想い出を花束にするとしたら、私のブーケにはどんな花が咲くだろう。きっと淡水の底から手繰り寄せた徒花ばかりが目立つ、粗末な出来になる。だけど私はどうしてもそれを作りたい。そうして心優しい誰かに。まだ見ぬ私の最愛に受け取ってほしいのだ。
海胎町には小さな花屋がある。都会と田舎のほどよい位置にあるこの町に穏やかな海風が吹いている。心地よい風が優しく花弁を揺らしている、穏やかな昼下がり。慎ましく震える花に節の目立つ手が添えられた。整った爪先で花弁を数回撫でた後、隣の花へと移ってゆく。吟味するような動きを何度化見せたあと、背を丸めていた男は背中と視線を持ち上げた。紳士然とした様相の男であった。品のいいフェードラの帽子、高級そうなスーツ。花達を愛でる優しい眼差しの片方は包帯で塞がっており、外見の要素だけを切り取ると、少々威圧的に映るかもしれない。しかし彼を見たものは不思議とすんなり存在を受け入れることが殆どだった。その証拠に花屋のバイトは雑誌に夢中のようで、男に警戒心を抱いていない素振りである……そろそろ常連リストに名を連ねそうな来店数も影響しているのかもしれないが。男はすっかり通い慣れたこの店に愛着が湧きつつあった。
他に客はおらず、狭い店内を移動するのに苦労はなかった。どうにも男は機嫌がいいらしく、少しかさついた唇で歌らしきものを口遊んでいた。よく聞くと同じフレーズを繰り返しており、気に入ってる曲なのだろうことが推察される。ご機嫌な彼は花に語りかけるような目をしている。陽だまりが差し込む店内を行ったり来たりして、商品の選定を重ねていった。見た目は勿論のこと、色や香りも花束を構成する重要な要素。いっさい手を抜くつもりはない。
ブーケを作る際には、己のセンスを信用することが大切だ。花は一輪で充分可憐で美しい。花束には別の魅力がある。花瓶に挿している薔薇の瑞々しさと、庭園の薔薇の群れとでは受ける印象が異なってくる。それが贈り物だとするのなら、なおさらだ。数に意味はあれど正解はなく、また正解は本数で決まらない。それを理解したうえで男は素敵な花束を作ろうと意気込んでいた。理由は単純。彼女へ渡す花束は豪勢で、華やかで、美しいものでなければならないという強い意思。そうでないと彼女の美しさの前に霞んでしまって、贈り物の意味がなくなってしまう。そう男は考えている。ブーケを主役にしたいという意図ではなく、純粋に彼女の美しさを引き立たせるようなものを贈りたい。大切な、愛おしい女性へ捧げる花束だから気合も入るというもの。
──彼女はどんな花が好きだろうか。脳裏に意中の人を想いながら男は花を摘まんでいく。黒曜石を思わせる肌には、ひやりとした白が映える。紅茶の入った陶磁器のカップのように、染み一つない純白が適している。グラデーションかかった流れる髪は本当にいつ見ても綺麗だ。赤いエナメルのような薔薇を添えたくなる。ハイビスカスも似合うかもしれない。海のように煌めく瞳にはイエローレモン、いや水に浸る瑞々しいレモンを連想させるためにもう少し薄い方が……そうだ、彼女と昔食べたレモンパイ。本当に美味しかったし、男にとっても最高の時間となった。彼女も喜んでくれていたように思う。会話は決して多くはなかったものの、うっすらと弧を描く彼女の口許を見て、ほっとしたことはまだ記憶に新しい。あの時のレモンタルトをイメージした組み合わせにしよう。ついでに彼女との思い出をチラホラちりばめてみる。格好悪いから自分からは口に出さないが、気付いてくれたりしたら、いよいよ空だって飛べるかもしれない。
一緒に行ったフラワーガーデンの黄薔薇、プラネタリウムの帰り道に咲いていたマーガレット。愛おしい日々がまるでフィルム映画のように脳内に流れていく。映像内では花だけが色彩を宿していたが、ストーリーは色あせていない。共に過ごした日々はモノクロだろうが美しいと心の底から思える。シーンをなぞりながら花を選んでいると、気づけば彼女との思い出であふれた花束が出来上がっていた。これならきっと大丈夫だ。受け取ってくれる。
「すみません、こちら包んでいただけますでしょうか。急がなくても構いません。丁寧にお願いします。待ち合わせにはまだ余裕があるので」
緩んだ口元を掌で隠しながら、レジへと声をかける。男のリクエスト通りにバイトは丁寧に仕上げてくれる。クラフト紙にあわせるラッピングリボンの色を聞かれたので、躊躇わず赤色と答えた。完成した出来栄えに頷き、男は満足げに店を出る。同時に腕時計を確認する。約束の時間まで余裕はある。しかし女性を待たせるのは紳士失格だ。早めについても問題はない。男は歩き出す。自然と人通りの減った道を選ぶのは彼の癖である。
移動しながらもずっと彼女の事を考えていた。というかここ最近ずっとそうだ。寝る時以外頭がいっぱいだ。
誰にも触れられたくない、でも見惚れてしまうような魅力が、彼女にはある。高嶺の花というよりも、閉じられた窓の向こうに飾られているレモンのような。薄いカーテンの先に秘められた、特別な果実。自分のような男が視界に映すだけで罪だと思わされる手の届かない女性。だからかもしれない。初めて見た時、恋に落ちたのは。一目ぼれというものを経験したことがなかったから、最初は何かの魔術に充てられたのだと早とちりしてしまったぐらい程衝撃だった。いま振り返るととんでもない非礼である。良く許してくれたものだ。
一目見た瞬間、閉じられた瞼の裏で、星が爆発しようなキラメキが弾けた。表情を保つことが得意な自分が、頬の赤さと脈打つ心臓をコントロールできなくなってしまった。女性と付き合った経験は幾度かあれど、本気で惚れたのは始めてである。仕事のために身に着けた演技のような真似事も、彼女の前では全く意味を為さない。本当の姿を引きずりされるほどに、その出会いは男の人生を変えた。
努力と交流を重ね、こうして共に出かけることが出来る仲までになっている。今回はじめて花束を渡すが、取り留めのない私との思い出達を、彼女がどうか受け取ってくれますように。純粋な願いを胸に、男は路地裏へとふらりと立ち寄る。背後からいくつかの足跡が追いかけてくる。空き缶を蹴り飛ばし、奥へ奥へと入り込む。
やがて男は立ち止まり、深く長い息をついて、トランクケースを地面へ叩き落とした。らしくない乱暴な所作でケースを蹴り上げる。厳つい銃身が組み上がり、強烈な銃声が瞬いた。男は飛び散る火花から遠ざけるため、後ろ手に花束を隠して銃弾の雨が止むのを待つ。路地裏の匂いがブーケについたら台無しだ。手早く終わらせよう。
「リンドー。こんなところにいたのか」
「ああシュテルン。奇遇ですね」
名前を呼ばれた男、燐堂は振り返る。仕事仲間、シュテルンの存在に気付くと顔を綻ばせた。愛想のいい外面にシュテルンは肩をすくめる。なんでも偶然ではなく、此処に燐堂がいるだろうと目星をつけてやってきたらしい。彼らは幼いころからの長い付き合いである。たまの休日、どこにいるのかは大体把握しているとのことだ。
「お前、本当にこの公園好きだよな。海が近いからか?」
海辺にある公園を一瞥しながら尋ねる。整備された公園内にはまばらに人がいた。階段を下りればすぐに砂浜が広がっている。水平線を照らす陽光老夫婦が腰を下ろしてベンチで休んでいたり、犬の散歩をしている少女もいる。こういう明るい場所は肌に合わないなと感じた。自分も、ニコニコと笑っているこの男もだ。
「まあ。やっぱり待ち合わせといえば公園だろうと思いまして」
「待ち合わせね。にしちゃ、ボロボロだな」
そう言いながら、燐堂の頭からつま先まで視線を往復させる。スーツに大きな損傷は見られないが、所々に砂埃が付着している。上着の隙間から覗く白いシャツに、赤黒い液体が飛び散っているのも確認できた。取り繕った努力は見受けられるが、血なまぐささまでは隠し切れない。一般人なら分からないかもしれない。しかしシュテルンのような輩には悟られるだろう。燐堂は乾いた笑い声を漏らし、乱れた髪の毛を一息に掻き上げる。
「ここに来るまでに何度か襲撃に合いまして。折角のデートだというのに無粋な人たちがいて残念です。無論、全員お帰りいただきました。これ以上邪魔されてはたまりませんから」
にこやかに答える燐堂の"お帰りいただいた"という言葉は、土に還ったと同義である。再度彼の全身を見回して、大きな怪我がないかチェックする。汚れはあるが、大きな怪我は見受けられない。燐堂は頭の螺子が抜けている時があるから、平気な顔をしているのに実は腕が折れてましたなんてことがたまにあるから慎重になる。
「何事もないようで良かったよ。色々と物騒な仕事をしているからな、俺達って」
銀の黄昏教団のエージェント。それが二人の肩書きである。邪心を崇拝するカルト宗教の末端。燐堂は何故自分が組織に所属しているのか、何年ここにいるのかすら知らない。必要以上に組織の情報を残さないよう、仕事が終わるたびに記憶処理を施されている。たまに誤って過去の記憶が消えてしまうこともあり、エージェント達は虫食いの記憶を抱えながら活動している。普段は裏社会よりも暗い場所にいる燐堂ではあるが、いまは顔を明るくさせて待ち人の到着を心から待ち望んでいる。まるで恋を覚えたてのティーンエイジャーのように瞳がキラキラしていた。落ち着いた相貌を期待で溢れさせて、しきりに腕時計を確認する落ち着きのなさに苦い笑みがこぼれた。シュテルンも公園内の時計を見上げる。あと数分はこのままいさせてやりたい。だが、深すぎると戻ってこれなくなる可能性もある。彼にとってはそっちの方が幸せかもしれないが、親友を見捨ててはおけなかった。いつか醒めるから、夢は夢のままでいられる。
「そのぐちゃぐちゃになった紙袋みたいなものは?」
シュテルンは燐堂の手元を指さす。照れ臭そうに燐堂が頬を掻いた。
「襲撃が続いてしまったため、このザマです。お恥ずかしい。でも一本だけ無事でした。随分と質素なものになってしまいましたが……渡さないで帰るよりはマシかと。シュテルン、ラッピングテープとか持ってないですか?」
「持ってると思うか?」
見るも無残な"元"花束は燐堂以上に汚れていた。持ち手の部分は破れて茎が見えている。散った花弁がグチャグチャになったラッピングペーパーの隙間に何枚か挟まっていて、ちょうどいま黄色のものが落ちた。イエローレモンが似合う誰かに贈る予定だったのだろうか。ココロが苦しい。おはようと告げてやるのも、親友の役目である。シュテルンは一度呼吸を整える。意を決した面構えで優しく燐堂へと言葉を掛ける。
「で、それは誰に渡す予定なんだ」
「それは勿論……もちろん」
ふと燐堂の口が止まる。緩んでいた顔から徐々に表情が抜け落ちていく。彼が完全に俯いてしまってから、数十秒の沈黙が流れた。シュテルンは先を急かさず、ただ彼が目覚めるのを待つ。
「誰に、だったんでしょうか」
次に顔をあげたのは時計の長針が五歩ほど進んだ頃。喜びと期待に満ちていた片目が、淡く冷たい色を帯びている。見慣れた眼差しにシュテルンは胸を撫でおろす。無事に戻ってこれたようで安堵した。丸くなっていく燐堂の背中をシュテルンは優しく叩く。
「すみません、また私はありもしない幻想に踊らされていたようです」
「あー謝るなよ。いつものことだろう。あれだけ記憶処理くらってるんだ。仕方ないさ」
燐堂の妄想癖は数年前から始まったものだ。内容としては、過去と現在がごちゃ混ぜになった出鱈目な思い出話を語る、存在しない歌を口ずさむなど。組織の任務をこなす度、必要最低限の情報を残してエージェントの記憶は抹消されるのが原因だろうとシュテルンは思う。外部への漏洩を防ぐため、呪文といった不可思議なものを毎度掛けられているのだ。燐堂のような被害者が生まれてもおかしくはない。症状はなかなかに深刻なもので、誰かに指摘されるまで虚構を現実であると思い込んでしまう。逆を言えばこうやって教えてやるとすんなり飲み込める地頭の良さはある。その利口さ故に狂いきれないという見方も出来るかもしれない。傍からみればただの奇行であるが、本人は至極真面目なのだから見ているこっちが疲弊する時もあった。いつか戻ってこれなくなるまで、こうして肩を叩いてやるつもりではいる。
「私は、誰を待っていたんだろうか」
燐堂は花束だったものを見下ろす。急速に色あせ、いまやどのような人へ渡したかったのかすら思い出せなくなった。良く考えなくてもレモンタルトなんて食べたことはないし、水族館にも行ったことなんてなかった。そもそも自分に意中の女性はいない。まるで幻影のように彼の想い出から、消え失せてしまう。
「帰ろう。残った一輪は、いつもの……余ってる花瓶に挿しておけばいいさ」
「……私はもう少し此処に居て頭を冷やします。大丈夫。すぐ帰りますよ」
「そうか、分かった。遅くはなるなよ」
あっさりと引いてくれたシュテルンの背中が見えなくなったころ、燐堂は一人肩を落とす。どんな髪色をしていた、どのような顔で笑ってたのだろう。性別は?私はその人にどんな感情を抱いていた?手元に残った花を見ると、レモンイエローの黄色が目に付く。黄色が似合う、誰かだったのだ。なのに、もう彼の中には誰もいない。へこんだクッションだけがある。砂で出来た城は静かに崩れていき、砕けた貝の欠片すら、波に攫われて後には何も残らない。水底に沈んだ貝殻は波打ち際にはもう戻ってこられない。
哀しいやら悔しいやら、情けないやらで複雑な心境だった。燐堂は階段を下りて、砂浜へと降り立つ。革靴をとられそうになりながらも、波打ち際まで辿り着いた。波の音が近い。靴先を海水が舐めていく。ラッピングペーパーをビリビリに破き、風に乗せてばら撒いた。海へと流され、水面でひとしきり遊んだ後、未練なく沈んでいく。まるで、思い出のフィルムをひとコマずつ裂いているような感覚が指先に残った。中身は全て空白で、自ら手放したはずなのに、どうしようもない喪失感が募る。花弁の一枚一枚が、彼の歩んできたロードムービーの断片そのものだから、こんなにも胸が痛むのかもしれない。思い出だった紙切れを母なる海へと還す。まるで水葬だ。今回は弔うことだけは出来たから上等だろう。自分に言い聞かせるように水平線を眺める。
最後の一輪も海辺に置こうとして、やめた。手放すことを本能が押しとどめてくる。幻想に狂わされることはあったが、過去の自分が抵抗してくるのは珍しい。それほどまでに今回の夢は心地よかったのか?数時間前の自分が羨ましくなると同時に、少々妬ましかった。
私の事をどうか思い出して。さよならをした時あの時を。時々でいいから、思い出してほしい。これから先だって、多分あなたのことは忘れられないでしょう。
海に背を向けた燐堂は、ある曲を歌い始める。現実と幻影の狭間に住む彼が、一度たりとも間違えたことのない曲だ。どうしてかこの歌だけは、いつだって迷いなく口遊むことが出来た。もしかすると忘れてしまった誰かと共に歌ったことがある曲なのかもしれない。それならば、せめてこの歌だけは奪わないでほしいものだ。それらしく神に祈りながら、踵を返した。
「さようなら、空想上のあなた」
もしまた出会えた時は、今度こそこの手で渡せますように。
Think Of Me - オペラ座の怪人
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