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shioyama
2025-06-22 10:01:10
3122文字
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冴ゆる椅子
Xからの告白 現行未通過
HO2 独白
冷静は武器、感情は足枷。
雨々谷律は己の信念を呟く。窓を叩く雨音に紛れるほどの声量だった。
調停関係の資料に視線を落とし、ページを捲る。先方と連絡をとる前に、最低限の流れだけでも頭に入れておく必要がある。室内はエアコンの温風で満たされており、背中にじんわりと汗が滲んでいる。雨々谷は寒いのが得意ではないので、暑すぎるぐらいの温度を好む。ガンガン暖房がかかった部屋でアイスを食べるぐらいがちょうどよい。去年の夏に買ったアイスが事務所の冷蔵庫にまだ眠っていることを思い出す。恐らく全員で割り切れるように残していたはず。快適にアイスを頬張るために、もう少しだけ温度をあげて
―――
「律、電気が勿体ないよ」
聞きなれた声が脳内に響き、反射的に振り返る。寂し気なソファと観葉植物がただあるだけだった。彼の定位置だったソファには誰もおらず、空虚さだけが座っている。幻聴というよりは、エアコンの話題に紐づいて過去の記憶を手繰り寄せたのだろう。休む暇もなく働いているから疲れているのかもしれない。机上の温いペットボトルを開けて口をつける。
なにが勿体ないだ、エアコンの恩恵を受けに来ている外部者の癖に。一度そう揶揄ったことがあるが、困ったように笑われた。振り返ってみれば、彼を傷つける発言だったかもしれない。いつも孤独を抱えていた彼に対して、冗談でも線引きをしてしまったことに対しての後悔が募る。苦い感情を水で押し流す。
とにかく「暑いよ」「電気がもったいないから」などのクレームが入ることはもうないのだ。電気代がかさみ過ぎない程度に、自分の好きなようにすればいい。しかし疲れたと嘆く暇も相手もいないので黙々と作業に没頭して、空っぽの現実から逃げている。
いくら閑古鳥が鳴きがちな事務所とはいえ、雨々谷の仕事は目に見えて増えた。しかも慣れない所長業務まである。もう一度唱える。冷静さは武器だ。湧き上がるこの苛立ちも、前へ進む足を引く枷だ。ただ落ち着いて淡々としていればいい。調停案件の電話が片付いたら、次は裁判所へ向かう。ゆっくり休んでいる暇はなかった。当然アイスを嗜む時間も
「まだまだだねぇ、律君。息抜きの仕方をマスターしてこそ立派な弁護士ってもんじゃないかい」
あっけらかんで優しい、少し間延びした声。
―――
冷静は、武器、感情は足枷。
郷愁に満ちた反芻に飲まれないよう、再び口にする。まるで現実に戻るためのキーワードみたいだ。雨々谷の語尾は伸びきって、やがて長い溜息へと変わっていった。
自分の代わりに海へと沈んでいった近嵐の顔が脳裏に張り付いている。すまなかった、と謝って離された手を、掴むことができなかった。雨々谷の意思より、近嵐の決意の方が強いのだと、暗に見せつけられたような気持ちになった。腹が立つ。色々とまだ聞きたい事はあったのに、言いたい事だけ言って近嵐は海へと消えていった。あんな状況ではなく、ちゃんと謝ってほしかったのに。なんなら父の墓前で頭を下げてほしかったぐらいだ。そんなことをしても何にもならないことは承知だが、きっと近嵐は同行してくれただろう。確信めいた想像をするも、推測の域を出ることは二度とない。
まだまだ、教えてほしいことがあった。彼は気性が穏やかな人間であったが、仕事に関しては尊敬すべきところは沢山あった。親身に話を聞いてくれたと教えてくれた依頼者の言葉通り、近嵐は他者に寄り添う術を知っていた。同時にそれを実行できる弁護士でもあった。仕事がないのにのんびりとゲームをやっていたことはいただけないが、それもまた彼の愛嬌に一つと捉えられる。雨々谷が彼を恨み尽くすことが出来ないのも、ひとえにその人柄ゆえだろう。世話になっていたことも相まっている。あの時は色々と精一杯すぎてそれどころじゃなかったことも要因の一つではあるが。いっそ、とことん嫌いになれるような所長だったら
……
だから、感情は足枷だって。
法廷に感情は不要であり、天秤に載せるのは証拠と信頼に足る証言だけでいい。司法に感情論が混ざり始めたら終わりだ。先人たちが築き上げてきた法律弁護人は被疑者を護るのが仕事だが、実のところ雨々谷にとって目指すはそこではない。彼が目指しているのは"正しき判決"であり"間違いのない裁判"だ。
そのため依頼人が本当は罪をおかしているのであれば敗訴したって構いはしない。当然依頼者本人へ伝えたことはないが、ずっとそう思っている。弁護士としてどうかと思うが、法廷に立つ者としては立派な心掛けではないだろうか。己の名に傷がつくことよりも、雨々谷には憎むべきものがある。不当な判決、冤罪。それらはこの世で何よりも忌むべきものとして胸の奥に巣くっていた。
本当に何もしていないのであれば、無罪であるのなら。自然と事態は収束していく。警察もそこまで馬鹿じゃないさ。
目元の皺を濃くして笑う近嵐を思い返す。あんたがそれを言うのか。とんだ皮肉だな、どんな気持ちで言ったんだ?彼は言葉の通り三日ほどで釈放された。今回の事件にはかかわりがなかったから。なら十五年前、僕の父親を尋問した刑事は、莫迦だったのだろうか。同時に僕の父親を追い詰めた近嵐も馬鹿ということになる。ここまで抱えてきたのなら、口を閉ざして死ねばよかったものの。嫌われたくなかった?人の父親を殺しておいて?よく言えたもんだ。
……
遊馬もだ。どうすればよかったんだって嘆いていたけど、まず僕に相談すりゃよかったんだ。共感はできないかもしれないけど、それらしい言葉をかけてやることぐらいできた。死刑を免れない罪を重ねる前に、止めてやれたのかもしれないだろう。
僕がもっと、彼のことを知ろうとして。白鳥の孤独や生い立ちに寄り添えるような良い奴であれば。それこそ彼の言っていた通り、もっと早く出会えていれば。こんなことにはならなかったのかもしれないな。言ったところで後の祭りだが。信頼を勝ち取れなかった僕が悪いんだろうか。きっとそうだ。もうそういうことにしておこう。自分のせいにすれば全て楽になる。もう僕にできることは、彼に正しき罪状を突き付けてやることぐらいだ。
結局、上司だとか友達だとか暢気に思っていたのは僕だけで。
付き合ってくれていた二人は腹のうちに醜い獣を飼っていた。酷い裏切りだ。
でも、同時に守られていたことにも気づかされる。罪悪感から逃げずに接してくれた近嵐、心に傷を負いながらも最後まで僕を巻き込まないよう動いていた遊馬。誰がそんなことを頼んだ。気遣ってくれだなんて一言も言っていないのに、どうしてだ、どうしてこうなったんだ?僕に何が出来たんだ。
あの嘘みたいに平穏な毎日が、どれほどかけがえのないものだったのか、今になってようやくわかった。気づきたくなかった。二度と戻らないものを思うことは、郷愁という名の枷になる。ないものを乞うたところで、精々夢で報われるぐらいで、現実では永遠に残るただの影だ。
事務所は変わらずがらんとしている。自分の椅子に深く背中を預けて天井を見上げる。この事務所の主は海の底だ。留守中事務所を頼むよ、と言われてはいたけれど、ろくな引継ぎもせずに丸投げだなんてブラック企業がやることじゃないか。訴えたら勝てる自信がある。憎まれ口をたたく相手も、誰も、すべて失った。手に入ったのはずっと求めていた、空っぽの事務所だけ。
「こんな形で貰うつもりじゃなかったんですけどね」
彼は誰に言うでもなく、ひとり呟く。奥にある立派な席には、まだ座れそうにはない。
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