shioyama
2025-05-21 23:33:25
4181文字
Public
 

群影渡リ鳥夢小路

昭和怪談地獄巡り 現行未通過×
五席

幼い頃、鳥になりたかった。

稽古の休憩時間。縁側へと腰を掛け、軒下から空を見上げるのが幼少期の燕小路八鳥の密かな楽しみでもあった。果てのない青空を一匹の鳥が駆ける。太陽に焼かれながら自由な軌跡を描いていく名も知らぬ鳥の影に強く記憶に刻みついている。

振り返ってみれば、あれは憧れに近い感情だったのかもしれない。幼少期の夢なんてものは大概が現実味のない夢想であり、大人になる頃には忘れる置き土産である。成長すると夢が変わるなんてこと至極当然の流れで、夢は移ろうものだ。それでも姿かたちを変えて、丸みを帯びた座布団の上に寝転がって傍にいてくれる。今、彼の隣にも座布団はあった。上に載っているものへと視線を移し、自覚する。そうだ、俺は。

今だけ、壁の花になりたい。

正解にたどり着いた瞬間、八鳥の意識が明瞭になった。軽快な三味線の一閃が現実逃避に浸っていた八鳥の鼓膜を揺らす。薄布一枚挟んだようにぼやけていた音が、徐々にラジオのボリュームを調整するように定かになっていく。演奏家たちの協奏、ステップにたわむ床の軋み、弾んだ話し声。すべてが八鳥にとって馴染みのないものだ。肩身が狭い。

こういった社交の場は彼の苦手とするところである。男と女の視線が絡み合う事が目的の場だと猶更だ。目の前を華麗なターンですれ違っていった男女の甘い会話が聞こえて、ますます居心地が悪くなる。はてしなく帰りたい。これ以上居場所を見失ったら最終手段として壁と一体化するしかない。こちとら既に肩がめり込んでいる。

ホールの壁に傷をつけないため、八鳥は壁の花になってダンスホールの熱気から距離を置いている。壁の花は女性に向けた言葉になるから誤りだな。男は……壁のシミというんだったか、俗語で。男になると突然華がなくなる。もうそれでもいい。なんだっていい。シミになりたい。

壁にもたれかかって息を殺している八鳥はやけくそ気味に前髪をかき分けようとしたが、寸のところで抑えた。整えた前髪を乱してはならないという理性が邪魔をする。

突然の出来事、という言い訳を掲げて適当な格好で勘弁してもらおうとした甘い心は、あっけなく砕かれることとなった。脳内に響く坂烏隊長の声にあれやこれやと横やりを入れられ、らしくもなく髪型も整えることになってしまった。オールバックでもよかったが、ワックスが少量しか残っていなかったため、前髪を緩く整える程度で収めている。ついでに後ろにも少々つけるのがいいよ、と横やりは続く。脳内に突然響き渡る指示にも随分と慣れてきたが、こうやって色々と口出ししてくるのは……いかん、この秘めた独り言も全てばれている。何も考えないようにしよう。

最初はあの高等遊民からのお誘いから始まった。突然、明日ダンスパーティーに行くから護衛を頼むとのことだ。この男は特憲隊をなんだと思っているのか。金があるなら専属の護衛を頼めばいいものの。断ろうと思っていたら、その催しに鞍馬が来ると馬淵に告げられ、否の言葉を吐きかけた口が止まる。あの食えない講談師の名を出せば八鳥が来ると考えての発言だろう。大変癪ではあるがその通りだ。

この帝都を脅かす奴を捕まえるための証拠集めの一環になる。可能性が砂糖粒ほどでも赴かねばならない。八鳥が明日の待ち合わせ場所を尋ねると、気楽な声で「お見合いパーティーだからねー」と付け加えられた。勘弁してくれと泣き言を言いたくなった。実際に言ったらいつもの調子で流された。いつか覚えておけよと呪詛を吐き捨てながら口元をゆがませる。

燕小路八鳥は自由な高等遊民とは対極にいるような性格の持ち主だった。朴念仁、硬派。西洋の言葉を拝借するならシャイボーイ。仕事の付き合いも最低限に抑え、女性が接待する店には騙されない限り行かない徹底ぶりである。けれども今回のように避けられない場面はおのずと発生するので対処法はちゃんと心得ていた。ダンスに参加せず、壁で息を殺しているのは処世術の一つだ。それに今日の自分はボディーガードでもある。目立たないこの位置が適切だろう。

護衛対象である馬淵を見失わないよう気を配りながら、会場全体をくまなく観察する。いまだ鞍馬の姿は見えない。歯がゆさと苛立ちが心中に募る。

眉間を指でもみながら八鳥は再び人だかりへと視線を向けた。煌びやかな衣装に身を包んだ男女が手を取り合い、ダンスに興じている。注意深く見ていると、見覚えのある二人を発見した。人が集中しているエリアから息の合った足取りでするりと抜けてくる。先ほど合流した超心理学者の火嶺狐とその婚約者、大虎ミチル。

和服に身を包んだ婚約者と踊る火嶺狐の頬は緩みっぱなしだがうまくエスコートできている。素人目にも分かった。先生という職に就くものはこういった場には慣れているのだろうか。それとも婚約者にいいところを見せたいと思う男心か。両方なのかもしれないし、どれでもないのかもしれない。ただ二人の表情は楽しげな微笑みで満たされている。彼らが仲睦まじくする要素を見るたびに、自分の選択は間違っていなかったのだと思える。

ぼんやり考えていると、火嶺狐たちが再び人影へと紛れていった。入れ替わるように馬淵と狼谷が現れる。身長差が少々ある組み合わせだが、難なく踊れているようだ。ジャンルは違えど狼谷は踊りに精通しているし、馬淵はこういった経験が豊富なのだろう。

「貴方は踊らないのですか」

先程、狼谷へと声を掛けたのは、自分が踊りたいからといった理由ではなく、ただ単純な疑問からだ。こういう場は女学生なら憧れるものだろうという一般的な思考に則り投げかけた。もし暴漢を決め込む八鳥に気を使っているのなら、せっかくの機会を不意にするのは勿体ない。善意で背中を押しただけなのに、馬渕から二人で踊ればいいじゃないですかと言われて驚いた。俺が?ダンスを?有り得ん。似合わん。

早口で弁明をしている間に、馬渕が狼谷へ手を差し伸べる。狼谷はゆるりと出された手を取り合い群れの一つとなった。自然に女性を誘える馬渕を少しばかり尊敬した。遊び慣れていたらああなれるのか?なりたいかと問われれば否ではあるが。スマートな男の仕草としては満点だろう。

もし、倶楽部に戻らなければ一体どうなっていたのだろうか。仮定の未来に思いを馳せる。坂烏隊長の指示に疑問も持たず、愚直に任務をこなす己を思い浮かべる。そっちの方が楽だったかもしれない。最近の俺はどうにもおかしい。あの温い宵から、人生が少しずつ形を変えている気がする。こうやって迷い悩むこともなかったろうに……すっかり馴染みの顔になってしまった三人のせいだ。調子を崩されている。

帽子のフチをつまむ仕草をするも、空を切った。ダンスホールだから着帽していない。舌を鳴らしかけたが思いとどまり音を飲む。参加者に向けたものではないとはいえ、舌打ちなんて聞こえたら興ざめしてしまうかもしれない。持て余した舌で前歯をなぞる。他はともかく、あの四人の邪魔はしたくなかった。

しかし……本当に楽しそうだ。身を委ねあう男女はこのダンスホールに溶け合っていた。流れる音楽、揺らぐガス灯の元に集う。ゆったりと体を揺らし、寄せては返す漣の上につま先で波を描く。

八鳥にはそれがどうして楽しいのか心の底から理解を示すことは出来なかった。だが、分からないなりに感じる──楽しそうで、良かった、と。

共有し合えないこと自体に、悲しみも虚しさもない。目に見えない境界線が足元にある。乗り越えることは出来るだろうが、きっかけがなければ初めの一歩は重い。だから眺めるだけでいい。絵画、パーテーションポール、自分。美しいものとの間には往々にして壁がある。人生とはそうであるべきだ。とっくの昔に割り切っている。鳥は水中で揺蕩う光の束を知らないように。魚も空の広さを知ることはない。俺が強者と殴り合う事で喜びを見出すことを、三人は理解できないはずだ。

それで、構わない。光に誘われて手を伸ばし、表面をなぞって指紋をつけるような……愚行をしでかすぐらいなら、離れた方がマシだ。台無しにしたくない。だから、この距離感が正しい―――俺は今、どこにいる?

ハッと夢から覚める。ぶれた視界と音の照準が合わさり、世界に色が戻ってきた。仕事中に考え事に耽るなんて職務怠慢だ。馬淵の居場所を掴むため、視線を持ち上げる。すぐに探し人は見つかった。むしろ向こうから来た。

隣に並んで休憩をするのかと思い、壁から背中を浮かせる。馬淵はまだ狼谷の手をとっている。まさかずっと繋いだままなのか?怪訝そうに眺めていると、馬淵の手にのせられた小さな掌が滑ってくる。八鳥の前まで導かれた狼谷の手と、二人の顔を交互に見比べる。交代ですよ、とニンマリと馬淵が笑う。何故そうなるんだ。人をおちょくるのもいい加減にしてほしい。

八鳥の額に青筋が浮かぶと同時に焦燥が湧いた。もしうまく踊れなかったら彼女に恥をかかせてしまう。第一、彼女は自分の事を嫌っているだろう。あながち間違いではないはずだ。普段の態度から察するところはあるし、雑に扱っている自覚もある。別にこちらとしても好意的に思われる必要はないからいいのだが。

あらゆる拒絶の言葉が脳裏をかすめる。おなじく気づいてしまった。拒絶の影に隠れていた、たった今聞こえたばかりの言葉——人生で一度も口にしたことのない台詞が、心の奥底に転がっている。あまつさえ俺はそれを選ぼうとしている。止める間もなく口からついて出た。

……私と一曲、踊ってくださいませんか」

馬淵のしたり顔と、火嶺狐の緩んだ横顔、言葉を待ってくれている狼谷の視線。本気で拒否するにしては、絆されすぎていたんだ。

花に寄り添う蝶の安らぎを。猫を撫でる誰かの手のぬくもりも。馬が駆ける大地の重さを。翼を持つ野鳥は知らない。なのに傍にいるのは。あらゆる困難を経ても共にいるのは。分からない事への居心地の悪さに勝る、何かがあるのだろうか。

未だ何も掴めずいる。この先どうなりたいかも不明瞭だ。座布団の上にあったモノの輪郭がぼやけていく。けれど、とりあえずダンスは楽しいということは、身に染みた気がする。