全身を譲り渡してもいい。満たされたまま死にゆけるならそれが幸せというものだ。

夢見心地になる程に、私にとって煙草は“一口目”までがメインで、あとはすべてオマケだった。あとはもう、どうでもよくなる。メインを食べ終えた後に、付き合いでデザートやらコーヒーを口に運ぶみたいなもの。満たされた舌で、淡々と残りを処理していくだけ。最後はナプキンを畳むように灰皿で潰して終わり。今はその吸い殻でもいいから吸いたい。戻りたい。初めて煙草をやめたあの日まで――



ヴィダーは妙な誘惑を振り払うため、一度思考を止めた。視界には煤けた鉄の板と、配線の束。油や金属の匂いが鼻腔に流れ込む。自分が車体の下に潜り込んでいることを思い出した。現状を取り戻した彼はそのまま手を動かし始める。こういうのは考えれば考えるほどドツボにはまるものだ。とにかく動いて気を紛らわせるしかない。

タイヤを指で押して空気圧を測る。正常な弾力が返ってくる。車体の下に妙な"おもちゃ"がつけられていないか手探りでチェックする。念入りに確認を済ませた後、仰向けのまま足で地面を手繰り寄せて、車の下から這い出る。サングラスを外した目で見上げた車庫の天井は薄暗い。Tシャツが汚れてしまったが、洗えばまだ使えるだろう。使える限り使う。壊れるまで、いや、壊れる前に気づくべきだ。本当はな。

ヴィダーはマメな性格で、定期的にメンテナンスを行っていた。エンジンオイル、タイヤ、ブレーキパッド。難しい作業は専門業者に任せてはいるものの、商売道具の手入れは自分でやるのが筋だ。移動手段という名の命綱を他者に触らせるのは気が引ける。人を殺して生活をする。堂々とお日様を浴びることができないこんな仕事をしていると、とにかく恨みを買いやすい。ましてや彼の仕える主、マクシミリアン公は現在暗雲の真っただ中にいる。むしろ彼が暗い闇を作り出している人物だ。

リベラル公国では三つ巴の権力争いが長く続いている。年老いた大公アルフレッド、正当な継承者長男カール。そしてマクシミリアン公が属する大公の弟ニコラス。ニコラスは政治力に優れており、国内外問わず支援者を集めていた。活動の末、公位継承権を持つ長男カールと並び立つほどの勢力へと成長している。

政治というものは綺麗ごとだけでは成り立たない。汚い部分は皆見えないふりをしているか上手に隠している。そんな日陰のやり取りをマクシミリアン公は己で請け負っている。当然、直接手を下すのは彼ではない。傑物である流石の彼でも、国を動かそうとしている権力者の望みを叶えるには、誰かの力が必要だった。そこまでは理解できる。だが、引き取った孤児たちを暗殺者として育成する手段を、どうやって思いついたのだろうか。並大抵の頭脳では思いつかないだろうし、思い立ったとしても実践できる人間はごくわずかだろうと思う。野心家というものは、その僅かにつま先を捻じ込めるものだけがなれる、一種の超人なのかもしれない。

運転席の扉を開け、ヴィダーは車内をくまなく見回した。助手席部分のフロアマットに微かな汚れを発見した。触れてみると既に乾いている。先日の仕事の名残だろう。硝煙をいまだ上げている拳銃から、または拭いきれなかった刃から零れ落ちた血液だということは直に理解できた。荒く指で拭ってみるが取れそうにない。愛車を汚された怒りなんてものはなく、哀しみとやるせなさが湧いた。頭が痛くなってきた。

ヴィダーに割り振られている役目はサポートだ。殺し以外のことなら何でもこなすが、その中でも主な仕事は送迎──相棒を現場まで送り届け、任務を終えたら安全に屋敷へ連れ帰る。スムーズな撤退なくして、ミッションの成功はあり得ない。彼にとって"シートベルトを外すまでが仕事"である。最悪、要人を殺し損ねたとしても生きていればそれでいい。命さえあれば次がある。それで、よかったんだ。記憶が蘇る。空の助手席のまま帰った二年前を思い返して、視界が揺れる。あの日を境に仕事への執着は強くなった。だが同時に、胸の奥で燻っていた違和感も確実に濃くなっている。

――子供を暗殺者に仕立てるなんて、ナンセンスにもほどがある。悪くいいかえれば"悪趣味"だ。

そんな憎まれ口をたたきながらも、マクシミリアン公に対しては多大な恩がある。ヴィダーは十二年前、家族を強盗殺人によって失った。犯人はまだ見つかっていない。覚えているのは、犯人の燃えるような突き刺す視線と、向けられた銃口の悍ましさ。なぜヴィダーだけ生かされたのかは不明だった。いっそのこと殺してくれた方が慈悲深かったのではないか。失意のどん底にいた自分を引き取って息子同然に育ててくれた恩師が、この国の汚れ仕事を請け負っていると知ったときでさえ、慕う気持ちに揺らぎはなかった。むしろ皆が避けて通る方法で、自分たちを養ってくれている事に感謝すらした。ずっと、そうでありたかった。綺麗な水槽に、煙草の灰を一欠けらでも落ちてしまったら、澄み切っていた水には戻らない。

運転席にふらつきながら乗り込み、長く息をつく。ドアを閉めると、静寂が車内を包んだ。自室のベッドよりも落ち着く場所だ。心置きなく彼女の名を呼べる。

「ライサ」

掠れた声で名を呼ぶ。当然、返事はない。二年前に失った少女に、未練がましく縋りつきたくなった。また、会いたいな。一目でいいだなんて嘘でも言えない。できれば抱きしめさせてほしい。ライサの存在はこの屋敷の中ではタブーとなっている。名前を呼べるのはここだけだ。ヴィダーは不本意だった。彼にとって、忠義を乱す灰のひとかけらである。素直に言うと、とても腹ただしい。彼女のことを考えると、顔が分かりやすく引きつり、肺に直接煙草を投げ込まれたように、熱で真っ赤に燃える。愛した女が死しても尚、不当な扱いを受けている──耐えがたい現況に思わず歯を食いしばった。

ライサとバディを組んでいた期間はわずか一年ほどだった。新しい相棒として紹介された際は、無愛想さばかりが目についた。ここに引き取られた子供たちは様々な事情がある。初対面で警戒しない方が無理があるというものだ。月日が解決してくれるだろうという予想通り、交流を重ねるにつれ、ヴィダーには心を開いてくれていたように感じる。同じように彼もまたライサに親しみを覚えていった。酷い幼少期を過ごし、ここに引き取られてきたライサにはできる限り真摯に接した。いつしかその気持ちが、淡い恋心へと変わっていたことにも自覚はあった。とはいえ、彼女の境遇を鑑みたうえで軽はずみな行動に出るつもりはない。ライサが幸せに、笑っていてくれるなら、それだけでよかった。青臭い願いかもしれないが、彼女の幸せを思うだけでいつだって満たされた。そんなささやかな願いさえ叶わなかったのだが。ひとり寂しく地面に倒れている彼女を見た時の感情がフラッシュバックして、強い眩暈がまた起こる。

いま振り返れば、彼女が亡くなった時の状況は不可解な点がいくつかあった。迎えに行く前に車の故障が発覚したこと。ライサを轢いた犯人が結局見つからなかったこと。誰も探そうともしていなかった。ヴィダーのメンテナンス不備が招いた事態だということに不服はないが、腑に落ちない薄ら寒さをいまだに引きずっている。ライサの存在をタブーとして取り扱う屋敷の連中たちにも違和感があった。普通の事故死であるなら、言論を封じ込める必要はないはずだ。考えたくはないが、こうも思えてしまう。限界が近かったライサの死は、何者かに仕組まれたものだったのではないかと。疑念の矛先、今や屋敷の連中たちに向いている。

本音は常に見えない場所に隠し持っている。孤児を引き取ると同時に私兵として教育する。マクシミリアンのやり方に納得していない。ライサの存在を闇に押し込めようとすることも許せない。しかし、最も怒りを向けるべき先があることは、とっくの昔から気付いている。

――許す気にはなれねぇよな、自分の事を」

何度も向き合ってきた存在に、今日も悪態をつく。ヴィダーは勢いよくハンドルへ額を叩きつけた。もう一度、さらに一度。衝撃が額を揺らし、頭蓋骨を伝って脳が揺れる。痛みがやってくるが、任務に就いている彼女達はもっと痛かったに違いないのだ。こんなもの比べることすらおごがましい。

傷つく子どもたちを見るたびに代わってやりたかったと強く思う。だが、ヴィダーは凶器を握れない。十三歳、家族を皆殺しにされた夜から、トラウマが深層心理の奥深くに住み着いている。強い敵意、悪意。殺気を感じ取ると全身が痺れ、呼吸すら怪しくなる。眉間を貫かれるような強烈な眼光は時々悪夢として再来し、ヴィダーの全身を凍てつかせた。拳銃やナイフは見る分にはまだ耐えられるが、己の手で扱うことが難しい。こんな重くて冷たいもので、命を簡単に奪ってみせる際、どういう気持ちになるのだろう。

そもそも人を殺すなんてことは間違っている。そんな大前提をみんな何処に置いてきてしまったんだ。せめて大人が肩代わりしてやればいいだろ。

返り血がついた子供が屋敷内をうろついているのを見かける度、自分がおかしいのではないかと不安になった。今だってそうだ。年端もいかない少女が疲弊するまで酷使されるのは、正義なのだろうか。政争は善悪では測れないことなんて知っている。ただ、子どもを巻き込むなと言っているだけだ。種火に息を吹き込んだ大人たちは今頃ワイン片手に夜景を楽しんでいる。不利益をこうむるのはいつだって無辜の民で、ことさら子供が巻き込まれることに嫌悪感を抱く。世間一般からすると正常な思考なのかもしれないが、この屋敷に属するヴィダーにとってはただの弱さでしかない。

現状を打破する力と度胸が欲しい。彼が持ち合わせているのは少々達者な口と、逃げ足の速さだけ。文句を垂れる癖に、実際に打開策を出せない自分こそ何よりも憎むべき存在だった。

親代わりの彼、兄弟同然のリヒャルト、そして直接手を汚す少女たち。彼、彼女達は皆戦って仲間たちを支えている。どれだけ汚れた仕事だとしても、そのおかげで飯が食えている。彼らが鉄の血を浴びてくれているお陰で、私は生きている。拳銃も握れないろくでなしに、発言の権利なんざない。故に彼は未だ口をつぐんでいる。分かってる、だからこうして目眩に耐えている。ライサの件だって納得はしていないが、分かったフリをして誰もいない安全地帯で名前を呼ぶにとどめていた。

だがもう、無理だ。耐えられない。また同じことが起こったら、今度こそ私はどうにかなってしまうだろう。ライサを失った悲劇を二度と繰り返させはしない。命に替えても、だ。

不義だと笑いたければ笑え。疑念を抱きながらも従うこと。それもまた忠義の一つだろ。だが倫理観まで譲り渡すつもりはない。誰に向けたものでもない言い訳がましい決意を胸に宿す。まだこの手は汚れたことがない、憎らしい程に純潔だ。

次回の仕事からは、新しい相棒と組むことになる。アリス・モーネ・フェンリル。鋭い目つきと表情と反して、案外とっつきやすい少女だ。屋敷で何度か交流を重ねたことがある。相方になると知らされた際に年齢を聞いてみたら、まだ十歳だという。初めてライサと逢った時よりも若い年齢だと知り、眩暈を起こしてぶっ倒れたくなった。こんな小さな少女の殺しをサポートしなければいけないのか。子供は甘いものでも食っていろ、と厳ついデザートイーグルを奪えたらどれだけいいか。ヴィダーでは持つことさえ出来ない代物を、彼女は玩具を振り回すように扱う。そして誰かの命を散らしていく。彼女は己の境遇をどう思っているのだろうか。マクシミリアン公を信じ切っている無垢な横顔を思い出す。アリス、本当にいい親っていうのはな。我が子に人殺しなんてさせないんだぜ。

とにかく、今度は絶対に守る。私にしかできないやり方かもしれないし、誰にも同意されないかもしれないが、ライサのような犠牲者は二度と出さない。ライサを守り切れなかった後悔を、勝手にアリスで昇華しようとしている醜さに辟易とした。何て気持ち悪くて卑怯な男なんだ。自嘲めいた笑い声が漏れる。ライサに想いを伝えていたとしてもフラれていたかもしれねぇな。

ああ、タバコが吸いたい。喫煙欲が蘇る。数年吸っていないのに、時々猛烈に恋しくなる。ライサに煙草臭いと突っ込まれてからもやめられなかった。アレを吸うと気持ちが軽くなるんだ。過去の後悔を煙に巻きたいだけなのかもな。一口目が最高でよ。あれを味わうためなら何だってしてやるって思っていたっけ──そうじゃねぇだろ。

いつもの欲求を、プライドと決意でねじ伏せる。押し殺せ。なんで禁煙しているか思い出すんだ。忘れられない女に縋るような男は格好悪いかもしれないが、私にとっては二口目を愛する理由にもつながる。ライサを喪ってからはやめたそれは、ただの決意表明なんかじゃないだろ。

そう、次の相棒が。もしもだぜ。もしも、"人を殺すのが辛い"、"どこかに逃げたい"辛いって私に零してくれたのなら――膝をついて、躊躇いなく手をとってやるためだ。彼女が現状を受け入れている間は、私も本音を殺して従おう。だが、ライサのように限界が近づいた時は―――彼女の声も聞かずに攫っちまうかもしれない。

現実の逃避行には金がたくさんいる。ロマンチックだけじゃ腹は膨れない。物語の世界なら手を取って逃げ出すだけでいいんだが、私達にはその後がある。エンディング後のために地道に金を貯める必要があるってわけだ。彼女を養うために料理のレシピだっていくつか覚えたし、ボロボロになったシャツだって着まわしている……よし、落ち着いた。発作を抑え込むのにはやっぱ現実を見るに限る。

ヴィダーは長く息を吐きだし、運転席から這い出た。ボンネットも確認しておこうと背中を丸めて作業に戻った。

アーサー王伝説のランスロット。奴は最高の騎士でありながら、アーサー王の嫁と駆け落ちをした、愛に生きた忠臣。あいにく私は剣を持たないが、立派な馬なら持っている。いつそうなってもいいように、肝心な時に駆けつけられるように、ちゃんと世話はしてやらねぇと。

はじめの一口がいちばん大事。後はどうでもいいんじゃないのかって?おあいにくさま。私はこの通り、煙草をやめたんだ。もし、もう一度吸い始めたとしても。今度は二口目からも責任をもって心から愛してやる。